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■無為なる世界
皇室乗っ取りが完成しようかという直前に義満が謎の急死を遂げることによって、「強きにへつらい、弱きをくじく」、「不道、不義、無礼の世」と言われた足利義満の時代が終わり、4代将軍義持の治世へと移り変わります。

義持の時代を語る上でのキーワードが「無為の儀」です。

 

『室町人の精神』(桜井英治。講談社)では、「無為=穏便な処置」とされていますが、むしろ事実関係だけから見れば「何もしない」「何も決めない」と解釈する方が適切なのではないでしょうか。

 

倉山満先生は著書『誰も教えてくれない真実の世界史講義 中世編』(PHP研究所)において、義持のことを「社会党の村山富市元首相みたいな人」と評し、「なあなあでその場をなんとかやり過ごし、丸く収めるだけは上手に見えます。しかし、それは大事なことを先送りにしているだけで、その間に、肝心の根幹がどんどん腐敗していくのです」と述べられていますが、まさしくそのとおりで、義持の時代を見ていくと、幕府が弱体化していく様が見て取れるようです。

 

■神国のこと何事あらんや~応永の外寇~

「無為」を象徴する出来事と言えば、応永の外寇ではないでしょうか。

1419年、1万7千余りの朝鮮軍が対馬を急襲し、対馬に上陸した朝鮮軍は大小129の船を焼き払い、民家1939戸を焼き、104の首級をあげ、21人を捕虜にし、畑の作物を刈り取ったとされます。(『倭寇 海の歴史』田中健夫、教育者歴史新書)

 

朝鮮軍の目的は、対馬を根城に朝鮮半島南部、中国沿岸部を荒らしまわっていた倭寇の殲滅という、あくまで自主防衛のための自衛行動であり、日本を侵略する意図はありませんでした。ですが朝鮮軍の対馬来襲の1ヶ月前から「大唐・南蛮・高麗等が日本に攻めてくる」という情報が高麗から入っており、、幕府中枢は「元寇の再来か」と危機感を抱いていたようです。

 

では、元寇の再来という未曽有の危機に対して、幕府はどのような対応をしたのでしょうか。

現在、知られている史料限るのであれば、朝鮮軍来襲に驚いた幕府は諸門跡、諸寺に祈祷を命じたという程度であり、具体的な防御態勢を敷いたことを示す文献は何一つ残っていないようです。

 

はっきり言って、元寇の時の北条時宗の敷いた防御態勢を頂点とすれば、地の底に堕ちたとでもいうべき国防体制ではないでしょうか。

もっと言えば聖徳太子や菅原道真の時代、遣唐使などの中国大陸との表向きの外交が断絶していた時でさえ、周辺国との交流は頻繁に行われ、僧侶たちの交流などから大陸情報がもたらされていたそうでうす。(『古代日本外交史 東部ユーラシアの視点から読み直す』廣瀬憲雄、講談社選書メチエ)

にもかかわらず、当時の幕府には不正確な情報しかもたらされていなかったことが明らかにされています。情報収集体制からしてグダグダになっていたとしか言いようがありません。

 

なんだか、義持時代の幕府を見ていると、明治維新を成し遂げ、世界に冠たる大日本帝国となったにもかかわらず、グダグダの無責任政治を続けた結果、敗戦に至り、骨抜きにされた現在の日本とダブってしまい、もの悲しくなってしまいます。

 

多くの専門書では『看門御記』での「神国のこと何事あらんや(日本は神国であるから何ごとかあろうか」という記述を引用し、「当時の世相として蒙古来襲以来の神国思想が強まっていた」という論評に移りがちですが、その前にこの国防体制の体たらくについて論評して頂きたいものです。

 

■上としては定めらるべからざるなり~後継者問題~

閑話休題。もう一つ義持が「何もしなかったこと」と言えば、後継者問題でしょう。

今谷明先生の『籤引き将軍足利義教』(講談社選書メチエ)によれば、後継者を決めてくれと迫る重臣たちに対し義持は「上としては定めらるべからざるなり。管領以下面々寄合い、あひ計るべし」(自らは決めない、あくまで臣下たちで決定せよ)と言ったのだそうです。

 

義持自身は自らが後継者を定めない理由として

  1. 候補者(義持の弟たち)はいずれもその器ではない。
  2. 義持が指名しても、大名どもが盛り立ててくれねば政治が混乱する(だから指名しない)

と、並べ立てます。

 

当時の時代変化として、家父長が自らの後継者を自専するのではなく、一族や家臣団の意向を重視すべきであるという考え方が強まっていたこと、義持自身、自らの死期がこんなにも早く訪れるとは思いもしていなかったらしい、という事情はあるにせよ、今回の後継者問題は宿老たちが「後継者を決めて欲しい」と懇願しているわけであり、また当時の義持の年齢(42歳)が平均寿命から考えれば自らの死期を全く予想できない程若かったわけではないことを思うと、義持の述べた理由が即、後継者を指名しない理由になるとは言い難いのではないでしょうか。

  

また『室町人の精神』によれば、義持は「たとえ実子があったとしても使命はしなかったと思う」と述べたとされており、それは自らが父・義満の指名ではなく、重臣斯波義将の支持によって家督を継いだという自らの体験からくるものであったのであろうと考察されています。

仮にこの考察が正しいとしても、義満が自らの偏愛をたよりに、専横して義嗣を後継者にしようとしていたことと、周囲が「頼むから後継者を決めてくれ」と言っている義持の場合を同列視するのはやはり無理があるのではないでしょうか。

 

以上のことを踏まえると、理由はどうであれ、やはり「無責任」と断ずる以外ないように思えます。

 

■デッドマン・ウォーキング

当時の「無為の儀」と呼ばれる風潮は、地方に対する放任主義という形でも現れていたようです。

 

1431年、義教のもとに鎌倉公方足方持氏からの使節が送られてきますが、折からの緊張関係を理由に義教は使節との面会を拒否します。このとき宿老・畠山満家の弟、畠山満慶は「鹿苑院殿(義満)の御代、小目にて見及び申し候しも、関東の事をば万事を閣(さしお)かるる様候し」と、”関東にたいしては大目にみるのが義満以来の伝統である”と述べ、早期対面の実現を主張したそうです。

 

1432年に周防の大内家で内紛がおきたときも、どちらか一方を支援して、天下の一大事になったら自分の判断ミスが問われるのではないかと義教が述べた際に、畠山満家が「遠国の事をば、少々上意のごとからず候といえども、よきほどにてこれを閣かるる事は当御代ばかりにあらず候」と述べたと言われています。

思い切って意訳すれば「遠国のことは将軍の命令とはいえ、適当なところで落としどころをつけるのは今に始まったことではない。」といったところでしょうか。

 

畿内近国を一歩でると幕府の命令がほとんど効力を発揮しないことも珍しくなかったらしく、現状を追認する形の現状主義が蔓延していたのが当時の幕府内の情勢であったようです。

 

『倭寇 海の歴史』によれば、義持の時代に来日した朝鮮使節が、当時の幕府について

「日本の国は国家の倉庫がなく、ただ富豪に財政を支持させている。国王(義持)の命令は京都の周辺に及んでいるだけで、国土はみな諸大名に分けられている」

と分析し、日本国王とは呼びながらも、幕府を統一政権の代表者、日本通交の主対象とはみなさず、倭寇対策も含め、有力守護大名の統率力と、通商管理者としての対馬の宗氏とに期待する政策を打ち出したというのも致し方ないところと言わざるを得ません。

 

元々は義持の父・義満に対する反発から明との貿易を断絶するに至ったのですが、義持の治世の間に、そもそも諸外国から通商交渉の相手とみなされないほどまでに幕府の支配力は衰退していたのです。

 

パトリック・J・ブキャナンの『病むアメリカ、滅びゆく西洋』では、「”先祖の亡き骸と神のいます所”にこの身を捧げる」との気概を失ったヨーロッパの状況をして

 「魂の抜け殻」

 「彼らは”甘い生活”に票を投じたのだ。」

 「燃え尽きるまで勝手に楽しく生きていればいいではないか。彼らはその運命を受け容れている ― おそらくは無意識ながら集団の総意として。」

と評しています。

 

義持の時代の幕府は、まさに婆娑羅の気風を忘れた、死刑執行台への道のりをあるく”ウォーキングデッド状態”であったと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

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