真の一神教とは 〔スーフィー(イスラム神秘主義)〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・真の一神教とは 〔スーフィーズム(イスラム神秘主義)〕

 

 “アブー・サイード(注:11世紀イランのスーフィー)は、悪とは何か、そして最大の悪とは何かと質問されたときに、次のように答えたと伝えられております。「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、汝が汝であることが悪であるのに、それを汝が知らないでいる状態のことだ」と。そしてまた、「汝が汝であることよりも大きな災いはこの世にはありえない」とも。汝が汝であること、これをペルシャ語(イラン語)で「トゥウィー・エ・トゥ」と申します。有名な表現です。「トゥウィー・エ・トゥ」、そのまま訳しますと、原文の語順を逆にして、トゥ=「汝」、エ=「の」、トゥウィー=「汝性」、「汝の汝性」ということ。つまり人間の我、自我の意識ということです。
 では、なぜ「汝の汝性(トゥウィー・エ・トゥ)」が悪であり、災いであり、罪ですらあるのか。この問いは、ご承知のように、仏教などでも非常に大きな働きをする意義重大な問いですが、それに対する答えは、仏教とイスラームではだいぶ違ってきます。元来イスラームは人格的一神教でありまして、スーフィーズムもイスラーム神秘主義である限りは、やはり人格的一神教ということをそのイスラーム性の最後の一線としてあくまで守りぬこうとするからであります。
 人格的一神教の神秘主義、スーフィーズムの、この問いに対する答えは、おおよそ次の通りです。私が我の意識をもつ限り、我と神が対立する、それが悪なのだ。私が神に第二人称で汝と呼びかけるにせよ、あるいは神を第三人称で彼と呼ぶにせよ、ともかく存在は二つの極に分裂し、意識もまた二つに割れてしまうからだ、と。実を申しますと、我と神との分裂、対立こそ共同体的宗教としてのイスラームはもとより、ふつう一般に宗教と呼ばれるものにおけるいちばんノーマルな状態でありまして、信者が神をはるか向こうに望み見ながらこれに祈りかけ、これを拝む、それが宗教なのですけれど、スーフィーズムに言わせれば、これでは神と信者が対立してしまう。つまり神のほかに、それに対立して何か別のものがあるということになってしまう。これでは二元論です。”

 “……人間に我の意識がある限り、人は我として、神に汝、と呼びかけなければならない。あるいは、神を彼と見なければならない。どこまでも人間的我と神的汝、または人間的我と神的彼の関係であって、神だけではない。神だけでなければ二元論です。一神教ではありません。真に実在するものは、ただ神だけ、全存在界ただ神一色でなければならない。それでこそ純粋な一元論であり、本当の一神教だというのです。
 この点について、アブー・サイードがこういいます。「もし汝が存在し、彼が存在するならば(つまり人間が存在し神が存在するならば)、二人が存在する、これでは二元論だ。だから何が何でも汝の汝性を払拭し去らなければならないのだ」と。こういう意味で、スーフィーはその修行道において、まず何をおいても自己否定、つまり自我意識の払拭に全力を尽くすのであります。”

 “……十五世紀イランのスーフィー詩人・哲学者、ジャーミーは散文で、「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現が、人間の内部空間を占拠し尽くして、その人の内にもはや神以外の何ものの意識もまったく残さないことだ」といっております。これらの言葉によってわかりますように、スーフィーの体験的事実としての自我消滅、つまり無我の境地とは、意識が空虚になり‘うつろ’になってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から発してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものもなくなってしまうということなのであります。”

          (井筒俊彦「イスラーム文化」岩波書店より)