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読んだらすぐに忘れる

とりとめもない感想を備忘記録的に書いています。



東京創元社から長編が二冊でているコリン・ワトソン。あまり話題にならず、あっという間に忘れ去れた感じがする。『愚者たちの棺』の解説で海外ミステリ研究家の森英俊さんは、ワトソンという作家は英国ファルスミステリの分野においてエドマンド・クリスピンとR・D・ウィングフィールドをつなぐミッシング・リンクだと指摘している。確かに二冊とも読んだが、人をおちょくるような結末で楽しませる。個人的には女衒や硫酸風呂といったお下劣なネタでジョイス・ポーターをイメージした。(パーブライト警部はドーヴァー警部のようなアクの強い人物ではないけど)


創元推理文庫では「フラックスボロー」になっているが、論創社では「フラックス・バラ」になっている。“borough”は市や町を表す古語であり、古くからある「自治都市」を表している。「エジンバラ」を「エジンボロー」と言わないから、確かに「フラックス・バラ」がいいね。


架空の町フラックス・バラを舞台にヘンテコな事件の数々をパーブライト警部たちが捜査するシリーズは全部で十二作品ある。シリーズ四作目の『ロンリーハート・4122』は森英俊さんがワトソンの最高傑作と褒める逸品だ。シリーズのもう一人のキーパーソン、ミス・ティータイムが初登場する作品でもある。


フラックス・バラで独身の中年女性が二人、貯金をおろしたり、資産を売って失踪する事件が発生する。パーブライト警部は失踪した女性の家で結婚相談所<ハンドクラスプ・クラブ>への小切手控えと結婚を約束する男性からの手紙を見つける。女性は結婚相談所の会員となり、ある男性とお付き合いしようと文通をしていたと思われる。そして、もう一人の失踪した女性も結婚相談所で知りあった男性と結婚する話を友人にしていた。ふたりの付き合っていた男は同一人物ではないか? そして金を騙し取られた挙げ句始末されたのでは? 謎の男を追いパーブライト警部たちは、結婚相談所<ハンドクラスプ・クラブ>を訪れ、数名の男性会員の名前を手に入れる。


一方で、フラックス・バラに一人の女性がロンドンからやってくる。ルシーラ・ティータイムは、新聞で<ハンドクラスプ・クラブ>の広告を見つけ、結婚相談所の門を叩き、男性会員の一人「ロンリーハート4122」と文通を始め、デートを始めるようになる。甘美な未来と薔薇色のロマンスを夢見るふたり。話はトントン拍子に進む。


パーブライト警部はミス・ティータイムが次のターゲットになるのではないかと考え、秘密裏に彼女を泳がせ犯人にたどり着こうと画策するのだが、事件は警部もロンリーハート4122も予期せぬ方向に転がっていく。


事件らしい事件があるのかどうかわからないまま、物語はあっという間に肥溜め(いやこれマジで)に向かってドボンだ。正直なところ何が「高度な技法」なのかは分からない。4桁と3桁の違いなどは標準的な伏線だし・・・。もしかしたら原文のニュアンスが絶妙なのかもしれない(訳者が点線つけている箇所とかかな?)。かなり悪辣な詐欺で、おそらく肥溜めに死体があるのかなと思うと陰惨な事件だ。しかし、それを一転させるのがミス・ティータイムだ。50歳過ぎて、白髪で身のこなしにキレよいこの女傑は、どうやらコンフィデンスマンのようなので、今回の犯人をおちょくるためにフラックス・バラに来たのかな・・・と思ったりもする。


翻訳の機会があるとすれば、これまたおバカな匂いが漂う『The Flaxborough Crab(フラックスバラの蟹)』を読んでみたい。論創社に期待しよう。



北欧ミステリはスリルも謎解きもあって楽しいのだが、血腥い話が多いような気がする。バイキングの荒ぶる血が現代のスリラー作家たちにそうさせるのか(なんて書くと差別だとか言われそう・・・)、スカンジナビア半島には個性的なシリアルキラーが跋扈する。デンマークに現れたのは「チェスナットマン」。本作は2020年バリー賞新人賞を受賞した。



コペンハーゲンの美しい紅葉に囲まれた秋の運動場で、片手を切断された若い母親の遺体が発見される。被害者はシングルマザーで、婚約中の恋人と同居しているごく普通の女性だった。現場には犯人の痕跡がなにもなく、手がかりはほぼ皆無だが、ただひとつ、遺体のそばに栗の実で作られた小さな人形“チェスナットマン”が残されていた。その人形からは、一年前に誘拐され、バラバラに遺棄された少女クリスティーネの指紋が検出される。少女の母親ローサ・ハートンが現職大臣だったことから警察の威信をかけた捜査が行なわれ、逮捕された男は殺害を自供、有罪判決を受け、精神病棟に収監されていた。
そして、休職していたローサが大臣に復職した頃から殺人が起こり、彼女を人殺しと糾弾する脅迫と嫌がらせがはじまる。過去の事件と現在の事件には繋がりがあるのか? 犯人の目的は何なのか? そしてクリスティーネはまだ生きているのか? 手がかりの少ない状況、政治的な思惑がからみなかなか前に進まない捜査を嘲笑うかのように犯人は子持ちの母親を殺し続け、刑事まで殺し、栗人形を置いていく。


事件を捜査するのは、コペンハーゲン警察重大犯罪課の男女のペア。トゥリーンは、幼い娘と暮らすシングルマザー。頭は切れるが、古い考えかたの上司や同僚に煙たがられる。そんな職場に嫌気がさし、花形のサイバー犯罪課への転属を願っている。相棒のヘスは、優秀だがユーロポールの上司の不好を買い、古巣に出戻ってきた捜査官。ユーロポールに返り咲く事しか考えていない。最初からまったく反りが合わない二人だが、ぶつかりながら事件解決を目指す。


600ページ近くあるが、スルスルと素麺を啜るように読めてしまう。テレビ脚本家だからか、場面転換やツカミが抜群に上手い。ジェフリー・ディーヴァーの太鼓判も納得。メインの猟奇殺人事件とサブの新たな誘拐事件が巧みにからみ、事件がモヤモヤっとした幕切れになるのだが、トゥリーンとヘスがそれぞれ独自に新たな手がかりを発見、捜査を単独で再開し、意外な犯人へ迫っていく件は、畳み掛けるような展開でワクワクする。特に栗の種類の手がかりは上手いと思った。終盤の無慈悲な仕打ちとアクションもいい。北欧ミステリの雄ジョー・ネスボの『スノーマン』を彷彿とさせる。


ドラマ『キリング』の脚本を手掛けたセーアン・スヴァイストロプの作家としてのこれからの活躍が楽しみだ。Netflixでドラマの方もエピソード6で完結している。


軍人、美大生、編集者、作家という異色の経歴の持ち主チャールズ・ウィルフォード。本作はそんなウィルフォードの異色のキャリアによって結実したアートノワールの傑作。芸術にまつわる高尚な内容、哲学的で根源的な話が中心で、最後に俗なミステリになる。当時何も知らないで読み始めた人は、不在の画家に捧げられた献辞とゴルギアスの引用でキョトンとしたのではないかと思う。この引用は物語の重要なコンセプトになっている。

何も存在しない。                   
何が存在するとしても、それは理解できない。             何かが理解きるとしても、それは伝達できないだろう。

新進気鋭の美術評論家ジェームズ・フィゲラスは弁護士で美術コレクターであるキャシディから衝撃的な話とある取引をもちかけられる。
キャシディは20世紀モダン・アート界の伝説、最重要の画家ジャック・ドゥビエリューが今フロリダに住んでいると打ち明ける。
フランス人画家ドゥビエリューはもとは額縁職人であり、画家に転進後1925年に後世まで語り継がれる画期的な個展を開いた後、火災により作品を全て失い隠遁生活に入る。姿も新作も誰も見たことがない幻の巨人が自分のすぐ近くに住んでいると知り興奮するフィゲラス。
キャシディはフィゲラスを画家を引き合わせ、今までどの美術評論家もしたことがないインタビューができる見返りに、ドゥビエリューが描いているならどんなものでもいいから、一点盗み出して欲しいと頼む。
有頂天のフィゲラスは、快諾。しかし、ドゥビエリューとの出合いは「アート」の意味を揺るがし、赤茶けたオレンジに染まった一枚の絵画が彼に栄光と破滅をもたらすことになる。


チェスタトンのブラウン神父譚の一つ「青い十字架」に

「犯人は創造的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎぬのさ」

という有名な一節がある。
本書ではこれに真っ向から異を唱える展開をみせる。芸術家ドゥビエリューと批評家フィゲラスは、存在しないものを守るために奇妙な共犯関係を築くのだ。ドゥビエリューにとってフィゲラスは自分の芸術を具現する最適な人物だし、フィゲラスは偉大な伝説を守るために、放火や殺人までする。


巻頭のゴルギアスの引用からすでに物語の核心を表しているから心憎い。この引用はゴルギアスの『非存在について』に書かれていたものとされている。しかし、このテクストは失われたもので、他の本に引用されていたから存在しただろうとした推測されるだけ。本当にゴルギアスが言ったかどうか分からないが、ゴルギアスが語ったものとして現在も残っている。


考えてみれば、私達の世界はお金にしても、国にしても不確かなものの上に成りたっていると言っても過言ではない。存在すると思って生活しているがある日、突然に存在しないものになってしまうかもしれない。逆に存在しないのに多くの人が「存在する」ものとして共有すれば存在してしまうのだ。そんな世界の深層を軽やかにミステリに落とし込むウィルフォードのセンスが凄い。


『炎に消えた名画』も日本未公開だが2019年に映画化された。ちょっと観てみたい。


時代小説の「情」と謎解きミステリの「理」がブレンドされた逸品。本作はホワイダニットを中心にフーダニットの面白さも備えた作品になっている。


海と山がある小藩、橋倉藩は藩主が二人いる独特な藩だった。中興の祖、四代目藩主、岩杉重明から百十八年続く、本家と分家の藩主交代制は派閥の対立を招き、藩を二分しかねないものだったが、名もなき官吏たちによって、なんとかバランスを保ち続け江戸中期まで続いてきた。なかでも長沢圭史と団藤匠の二人の近習目付の時代、長期にわたり国政を安定させる基礎をつくる。
藩内の伝説として語り継がれる重明が不埒な門閥家臣たちを満開の花見の席で一人残らず誅した御成敗事件。その時活躍した家来「鉢花衆」の子孫である長沢と団藤は、衝突しようとする両派閥に睨みをきかせ、その威光と信頼によって両派閥が協力して国造りをする仕組みつくりに尽力した。
そして分家の次期藩主の急逝。分家の八七歳の重鎮、岩杉重政が次期以後も本家に藩主の座を渡すことを宣言し、百十八年にわたりつづいた藩主交代制が終わる。
長らく二つの派閥に割れていた藩が一つになり、平和という春が橋倉藩に訪れようとしていた。二九歳という異例の若さで重職ついた長沢と団藤はともに齢六七歳。引退し、次の世代に託すことができると喜んでいた矢先、藩主を一つにする英断を下した岩杉重政が、何者かに暗殺される大事件が起きる。身体の衰えから先に隠居していた長沢も陰ながら独自に探索を開始するが、それは単なる下手人探しにとどまらず、自分のルーツ、宿命を知ることになる。


この世の万物は常に変化して、しばらくもとどまるものはない。連綿と続いているものは多くの人たちが、不断の努力と強い崇高な意志でそれを守ってきたからだ。しかし、ずっと続いてきたものが時代に移ろいによって、当初の目的と合わなくなることがある。
本書は長く続いて来たもの守ることの理不尽に悩み、犠牲になる不器用な生き方しかできなかった男たちの悲哀の物語だ。青山さんは時代小説を書くことについて以下のコメントをしている。

「生きてる我々が理不尽を含めた周りの変化にもがく姿を書きたい。さもないと、時代小説は単なる昔話になってしまいます。(中略)時代が遠いほうが読者の鎧が薄くなるのでは。現代の話だとここが違う、あれも違うと、違いばかり気になるけれど、昔の話だと自分と遠い分、近さの方が浮き彫りになる。」

人情の話は時代小説の方が面白いと感じていたが、なるほど、遠近法によりリアルに浮かび上がらせていたんだなと納得した。


また、ミステリ読みの私は作者の抜群のミステリセンスに感服している。暗殺される理由もない人物がなぜ殺されたのかありそうな動機を潰していく捜査過程も面白いし、意外な動機が明らかになるラストも素晴らしい。しかし、なによりもいいのが伏線の巧妙さだ。
かつて瀬戸川猛資がP・D・ジェイムズの作品を「伏線の美学」と称賛していたが、青山文平の時代小説にもそれがみられる。終盤の犯人が語る犯行動機を読んだ時、作者の用意した伏線の上手さに舌を巻く。身分も立場も違う人物の理不尽なエピソードが繋がる点、ある場所からの見える風景の意味、漠然と描かれていた親近感など実に巧み。



著者のS・A・コスビーの写真を見ると、レスリングをしていたそうでかなりイカついおっさんだ。




葬儀屋で働いている(いまは作家専業になったようだ)というのも風貌に箔をつけて、大変失礼だが、堅気の人にはあまり見えない。しかし、その筆致は風貌からは想像できないほど叙情があり繊細。アクションも惚れ惚れするほど詩的でかっこいい。直喩も的確で楽しく、頭に映像が流れるように再現される。



2019年のデビューし、ルヘインやモズリイといった一流作家の激賞を受け、徐々に人気が高まり本書で2021年アンソニー賞、マカヴィティ賞、バリーと有名ミステリ賞を3冠とる。疾走感のあるカーアクション、悪党パーカーシリーズなどの強奪小説の知的興奮、悲しき別れに至る寂寥感と色々詰め合わせた犯罪小説の逸品だ。


南部の田舎町で自動車修理工場を営むボーレガードは、金に困っていた。大手整備工場の出現で経営が傾き、資金がショートしかかっていた。借入金の返済、前妻との子供の養育費、母親の介護施設への支払問題を抱え、金策に走る。そんな、彼には別の顔があった。
裏社会で語り継がれる伝説の走り屋だった父親から譲り受けたダスターを操り、ボーレガードもまた神業ドライバーとなり、違法なしのぎで生計をたてていた。しかし、家族を守るため裏稼業から足を洗い、まっとうに暮らしていたのだが、堅気の世界も楽ではない。
追い詰められたボーレガードは背に腹は代えられず、強盗を生業にするクズ白人が持ちかけた宝石強盗の話にのってしまう。なんとか宝石強奪し警察から逃げ切るのだが、実行犯が人殺しをしたため一生警察に追われるハメになる。しかし、警察よりも恐ろしい暴力と死の嵐がボーレガードと家族に迫ってくる。


どぶどろの人生からの一発逆転を夢見るアウトローたちが強奪計画を実行、思いもよらぬ失敗、生き残るために必死に足掻き、やがて破滅する。まさしくノワールのお手本のような物語だ。それがアメリカ南部の人種、階級、性別の因習と結びつくとサザンノワールが出来上がる。


父親と同じにはなるまいと心に誓いながらも、ダスターを手放すことが出来ないボーレガードは宿命的に父親と同じように家族を捨てて黒き荒野へと踏み出すことになる。父親の形見でもあるダスターのスピードと力の万能感が、閉塞した世界から別の世界に連れて行ってくれると幻想を抱いているようにも思える。しかし、現実はうまくいかない。
才能はあるのに出自、肌の色、貧困、血の因縁の為に諦めざるを得ないことが多い。そんな因縁に抗い、ボーレガードはエンジン全開で振り払おうとするが、かえって大切な人たちを犯罪に巻き込み取り返しがつかなくなる。ちょっと湿っぽく残酷なラストに胸がしめつけられる。



男の嫉妬の見本市だった短編集『半席』は、自分の家を半席の旗本から御目見以上の真の旗本にするために、小役人の徒目付に励んでいていた実直な青年、片岡直人が上役の徒目付頭、内藤からの頼まれ御用をこなし、成長する時代小説だった。
秘めた想いをもつ事件関係者や得体のしれない浪人、沢田源内と接するうちに直人は、本当の自分の「励み場」をみつける。時代小説である一方で、事件の裏に隠れている意外な動機を穿り出し、上辺からは想像できない人の心を絵解きする内容だったので、各ミステリランキングにも登場した。

『泳ぐ者』はそんな片岡直人が再登場する長編だ。自分の生きる道を決めた青年が二つの事件に翻弄される。手痛い失敗を経験し、心身ともに弱るのだが、それを乗り越えていく。


内藤不在の時、直人にある御用が持ち込まれる。
三年半も前に離縁された女、菊枝はなぜ今になって、余命幾許もない病床の前夫を刺殺したのか? 熟年夫婦の奇怪な事件に直人は、水も漏らさぬ聞き取りを行い、動機を見抜いたと確信。牢獄にいる菊枝にその推理をぶつけるが、彼女は突き放すような発言をした翌日、縊死してしまう。
菊枝の死で完全に自信を無くした直人は、体調を崩すほどになってしまう。このまま徒目付をやめてしまおうかと悩む矢先に、内藤から海防の御用に行くかと尋ねられる。己の進むべき道に悩むある日、大川橋で泳ぐ男を見かける。毎日決まった時刻に冷たい大川を不恰好に必死で泳ぐその姿に事件の予兆を感じた直人は泳ぐ男、簑吉を問いただすと泳ぎは単なる願掛けで、あと二日で辞めるという。人好きがする男に半ば安心したのだが、満願前に直人の目の前で簑吉は意味不明なことをわめく御徒に斬り殺される。自分が泳ぎを止めていれば最悪の事態は起こらずに済んだのではないか、悔やむ直人だったがどうしても解せないことがあった。それは殺される前、簑吉がなぜか謎めいた笑みを浮かべていたことだった。死んだ簑吉の為に「なぜ」を追い始める直人だったが、やがて想像もしなかった「鬼」、さらに笑みの奥底に秘められた「闇」をみることになる。


平伏です。
人情と刃傷のあいだをホワイダニットで結びつけ、事件の様相を鮮やかに反転させるミステリセンスの素晴らしさ。沢田源内と比丘尼の話のようなサイドストーリーの充実ぶり。物語も本筋とは関係のない海防の話から始まるところも、また上手い。


家族、社会、国といった人の営みが長く続くと、知らず知らずに歪みが生じる。人の心の機微を「なぜ」と追求することは、歪みを正すことにも繋る。もし菊枝の心情を夫が少しでも疑問に持てば、家族はそのままだったかもしれない。御徒の間で日常茶飯に行われていた水練のイジメの異常さに疑問を持たれていたら悲惨な事件はなかったかもしれない。他者の心を考えること、関心をもつことは徒目付にかぎらず社会の中で他者と関わって生きる上で重要な能力だ。その大切さをミステリとして描く青山さんの手腕は感心するばかり。



実は写真集『張り込み日記』は三つある。
一つはオリジナルプリントを収録したフランスの『A Criminal Investigation』。二つ目は日本で保管されていたオリジナルネガをプリントし再構成した『張り込み日記』。
そして、ナナロク社版。こちらはお求めやすいお値段で手に入る。
しかも、文や構成に乙一さん、ブックデザインに祖父江慎さんを迎え、写真の構成を「物語」として編集している。その際、乙一さんはちょっとした「トリック」を仕掛けている。


昭和33年1月13日、茨城県水戸市、千波湖で男のバラバラ死体が発見される。
被害者は東京から来た人物と推定され、茨城県警と警視庁捜査一課で合同捜査本部が設けられた。
写真は、警視庁のベテラン向田刑事と彼の相棒となった茨城県警の若手刑事、緑川の姿を追った20日間ほどの写真家による張込の記録である。そもそも民間人が刑事の捜査を間近で撮影できたことも不思議な感じだ。今じゃ出来ないんじゃないだろうか? そういう意味では貴重な写真だ。


表紙の男が向田刑事だが、実に味のある刑事さんだ。笑顔が素敵で、捜査の途中で笑顔でこどもと遊んでみたり、
お茶目な一面をみせつつ、捜査となるや目つき、顔つきがギロッと変わる。
張込んだ渡部雄吉さんは向田さんの捜査を自然に捕らえていて驚く。カメラ目線になっている写真が少ないのだ。目立たないように細心の注意を払っていたのだろうと想像できる。唯一、印象的なカメラ目線は明らかに苛立った目をしていて、捜査の重大局面、または行き詰まりの時にパシャリとやられた感じで「なに撮ってんだ、この野郎!」と見ているこちらが言われているようでドキッとする。


昭和の雰囲気もまたいい。
歩きたばこ、咥えたばこ、捜査本部ではもう煙モクモクで相手の顔も良く見えない状態。今では考えられない。
当時としては単なる日常がもはや立派なフィルムノワールの世界になっている。
そんな大人な世界なのに、ピンバッチは今の厳ついデザインではなく可愛らしい桜の花びら。ギャップがすごい。


さて、最後にネタばらしという程ではないけど「トリック」について。
この写真集を支える短い文章を乙一さんが書いている。文章と写真を読むと事件が無事解決したことを読者は知ることになるのだが、実際は渡部雄吉さんが撮影した時点では、事件は解決しておらず、数カ月先のことだった。
撮られた写真に事件解決の写真はないが、あたかも解決できたような風に編集している。これは一種の叙述トリックにも似た仕掛けで、あとがきを読んで思わず「おっ」と言ってしまった。

人を寄せ付けない極地の荒々しい自然の力と人間のダークサイドな力に晒される若き医師が生き残りをかけて、何者かに変貌を遂げていくサバイバル・サスペンス。


19世紀半ば、英国。時代は鯨油から石油に代わろうとしている転換期。捕鯨船ヴォランティア号は鯨を捕まえるために曲者揃いの荒くれを乗せて、出港する。
乗組員は、かつて航海で大勢の船員を犠牲にした船長ブラウンリー、デリーの戦いを経験しアヘン中毒となった船医サムナー、他人の物を横取りしようと虎視眈々とうかがう一等航海士キャヴェンディッシュ、凶暴な銛打ちのドラックスらと曲者揃い。順調に捕鯨しているなか、サムナーはある少年給仕を診察すると強姦された跡を認める。被害者の少年は誰が犯人か言わず、船長も騒ぎを大きくしないために、事故という形で有耶無耶にする。しかし数日後、当の少年が首を絞められ無残に貯蔵樽に押し込めらた状態で発見される。
殺人事件以外にもヴォランティア号にはある思惑が働いており、やがて乗組員たち全員を過酷な状況に追いやっていく。


なかなか読みごたえ満点。人間同士の衝突もさることながら、白熊や吹雪との格闘などぞわぞわしながら読んだ。
殺人事件の犯人は、既に読者には明かされているので、謎解きの楽しみはない。ドラックスはスケープゴートまで用意して、逃げ切ろうとするのだが、若き医師サムナーは犯人を問い詰める。おぞましい「動かぬ証拠」を突き付けられたドラックスはルール無視の場外乱闘に持ち込む。囚われの身でありながらも、いざ「文明」の外では獣が有利。「文明」に寄りかかった乗組員たちは途方にくれ、終りの時を待つのだが、サムナーだけは違う行動をとりはじめる。


読んでいて、一番作風が似ているなと思ったのは、大藪春彦や船戸与一。
とくに船戸作品にはちょっとはみ出し者だが、いたって普通の人間が、過酷な運命を通して「怪物」へと成長する物語が多いが、サムナーもその類のキャラクターだ。怪物ではないが、登場時とは異なる強かな人間へと変貌する。「社会」からドロップアウトしたサムナーは、自分探しの旅で捕鯨船に乗り込むが、結果、エスキモーたちも一目置く立派な「魔法使い」となる。何物にも縛られない何者でもない男は、最後にある企みでドラックスと対決するはめになり、さらに獣性を開花させていく。


怖気をふるう血と暴力の熱量、生死を見つめる不思議な解放感を味える中盤から、寂寥の終盤までぐいぐい引き込まれた。イギリスで権威ある文学賞、ブッカー賞のロングリストにも挙げられたようで、こういう本を読むと、なんだか仕事をほっぽりだして旅に出たいような気分になる。

かつて書店の児童書コーナーで息子が「テンテンゴー、テンテンゴー」とハイテンションで手放さなかった絵本で、仕方なく購入。しかし、読んでみると、ある有名なマザーグースのパロディになっており大人でも楽しめた。


本書には小さなかわいらしいてんとう虫のおもちゃが10匹くっついており、触ることができる。しかし、このかわいらしいてんとう虫がページをめくるごとに減っていくのである。

てんとうむし 10ぴき おきだしてくると、

ちょうちょがやってきて 1ぴき きえた・・・・・・。

てんとうむし 9ひき はっぱを たべていると、

いもむしが やってきて 1ぴき きえた・・・・・・。

てんとうむし 8ひき あそんでいると、

ことりが やってきて 1ぴき きえた・・・・・・。

こどもにはこの感触が楽しいみたいで、飽きずに触りまくる。一匹一匹減っていくてんとう虫にサスペンスを感じるようになるにはもう少し時間がいるようだ。


英タイトルTen little ladybugs。つまり、Ten little Indiansのパロディになっている。ミステリ読みにとっては大変有名なマザーグースの一編なので、我が子ながら本選びにセンスの良さを感じた(親バカ)。


てんとう虫は日本でも海外でも縁起のいい虫として扱われている。英語のladyは聖母マリアのことを指し「聖母の虫」という意味をもっているようだ。小さく弱い昆虫なのに自然界では天敵がほとんどいない。理由は超不味いから。


危険を感じたてんとう虫は、関節から有毒のアルカロイドを含む苦い汁をだす。鳥や爬虫類は、それを経験上知っている。だから、不味いてんとう虫をわざわざ食べることはしない。てんとう虫は「不味い虫がここにいるよ」とあえてアピールすることで、食べられないようにしているらしい。


ということは、10匹のてんとうむしは? そーいうことです。安心してください。


御手洗潔シリーズの新作。本屋で見かけて懐かしくなったので、久しぶりに手にとってみた。



世界中で人気を博すバレリーナ、フランチェスカ・クレスパン。強制収容で生まれ、旧ソ連、東ドイツで苦しい生活を送った後、西側に亡命。類まれなるバレーの技量と世界有数の大富豪に見初められたことで、世界的に認知されどん底から大成功する。しかし、彼女はニューヨークで波乱に満ちた生涯を終える。
1977年10月、ニューヨークの地上50階の高層ビルにある劇場デシマルシアターで上演された「スカボロゥの祭り」でプリマを務めていたクレスパンは、二幕と三幕の間の休憩時間の最中、専用の控室で撲殺される。
控室の廊下にはガードマンがいて、クレスパン以外に出入りしたものはいないと証言。控室に隠し通路はなく、窓ははめ殺しで高層ビルの外から侵入することも考えられないので密室殺人の様相を呈する。
さらに不可解な事が明らかになる。
検死の結果、クレスパンは即死だったと断定されるのだが、ダンサー、指揮者、演出家、スタッフ、観客たちは彼女が三幕以降も舞台に立ち、最後まで踊り続けていたと言う。
不可能な状況に頭を抱えるニューヨーク市警は廊下にいたガードマンが嘘をついていると決め、逮捕する。しかし、彼は逮捕後も頑なに証言を変えなかった。
そして事件から20年後、ストックホルムにいる御手洗潔は友人のジャーナリスト、シュタインオルト からクレスパン事件の話を聞き、謎解きに挑むことになる。


正直、内容に既視感はある。新味は感じない。が、こういう大作を御年74歳で書けるのが凄い。
岡嶋二人『そして扉が閉ざされた』の解説のためにシマソーが書いた「本格探偵小説論」で、「本格ミステリー」と「本格推理」のアプローチの違いを説明するため例として挙げた「死んでも踊り続けるバレリーナ」という謎が元ネタになっている。
その例題に密室トリックやあれこれを追加して膨らませたのが本書だ。
シマソーはトリックが豪快な「絵」になる作品が多いが、本書もやはり豪快だ。同じくニューヨークを舞台にした『摩天楼が怪人』の「ライオン通り」と似ている。ちなみに『摩天楼が怪人』の単行本にはご丁寧に綺麗な挿絵を挟んでくれていたが、本書にも挿絵が欲しかった。



「死んでも踊り続けるバレリーナ」のネタ自体は300ページくらいの長編ミステリ向けのように思うが、作中のファンタジー作品「スカボロゥの祭り」、本筋とは直接関係ないニューヨークで起きた強盗事件と不思議な事件のエピソードなどぶち込んで、いつも通りコテコテにデコレーションするから倍以上の長さになっている。
しかし、物語に引込む力があるのは流石で、長さはあまり気にならなかった。



逆に気になったのは、シマソー特有の「鼻につく」文明論とか文化論が、むかしに比べてさらにきつくなっていること。はっきり言えばローズマリー香りが消し飛ぶ異臭だ。
日ユ同祖論、ディープステートがコロナウィルスを遺伝子操作した兵器をつくったり、ウクライナ戦争をひきおこそうとしているなど陰謀論をからめてくる。そして犯人がディープステイトの構成員の一人で、名探偵、御手洗によって退治される構図。
おとぎ話とはいえ、なんともはや・・・。それも含めてシマソーの味なんだろうが、ちょっと辟易する。アメリカ大統領選挙時のシマソーのコメントが話題になっていたが、ちょっとコンスピラシー沼にハマりすぎじゃーあーりません