みなさま、本日もありがとうございました。
本日も不登校について、学校とのやりとりで
感じた違和感について、
備忘録として書きたいと思います。
(あくまで私の個人的考えで、絶対的なものでは
ありません。)
学校に対しての負の感情の始まり
娘が不登校になってからは
私が、
よけいに学校、とくに小学校に対して
負の感情の視線を向けているのは
確かなんですが
それは
「娘が不登校になったこと」そのもの、
での怒りや落胆によるものではありません。
なぜなら、そのような怒りなら、
娘が不登校じゃなくなれば
学校に対して負の感情が消えることになり、
また、娘が不登校になる前、
学校を楽しんで行っていたときには
学校に対して負の感情がなかった
はずだから。
でも、私は娘が生まれる前から
学校には負の感情がありました。
ただ、その負の感情は
自分自身の小学生のときに
いじめられたから、とか、
先生に盗作冤罪事件を
かけられたから、
と経験があったことによる
個人的怨恨では
ありません。
このことで負の感情が加速したのは
間違いないですが、
私自身の小学校入学前から、
そうですね、幼稚園のころから
「先生」という
役割の方がする「教育」
に関して違和感という名の
負の感情は
持っていて、
その負の感情が加速したたのが
小学校のイジメと盗作冤罪事件、
そして、学校に対して
何も期待しなくなったのは
中学の頃、
学校に怒りの感情を持ったのは
大学の頃です。
大学に怒りを持ったわけでなく、
大学に入ったとき、
「小▪中学校で先生が
言っていたことは
間違いだった」
「小▪中学校の先生が言ってたことは
頭では私には合っていない方法では?と
思いつつも、
目上の人に従うことは
大切なのはわかるから、
従うことのほうが、抗うことよりも
得られるもの(健やかな人格形成や
才能開花や就職など)が
あるのだろう、と思ってたら、
そんなことなかった。
学校の先生に従うために
あれだけ自分を抑えているのが
時間や労力のムダだった。」
…と気がついてしまったことでの
小▪中学校への怒りと不信感が
かなり強くなりました。
人って、相手を嫌って失敗するより
「無理してでも、相手のことを
信じて頑張ってたことが、
実は間違いだった」
と気がついたときの方が
相手がどれだけ良い人だ、
と他の人に
たしなめられても、
またお世話になった側面が
あったと自分でもわかっていても、
怒りや不信感のほうが勝ってしまいます。
まあ、もう信じることできなくなることが
多いのでは?と感じます。
でも、これも、自分が小▪中学校の
先生の言うことを信じたことで生じた
問題があったから、という個人的怨恨
だけでなく、
ここらへんは学校への負の感情の10%程度の
理由で、残りの90%の理由の方が
負の感情の理由です。
それは
「教育とは何か?」
の教育の定義や
「公的政府機関が
税を使って
わざわざ、
教育機関を運営する理由は
何か?」
…について、
おそらく、私と、小▪中学校の先生たちと
違うから、
そして、私の方がそれを話すと
「極悪人」「性根が汚い」と
思われるのがわかってて、
でも、実際に、私みたいなタイプを
救ってくれたのは
その「性根が汚い」と思われるタイプの人で
「心の美しいやさしい人」と思われるタイプの
先生ではありませんでした。
「教育とは慈善事業じゃないぞ?!
それを全面に押し出したら
船が沈む可能性があると
なぜ気がつかない?!」と
いう気持ちが負の感情の大半を
占めているからです。
今回はそれについてお話ししたいと思います。
かなり偏った内容です。
教育とは何か?
大学で、日本や世界の
いろんな視点からの歴史や教育の歴史を
勉強したとき、
「個人ではなく、
公の政府機関が税を使って
教育を施す際には
その政府機関が、このような人材が欲しい、
その人材が国家を支える人材になる、
という目的のもと、教育機関を作る」
ということが多いです。
子供を育ててない人からも税をとって
その税で学校が運営されるのだから、
その人たちが税を払う理由は
将来、その税を使って育った人が
直接的または間接的の
どちらの形にでも、国家を支えることが
できるから、
というメリットがあるというのは
あると思います。
(国家を支える、のは、国家の奴隷となる、
という意味でなく、自分が自分らしく生きて
各能力や価値観に従って本領発揮する
ことが、結果的に国家を政治的、経済的、文化的に支える、という意味。)
(国家、という概念は近現代西洋の概念ですが
今回は、今でいう国全体を見えない精神的国境で囲っている考えなら、国家、という単語で
今回は表記してます。)
今のように
「子供たちの笑顔のため」
「他人を思いやる心を作る」
とか、ほんわかして、定義が不明瞭で
かつ個人のためが、
公的機関が税をつかって行う教育の
第一の目的では、
ほぼないのでは?と思ったり。
「国家のための人材を育てる」
それが良いか、悪いか?は
人によって意見は異なると
思います。
今回は、その教育方針が
良いか、悪いか?は別として
国の政治機関が教育を
公的資金を使って施す、というものが
公教育の側面にあったのは
間違いありません。
そこを事実として見ないで
「良い教育とは?」
と話し合っても
解決する答えなんて出ません。
大学で色々と学ぶうちに、
「国家を存続させる上で一番必要なものは
何か?」
を常に考えるようになりました。
私なりの結論は
「国家存続は国民次第」です。
「国家があって、初めて国民がいるのか?」「国民が一定数集まって、同じ価値観の
人が多数を占めたら、初めて国家となるのか?」
…の、国家か国民か?
どちらが先に存在するか?
…というと、元々は国民→国家、
ではあったけれど、近代社会になった
あとは、国家が先かな?と。
同じ地域に住んでいた、
それぞれの住民が
だんだんと同じような価値観のように
なっていき、
でもそれはあくまで
村や都市にすぎず、
それが、他の集団コミュニティと
見えない境が感じたとき、
初めて国家が誕生し、
その国家が、同じ価値観の人を
増やす、つまり、教育というのを
施すことで国民が生まれるのでは?と。
あくまで私の考えです。
国家という大きな枠組み、に
国民はいます。
ただ、国家は常に他の国家との
パワーバランスで滅びたり、併合されたり、
また、国家が独立できていても
それが、文民統治か軍人統治なのか?
常に平和なのか、内乱が続いているのか?
も時期によって、変わってきます。
また、人間関係だけでなく
火山の噴火や地震、それによる飢饉、
などでも国家の形態は変わってきます。
そして、
ずっと続く政治形態はない!
同じ政治形態に戻ることはあるけれど
それは戻るだけの理由が、その前の
政治形態にあったり、
他国から侵入があったり…と。
でも、政治形態や支配者層は
変わっていっても、国家は存在している
ことも多い。(分裂したり、支配されてしまうこともある。)
人間にはいろんなタイプの人がいます。
いろんなタイプの人間がいるからこそ
国家がどのような状態になったときでも
対応できる誰か、がいるから
50年、100年、1000年…と国家として
続いているのでは?と。
そう思うと
「小▪中学校の先生は、
国家の一員として、という観点で
教育を施していないのでは?」
…と感じたのが大学のときでした。
ただ、国家をつくる、守る人材をつくる!
のいきすぎが、戦前の教育ではあり、
それは「国民の命や生活を大切にしない教育内容」が悪いわけで、
教育という、
そのものが悪いわけではないです。
教育というのは、薬と同様、
天使にも悪魔にもなれるから。
教育と学校はイコールではない
娘が小学校に入学したあとに
学校の先生やいろんな人と話して
不思議に思ったことがあります。
私が小学生だったときに比べ
「発達障害」の概念も世間では知られるようになりました。
(私が小学生のときは、その概念そのものが
ほぼ存在してない。)
しかし、小学校は
「発達障害」に対しては
馬鹿にして、
「勉強より集団生活ができないといけないよ」
という姿勢だったりします。
これに対して思うのは、
発達障害の子を潰してないか?
…と。
(発達障害の子のほうを
優遇して欲しい、とか、
そういう意味ではありません。)
集団生活、集団行動の大切さを
発達障害を知らないわけではない。
でも、
「知っている」=「行動にうつせる」
わけではないのです。
集団生活をできる人、
それで才能を伸ばせる人がいることも
知ってます。敬意も払ってます。
発達障害の人でも、集団行動を
なんとか合わせられることは
ASDの私もできるので、可能です。
でも、それを主軸に置くと
他のことがやれなるくらい
身体が疲れ、頭が働くなるのです。
娘も同じ。
小学校では、何も問題ない生徒と
みなされ、娘が不登校になる原因を作った
先生にいたっては、
「みんなも、ナポさん(娘)を見習って欲しいと思いますよ」と
個人懇談で発言されたり…
娘は集団生活はできてはいたんです。
でも、それを言うと、
「でも、将来のことを考えたら、
学校に行っておかないと
後々困るんじゃない?
勉強よりも学校に行くことが大切よ!」
と言われるかもしれませんが、
その方々が言う「将来」って、
この国家の形態が
存続している、
という前提ありき
で言っているんですよね。
これが今回言いたかったこと。
つまり、
「公教育制度、義務教育制度に
一定以上の価値があると国民の大半が
見なしていて、それを存続することを
望んでいる学校制度が
娘が生きている間は
必ず続いている状態」があることを
前提としている、ということ。
「この学校制度が
崩壊するような
案件がおこる可能性」を
まったく視野に入れてないんです。
学校制度は不老不死?
もちろん、通常なら
簡単には今の学校制度、学校ブランドは
崩れませんが、
それは
日本国内が今のように平和であること、
そして、今の日本政府が続いていること、
それが前提です。
ただ、今は日本の教育制度が
変わらなきゃいけない、
という考えはあるようです。
しかし、私たちの今は、
もし歴史的位置づけで考えたとき
「江戸時代なら、
中期の享保の改革か寛政の改革あたり」
と思っていたりしないでしょうか?
節約をしたり、間口を広げ、
新しい制度を導入して
改革さえすれば
今の政治機関やあらゆる制度が
そのまま続く、と。
でも実は
「江戸時代の幕末」みたいな
感じだったりして?
と思うと怖くなります。![]()
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要は
「それまで、あるのが当たり前、
その組織に入りさえすればなんとかなる、
と思ってた幕府がなくなった」
「旧来の政治機関ブランドより
新しいスタイルを作ることを選んだ
人物も多くいた。
それまでのブランド力が通用しなく、
それまでは、そのブランドの世界に
いた人物たちが見下していた層の
人達が世界を作っていくこともある」
みたいなことが、
自分達が生きている時代
でも、ありえるわけです。
今が人類の最終形態とは限りません。
歴史の通過点に、今の私たちもいるわけです。
幕末のとき、武士でない人々や
武家の中でも下っぱ扱いの人達が
明治時代で活躍したりします。
国家としては
平和であるときに必要な人材と
新しい世界をつくるときに必要な人材は
違います。
そして、個人、個人は
その国家の形態に合わせて
自分として最も生きやすい状態に
かえていきます。
幕府というものは今はなく、
明治時代にできた政府が
戦後に形を変え、
今に続いてます。
何が言いたいか?というと、
今の時代は
「周りの人と歩幅を合わせること」
「周りの人達と仲良くできること」
「周りの空気を読めること」が
社会で必要な人材です。
何かのしっかりした制度や仕組みが
完成したら、
その制度や仕組みに従って
スピーディーに動けることは必要。
ある程度、機能できる制度や仕組みに
いちいち疑問を持ったり、
いちいち新しいものを作る、
というのをしていたら、
せっかく先人が作ってくれた制度、仕組みが
台無しになります。
その制度、仕組みが機能すれば
それが国家を支える力になるかも
しれないから。
だから、可能な限り、
集団生活、集団活動で才能を伸ばし、
結果を出せる人材をつくるのは
国家を存続させるためには大切。
でも、何か、
そうたった一つの大きな出来事で
その築き上げた制度や仕組みが
崩れることはあります。
そのとき、その国家が生き残るためには
もうすでに読み取れる空気は存在してなく
空気をつくる人物が必要です。
でも、その空気をつくることが
できる人物は
果たして、それまでの制度に合わせることで
つぶれてしまった人もいるのでは
ないしょうか?
潰れない人もいます。
でも、潰れない人が多ければ多いほど
潰れなかった人も自分ができることを
最大限発揮できます。
今の学校に合うように
発達障害の子で過剰適応できる子や
他人に合わせる子は
一定数います。
でも、その子たちが、もし、
発達障害の子が
過剰適応しないで発達障害のままで
自分の能力を発揮できたら?
自分の正義感と価値観を
きちんと活かせる状態のまま、
幼年期を過ごせたら、
どうなるんだろう?と。
もしかして、国家の危機の時に
必要な人材になる人が
何人か出る可能性はあるのでは?と。
定型発達の人も発達障害の人も
あらゆる数値のIQの人物も
国家のためには必要です。
それは国家に大きく貢献できるか?の
0か100の話でなく、
すべての人がそれぞれに合ったやり方で
生き抜けるようにすることが
国家にとって必要だということ。
そして、今の集団での指導は
発達障害の人には確実にキツいし
うまく適応できてもストレスはあると
思いますが
定型発達の人にだって
有効な方法でない部分はあります。
なぜなら、
「知識が悪」という価値観で教えられたら
いくら定型発達の人が空気読めるからって
自ら考える力を育てるのも
限界があります。
別に単語を丸暗記する授業が良いわけでは
ありません。
でも、「暗記すること」と、
「理解すること」&「自ら考えること」は
対立関係にありません。
理解しないと膨大な情報量の
暗記は無理で、
理解していきながら、暗記していくと、
言葉が内在化するものまで考えるので
それが結果的に「自ら考える力」を
育てるもの、だと。
また、
「歴史や地理を軽んじているから」
というのも。
歴史や地理は、それを知ることで
未来をつくります。
地理的背景で
人の行動はパターンができます、
そして、人の行動が歴史を作りますが
歴史はだいたいパターン化してます。
ある程度の法則があります。
人間が人間であるのは
生物として、ある程度のパターン化が
あるからこそ、人間だと思うので、
その人間が作った歴史だって
ある程度、パターン化しています。
つまり、自分たちが生きているこの時代も
今までの歴史の中のどのパターンのもの
なのか?を
知識を増やせば増やすほど
わかってきます。
「この制度や機関が絶対的な唯一無二の
ものである」
と思っていた人々が、悲劇的な最期を
迎えたのは、歴史で何度もありました。
それでも、その制度や機関が
「自分として必要なもので
愛している」と思っている人にとっては
それによって、他人には悲劇的に見える最期でも、それはその人にとっては必要な闘いなのだから、良いと思います。
でも、「必要だと思わないのに、または、
必要であるが、今の制度ではその機関の
良さが発揮できていない」
と思っているのに
「その機関に属してないと、将来困る」
と思い込んで生きて、大人になって
「何もない人間」になるのは
避けたいなぁ、と。
つまり、私としては
「学校という制度は必要だし、
教育という世界はとても好き。
でも、今の学校の教育は
娘にとっては、必ずしも
有効なわけではない。
もし、仮にこの学校のあり方が
永久に続く、とわかっていたら
それでも、娘を学校に通わせることを
第一にした。
でも、この学校制度と価値観が
永遠に続くとは限らないので、
大学の学歴は欲しいが、
小▪中学に通ったという学歴よりも
大学に行ける学力を家で身に付けさせないと
いざ、この政治体制が崩れたとき、
娘は詰んでしまう」
と。
ただ、教育機関としては「国家の存続」
そして
「その教育機関を存続させるための改革」を
考える必要はありますが、
親としては
「国家とか、社会への貢献なんて二の次!
娘が娘らしく生きられるように
ただただ愛情を注ぎ、
娘だけの幸せを考えて生きる!」
になります。
なので、「先生」としての自分と
「親」としての自分は違います。
「先生」が「親」のようになるのも
「親」が「先生」になるのも
違う気がします。
「先生」は、排除や迫害という形はしないで、
子供をある程度、「型」を提示する必要は
あります。
でも、「親」は、「型」をはめるのでなく
「子供に合う型」を探す必要がある。
誰かに従うことだって能力。
でも、娘はその能力がない。
努力した末で、無理と。
だから、今は
どんな政治体制に今後、変わっても
「自分で生き抜く脳の思考力」を
作っていきたいと思います。
話がこんがらがって、
長々となってしまいましたが、
一言で言うと
「いつ、今の学校制度や学校ブランドが
続くか、わからないのに、
それにしがみつく努力より
どの制度に代わろうが生き抜くための
学力と思考力を今は作っていきたいと
思うということ」です。
