ホログラフィー理論・暗在系 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “さて、ニューサイエンスと呼ばれる領域の中で最も鮮烈な印象を与えたのは〈ホログラフィー理論〉であろう。トランスパーソナル心理学者として名高いK・ウィルバーの編集した「空像としての世界」(邦訳一九八三年)が〈ホログラフィー理論〉流行の火つけ役となった。

 ホログラフィー理論とは光の明暗のみならず位相までとりこんだ写真術で、一九四八年にD・ガボアが開発したもの。感光板上に記録された光の干渉パターン(ホログラム)にレーザー光線をあてると、三次元の立体像が浮かび上がる。ホログラフィーは波の波動としての全情報を蓄積・再生できるのである。さらに興味深いことに、ある対象物を写したホログラムの一片だけを切り取って再生しても、もとの対象物全体が姿を現わす。「全体は部分のうちに内在し、部分は全体を証示する」という実在のモデルが、ホログラフィーによって作り出された。

 米スタンフォード大学の脳神経学者K・プリグラムは、脳の深層構造がホログラフィーに似ていると気づき、一九七一年に『脳の言語』を著した。記憶された情報は脳細胞すべての中に共有されているとの仮説を提示。さらに彼は、「実在世界はもともと対象物でできているのではなく、巨大なホログラムではないか」と考えるようになった。ヒンズー教が言うように、現実は幻花(マーヤー)なのではないか、と。

 量子力学の世界的権威として名高い、ロンドン大学のD・ボームの仮説は、さらに壮大である。―― 感覚でとらえられる現象は幻覚にすぎない。それらは別の次元の、もっと全体的な秩序〈暗在系(インプリケート・オーダー)〉から引き出されたものだ。現象としては別々に起こり連続していないように見えるものも、〈暗在系〉のうちでは一つに巻き込まれ、内臓されている。そこには時間と空間、意識と物質の別もない。従来の物理学は現象世界を扱うのみであったが、これからは反対に現象の背後に潜む〈暗在系〉を基盤にしなければならない。―― ボームはこのように考え、ホログラムはスタティックではあるが、この「内蔵された秩序」のモデルと見なした。

 〈暗在系〉を基盤にして、意識を含めた存在の総体を分割しえない全体として扱わねばならないとするボームの主張は、還元主義への批判や物心二元論(正確にいえば二分法)の克服を謳うニューサイエンスの主流となった。ホログラフィーをモデルにしたプリグラムやボームの仮説が、次代をにない真のパラダイムとなり得るか否かはともかく、この斬新なアイデアは東洋思想や神秘思想の架け橋になるものとしても注目を集めている。この〈暗在系〉については次節で再びとりあげてみたい。

 その他、ホログラフィーをモデルにした脳機能説をベースに、幼児の無限な創造能力を開発する教育法を説いたJ・ピアス、〈生命潮流〉の歩みを美しく描き出したL・ワトソン、生物が開放系として非平衡熱力学に即した〈散逸構造〉であることを説くI・プリゴジン、地球生命圏としての〈ガイア仮説〉を立てたJ・ラヴロック等々、わが国でニューサイエンティストと紹介される学者の数は多い。最も新しいところでは、コンピューター・グラフィックを支えるマンデンブローの「フラクタル理論」ももてはやされている。”(P212~P214)

 

 “さらに興味深いのは、意識と〈暗在系〉との関係である。ボームによれば、意識とは「全体としての実在における能動的なファクター」であり、〈暗在系〉の自己展開としての全体運動から出現する精妙なる側面であった。そして意識の各瞬間のうちには、物質的宇宙の全体に関する情報が少なくとも潜在的には含有されているという。

 ところで意識といってもさまざまな側面がある。知覚・情緒・思考・意図‥‥‥みな意識の範疇に含まれる。さらには潜在意識もあれば、ASC(意識変性状態)というものまで考えねばならない。ボームは断片化の弊を脱却して、全体を把握することを主張する。そのためには思考を超えた高次の意識状態が必要だという。思考は断片化の産物であって、それによっては決して全体としての〈暗在系〉をとらえることはできないからである。

 通常の認識とは、現実のあのもの・このことへと意識が志向して成り立つが、それは顕示化された〈明在系〉における認識の範囲にとどまり、〈暗在系〉には適用できない。われわれは誰もが一定の色をもったフィルターつきのレンズを通してしか「見る」ことはできず、それなしにいかなる知識をも与えられない。だが〈暗在系〉を把握するにはこのレンズをとりはずし、通常意識の活動を停止させる必要がある。ボームとの対話の中でR・ウェーバーは言う。

 ものの真にあるがままの姿を見る(といってももちろん視覚的にではないが)には、このレンズを働かさないようにさせなければならない。つまりボームの言い方では、そのレンズを通して世界を操作している自我ないし自己を迂回(バイパス)して、われわれのみなもとたる全体が流れるための、空なる水とならなければいけない。

 通常の認識とは異なる直感的な「全体知」の可能性については、古くから神秘思想家と呼ばれる人々が口にしてきたことである。インドの瞑想家クリシュナムルティと親しむことによって、ボームもそうした直感的全体知の獲得を確信するに至った。彼はそれを思考ではなく「洞察」、あるいは「能動的な叡智」と呼んだ。この点に東洋の修行的な実践論をふまえた認識のあり方との接点を見出すことができよう。”(P230~P231)

 

(丸山敏秋「気 論語からニューサイエンスまで」(東京美術)より)

*この本の中で、丸山敏秋先生は、気の世界観とニューサイエンス、東洋の哲学と暗在系理論の類似性について指摘しておられます。何やら「霊界物語」の背後にあるもの、「霊界物語」を創り出した世界のことが、おぼろげながら示されているような気がします。

 

*「霊界物語」は全部で八十一巻・八十三冊あります(六十四巻が上下二巻に分かれ、特別篇として「入蒙記」が加えられているため、巻数と冊数が一致しない)。かなりの量ですが、出口聖師は当初は百二十巻出すおつもりで、「霊界物語」の中でもそのように書いておられます。しかし、第二次大本事件などの影響で、結局八十一巻までで終わってしまいました。ということは、残念ながら未完のまま、中途半端のままに終わってしまったということになるのですが、一方で聖師は「すべて書いてある」「あれ以上出すことはない」との矛盾する言葉も言っておられます。実は聖師は「一巻を十二巻に拡げ、十二巻を百二十巻に拡げる」という謎めいたことを言われており、私はこの言葉は、「霊界物語」がある種のホログラムであることを示しているのではないかと考えています。要するに、すべては一巻の中に潜在的に含まれており、第一巻が出版された時点で、「霊界物語」は既に完成、完結し、とりあえずの目的は果たされたのであり、「一巻でも読んだら救われる」との御発言も、そのように考えると納得できます。ただ、それでは第一巻だけを繰り返し十二回読むのと、第一巻から第十二巻までの十二冊を一回読むのは同じことなのかというと、これは私の感覚ですが、やはり第十二巻までを読むほうが、何というか浸透度が全然違うように感じます。

 

 “瑞月(=王仁三郎)がここに神代の事蹟の一分を口述編纂したるところの本書に対し、世の驕慢なる学者の眼には時代錯誤の世迷言を陳列したものと見えるであらう。天は蒼々として永久に高くして広く、地は漠々として際限なきに似たり、虚空の外に心身をおいて神代の史実と神の意思とを顕彰し、一瞬に転廻して宇宙の真相を示さむと、神示のまにまにこの物語を著はしたるその苦心、これを酌むものは大本信徒をはじめとし、世上はたして幾人あるであらうか。ある幹部役員たりし某々氏はこの物語を評して、……霊界物語はたとへば砂利の山のやうなもので、吾々はその沢山の砂利の中から自分のこれと認めた僅かに包める砂金を採取するの考へをもつてこれに対するのである……と話してゐられた。瑞月はこの意外にして不遜なる某氏の談を聞いて、いまだ神の権威の大本幹部たりし識者に容れられず、了解されてゐないことに嗟嘆せざるを得なかつた。大神の神格を精霊に充たし予言者に来たらしめて、万民救治のために明示されたる神書に対し、あまりに無理解にして且つ学者の鼻の高きには感心したのである。軽侮嘲笑の的となるであらうとは予期してはゐたものの、大本幹部の口から斯様な言が出るとは一寸面喰はざるを得なかつた。

 しかしながら天下一人の具眼者が現はれて、一度心を潜め真面目に臨まむか、必ずや一節ごとに深遠微妙の真理を蔵し、五味の調度よろしき弥勒胎蔵の神意と、神智や苦集滅道の本義を発見し、肯定し、帰依するに至るであらう。本物語の目的は霊界現界の消息を明らかにし、諸人が死後の覚悟を定め、永久に天国浄土の悦楽に入るべく、仁慈の神の御賜として人間一般に与へられたものである。現界に用ゐては大は治国平天下の道より、小は吾人が修身斉家の基本となるべき神書である。

 昨大正十一年の秋瑞月は筆録者をはじめ、天声社における編輯者は、この物語に対してどこまでの信仰を有するかを試みむため、神示に従つて……万々一本書の中において教典として採用すべき金玉(きんぎょく)の文字あらば抜萃してこれを別刷となし宣伝用にあて、熱誠なる宣伝使や信者に頒つべし……と言つた。そしてこれらの人々の感想や著眼点の奈辺にあるかを探らせられた。しかるに驚くべし、全巻みな神より見れば金玉の文字、人間の作物でないものを、真面目に取捨選択し各これを数ケ月熱心調査の結果として余に示された。直ちに神明に伺ひみしところ、神は大いに笑はせ玉ひ、……人間の盲目と無鉄砲には呆然たり……とのお言葉であつた。瑞月もこの神示には大いに面喰つたのである。ゆゑに定めて抜萃に尽力されし人々は驚かるることでありませう。大本神諭に示されたるごとく、やはり霊魂の因縁相応より口述者といへども分らないものと歎息したのである。これを思へば人間は自我心を出さず、何事も聖慮に素直に柔順に仕ふるより外に途はないと思ふ。この神書をもつて普通の稗史小説または単なる滑稽物語および心学道話の一分と見てゐるくらゐの程度では、到底この書の眼目点をつかむ事は出来ない。アヽ日暮れて途いよいよ遠しの感に打たれざるを得ない次第であります。

 

  かむながら幸はひまして世の人に さとらせ玉へこれの神書(みふみ)を

 

(「霊界物語 第五十四巻 真善美愛 巳の巻」『序文』より)

*出口聖師は、「霊界物語」は「全巻みな神より見れば金玉(きんぎょく)の文字」と言っておられますが、出口ナオ開祖も「お筆先」について、「一つ一つの文字に神様が宿っておられる」と言われています。

 

 “半可通論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと云って居るが、斯かる連中は我国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主大神と称え奉り、其の他の神名は何れも天使や古代の英雄に神名を附されたまでである事を知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にドコまでも我神道は一神教であるのだ。”

     (木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)

*一神教と多神教の関係について、ホログラフィー理論をふまえて考えてみると、これまでとは違った見方ができるようです。

 

 “わたしにその癖があったからでしょうが、「学校で学級的に研究するように読んでも霊界物語はわからん、もっと素直に受けとれ」と聖師は言われる。「霊界物語には特別に上品なところから、下劣きわまりないところまでいろいろある。だからすべてを素直に受けとるわけにはいかない」と私がくい下がると、聖師は、「上品なところから下品なところまで一切を網羅してあるのが霊界物語だ。お前の心身にしてもそうだろう。非常に高貴な面もあれば下劣な面もあるが、すべてが寄りあってお前の人格となっているじゃろ。それと同じように考えて霊界物語を読めば、立派な神書だということが理解できるはずだ」というようなことを言われた。”

 

(「いづとみづ №103」『大国以都雄に聞く・全時空を包含する霊界物語』より)

*万物は神のうちにあり、そして聖言が神の顕現の一つであると考えるならば、出口聖師が言われる「上品なところから下品なところまで一切を網羅してあるのが霊界物語だ」という言葉が理解できるような気がします。リブログ先で紹介させていただいた「出エジプト記」のガルバナム香も、同じことを意味しているのかもしれません。

 

 “「この物語は三日に一冊あげてある。だから、三日に一冊は読んでもらいたい。けど、それができないようだったら、なんぼ忙しゅうても、一日に一頁でも半頁でもいいから毎日読むように」と、お諭し下さいました。”

 

(三浦玖仁子「花いろいろ 出口王仁三郎聖師側近七年の記録」)

 

・「気を散らす思想について」 バール・シェム・トヴ

 

 “人間のあらゆる思想のなかに神の現実が隠されている。そして、どんな思想もひとつの完全な姿である。さて、人間の思考の中に、彼の祈りのとき、ある悪いまたは見知らぬ思想が浮かぶとすれば、それは、人間がそれを救って高めるために彼のところに来たのである。しかし、このことを信じない者は、天国の軛(くびき)を真に受け入れていないのだ。”

 

                 (マルチン・ブーバー「祈りと教え」理想社より)

 

・聖書の一字一句に全部の聖書が含まれている

 

 “ミサにあずかっているとき、聖書をくまなく読もうという考えが頭から離れませんでした。それが正当な義務で、多分奉献のときに主にそれを捧げようという意図があったのだと思います。私に先がけて主は仰せになりました。

 「聖書の一つ一つの言葉は全部の聖書を含んでいる。」

 その言葉は、深く私の中におりてきたので、私は感銘を受けました。感銘を受けたのですが、わけもわからずに感銘を受けたのです。

 最初の、「一つ一つ」という言葉、つまり聖書の「一つ一つ」という言葉に私は大へん感動したのです。でも、どのように?私は理解できませんでした。わからなければわからないほど、私の中でその「一つ一つ」が気になりはじめ、大変短い言葉にまでこだわり、しまいには私の理性の前では一つの小さな「そして」という接続詞までも考え込むようになってしまっていたのです。

 ただの一つの「そして」という言葉が、救いのすべてのメッセージを含んでおり、イエズスが話された全部のたとえ話に全部の意味があるのだと自分に言い聞かせたとき、その言葉は私の頭に焼き付いてしまったのです。

 私の能力では理解できるものではありませんでした。考えに考え抜いたのですが、私の理性は全くの闇でした。……(中略)

 

 ミサ中、正確に言えば奉献のときの聖体奉挙を仰ごうと目を上げたとき、ホスティアから霊的光のようなものが私の心の中に差し込んできたのです。何の教えもなく一瞬のうちに、すべてが明らかとなりました。主よ、あなたは何と偉大な方なのでしょう。今なら私もよくわかります。ありがとう、主よ……。 

 何が起こったのでしょうか。はっきりと、一つ一つの言葉が真理だというのが見えたのです。ご聖体は私の頭を悩ませていた、どうにも説明のできないすばらしい言葉の理解の鍵となりました。ご聖体は、イエズスが私たちにご自分を与える手段であり、み言葉は、神が人に恩恵を流す手段なのです。

 こうしてみると、聖書の一つ一つの言葉は別個に切り離して解釈するものではなく、その背景には創造主と被造物の一致を実現する目的があるということなのです。神からくるご聖体とみ言葉は、無限の主の善に開こうとする人には、主のご自分を与える道だということに私は気づいたのです。

 聖書の一つの言葉、一つの句読点、一つの区切りに、何度私は深く考えるように誘いを受けた印象を持ったことでしょう。

 聖書に書かれている接続詞の「そして」という小さな言葉の中に、主の譬えの全部の意味があるということを考えて、私は人間的な答えを探し続けていました。そして主は別な方法で解答を与えられました。主にとってはあきらかに、私たちの知識が人間的に一杯になることには関心がないのです。主にとってたいせつなことは一致なのです。ご聖体と生きたキリストの生活からくる体験による主とのふれあいによる知識なのです。これこそがいのちを与える知識なのです。つまり生きること、経験すること……これはただの理解ではないのです。心で理解することなのです。

 この「理解すること」は、主に私たちの心を開き、信頼深く私たちを主に委ね、注意深く主の言葉を聞くときにはじめていただけるのです。”

 

(サンドラ・ニョッキ「神さまの声が聞こえる おん父のすばらしいご計画」燐葉出版社より)