たまにはプライベート公開します。
先日、家族を連れて広島県にある大崎上島という瀬戸内の島に旅行してきました。
数年前に訪れて、とても良かったので改めて再訪です。
穏やかな瀬戸内の海に囲まれてとても素晴らしい場所でした。
またブルーベリーが有名な土地でもあり、ブルーベリー狩りもさせてもらいました。
日本とは思えない風景…(^^;
子ども連れでとても疲れましたが、とても楽しい旅でした。
中野 崇
たまにはプライベート公開します。
先日、家族を連れて広島県にある大崎上島という瀬戸内の島に旅行してきました。
数年前に訪れて、とても良かったので改めて再訪です。
穏やかな瀬戸内の海に囲まれてとても素晴らしい場所でした。
またブルーベリーが有名な土地でもあり、ブルーベリー狩りもさせてもらいました。
日本とは思えない風景…(^^;
子ども連れでとても疲れましたが、とても楽しい旅でした。
中野 崇
スポーツトレーナーになることは難しいか。
僕はとてつもなく難しいと思っています。
スポーツトレーナーの養成機関を主催している立場ではありますが、この仕事は安易に目指すものではないと思います。
ただし、ここで僕が「難しい」と言っているのは、一般的に言われている難しさとは異なります。
理由はこの仕事のもっと本質的な部分に関することです。
スポーツトレーナーは、自分が提供するコンディショニングやトレーニングはもちろん、ほんの一言で結果的にその選手の競技生命を駄目にしてしまうこともあり得る立場と言えます。
スポーツトレーナーとして一流を目指していくならば、いずれその競技のプロを相手にすることもあるかもしれません。
そうなれば競技生命どころか、人生に大きな影響を与える立場になるのです。
また有名選手であれば、選手を取り巻く多くの人たちの生活にも影響を与えるかも知れません。
ジュニア世代だから気楽?
絶対にそんなことはありませんよね。
ジュニア世代には、それこそ関わるトレーナー次第で世界の一流になる可能性も秘めています。
トレーナーを志す方は、必ず覚えておいて下さい。
トレーナーという仕事は、「相手の人生」に関わる仕事です。
トレーナーという仕事は、相手の人生に関わる仕事であり、相手の人生に影響を与える仕事です。
それぐらい重いことを「前提」にしてパフォーマンスに関わるのです。
男子ビーチバレーのトップ選手、仲矢選手の立甲です。
ついにしっかり出来るようになったと、写真付きで報告下さいました。
それだけに、そのトレーナー自身の人間性、人間力が試されます。
試され続けます。
そこに応え続けて、初めて信頼が生まれます。
肝腎なことは、
知識やテクニックやトレーニング理論ではありません。
もちろん小手先のコミュニケーション能力やマインドスキルではありません。
人間としての本質的な部分が最終的には大きな部分を占めると思います。
人間としての本質的な部分を「試し続けられる環境」に身を置く覚悟ができる必要があります。
トレーニング理論や知識、テクニックは全てその上に成立します。
小手先で上手いこと言っていても、それが上っ面のものであれば、いい選手には簡単に見破られます。
その覚悟が出来ている方であれば、いつかとても素晴らしいトレーナーになれると思います。
少なくとも僕自身は昔からこの気持ちでやっていますし、ここに共感してもらえる方と一緒に仕事したいと思ってます。
JARTA
中野 崇
今日は前回予告したとおり、「コネクション」の作り方です。
まず大前提として、スポーツに関わる上でコネ(コネクション)が大きな意味を持つことは事実です。
それはスポーツトレーナーの能力が数値化できないことや、信頼関係が重きを占めることに起因しています。
特に信頼関係。
選手やチームにとって、選手の身体は財産ですから当然のことだと思います。
もしご自身が選手だったら、知らない人より人柄がわかっている人や、少なくとも信頼できる人から紹介された人にお願いしますよね?
僕も初めは全くコネなんてありませんでした。
でも今ではそれなりにたくさんあります。
選手から選手を紹介してもらえることも非常に多いです。
それを羨ましい、特別だ、という意見はもちろん耳には入ってきます。
ネガティブな意見も当然聞こえてきます。
「あの人は実力よりもコネがあるんだよね」みたいな感じです笑
傷ついてます(^^;
しかし考えてみて下さい。
僕はただの理学療法士として一般病院に就職しました。
この時点でコネなど皆無です。
しかし今はそれなりにあると思います。
ですので、なぜ僕にコネができたのかを考える方が、批判するより意味があると思います。
そして、そうすることでコネクションの意味というか、本質が見えてくるかも知れません。
みなさんはコネというものをどのように捉えていますか?
コネがたくさんある人をどう思いますか?
どうしてもコネクションというとネガティブなものという先入観が多いと感じていますが、コネクションはどう捉えるかで全く意味と価値が変わってきます。
(もちろん、極端な話ですが親のコネなどで努力もせず地位を得る…などは問題外です)
僕はコネを「要望に応える力・信頼関係の継続の”結果”」として捉えています。
選手の要望に応え、人間的な信頼関係を継続的に「築く」ことが出来るのであれば、当たり前のようにコネは作ることができるのです。
元来コネクション(コネ)の意味は、「繋がり」ですから。
ですので、「コネ=悪しきもの」と捉えている間は、実はコネは出来ません。
コネと呼ばれるもの捉え方を変えることで、自分に必要なコネクションはいずれ形成できます。
堂々とコネを使えるぐらい、誰かから信頼されることを目指す方がよっぽど前向きですよね。
しかし、そもそもコネクション云々の段階で、善し悪しや有無についてどうこう考えていることそのものが、本質を外していると感じています。
次回はその点について書いてみたいと思います。
JARTA
中野 崇
JARTAというスポーツトレーナー養成・派遣機関を運営していると、
よく「どうやったらスポーツトレーナーになれるのか」、「スポーツトレーナーになるのは難しいと言われたんですが…」という類の相談をされます。
実際、僕自身も学生のころから
「スポーツトレーナーは狭き門」
「スポーツトレーナーは食べていけない」
「スポーツの動きは難しいから、まずは高齢者の方のリハビリができて一人前にならないと無理」
「スポーツトレーナーになるにはコネが必要」
「周りにそんなこと実現できている人見たことない」
など、多種多様なネガティブな意見を聞かされました。
ポジティブな意見をくれる人は本当に少なかったです。
またJARTA認定トレーナーになった方々の声を聞いていても、同じような意味のことを聞かされ続けて、いつの間にか元々の動機であったスポーツトレーナーへの道を諦めていたという旨の話は非常に多いです。
これらの意見は果たしてその通りなのでしょうか。
僕は実際のところ、理学療法士としての活動の中からスポーツトレーナーとして進んできましたし、道半ばとはいえ元々の志望動機をそのまま実現してこれています。
これは僕が特別という意味ではなく、先日お話したように「諦めるという選択肢」がそもそも頭になかったというところに理由があると感じています。
「諦めるという選択肢がなかった」という記事はこちらをご参照ください。
今回は、ここでもう一つ、トレーナーを志す方に覚えておいていただきたいことがあります。
それは、実現するための行動・方法に思考を集中する、ということです。
一般的に現在の社会的・教育的環境がスポーツトレーナーになるために難しいことは確かです。
しかし同時に環境的に難しいのは、「既にわかっていること」とも言えます。
だから肝腎なのは、「それがわかった上でどうするか」、です。
環境のせいにしない、とも言えます。本質的には先のリンク先の記事と共通しています。
「それがわかった上で」、様々な前提を把握して踏まえた上で、「どうすればスポーツトレーナーとしての活動ができるのか」のみに思考をフォーカス。
できない理由を挙げるのはとても簡単です。
誰でもできます。
多くの人がそうします。
でも、多くの人と同じになりたくなければ、多くの人と同じことはすべきではありませんし、多くの人と同じことは考えるべきではありません。
やりたいことがあるのであれば、「できる手段」を考える方が楽しいですし、実際そうしている方はとても魅力的に見えます。
そしてそもそも、スポーツトレーナーを志すのであれば、できない理由ばかり挙げる思考回路では通用しません。
身体を動かすことで心が動きますし、心が動くと身体も動きます。
そしてその中で、稀な機会に恵まれたり、実現するきっかけに出会ったりできます。
(結婚する相手が見つかったりもします笑)
全ての行動を、「やりたいことのベクトル上」に持ってきましょう。
※スポーツトレーナーとして活動するために、家族を守るために経済的な安定を確保するのも、「やりたいことのベクトル上」にあると僕は思います。
次回予告
「コネクションの作り方」
僕は普段からコネクションをたくさん使いますし、それが武器でもあります。
皮肉られることもありますが…。
でも僕は堂々とコネを使います。
その理由も含めて、コネの作り方について次回お話しします。
JARTA
中野 崇
道具には、それぞれ能力があります。
能力があるということは、その能力をどれほど発揮できるかどうかは、扱う人に委ねられるということです。
また日本には、多くの外国文化からは理解できない独特の文化があります。例えば道具に神が宿ったり、道具に人格を与えるような扱いをすることで、道具を非常に大切にするというものです。
(とてもややこしくなるので、ここでは触れません)
スポーツに関わる道具だけでなく、日頃から関わっている道具の能力、最大限に発揮させてあげられていますか?
今回のテーマは、
「スポーツパフォーマンスにおける道具との関わり方」
についてです。
これは私たちトレーナーにとっても
身体の使い方の質を高めることにつながります。
スポーツを含めて、日常生活において私たちが使用する道具はたくさんあります。
例えば包丁、ペン、歯ブラシ、スプーン、箸など。
スポーツだと、野球のボール・バット、サッカーやラグビーのボール、
バドミントンのラケット、ゴルフのクラブなどでしょうか。
みなさんはこれらの道具を扱うとき、何を意識しますか?
また選手には道具に関して、何を意識させていますか?
「扱い方」だけ教えていますか?
阪神タイガース、西田直斗選手のバット|JARTAサポート|2014自主トレにて
実は何も意識せずにただ道具を使い過ごすのは、
とてももったいないことなんです。
なぜならこれらの道具は、そのときの自分の身体の状態を知る、感じるための一つの指標になるからです。
そのための方法はとても簡単です。
それは「道具の重み」が感じられるように扱うことです。
上記に挙げた道具たちは、
重量的には非常に軽いものばかりです。
それゆえ、一般的には重量を感じながら扱うことはほとんどありません。
(軽い道具ゆえに腕の力だけで操作できてしまうという特徴があります。)
しかし、物体ですから、必ず重量があります。
身体の使い方を上達させるためには、
その微々たる重さを、「重み」として
感じることが重要なんです。
重みを感じるためには、
身体は適度に脱力している必要があります。
指先は当然として、手首や上肢、肩、体幹など全てを出来る限り脱力します。
そうすると、筋紡錘の感度が高まります。
その結果として普通の人(状態)には感じられないような重みを感じることが可能になります。
逆に緊張して道具を扱うとどうなるでしょうか。
指先や腕、肩や首などが力んで緊張した状態です。
当然、知らぬ間に道具を強く握ってしまいがちです。
(筋紡錘の感度は低下します)
想像、または実際に試してみて下さい。
このような状態で道具の重みが感じられるでしょうか。
結果は明白ですね。
では、なぜ道具の「重み」を感じる必要があるのか。
それは、重みを感じようとする意識が「身体をゆるませる作用」があるからです。
身体をゆるませると、先ほど述べたように筋紡錘の感度が高まります。
加えて、姿勢制御能力が高まるのです。
重心線が崩れた状態(力学的ロスがある状態、感じられていない状態)で、よい作業ができるでしょうか?
自分の身体の状態に鈍感な状態で、高いパフォーマンスが実現できるでしょうか?
しかもこの乱れは、そのままケガの根本要因になり得ます。
ちなみに道具からの視点でみると、道具の重みを感じられるような身体の使い方は、
「その道具のポテンシャルを最大限高める」
使い方とも言えます。
非常に繊細なレベルの話ですが、例えば包丁ならば刃と食物の関係性が感じられるようになります。
そうすると最も包丁の刃の切れ味が機能する程度の力を加えられるようになるのです。
すなわち無理な力を加える事なく、スムーズに切る事ができるようになります。
道具(包丁)を主体とした操作の方法。これを「他者中心運動構造」といいます。
剣聖・宮本武蔵も「五輪の書」の中で同じことを説いています。
包丁を使わない方のためにもう一例。
歯ブラシです。
歯ブラシの重みを感じながら歯磨きをするとどうなるか。
一つは歯の形状を、ブラシを通して感じられるようになります。
ブラシの先に感覚器が存在していないのにも関わらず、です。
繊細なコントロールにつながります。
もう一つは、ブラシの弾力を活かす事ができるようになります。
そうすると、毛先によって歯間の汚れを掻き出す機能が使えるようになるわけです。
「道具の重みを感じる」
これは選手にとって本当に良い鍛錬になります。
道具の重みを使いこなせるようになるということは、とても心地よいものです。
そしてこれは当然ですが、スポーツにおける道具、バットや各種ボールなどを扱うパフォーマンスにもつながります。
JARTA
中野 崇
なぜスポーツ選手がなぜ筋力トレーニングに励むのか、わかりますか?
筋力アップのため?
パフォーマンスアップのため?
見た目を強そうにするため?
ケガを防ぐため?
ほとんどがこういったものでしょうか。
(善し悪しは別として…。)
他にも思い浮かびますか?
僕は、この仕事でいろんな競技やいろんなレベルの選手の方々と関わっていますが、その中で筋トレの隠れた目的があることに気付いています。
今回は、そのことについて少しお話します。
私が代表を務めるJARTAでは、筋トレの問題点は指摘しますが、筋トレそのものは否定していません。
必要なことも多いです。
ただし筋力を発揮することに重きを置き、その競技を行うのに適した身体から逸してしまうような状態での実施にはリスクがあるし、むしろ「筋力はついても下手になる」といったマイナスの学習になってしまうことには注意してもらいたいと思っています。
今回はこのことを理解していただいたことを前提にして話を進めたいと思います。
内容は、選手が筋トレを頑張る、「もう一つの理由」についてです。
筋トレについては、マシンにせよ自重にせよ、現在スポーツでのパフォーマンスアップを志す選手の大半がその手段として行っているものだと感じています。
常識といってもいいぐらいですね。
(JARTAの講習会でお話しているような)トレーニング理論に関する趣旨のお話は選手にも実際にお話します。もちろん、わかってもらえるような言葉や表現を使う形で行います。
JARTAのトレーニングを継続してもらうため、効果的にするためにはそのあたりの理解は必須だと考えているからです。
第一期JARTAトレーナー研修の様子|イタリア
しかし、僕の基本的なスタンスとして、筋トレを重視して行ってきた選手に対しては、まずはしっかりと選手の意見を聞くことから始めます。
それなりの理由や理解、目的があってこれまでのトレーニングに打ち込んできたはずですので、当然のことです。
※これはその選手がどんな競技レベルであったとしても絶対です。
そういった会話の中で、なかなか言葉としては表出しないのですが、いつも共通して感じていることがあります。
それは筋トレの一般的な目的とは異なる、「もう一つの目的・効果」と言っていいようなものです。
※ちなみに「一般的な目的」とは、筋力を向上させることでパフォーマンスをアップさせるということです。善し悪しは別として、概ねそのようなものに集約されているという理解です。
「筋トレして身体を追い込むと安心する」
選手のパフォーマンスに関わるみなさんはこの意見についてどう思いますか?
僕にとっては非常に重要な事実でした。
選手は筋トレで身体がガチガチのヘトヘトになるまで追い込むことで、「筋トレによる精神的な安定作用」を得ていたのです。
イタリアサッカー|仲井康大選手|JARTAサポート
スポーツの結果というものは、以前の記事でも記載した通り、非常にたくさんの流動的な要素から成り立っています。
つまり、完璧な準備をしていっても、審判の采配一つで、その日の天候や体調一つで良い結果を得られないことも多々あるわけです。
自分の努力や準備ではどうすることも出来ない要素が影響を与える部分も大いにあるのがスポーツです。
このような環境で結果を出し続けることを要求されるストレス、不安は想像を絶します。
特にそれで生活している方、地位を築いている方にとっては。
僕は、様々な選手と向き合う中で、筋トレはそういった不安な状態を「限界まで頑張った、あんなに追い込んだんだから大丈夫だ」という記憶や体験を拠り所に、自分を落ち着かせる作用があることを知ってしまったのです。
果たして自分は、選手の筋トレの方法を変更させていくことで、この部分に代わるものを提供することが出来るのだろうか…。
今でも常にそういった選手に対しては慎重になっています。
そしてこのことは僕が筋トレを否定しきれない、一つの理由になっています。
理屈を超えた、非常に感情的で現実的な部分ですね…。
理論上どう考えても正しいものが、トータルとしてはマイナスに作用する。
我々トレーナーは、絶対に忘れてはならない視点です。
必ず、理論や知識ではなく、「その選手」をみてください。
「その選手」は、目の前のその人だけです。
やり方を間違えば、JARTAセンタリングトレーニングだってマイナスの学習に作用することもあり得ることを肝に命じておく必要があります。
結論としては、選手自身が「確信」を持ってトレーニングに対する取り組み方や安心感を得る形で、視点を変化させていけるような関わり方をするしかないと思っています。
何をもって、どのような感覚を得た時に「安心感」があるのか、これを実感をもって変えていけたときに活路が見えてきます。
代表例として、あの超有名選手は、「ゆるんでいるから大丈夫」と今の状態を報告してくれたりしています。
※こういった精神的な安定感も、実はゆるんでいることや軸の意識が形成されていることの副産物だったりします。
いずれにせよ選手がこれまでやってきたことは一切否定しませんし、選手には常に「選択肢」という形での提示を心がけるようにしています。
JARTA
中野 崇
前回からの続きです。
これまでは投球動作に非常に強い緊張が見られて阻害因子となっている場合の一つの考え方、関わり方についてお話ししました。
投げ方云々よりも以前に、まず自分の状態に気付けるか、認識できるかの観点からアプローチを開始しました。(内的認識力)
その際はボールを持たずにとにかく内的認識力が働くような流れを作りました。
そこに改善は見られたものの、ボールを持つとたちまち余分な緊張が入るという状態。
このことから、「ボールを持って身体を動かす」ことそのものが身体中に緊張を起こすスイッチになっていることが明らかになりました。
そのような状態にある選手に対して、次にどんなことをしたのかが今回の内容です。
まず、ボールを出来るだけ軽く持たせて、「ゆらす、軽く振る」ということをさせました。
つまりボールの重みを感じさせることから始めたのです。
ボールを初めとして、スポーツではラケットなど道具を扱ってパフォーマンスを発揮することを求められることが大変多いです。
その時に、まず上手く扱う「前提」として肝腎なことは、
・「道具の重みを感じる」ということ。
・道具を扱う身体がゆるんでいるということ、の2点です。
※道具の重みを感じることについての詳細は、以前JARTAのコラムに記載しましたが、FaceBook上のものでした。今からはかなり見つけづらいため、次回に改めてまたご紹介します。
この2点は強い相互関係にあります。
つまり重みを繊細に感じるためには、余分な緊張を排除して出来る限りゆるむことが必要。
そして身体がゆるんでいると、道具の重みはとても感じやすくなるということです。
なぜ身体がゆるむと重みを感じやすくなるのでしょうか。
これは筋肉の中にある「筋紡錘」という器官が主に関係しています。(他にも圧受容器なども関係しています)
筋紡錘は筋肉の張力(伸び縮み)を感知するセンサーの働きをしています。
すなわち、道具の質量によって、それを操作したときに加わる筋肉の張力を繊細に認識できることで道具の重みを感じることにつながるのです。
話を現場に戻しますと、結果としてはその時点では上手くいきませんでした。
やはりこれまでの「ボールを握って力む」という設定の方が強力でした。
実際の流れの詳細はここまでしか明かせませんが、通常このような時にどんな手段があるのかを考えていきましょう。
次の手段としては、より軽い道具を持ってもらうことが多いです(ボールペンなど)。
このとき、頭の中では、より重いものも選択肢にあります。どちらも試すつもりでいることが多いです。反応をみながら、というスタンスです。
ボールペンなどは、普通では重みを感じることなく使われている道具です。
重みを感じるということは、すなわち道具の重心を捉えることに近い感覚です(本当はもう少し奥が深いですが)。
ボールペンの重みを感じようとさせることで、より身体のゆるみを向上させます。
さらに、「ボールを扱う」という階層から、「道具を扱う」という階層へと抽象度を高め、ボール関連の設定を外すきっかけづくりをします。
実際にはもう少しいろいろやりましたが、
結果、初めにやったときよりも断然ボールの重みを捉えられるようになり(主観)、重みを感じながら投げるようにすることで、少なくともテイクバック時の緊張は激減することができました(客観)。
そしていかに日常生活から自分の身体をゆるんでいることに認識を向けるか、道具の扱いに気をつけるかの重要性を説明しました。
このような、日常生活全てを鍛錬と捉える心構えを「行住坐臥」といいます。
その場に居合わせた他の選手やトレーナーたちにも、このことの重要性を説明し、日常生活がいかに統合化トレーニングにつながるかを理解してもらえました(たぶん笑)。
今回の変化は、あくまで「きっかけ」に過ぎません。
もちろん京都大学のトレーナーを含めて、選手に関わる我々の対応は非常に重要になりますが、やはり選手自身の「行住坐臥」が鍵を握ることは間違いありません。
みなさんはボールペンを扱うとき、歯ブラシを扱うとき、そしてボールを扱うときに道具の重みを感じていますか?
JARTA
中野 崇
先日は京都大学野球部の投手2名、野手1名のサポートに行ってきました。
普段はJARTA認定トレーナーたちに帯同してもらってチーム全体に近い形でトレーニングに入るのですが、
今回はスケジューリングが急だったこともあって(しかも平日昼)、僕一人でのサポートです。
今回は、普段の投手2名に新たに野手の投球動作(スローイング)に関する依頼がありました。
少し面白い取り組みをしたので、トレーニング指導の幅を持たせる意味でも参考になれば嬉しいです。
その彼は野手でした。試合では主に代走。
そして今まで一度もまともなボールを投げたことがないとのこと…。
投げる練習をしてスローイングの機会が増えると肩周りに痛みが出て日常生活にも支障がでるほどとのことでした。
このときは特に痛みはないとのことでした。
実際の投げ方をチェックすると、一言でいうとテイクバックが二回あるような感じ…(^^;
しかもたった150グラム弱の重さの硬式ボールを投げるにしては、全身が余分に力みすぎていました。
誰がどう見ても良い投げ方とは言えない状況です。
みなさんはこういった選手に出会った場合、どうしますか?
フォーム指導しますか?
投げるときにどこを意識するかを指導しますか?
まずスタティックな評価をしてストレッチ指導しますか?
僕の場合は、まず初めにボールを持たせることをやめました。
そして、自分の身体がいかに無駄な緊張が入っているのかに「気付かせる」ことをまず重視しました。
例えば、オープンロータスのようなセンタリングトレーニングそのものをさせるよりも、さらにシンプルに、単純にしゃがんでみてもらいました。
JARTAではセンタリングトレーニングというシステムでまずは一次姿勢を評価・改善という流れでやっていますが、それはあくまでも基本。
基本は変化させられるから基本です。
今回の場合は、ごく単純な動作をやってもらい、その時にどこに緊張が入っているかを選手に「問いかけ」続け、「自分で」緊張しているところを探してもらいました。
つまり僕が何を選手に求めたかは、JARTAの講習会に来られたことがある方はお分かりですね。
「内的認識力」です。
※今回は内的認識力を向上させてフィジカル・スキルとつなげるための一つの実施例です。
ケガをしないことも含めて、よいパフォーマンスを発揮、追求してゆくためには、筋力や可動域だけでは全く足りません。
自分の身体の状態を把握・認識する能力が必要です。
それが「内的認識力」です。
さらに刻一刻と移り変わる状況に合わせて自分の身体の状態を変化・調整できる能力が必要です(画定力といいます。JARTAホームページ参照)。
誰がどう見てもよろしくない投げ方をしている選手は、誰がどう見てもよろしくないだけに、これまでほんとにたくさんの指摘・指導を受け続けてきているはずです。
それでも「その投げ方」なのです。
このことをどう考えるか。
つまり、
指導側の言葉(記号)の意図、と選手側の言葉の理解・解釈が違う。
選手自身に、やりたい動きと実際の動きのギャップを認識・調整する能力が不足している。
これまで指導されすぎて、「投げ方」を指導されると身体が固まるような状態(設定)になっている。
おおまかにこれらのことが考えられます。
一言でいうと、入力ー出力・認識の間におけるギャップが大きいのです。
指導内容が正しい、間違っているという階層ではなく、「指導」そのものがネガティブな影響を及ぼしている可能性がありました。
これらのことが予測できたので、今回の構成としてはこちらからはまったく「指導」はしないという方針にしました。
とにかく気付かせる。
固まっていることにとにかく気付かせる。
単にしゃがむ、単に腕を上げる、腕を落とすなどの動作、日常生活の動作からひたすら行いました。
(まったく野球のトレーニングには見えないものですね。)
驚くべきことに、それだけで、かなり深くしゃがめるようになったり、腕を落とす動きにしなりが出てきたのです。
本人も「こんなに固まってたんですね…」となってきました。
内的認識力が機能してきましたね。
そこまで出来てきたので、今度は実際にボールを握って、これまでと同じ動作をやってみました。
すると、また固まり出しました(ここにも"設定"があったか…。)。
(当然、この現象は一般的な柔軟性や可動域では説明がつきません。)
長年ボールを握って身体を固めて投げるというプロセスを強化し続けた結果、投げる動作以前に「ボールを持つことそのもの」が身体を固めるスイッチになっていたのです。
ここで次に何をしたのかは、また次回。
JARTA
中野 崇
今回は、僕も保持している医療資格である理学療法士の学生向けの内容です。
理学療法の学生の方は、そろそろ就職先を本格的に考える時期にきましたね。
それもあってか最近、学生の方から頻繁に同じ類の相談を受けます。
「中野さんのようにスポーツ選手に関わっていきたいのですが、どんな就職先を探したら良いですか?」
今回は、スポーツに関わりたいと考えている学生の方には是非ご一読いただきたい内容です。
先の質問の答えから言いますと、どこでもいいです。
僕自身、最初の就職は一般病院ですし、その後は老健やデイサービス、訪問リハなど介護医療分野に進みました。
その間、自分でスポーツ現場を探して業務外でスポーツトレーナーの経験を積みましたし(全てボランティアです。ボランティアの問題点に関してはコラムを書きましたのでご参照を。こちらです)、自分でいろいろな活動をして、周囲の方々からの協力を得ながら今の活動状況に至っています。
つまり、自分のやりたい活動のための環境を自分が動くことで作ったのです。
進路に悩む学生の方に伝えたいことは、
①諦めることを忘れること
やりたいことを実現するには、「諦めないor諦める」というスタンスでは、あまりにも壁が多いです。
「諦めない!」と考えていると、常に諦めないor諦めるという中で壁に向かうことになります。
これはしんどいことですし、諦める道の存在を意識することにもつながります。
僕は、「諦める」ということを考えたことがありません。
そもそも「諦める」という選択肢が頭になかったのです。
「好きなことややりたいことを仕事にする」のは、本質的にはそういうことだと思います。
※好きな人と付き合うのは、何度も諦めたことはありますが笑
②自分のやりたいことを実現する環境は、自分で作ること。
「スポーツ選手に関わりたいから、スポーツリハをやっている施設に就職する。」
一見当たり前ですし、目指す方向というのも理解できます。
でも僕は初めからその方向性は頭にありませんでした。
僕はずっと以前から、自分のケガの経験を踏まえてスポーツトレーニングの現状に疑問を感じていましたので、「他の誰もやっていないことをやりたい」と思っていました。
だから、基本的には誰かを追随することは考えられなかったのです。
そもそも、「スポーツリハをやっている病院」という理由で就職し、もし自分のイメージと違う環境だったらどう思いますか?
不満を感じたり、環境のせいにしがちになりませんか?
僕は、自分が納得するためには、自分で環境を作っていくことで、誰かのせいにできない状況を求めました。
他の人がやっていないこと、自分がやりたいことをやっていくためには、そうするしかなかったという側面もあります。
たった一度の人生、自分の可能性にかけてみたかったのです。
世の中に自分は絶対に自分しか存在しません。
だったら自分にしか出来ないことに挑戦したいというのが僕の性格なのです。
裏を返すと、他のみんなと同じことをすることに何故かすぐ違和感を感じるという困った性格でもあります笑
学生のみなさん。
自分の人生において起こる様々なことを、環境や誰かのせいにすると、とても大きなものを見失います。
自分が存在する意味や、人生かけて果たすべき役割を常に考えられる環境に身を置いて下さい。
今回の内容は、決して「スポーツをやりたければスポーツリハをやっている施設に就職すべきではない」という意味ではありません。
環境に依存して自分のやりたいことをやるのは、実は注意が必要。
やりたいことがあるなら、主体的に行動する。ということを理解してほしくて書いています。
誰から何を言われても、数ある選択肢の中からの自分の行動を決定しているのは自分自身です。
全て自分自身の「選択」です。
全ての行動、結果の責任は、自分にあることを自覚しましょう。
それがあって初めて次への成長です。
運が悪かった、誰かの妨害、不確かな情報、それらのせいにしていては成長はできません。
そして大切なのは、すでに存在している環境に組み込まれるのではなく、「仲間も含めて自分で環境をつくる」という姿勢です。
決して自分の人生を他者や環境に依存してはいけません(人に頼るなという意味とは違いますよ)。
どんな職場に就職しようとも、要するに自分次第です。
よく誰かを「育てる」という言葉を耳にします。
スポーツトレーナーであれば、「選手を育てる」、「トレーナーを育てる」などなど…。
そもそも「人を育てる」とはどういうことなのか。
この言葉を聞くと、いつも考えてしまいます。
父が教師であり、自分自身も教育学部卒で3児の父親でもある僕は、常にこのことについてごく自然に考える生活をしてきました。
またJARTAというスポーツトレーナー育成・派遣機関を立ち上げた立場でもあります。
つまりのところ、わざわざ考えてきたというより、そのことを常に考え続ける必要に迫られる環境にあるのです。
ですので、これが答えだというものは多分これからいくつも見つけるでしょうし、同時に答えには一生たどり着けないんだと思ってます。
それだけ僕にとっては大きな課題であり、人を相手にする仕事をする上での責任だと思っています。
一つ、現時点で確実なことは、僕はまだ誰かを「育てる」という表現を使えるような人間ではないということ。
そしてそれはたぶん一生そうだと思います。
もちろん自分の子どもたちには素敵な人間に育ってほしいし、JARTAの認定トレーナーたちには選手に貢献できる最高のトレーナーに育ってもらいたいです。
しかし、それは「なってもらいたい」のであって、僕が「育てる」のとは全くもって同義ではない。
もちろん、僕自身は、「あの人に育ててもらった」という想いをもっている恩師はたくさんいます。
彼らの存在なしには今の自分は考えられない。
これからも彼らの教えはある種の僕の基準になり続けると思います。
でもそれは、僕自身が勝手に感じていることであって、恩師と思われるようなそういう素晴らしい方々は、きっと僕を「育てた」なんて一切考えたこともないんだと思います。
スポーツトレーナー業界では、「選手を育てる」などという表現も頻繁に見かけますが、僕の場合はむしろ選手に「育ててもらっている」感覚の方が断然強い。
凄まじい努力を見せてもらったり、ケガに対する考え方を教えてもらったり、感謝する大切さを教えてもらったり、信頼関係の大切さに気付かせてもらったり。
それらは言葉や理屈では理解していたつもりのものでも、やはり人生かけて実践している方達には言葉以外の部分で教えられることが多いです。
その度に、本当に自分の人間性の未熟さに気付かされます。
だから、安易に「育てる」という表現を使うことには僕個人としては違和感を感じるのです。
もちろん人によってその言葉の定義や枠組みは違うので、使うことそのものを否定するつもりはありませんが、僕の場合はちょっと考えてしまいます。
言葉に固執するつもりはありませんが、使う言葉によって思考は形成されますし、思考によって言葉は形成されるということを考えると、やはり慎重になりたいところです。
(もちろん言葉が相手に与える影響も考える必要がありますしね)
人の成長は、自信を持ったら終わりと思っていますし、逆に自信がないと「育てる」という言葉は使えないのではないか、どうしてもそんな風に考えてしまうんです。
たぶん僕はこれからもずっと自信を持つことはないです。
常に不安と戦っています。
唯一これだけは負けないと思えるのは、人に関わる仕事をしている、選手の競技人生と向き合うという「覚悟」だけは持っているということです。
JARTA
中野 崇