みなさま、本日もありがとうございました。
みなさま、本日もありがとうございました。
今回も育児まんがです。
現在は、ASDの娘は小学校不登校中で
家では私が娘にずっと小学校で習う内容を
娘向けにカスタマイズ、アレンジして
教えてます。
娘は最初の頃は
「理解したのに、
たくさん問題解かなきゃいけない
意義がわかんない。」
と、不登校になって半年くらいまでは
よくブチキレていました。
でも、それって、ある程度、簡単な内容なら
「理解した→テストで点数とれる」に
なりますが、
それはだんだんと内容が難しくなったすると
そうならなくなります。
また、知識の定着をすることが
新たに考える力や、新たな内容を学ぶときの
理解力の向上につながります。
問題演習は目先のテストでの点数をとる、
以外に、脳内で習った内容を整理整頓(脳内のインフラ整備)のためもあります。
でも、まあ、それは、大人になってから
言えることで、子供には、まず問題演習を
したことが与えた自分への影響を自覚してもらうことが必要なわけです。
なので、まずこんな形で話しました。↓
本日もありがとうございました。
みなさま、本日もありがとうございました。
昨日の続きで
「ASDの私がマンガを描けなくなった理由」の
後半(漫画作成編)です。
2年ほど前の過去作で、
今も勉強関係外の漫画も描いてますが
基本的な姿勢は勉強のための漫画を
描くことで変わりありません。
みなさま、本日もありがとうございます。
みなさま、本日もありがとうございました。
本日も不登校について、学校とのやりとりで
感じた違和感について、
備忘録として書きたいと思います。
(あくまで私の個人的考えで、絶対的なものでは
ありません。)
学校に対しての負の感情の始まり
娘が不登校になってからは
私が、
よけいに学校、とくに小学校に対して
負の感情の視線を向けているのは
確かなんですが
それは
「娘が不登校になったこと」そのもの、
での怒りや落胆によるものではありません。
なぜなら、そのような怒りなら、
娘が不登校じゃなくなれば
学校に対して負の感情が消えることになり、
また、娘が不登校になる前、
学校を楽しんで行っていたときには
学校に対して負の感情がなかった
はずだから。
でも、私は娘が生まれる前から
学校には負の感情がありました。
ただ、その負の感情は
自分自身の小学生のときに
いじめられたから、とか、
先生に盗作冤罪事件を
かけられたから、
と経験があったことによる
個人的怨恨では
ありません。
このことで負の感情が加速したのは
間違いないですが、
私自身の小学校入学前から、
そうですね、幼稚園のころから
「先生」という
役割の方がする「教育」
に関して違和感という名の
負の感情は
持っていて、
その負の感情が加速したたのが
小学校のイジメと盗作冤罪事件、
そして、学校に対して
何も期待しなくなったのは
中学の頃、
学校に怒りの感情を持ったのは
大学の頃です。
大学に怒りを持ったわけでなく、
大学に入ったとき、
「小▪中学校で先生が
言っていたことは
間違いだった」
「小▪中学校の先生が言ってたことは
頭では私には合っていない方法では?と
思いつつも、
目上の人に従うことは
大切なのはわかるから、
従うことのほうが、抗うことよりも
得られるもの(健やかな人格形成や
才能開花や就職など)が
あるのだろう、と思ってたら、
そんなことなかった。
学校の先生に従うために
あれだけ自分を抑えているのが
時間や労力のムダだった。」
…と気がついてしまったことでの
小▪中学校への怒りと不信感が
かなり強くなりました。
人って、相手を嫌って失敗するより
「無理してでも、相手のことを
信じて頑張ってたことが、
実は間違いだった」
と気がついたときの方が
相手がどれだけ良い人だ、
と他の人に
たしなめられても、
またお世話になった側面が
あったと自分でもわかっていても、
怒りや不信感のほうが勝ってしまいます。
まあ、もう信じることできなくなることが
多いのでは?と感じます。
でも、これも、自分が小▪中学校の
先生の言うことを信じたことで生じた
問題があったから、という個人的怨恨
だけでなく、
ここらへんは学校への負の感情の10%程度の
理由で、残りの90%の理由の方が
負の感情の理由です。
それは
「教育とは何か?」
の教育の定義や
「公的政府機関が
税を使って
わざわざ、
教育機関を運営する理由は
何か?」
…について、
おそらく、私と、小▪中学校の先生たちと
違うから、
そして、私の方がそれを話すと
「極悪人」「性根が汚い」と
思われるのがわかってて、
でも、実際に、私みたいなタイプを
救ってくれたのは
その「性根が汚い」と思われるタイプの人で
「心の美しいやさしい人」と思われるタイプの
先生ではありませんでした。
「教育とは慈善事業じゃないぞ?!
それを全面に押し出したら
船が沈む可能性があると
なぜ気がつかない?!」と
いう気持ちが負の感情の大半を
占めているからです。
今回はそれについてお話ししたいと思います。
かなり偏った内容です。
教育とは何か?
大学で、日本や世界の
いろんな視点からの歴史や教育の歴史を
勉強したとき、
「個人ではなく、
公の政府機関が税を使って
教育を施す際には
その政府機関が、このような人材が欲しい、
その人材が国家を支える人材になる、
という目的のもと、教育機関を作る」
ということが多いです。
子供を育ててない人からも税をとって
その税で学校が運営されるのだから、
その人たちが税を払う理由は
将来、その税を使って育った人が
直接的または間接的の
どちらの形にでも、国家を支えることが
できるから、
というメリットがあるというのは
あると思います。
(国家を支える、のは、国家の奴隷となる、
という意味でなく、自分が自分らしく生きて
各能力や価値観に従って本領発揮する
ことが、結果的に国家を政治的、経済的、文化的に支える、という意味。)
(国家、という概念は近現代西洋の概念ですが
今回は、今でいう国全体を見えない精神的国境で囲っている考えなら、国家、という単語で
今回は表記してます。)
今のように
「子供たちの笑顔のため」
「他人を思いやる心を作る」
とか、ほんわかして、定義が不明瞭で
かつ個人のためが、
公的機関が税をつかって行う教育の
第一の目的では、
ほぼないのでは?と思ったり。
「国家のための人材を育てる」
それが良いか、悪いか?は
人によって意見は異なると
思います。
今回は、その教育方針が
良いか、悪いか?は別として
国の政治機関が教育を
公的資金を使って施す、というものが
公教育の側面にあったのは
間違いありません。
そこを事実として見ないで
「良い教育とは?」
と話し合っても
解決する答えなんて出ません。
大学で色々と学ぶうちに、
「国家を存続させる上で一番必要なものは
何か?」
を常に考えるようになりました。
私なりの結論は
「国家存続は国民次第」です。
「国家があって、初めて国民がいるのか?」「国民が一定数集まって、同じ価値観の
人が多数を占めたら、初めて国家となるのか?」
…の、国家か国民か?
どちらが先に存在するか?
…というと、元々は国民→国家、
ではあったけれど、近代社会になった
あとは、国家が先かな?と。
同じ地域に住んでいた、
それぞれの住民が
だんだんと同じような価値観のように
なっていき、
でもそれはあくまで
村や都市にすぎず、
それが、他の集団コミュニティと
見えない境が感じたとき、
初めて国家が誕生し、
その国家が、同じ価値観の人を
増やす、つまり、教育というのを
施すことで国民が生まれるのでは?と。
あくまで私の考えです。
国家という大きな枠組み、に
国民はいます。
ただ、国家は常に他の国家との
パワーバランスで滅びたり、併合されたり、
また、国家が独立できていても
それが、文民統治か軍人統治なのか?
常に平和なのか、内乱が続いているのか?
も時期によって、変わってきます。
また、人間関係だけでなく
火山の噴火や地震、それによる飢饉、
などでも国家の形態は変わってきます。
そして、
ずっと続く政治形態はない!
同じ政治形態に戻ることはあるけれど
それは戻るだけの理由が、その前の
政治形態にあったり、
他国から侵入があったり…と。
でも、政治形態や支配者層は
変わっていっても、国家は存在している
ことも多い。(分裂したり、支配されてしまうこともある。)
人間にはいろんなタイプの人がいます。
いろんなタイプの人間がいるからこそ
国家がどのような状態になったときでも
対応できる誰か、がいるから
50年、100年、1000年…と国家として
続いているのでは?と。
そう思うと
「小▪中学校の先生は、
国家の一員として、という観点で
教育を施していないのでは?」
…と感じたのが大学のときでした。
ただ、国家をつくる、守る人材をつくる!
のいきすぎが、戦前の教育ではあり、
それは「国民の命や生活を大切にしない教育内容」が悪いわけで、
教育という、
そのものが悪いわけではないです。
教育というのは、薬と同様、
天使にも悪魔にもなれるから。
教育と学校はイコールではない
娘が小学校に入学したあとに
学校の先生やいろんな人と話して
不思議に思ったことがあります。
私が小学生だったときに比べ
「発達障害」の概念も世間では知られるようになりました。
(私が小学生のときは、その概念そのものが
ほぼ存在してない。)
しかし、小学校は
「発達障害」に対しては
馬鹿にして、
「勉強より集団生活ができないといけないよ」
という姿勢だったりします。
これに対して思うのは、
発達障害の子を潰してないか?
…と。
(発達障害の子のほうを
優遇して欲しい、とか、
そういう意味ではありません。)
集団生活、集団行動の大切さを
発達障害を知らないわけではない。
でも、
「知っている」=「行動にうつせる」
わけではないのです。
集団生活をできる人、
それで才能を伸ばせる人がいることも
知ってます。敬意も払ってます。
発達障害の人でも、集団行動を
なんとか合わせられることは
ASDの私もできるので、可能です。
でも、それを主軸に置くと
他のことがやれなるくらい
身体が疲れ、頭が働くなるのです。
娘も同じ。
小学校では、何も問題ない生徒と
みなされ、娘が不登校になる原因を作った
先生にいたっては、
「みんなも、ナポさん(娘)を見習って欲しいと思いますよ」と
個人懇談で発言されたり…
娘は集団生活はできてはいたんです。
でも、それを言うと、
「でも、将来のことを考えたら、
学校に行っておかないと
後々困るんじゃない?
勉強よりも学校に行くことが大切よ!」
と言われるかもしれませんが、
その方々が言う「将来」って、
この国家の形態が
存続している、
という前提ありき
で言っているんですよね。
これが今回言いたかったこと。
つまり、
「公教育制度、義務教育制度に
一定以上の価値があると国民の大半が
見なしていて、それを存続することを
望んでいる学校制度が
娘が生きている間は
必ず続いている状態」があることを
前提としている、ということ。
「この学校制度が
崩壊するような
案件がおこる可能性」を
まったく視野に入れてないんです。
学校制度は不老不死?
もちろん、通常なら
簡単には今の学校制度、学校ブランドは
崩れませんが、
それは
日本国内が今のように平和であること、
そして、今の日本政府が続いていること、
それが前提です。
ただ、今は日本の教育制度が
変わらなきゃいけない、
という考えはあるようです。
しかし、私たちの今は、
もし歴史的位置づけで考えたとき
「江戸時代なら、
中期の享保の改革か寛政の改革あたり」
と思っていたりしないでしょうか?
節約をしたり、間口を広げ、
新しい制度を導入して
改革さえすれば
今の政治機関やあらゆる制度が
そのまま続く、と。
でも実は
「江戸時代の幕末」みたいな
感じだったりして?
と思うと怖くなります。![]()
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要は
「それまで、あるのが当たり前、
その組織に入りさえすればなんとかなる、
と思ってた幕府がなくなった」
「旧来の政治機関ブランドより
新しいスタイルを作ることを選んだ
人物も多くいた。
それまでのブランド力が通用しなく、
それまでは、そのブランドの世界に
いた人物たちが見下していた層の
人達が世界を作っていくこともある」
みたいなことが、
自分達が生きている時代
でも、ありえるわけです。
今が人類の最終形態とは限りません。
歴史の通過点に、今の私たちもいるわけです。
幕末のとき、武士でない人々や
武家の中でも下っぱ扱いの人達が
明治時代で活躍したりします。
国家としては
平和であるときに必要な人材と
新しい世界をつくるときに必要な人材は
違います。
そして、個人、個人は
その国家の形態に合わせて
自分として最も生きやすい状態に
かえていきます。
幕府というものは今はなく、
明治時代にできた政府が
戦後に形を変え、
今に続いてます。
何が言いたいか?というと、
今の時代は
「周りの人と歩幅を合わせること」
「周りの人達と仲良くできること」
「周りの空気を読めること」が
社会で必要な人材です。
何かのしっかりした制度や仕組みが
完成したら、
その制度や仕組みに従って
スピーディーに動けることは必要。
ある程度、機能できる制度や仕組みに
いちいち疑問を持ったり、
いちいち新しいものを作る、
というのをしていたら、
せっかく先人が作ってくれた制度、仕組みが
台無しになります。
その制度、仕組みが機能すれば
それが国家を支える力になるかも
しれないから。
だから、可能な限り、
集団生活、集団活動で才能を伸ばし、
結果を出せる人材をつくるのは
国家を存続させるためには大切。
でも、何か、
そうたった一つの大きな出来事で
その築き上げた制度や仕組みが
崩れることはあります。
そのとき、その国家が生き残るためには
もうすでに読み取れる空気は存在してなく
空気をつくる人物が必要です。
でも、その空気をつくることが
できる人物は
果たして、それまでの制度に合わせることで
つぶれてしまった人もいるのでは
ないしょうか?
潰れない人もいます。
でも、潰れない人が多ければ多いほど
潰れなかった人も自分ができることを
最大限発揮できます。
今の学校に合うように
発達障害の子で過剰適応できる子や
他人に合わせる子は
一定数います。
でも、その子たちが、もし、
発達障害の子が
過剰適応しないで発達障害のままで
自分の能力を発揮できたら?
自分の正義感と価値観を
きちんと活かせる状態のまま、
幼年期を過ごせたら、
どうなるんだろう?と。
もしかして、国家の危機の時に
必要な人材になる人が
何人か出る可能性はあるのでは?と。
定型発達の人も発達障害の人も
あらゆる数値のIQの人物も
国家のためには必要です。
それは国家に大きく貢献できるか?の
0か100の話でなく、
すべての人がそれぞれに合ったやり方で
生き抜けるようにすることが
国家にとって必要だということ。
そして、今の集団での指導は
発達障害の人には確実にキツいし
うまく適応できてもストレスはあると
思いますが
定型発達の人にだって
有効な方法でない部分はあります。
なぜなら、
「知識が悪」という価値観で教えられたら
いくら定型発達の人が空気読めるからって
自ら考える力を育てるのも
限界があります。
別に単語を丸暗記する授業が良いわけでは
ありません。
でも、「暗記すること」と、
「理解すること」&「自ら考えること」は
対立関係にありません。
理解しないと膨大な情報量の
暗記は無理で、
理解していきながら、暗記していくと、
言葉が内在化するものまで考えるので
それが結果的に「自ら考える力」を
育てるもの、だと。
また、
「歴史や地理を軽んじているから」
というのも。
歴史や地理は、それを知ることで
未来をつくります。
地理的背景で
人の行動はパターンができます、
そして、人の行動が歴史を作りますが
歴史はだいたいパターン化してます。
ある程度の法則があります。
人間が人間であるのは
生物として、ある程度のパターン化が
あるからこそ、人間だと思うので、
その人間が作った歴史だって
ある程度、パターン化しています。
つまり、自分たちが生きているこの時代も
今までの歴史の中のどのパターンのもの
なのか?を
知識を増やせば増やすほど
わかってきます。
「この制度や機関が絶対的な唯一無二の
ものである」
と思っていた人々が、悲劇的な最期を
迎えたのは、歴史で何度もありました。
それでも、その制度や機関が
「自分として必要なもので
愛している」と思っている人にとっては
それによって、他人には悲劇的に見える最期でも、それはその人にとっては必要な闘いなのだから、良いと思います。
でも、「必要だと思わないのに、または、
必要であるが、今の制度ではその機関の
良さが発揮できていない」
と思っているのに
「その機関に属してないと、将来困る」
と思い込んで生きて、大人になって
「何もない人間」になるのは
避けたいなぁ、と。
つまり、私としては
「学校という制度は必要だし、
教育という世界はとても好き。
でも、今の学校の教育は
娘にとっては、必ずしも
有効なわけではない。
もし、仮にこの学校のあり方が
永久に続く、とわかっていたら
それでも、娘を学校に通わせることを
第一にした。
でも、この学校制度と価値観が
永遠に続くとは限らないので、
大学の学歴は欲しいが、
小▪中学に通ったという学歴よりも
大学に行ける学力を家で身に付けさせないと
いざ、この政治体制が崩れたとき、
娘は詰んでしまう」
と。
ただ、教育機関としては「国家の存続」
そして
「その教育機関を存続させるための改革」を
考える必要はありますが、
親としては
「国家とか、社会への貢献なんて二の次!
娘が娘らしく生きられるように
ただただ愛情を注ぎ、
娘だけの幸せを考えて生きる!」
になります。
なので、「先生」としての自分と
「親」としての自分は違います。
「先生」が「親」のようになるのも
「親」が「先生」になるのも
違う気がします。
「先生」は、排除や迫害という形はしないで、
子供をある程度、「型」を提示する必要は
あります。
でも、「親」は、「型」をはめるのでなく
「子供に合う型」を探す必要がある。
誰かに従うことだって能力。
でも、娘はその能力がない。
努力した末で、無理と。
だから、今は
どんな政治体制に今後、変わっても
「自分で生き抜く脳の思考力」を
作っていきたいと思います。
話がこんがらがって、
長々となってしまいましたが、
一言で言うと
「いつ、今の学校制度や学校ブランドが
続くか、わからないのに、
それにしがみつく努力より
どの制度に代わろうが生き抜くための
学力と思考力を今は作っていきたいと
思うということ」です。
みなさま、本日もありがとうございました。
娘が不登校になったあとに
学校と話したことで疲れてしまったことを
備忘録で定期的に書いてます。
今回は、娘の不登校とは直接関係ないのですが
娘が不登校になった原因は
担任の先生の高圧的な処刑スタイルに
「学校で勉強する意義がわからなくなった」
ことですが、
「周りの同級生と仲良くできているし
好きな友達もいるけど、
どうしても違和感があり、
それが苦しい」というのもありました。
違和感
私のように、娘は
いじめられたわけでもなく
ただの違和感。
でも「違和感」が、娘の中で
かなりキツイのは、私も同じ状態で
あったので、他の人にはたいしたことないと
感じるかもしれないけど確かにキツイよね?
…と。
もちろん、私の感じる違和感と
娘の感じる違和感は具体的には違います。
ただ、他人に話しても
勘違いされる返答をされるのが
わかっているので
黙っているしかない、
我慢するしかない、あの違和感。
我慢できるレベルではある違和感。
だけれど、毎回、
違和感感じるのわかってて
がんばってそこに行くけど
いや行くけども…
疲れるんですよね…
の正直な話を
今回書きたいと思います。
今回は娘でなく私のお話です。
今回はそれについて書きたいです。
私の違和感の話
何かについて
明らかに他の人より
がんばっているとき、
「なぜ、その人は、不満な顔もせず、
ときには楽しそうに
がんばっているのか?」
という理由を他人はどう考えるか?
について、の話です。
例えば、
「それが好きだから」
「それができるようになると
メリットがあるから」
…と考える人が多いのではないかな?
…というのが40年間、生きた結果
私が出した結論です。
確かに、上記の理由で私も動くことは
あります。
「絵を描くのが好きだから」
「絵で少しでもお金を稼ぎたいから」
という理由で
クリエイター活動はしてますし
「この学校に受かりたいから」
という理由で受験勉強はしました。
勉強だって、
最初は
「将来の職業選択の幅を広げるために」
のためにしてました。
そのうち、勉強そのものが楽しくなって
勉強するのは将来のためにでなく
毎日のストレス解消の日課(趣味)に
なりましたが。
しかし、
「何かしらの長になりたいから」
「長をやるのが好きだから」
という理由で「長をしたこと」は
私は一切ありません。
毎回、くじ引きとか、
副長になろうとして失敗して
長になってしまった、
とかそういう形です。
ただし、仕事では
責任者としてやりたいときは
立候補してやることは
ありました。
でも、それは、
「長になりたいから」と
いう理由でなく
「その業務は、長でしか
成し遂げられないから」
という理由です。
私にとってのリーダーシップとは?
ただ、某団体などで
くじ引きなどで長になったとき、
やりたくなかったけれど
その役職になったからには
不満な顔をせず
楽しそうに、
笑顔で
必死にやりとげる
というのを私はします。
理由は、
長が不満そうな顔をしたり
辛そうな顔をしたら
周りのメンバーは
「この業務は、良くないものなんだ」
とか悪いイメージを持つことを
少しも防ぎたいからです。
長(リーダー)の役割の人が
一番すべきことは
「雰囲気づくり」だと
私は思ってます。
さらに
「なんかわからんが、
この業務を長が
楽しそうにしていると
自分もその業務をしたくなる」
と思ってもらい、
自主的に動く人が多くなり
グループとしても
ストレスが少なくなるかな?と。
これについては
フランスの、ある小説家が
「ナポレオン・ボナパルトは
単なる成り上がりではなく
自分もナポレオン・ボナパルトのように
生まれとか関係なく
己のちからだけで出世できる
という夢を与えてくれる存在であるからこそ、
彼は英雄なのである。」
みたいなことを言っていたのを知ってから
「長というのは、
他の人に
夢を見させるもの!」
と思いました。
だからこそ、塾講師を職業で選んだわけで
今は漫画家を目指してがんばっている
わけです。
自分がリーダーシップをとったとこで
生徒さんや読者さんが
「夢」を抱いてくれたら
うれしいから。![]()
夢と言っても、
将来の職業とか、そういうものだけでなく、
「今日より明日、
明日より明後日の自分が
もっとなりたい自分に
なっている気がする
」
とか
「なんだか明るい未来が
待っている気がする!
」
とか、そういう夢も含めた夢。![]()
![]()
![]()
話を元に戻します。
嫌だったこと
「何かについて笑顔でがんばる
」
というとき
私は「長としての業務」
をがんばっているのは
「長をやりたくて
やっているわけではない」
のです。
しかし、私は
「長は、メンバーに夢を見させる役割」
としてだけがんばっているのに
「目立ちたいから
」
「マウントとりたいから
」
「お偉いさんの方と交流をとりたいから
」
「男性と話せる機会が増えるから
」
と思われることが
とんでもなく屈辱なんです。![]()
![]()
![]()
![]()
こちらは忍者並みに気配を消したいのに
それが発達障害ゆえんなのかは
わかりませんが、
気配消しがとても苦手なだけ。
ステルス化パワーとか欲しい。
マウントとか、他人が存在する世界で
生きたいと思わないと存在しない概念で
こちらは自閉的な世界で生きたいから
他人との差で幸福感は得られません。
「お偉いさんや男性と話したいから」
についても
他人と話すのはできるけど
お偉いさんだろうが男性だろうが
女性同様、他人にすぎないので、
そうなると、
ストレスの方が大きいから
なんでわざわざそれをして楽しいと
思うんだ?と。
もちろん、自分から「好き!話したい!」と
思える相手と話せるのはうれしいけど、
その人の持っている性別や身分や役職で
話したいわけではないです。
ただ、例えば、
その人しか知らない情報や知識を
教えてもらえるなら交流も楽しいけど
役職や性別だけで
話す内容が自分と合わないなら
別に、楽しいわけではないよね?と。
それなのに
私が長をがんばるのは
長の役割を考えて
長をがんばりたいから
がんばるわけで
その長が手に入れる栄光とかは
正直、どうでもいいんです。
権力は欲しいです。
それは、権力がないと
成し遂げられないことがあるから。
でも、何の実権もない、
学校や男の傀儡でしかない長を
がんばるのは
長にくじびきでなったから
がんばっただけで
身のない栄光なんていらない。
そんな栄光を欲しいと思われたのが
すごく屈辱だったのです。
でも、そういう風に言うと
「自分が心が綺麗だと思ってんの!?」
と怒り心頭な方がいるかもしれません。
そうではなく
私の好きな歴史人物たちは
「長」としてがんばっていたのに
私に「身のない目立ちたい栄光のために
長をやっていた」という思われると
私が尊敬する歴史人物の人々や
私がその歴史人物を理解するために
一生懸命がんばって勉強したときに
お世話になった本と
その著作者の方々、が
侮辱されたような気になって
私が歴史が苦手なのに
すごく頑張った毎日を
否定された気分になってしまう。
でも、相手がそんなつもりはないのに
私が勝手に怒るのは理不尽だな
と思うから、
相手が私の考えと違うのは
お互い様、と考え、我慢する…
我慢するのですが…
まあ疲れてしまう。
疲れてしまうと思考がまわらなくて
理解力や集中力が
著しく低下してしまいます。
しかも回復に短くて一週間、
長いと数年かかります。
娘の不登校を受け入れたわけ
娘が学校に行けない理由は理由でしかなく
それでじゃあ不登校OKというわけには
いかない。
なぜなら、理由は「過去」のことだから。
だから、その「過去」の対策で「現在」を
つくることは可能。
要は、その理由を踏まえて
学校に行ける対策をする、
というのがスタンダードなやり方だと
思います。
学校側もそういうスタンスでした。
「2度とその先生は娘の担任にしない。」
「娘が辛くなったら保健室登校を」
「スクールカウンセラーに相談を」
などなど。
でも、私は、「現在」の行動によって
「未来」がどうなるか?
の…予測を何パターンもします。
それって、リーダーをするのに
必要なことかな?と。
親は子供のリーダーだから。
自分がどう動くか?で
相手がどう動くか?、
とか、
自分がどうがんばれば
何を手にいれれるか?
などの未来シュミレーションを
何パターンもして、
娘の今までの
過去の経験データ(幼稚園の先生の完食強要と人格否定から拒食症と父親拒否症になったり、勉強も自分が納得しないと勉強内容が頭に入らないが、納得できるまで辞典なりなんなりで調べると一気にできるようになるなど。)を加味して
その未来シュミレーションをした結果
どうやっても
「過剰適応しすぎて、疲れる。
他人の顔色を伺い、
他人の意見で動かないと
不幸なことがおこると思って、
嫌なのに他人に自分の人生を預ける
人生しかないと諦める。
そして
神経すり減らして、せっかく伸ばせる
画力や学力が伸ばせないまま大人に
なって、荒れまくる」という娘の未来しか
毎回結論が出て、詰んでしまいました。
でも、不登校を選ぶと
「小学校行かないよりは、大人になったとき
自立できる可能性が見える」
となったので
一か八か、不登校になって
自宅学習に切り替えたわけで…。
その私の予測があっているか?は
わからないですが、
まあ、いつ隕石
がおちて、
人間も恐竜のように絶滅するかも
しれないので
まあ、今は自分が正しいと思う
勉強を娘にさせていきたいなぁ、と
思います。
みなさま、本日もありがとうございます。
今回は実録エッセイ漫画のシリーズの
続きが完成したので、アップいたします。
みなさま、本日もありがとうございました。
かなり前になりますが、娘と
母校(大学)の学園祭に行きました。![]()
やはりアカデミックな雰囲気は
落ち着きます。![]()
![]()
![]()
不登校の娘、大学に行けるかな?
…と不安感にかられますが、
今はとにかく前しか見たくないです。
後ろを見ようが、前を見ようが、
時間は一方通行なので、
とにかく今は目の前のことに
対処したいです。
私自身が娘が不登校になったから
今の学校制度に対して思うところが
突然できたわけでなく
自分が小学生のころから
学校制度について違和感がありました。
小学校での違和感は
ハンパなくて…
でも、大学のときに
その違和感は
「小学校先生は、自身が教えている
勉強内容を愛しているのだろうか?」
という疑問由来なのでは?と
気がつきました。
大学の先生(教授)は
授業そのものは、ボソボソ話したり
わかりづらい授業もありましたが、
自分の教えている内容を
「愛している」のは伝わってきます。
まあ、その内容を好きだから
研究したくて大学教授に
なったのだから、当然といえば
当然なんですが…。![]()
なので、大学教授は
学生が興味なさそうな態度を
すると、落胆しています。
でも、小学校の先生って
「解けること」=「勉強の唯一の楽しみ」![]()
だと思っている人が多くて
さらに
「解けないこと」=「かわいそうなこと」![]()
という図式になりやすい人が一定数います。
確かに、解ければ楽しいし、
あまりに解けないと
悩むことはあります。
でも、
人によっては
簡単に「解けない」からこそ「楽しい」![]()
と思う気持ちもあったりします。
「一瞬で理解する人」もいれば
「時間をかけて理解する人」も
います。
でも、「理解できた」ことには
かわりはなくて、
その理解するまでの時間こそ
「
有意義な充実した楽しい時間
」
と思う人もいるわけです。
でも、小学校だと
他の人が「解けたら」
その同じ速度で「解けない」なら
それは「不幸」
「愚鈍」![]()
という図式のことが多くて…。
それが集団圧力になり
勉強ができるようになる子もいますが
その集団圧力が合わないのに
それに適応しないと
学校の先生に人格否定されたり
自分の大切な親や
自分の趣味や心の支えのものを
馬鹿にされるので
自分や自分の大切な人、
自分の好きなものを
守るために
その集団への過剰適応ばかりに
精神的体力を注ぎ、
「理解する楽しさ」に使えないのが
キツかったなぁ、と
今だと思います。
テスト勉強やテストそのもの、
受験勉強も
とても楽しかった。
今でも、一人で黙々とテスト勉強するのは
楽しい。
でも、それは
「理解して初めて点数をとれる」
というのがわかっているから。
学校の先生が喜ぶように行動して
それで喜ばれようが、ほめられようが
それでは。なんのために生きてるか
わかんなくなります。![]()
まあ、大学でも合う合わない先生はいたので
小学校でも合う合わない先生がいて
しょうがないですが…。
ただ、やっぱり、
自分の力だけで暮らしていけない、
身体的にも戦っても勝てない大人に
教えを受けるときに
合わない先生がいるのはキツいですね。
少なくとも、勉強できないから
みんなの前で人格否定とか
公開処刑を良しと思う先生は
他の人がどれだけ良い先生だと言おうが
こちらはその先生のためには
動きたくないなぁ、と最近思います。

























































