9月27日(土)は宮脇先生歴史講座でシナを学ぼう!中国当局によるウィグル族への締め付けの裏には? | チャンネルくららブログ
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本日9.25日の、日本テレビnews every.で中国当局による、ウィグル族への厳しい締め付けを取り上げていました。

イスラム教徒であるウィグル族の宗教活動にも厳しい制約を課し、賃金にも約2倍もの差別がある、先祖の墓を掘り起こして移住しろなどという強制移住など・・。



■実は中国にはもう漢人はどこにもいないそうです。
今回も東洋史研究家宮脇淳子先生の著書より引用します。
かわいそうな歴史の国の中国人 (一般書)/徳間書店
p21
秦の始皇帝が統一したあとまもなく秦は滅び、漢という王朝になりました。漢人という名前はそこから来ていますが、後漢の末に黄巾の乱が起こって漢が滅亡し、三国時代に突入して以降のシナ大陸は、漢人の国とも言えません。

p23
黄巾の乱によって後漢が崩壊したときに、れまで6000万人ほどあった人口が、10分の1ほどに激減して有名な『三国志』の時代になります。
人口があまりにも少なくなってしまったため、三国の争いはなかなか決着がつかず、最大の魏ですら狭い範囲を限って生き残った漢人をそのなかに移住させました。

こうして真空となったもとの秦・漢の領域に、五胡と呼ばれる遊牧民や狩猟民が北方や西方から移住してきました。
やがて内地に定住したこれら異民族の軍閥たちによる「五胡十六国の乱」が起こり、そのなかから北のモンゴル草原から来た鮮卑族の北魏が華北を統一します。
589年に北魏を継いだ北朝の随が、南朝の陳を滅ぼしてシナを統一するのです。
この混乱のなかで、最初の漢人は事実上消滅してしまいます。
随も唐も北方の遊牧民出身で、その家来となって政権を樹立したのがシルクロードの交易を担っていた中央アジア出身のソクド人たちです。
だからは世界帝国だとか言っていますが、漢人が建てた国家とは言えません
(引用ここまで)

厄介な隣国、シナの正しい歴史を学びましょう!

イベント
9月27日(土) チャンネルくらら公開収録やります

宮脇淳子先生特別歴史講座『歴史とは何か』
第6回 
「司馬遷が創ったシナ文明の歴史観」

(レジュメ公開第2弾!)

3 漢人は「東夷(とうい)・せいじゅう西戎・なんばん南蛮・ほくてき北狄」の子孫
夷:「低・底」と同音で低地人の意味、黄河・淮河・長江デルタの農耕・漁撈民。
戎:「絨」と同じく羊毛の意味で、陝西省・甘粛省南部の草原の遊牧民。
狄:貿易・交易の「易」、穀物購入の「糴」と同音で行商人の意味、山西高原の狩猟民。
蛮(蠻):彼らの言葉で人の意味、河南西部・陝西南部・四川東部の山地の焼畑農耕民。
これら「四夷」に対し漢族の遠祖を「中華」というのは、洛陽盆地の西の華山に由来する。
漢人(シナ人、中国人)は、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことである。

4 黄河文明の誕生
 洛陽盆地に都市文明が誕生したのは黄河が交通の障碍だったからである。洛陽盆地の西方は両岸の断崖絶壁と急流のため渡河が容易ではなく、東方は年々の氾濫と水路の変化によって黄河はやはり交通の障碍になる。洛陽から開封にいたる200キロメートルだけ、南北の渡河に適する。黄河の北側は、東北アジア、北アジア、中央アジアへ通じる陸上交通路、南側は、東シナ海、南シナ海、インド洋への水上交通路が集まる。古くからシナでは「南船北馬」と言った。洛陽盆地はユーラシア大陸の十字路だったために、文明が誕生したのである。
 漢字は南の長江流域で発明されたが、北の黄河中流域で発展した。その理由は、話し言葉の異なる異民族同士が目で見て理解する通信手段として、交易に便利だったからである。このため日常の話し言葉とかけ離れていても、漢字を学べば漢人と見なされることになった。
(次回に続く!)

過去ブログもご覧ください。
●教科書問題の裏側には中国の権力闘争!9月27日宮脇淳子先生「歴史とは何か」第6回でシナを学ぼう!
http://ameblo.jp/channelcrara/entry-11929331580.html
●支那は放送自粛用語?19世紀末まで中国という国家がなかったことを学ぼう、広めよう!


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