よく誰かを「育てる」という言葉を耳にします。
スポーツトレーナーであれば、「選手を育てる」、「トレーナーを育てる」などなど…。






そもそも「人を育てる」とはどういうことなのか。




この言葉を聞くと、いつも考えてしまいます。

父が教師であり、自分自身も教育学部卒で3児の父親でもある僕は、常にこのことについてごく自然に考える生活をしてきました。

またJARTAというスポーツトレーナー育成・派遣機関を立ち上げた立場でもあります。





 

つまりのところ、わざわざ考えてきたというより、そのことを常に考え続ける必要に迫られる環境にあるのです。


 

 



 

ですので、これが答えだというものは多分これからいくつも見つけるでしょうし、同時に答えには一生たどり着けないんだと思ってます。

それだけ僕にとっては大きな課題であり、人を相手にする仕事をする上での責任だと思っています。


 

 


 

一つ、現時点で確実なことは、僕はまだ誰かを「育てる」という表現を使えるような人間ではないということ。

そしてそれはたぶん一生そうだと思います。


 

 


 

もちろん自分の子どもたちには素敵な人間に育ってほしいし、JARTAの認定トレーナーたちには選手に貢献できる最高のトレーナーに育ってもらいたいです。

しかし、それは「なってもらいたい」のであって、僕が「育てる」のとは全くもって同義ではない。





 

もちろん、僕自身は、「あの人に育ててもらった」という想いをもっている恩師はたくさんいます。

彼らの存在なしには今の自分は考えられない。

これからも彼らの教えはある種の僕の基準になり続けると思います。





 

でもそれは、僕自身が勝手に感じていることであって、恩師と思われるようなそういう素晴らしい方々は、きっと僕を「育てた」なんて一切考えたこともないんだと思います。

 




 

スポーツトレーナー業界では、「選手を育てる」などという表現も頻繁に見かけますが、僕の場合はむしろ選手に「育ててもらっている」感覚の方が断然強い。

凄まじい努力を見せてもらったり、ケガに対する考え方を教えてもらったり、感謝する大切さを教えてもらったり、信頼関係の大切さに気付かせてもらったり。



 

それらは言葉や理屈では理解していたつもりのものでも、やはり人生かけて実践している方達には言葉以外の部分で教えられることが多いです。

その度に、本当に自分の人間性の未熟さに気付かされます。





 

だから、安易に「育てる」という表現を使うことには僕個人としては違和感を感じるのです。

 

 


 

もちろん人によってその言葉の定義や枠組みは違うので、使うことそのものを否定するつもりはありませんが、僕の場合はちょっと考えてしまいます。




 

言葉に固執するつもりはありませんが、使う言葉によって思考は形成されますし、思考によって言葉は形成されるということを考えると、やはり慎重になりたいところです。

(もちろん言葉が相手に与える影響も考える必要がありますしね)





 

人の成長は、自信を持ったら終わりと思っていますし、逆に自信がないと「育てる」という言葉は使えないのではないか、どうしてもそんな風に考えてしまうんです。

たぶん僕はこれからもずっと自信を持つことはないです。

常に不安と戦っています。




 

 

 

 

 

唯一これだけは負けないと思えるのは、人に関わる仕事をしている、選手の競技人生と向き合うという「覚悟」だけは持っているということです。

 






 

 

 

 

 

JARTA
中野 崇