日本魂(やまとだましい) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・日本魂(やまとだましい)とは

 

 “「日本魂とはどんなものか知ってるか」「武士道と違うんですか」と申しますと、「阿呆やなア。王仁は日本魂は外国人とも唐人とも一緒に手を繋いで仲良くすることと王仁はそう習うたけどなア」(昭和二十年 山川日出子拝聴)”

 

               (木庭次守編「新月の光」より)
 

 

・「やまとだましい」 出口瑞月(王仁三郎)


 “やまと魂とは、宇宙の本源たる主神の精神と合一した心である。至仁至愛の大精神にして、何事にも心を配り、ゆきとどき、凶事に逢うとも大山のごとくびくともせず、物質欲を断って、精神はいとも安静な心である。天を相手とし、凡人と争わず、いかなる災禍に逢うも、艱苦を嘗めるも意に介せず、幸運に向かうも油断せず、生死一如にして昼夜の往来するごとく、世事いっさいを神の大道にまかせ、好みも無く憎みもなさず、義を重んじてつねに安静なる魂がやまと魂である。つねに心中のどかにして、川水の流るるごとく、末にいたるほど深くなりつつ自然に四海に達し、我意をおこさず、才智をたよらず、天の時に応じて、神意にしたがって天下公共のために活動し、万難に撓(たゆ)まず屈せず、無事にして善を行うをやまと魂という。奇魂(智慧)よく活動するとき大人の行い備わり、真の知者となり、物をもって物を見きわめ、おのれに等しからんことを欲せずして、身魂とともに平静である。

 小人というものは、自己に等しからんことを欲するがゆえに、つねに心中静かならず、これを体主霊従の精神という。今の世の中一般の心はみなこの心である。
 誠のやまと魂のある人民は、そのこころ平素、内にのみ向い、おのれの力量、才覚を人に知られんことを求めず、天地神明の道にしたがいて交わり、神の代表となって善言美辞を用い、光風霽月のごとき人格をそなえて、自然に世に光輝をはなつ身魂である。心神つねに空虚にして一点の私心なければ、とこしえに、胸中に天国あり。何事にも優れまさりたる行動を好み、善者を喜びて友となし、劣り汚れたるを憐れみ、かつ恵む。富貴を欲せず羨まず、貧賤をいとわず侮らず、ただただ天下のために至善をつくすことのみに焦心す。

 この至心至情こそ、やまと魂の発動である。わが身、富貴に処しては国のために心魂をささげ、貧に処しては簡易の生活に甘んじ、欲望を制し、仮にも他を害せず、自暴自棄せず、天命を楽しみて自己応分の天職を守る。これこそやまと魂の発動である。”

              (「おほもと」昭和49年2月号より)

 

 

・〝光の霊″と〝闇の霊″との戦い 〔ルドルフ・シュタイナー〕

  〈偏狭な民族主義は人類を退化させる〉

 

 “シュタイナーは、現代史の中に二種類の霊的な力が激しく衝突するのを見ていた。一九一七年十月二十六日の講演で、次のように述べている。「光の霊たち」は「いま人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、自由への衝動を発達させようとしている」。それに対して「闇の霊たち」は「人種的、民族的な関連、血に根差した古い衝動」を現代によみがえらせようとする。「人種、民族、血統の理想をはびこらせることほど、人類を退廃へ導くものはありません」とシュタイナーは警告した。”

 

 “民族主義を意識的に煽っている人間たちがいる、とシュタイナーは考えていた。彼らを駆り立てているのは、特定の民族至上主義や愛国心ではなく、「純粋な破壊衝動」である。”

 

 (高橋明男「〝光の霊″と〝闇の霊″の激突」より)

 (「歴史読本臨時増刊 特集・超人ヒトラーとナチスの謎(‘89-3)」(新人物往来社)に掲載)