神を見たいのであれば自己を見つめよ | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私はかつてみろく殿の真中で、キチンと座って鎮魂してね、拝んでおった。そうしたところへ聖師様がきて、「お前何やってんだ」「神様を見ようと思って」、「何が見ようとだ、そんなこと思うんなら、ここにあるもの、お前が目に見えるものは皆神様じゃ」と、こう云われるんですよ。『バカな、そんなものありゃせん』とその時は思った。すると聖師様は、「万有一切神、この中にも神やどり給う、宇宙の中に神やどる。お前の心の中にも、本当に神を思うた時、神はやどり給う。お前が一生懸命一時間も座っとるというので来てみたんじゃけれども、そんな座っとる必要はないじゃないか」とこう云われる。こっちは本気で一時間も座っているのに、そんなことでチャカされる。「本当に神が見たいんです」と云うたら、「神を見たいと思うならば自分の心を見よ、自分の心はいったいどうしてできとるんじゃ、どうしてあるんじゃ、どこにあるんんじゃ、よう考えて見い」と云われる。”

 

      (「愛善世界」№10 大国美都雄『不退転の信仰(上)』より)

 

 

・「私は誰か?」 (ラマナ・マハリシ)

“「あなたは『私は知りたい』と言うが、言ってごらんなさい、その『私』は誰なのですか」

 かれは何を言おうとしているのだろう。かれは今は通訳者の助けを突き切って、英語でじかに私に話しかける。私はいささか狼狽する。

 「ご質問の意味がよく分からないように思います」と、私はぼんやりして答える。

 「質問がはっきりしないと言うのですか。もう一度考えてごらんなさい!」

 私はもう一度その言葉に頭をひねる。一つの考えが突然頭をかすめる。私は自分を指さして自分の名を言う。

 「それで、あなたはかれを知っているのですか」

 「生まれてこの方ずっと!」と私は微笑み返す。

 「しかし、それはあなたの肉体にすぎないでしょう!もう一度ききます、『あなたは誰なのですか』」

 私はこの変わった質問にすぐには答えることができない。

 マハーリシーはつづける――

 「まず第一にその『私』をお知りなさい。そうすれば真理もわかるでしょう」

 私の心にはふたたび霧がかかる。私は途方にくれる。この当惑は言葉で表現される。しかしマハーリシーはかれの英語の限界に達したらしい。かれは通訳者の方を向き、答えはゆっくりと通訳されるのである――

 「たった一つのなすべきことがある。あなたの自己を見つめよ。このことを正しいやり方でするなら、あなたは自分の問題のすべてに対する解答を得るであろう」”(第9章「聖なるかがり火の山」P149)

 

“「あなたがおっしゃるこの自己とは正確には何なのでしょうか。仰せの通りだとすると、人の内部にもう一つの自分があることになりますが」

 かれの口元は一瞬、微笑にゆがむ。

 「人が二つの自分を持つことなどができますか」と、かれは答える。「この問題を理解するには、人はまず、かれ自身を分析する必要があります。長い間、他者の考える通りに考えるのが習慣であったために、いまだかつてかれは、正しい態度でかれの『私』に直面したことがないのです。かれは自分というものの正しい概念を持っていません。あまりに長い間、自分を肉体であり頭脳であると思ってきました。それだから、この『私は何者であるか』という探求をする必要があるのです」

 「あなたは、この真の自己を説明してくれ、とおっしゃる。何を言うことができますか。それは、それから人の『私』が生じ、それの中にそれが消えて行くはずの、それなのです」

 「消える?どうして人が自分の個人の感覚を失うことができるのですか」

 「あらゆる人の心にまず一番初めに出てくる思い、原初の思いは『私』という思いです。この思いが生まれて初めて、他のあらゆる思いは生まれてくることができるのです。第一人称代名詞『私』が生まれた後に初めて、第二人称代名詞『あなた』は現れるのです。もしあなたが『私』という糸を心でたどりながらついにその源に到るなら、あなたは、それが最初に現れる思いであると同時に最後に消える思いであることを発見するでしょう。これは、経験することのできる問題です」

 「そのような自己の内部への心理的探求を行うことが十分にできるとおっしゃるのですね」

 「そうですとも!最後の思い『私』が徐々に消えて行くまで、内に入って行くことができるのです」

 「何が残るのですか」と私は尋ねる。「人はそのとき全く無意識になるのでしょうか。それとも馬鹿になるのでしょうか」

 「そうではない!反対に、人の真の性質であるところのかれの真の自己に目ざめると、かれは滅びることのないあの意識を得て、ほんとうに賢くなるのです」

 「しかし『私』の感覚も間違いなくそれについて来るはずだと思いますが」

 「『私』の感覚は個人、つまり肉体と頭脳についています」

とマハーリシーは静かに答える。「人がはじめてかれの真の自己を知ると、ある別のものがかれの存在の奥底から生まれてきて彼を占領します。そのあるものは、心の背後にあります。それは無限で、神聖で、不滅です。ある人々はそれを天の王国と呼び、またある人々は魂とかニルヴァーナとか呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼んでいます。あなた方は好きな名で呼んだらよいでしょう。このことが起こると、人は本当に自分を失ったのではなく、むしろかれは自己を発見したのです」

 最後の言葉が通訳者の口から出ると、あのガリラヤを放浪した教師が語った忘れがたい言葉が私の心に閃く。実に多くの善良な者どもを当惑させた言葉である。生命を得んと欲する者はそれを失い、生命を失う者はそれを得ん

 何とふしぎにこの二つの文句の似ていることか!しかしこのインドの聖者は、彼自身の非キリスト教的な方法で、極度に難しく、またなじみ難く思われる心理学的な道を通って、この思想に到達したのである。”(第9章「聖なるかがり火の山」P164)

 

“しかし、どのようにして、量り知れぬ年を経た思考作用の専制から自分を離すのか。私は、マハーリシーが決して思うことを強いて止めようと努力せよ、とすすめたことがないのを思い出す。「思いをその起源までたどって行け、真の自己が自らを現すのを見まもれ。そのとき、あなたの思いはおのずから消えるであろう」というのが、かれが繰り返し与えた助言である。”(第17章「忘れられた真理の一覧表」P317)

 

“ついにそのことが起こる。思いは、吹き消されたろうそくのように消えてしまう。知性はそれの真の基礎のうちに引っ込んでしまう――つまり意識が、思考に邪魔されないではたらくのである。私は、自分が少し前から感づいていたもの、すなわちマハーリシーが確信をもって断言していたことを、認識する。心は、超越的な源泉から発するのである。頭脳はちょうど熟睡中のように完全に停止状態に変わったが、意識はいささかも失われてはいない。私は完全に落ち着いているし、自分が誰であっていま何が起こりつつあるかということを十分に知っている。しかし、私の自覚は、別の個人、というせまい限定の中から引き出された。それは、荘厳に一切を抱擁するあるものに変わってしまったのである。自我は尚存在する。しかしそれは、変化した、光り輝く自我である。私であったつまらぬ人格より遥かに優れたあるもの、もっと深い、もっと神聖な存在が意識の中に現われて、私になるのだ。それと共に、完全な自由の驚くべき新しい感じがやって来る。なぜなら、思いは常に行きつ戻りつしている織機の杼(ひ)のようなものであって、それの専制的な動きから解放されることは、牢獄から戸外に歩み出るようなものなのであるから。

 私は自分を、この世の意識の外に見出す。今まで私をかくまっていてくれた地球は、姿を消す。私は光り輝く海のまん中にいる。その海は、それからもろもろの世界が創造されるところの原始の材料、物質の最初の状態である。それは口には表現できない無限の空間にひろがっており、信じられないほど生き生きとしている

 私は閃光のように、空間内で演ぜられているこの神秘的な宇宙のドラマの意味に触れ、それから私の存在の根本の点に戻る。私は、新しい私は、神聖な至福の膝に憩う。私は忘れ川の水の盃を飲んだので、昨日の苦い記憶と明日の心配とは完全に消えてしまったのである。私は神の自由と、ほとんど描写の不可能な幸福を得た。私の両腕は深甚な同情をもってすべての被造物を抱く。なぜなら私は、すべてを知るということは、単にすべてを許すと言うだけでなく、すべてを愛するということなのだ、ということを、能う限りの深い形で理解するからである。私のハートは狂喜のうちに改造される。”(第17章「忘れられた真理の一覧表」P318~319)

 

      (ポール・ブラントン「秘められたインド」日本ヴェーダーンタ協会より)