“……須佐之男命の初の御宮のあった八雲山の東麓には熊野大社が鎮座する。意宇川の上流、八束郡八雲村にあり、松江からバスで南へ40分のところである。祭神は『かむろき熊野大神くしみけのの命』で、この神は現在、須佐之男命のこととされている。
熊野大社の縁起はやはりこの地に八岐の大蛇を退治した須佐之男命が御宮を造った地ということからきている。
王仁師によれば、「太古、須佐之男命は出雲の熊野に内政庁をおかれ、外政庁を紀州の熊野におかれていた」ということである。
さて、意宇川の渓流をわたす朱塗りの神橋をわたり石段を登ると本殿がみえる。しかし朱塗りの橋というのは気になるものである。それはともかく、本殿に参拝して左を見れば古代建築風の魅力ある建物がある。これが鑚火殿(さんかでん)である。ここで古代の発火道具である火切り臼、火切り杵をもって浄火を鑚(き)り出すのである。
大本でいう『出雲火のご用』は、当然出雲大社の神火を指すのであるが、その元の火がある。それはこの熊野大社と松江南郊、八重垣神社近くの神魂(かもす)神社である。熊野大社では須佐之男命が発火器(火切り臼、火切り杵)をつくったとし、これを大国主神に授けて、さらに天穂日命に伝えられたという伝承をもとにしているようだ。ここの伝承は八雲山頂にあった小さな神社から受けたものらしい。
さて、出雲国造(出雲の宗教上の長)の世継ぎの儀である火継の式とは、出雲国造の死後、嗣子が火切り臼、火切り杵をもって熊野大社に参向し、それで火を鑚って斎食を炊き、これを食べて新しい国造職となる神事のことである。すぐ後に熊野大社から神魂神社に向かい、神事を行って後、出雲大社に帰るのである。
新しく鑚った火は国造邸内の斎火殿に保存して、国造はこの神火で調理したものを食し家族もこれを口にすることはできない。この神火を大本がいただいたのであるが、このことはいずれ述べるつもりだ。
では、何故、出雲大社から参向して火を鑚るのだろうか。国ゆづり後、大国主神のために壮大な御殿が造営されたが、日本書紀によると大国主神を祭祀するのは天穂日命であった。その天穂日命の子孫とされる出雲国造はもとより熊野大社で司祭をしていた。つまり出雲東部の意宇郡が国造の本拠地だったのだ。そして天穂日命以来二五代の間住まいしていたのが神魂神社付近であったらしい。その国造が平安初期に西部のついに縁深き出雲大社に移られたのである。国造が移ると前までの熊野大社は後世は出雲大社がこれにとってかわった。そして世継の儀=火継の神事は前述の通り行われていたようだ。
中世になると神魂神社のみで世継の儀が行われるようになり、熊野大社からは神人が奉仕にくるのみだった。しかし再び近年、八二代の千家尊統国造の時から古例に復活され、前述のような形で行われるようになった。また毎年の十月十五日に熊野大社で鑚火祭がおこなわれるが、その時も国造が自ら熊野に参向し、臼と杵を受け取り出雲大社でそれを使って大社の十一月二、三日の新嘗祭のために火を鑚り出す。”
(「人類愛善新聞」昭和53年6月1日号『神代の淵源を求めて⑥』より)