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読んだらすぐに忘れる

とりとめもない感想を備忘記録的に書いています。



週刊文春連載の全66篇のエッセイがまとまると結構な分量だ。思っていた以上に厚いので、驚いた。(そういえば、クンデラがお亡くなりなったそうですね)



小学生の頃「エロティカ・セブン」を聞いて、ファンになった。ライブも行けるなら行くようにしている。特に5年毎のアニバーサリーは30周年から欠かさないようにしている。サザンや桑田佳祐のファンでよかったなと思うのは、色々なジャンルの音楽を知るきっかけになったこと。桑田佳祐が好きだという昔の歌謡曲やフォークソング、ロックやジャズは、聴くうちに好きになった。音楽寅さん、夷撫悶汰のレイト・ショー、ひとり紅白歌合戦なんかはたまに録画やDVDを見返したりする。美空ひばり「車屋さん」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、浅川マキ「かもめ」、丸山明宏「ヨイトマケの唄」、ちあきなおみ「喝采」のような名曲も桑田さんを通して知った。今、10代、20代で昭和歌謡が流行っているようだが、分かる気がする。いいものは何度も復活する。「やさしい夜遊び」のオープニングのジングルは昔ピンク・フロイドの「原子心母」だったことから有名どころのプログレも聞いたりした。社会人になってからオジサンたちとカラオケに行っても困ることがなかったというオマケもあった。


サザンや桑田佳祐のライブを行ったこと、観たことある人なら知っていると思うが、この人は本当に「ありがとう」と感謝の言葉を連発する。ファン、スタッフ、メンバーへとにかく感謝しまくる。いまや大御所の域に入っているのに、自分はただ周りに支えられ、運良くここまで来る事ができたと語る人柄の良さが多くの人を惹き付けるのだろう。このエッセイでも感謝の言葉が頻繁にでてくる。


当時御年64歳のミュージシャンは「頭もアソコも元気なうちに、言いたい事を言っておきたい!」と週刊文春に心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくる。語り口や()の中の独り言、合いの手、ツッコミは土曜日の夜に流れる「やさしい夜遊び」を聴く感覚だ。実際に「やさしい夜遊び」で語った内容も含まれている。いい話や真面目な話のあとに「マンピーヅラ」をつけたライブ写真載っけるあたりも桑田さんらしい。
子供時代の音楽の思い出、作詞作曲の秘密、趣味のボーリング、家族や友人たちとの一コマ、内側からみた芸能史、音楽史が面白い。最終回の生涯現役宣言は嬉しい限り。



いままでファンクラブに入らずにいたが、あと何回この人たちのパフォーマンスが見れるのか、わからないので、満を持してSASファンクラブに入会。

そして今日、家族でここにいます。


中秋の名月はすぎたけれど、月も綺麗で最高の空間だった。次の、さらに次のアニバーサリーでまたお会いしましょう。
日本の作家で追いかけたいと思う作家はあまりいないのだが、柚月裕子さんの作品は久しぶりに追いかけてみようかなと思っている。
本書は、元検事の刑事弁護士、佐方貞人が主人公の一連のシリーズの一番最初の本。
陶芸教室で知り合った男女が、ホテルで一夜を共にする際、痴情のもつれで男が女を刺し殺す事件が発生。男は建設会社の社長で、女は人妻というスキャンダラスな事件の弁護を引き受けることになった見た目は冴えない刑事弁護士、佐方は、圧倒的に不利な被告人の為に事件の背後を調べていくと、不倫殺人の裏側にあった意外な事件を見つける。
しかし、状況は圧倒的に不利で、検察は余裕で有罪を勝ち取れそうな流れ。しかし、最終弁論で佐方は意外な「最後の証人」を連れてくる。


物語は、公判と被害者側の視点を交互に描かれるので何となく復讐の話だと読者には、分かる様になっている。
一見するとくたびれた中年男、佐方は古巣の隠蔽体質が気に食わず「正義」をまっとうするために弁護士に転身した信念と気骨の人だ。罪悪がまっとうに裁かれず、被害者が報われないと感じる佐方は、過ちが連鎖することを知っている。事件の発端となった飲酒死亡事故隠蔽を証言するように「最後の証人」を再三にわたり説得する。佐方は、過ちは正せばとりもどせるが、過ちを隠し重ね続けると罪を背負う生き方を選ぶことになると忠告する。その忠告は、復讐者にも向けられる。


読んでいて、ビル・S・バリンジャーの復讐ミステリの名作が思い浮かんだ。プロットも内容も似ているので、おそらく柚月さんは、おそらく某作品を下敷きにしていると思う。
バリンジャーは復讐者の成功を描いているが、もし復讐者の計画が第三者にばれたとすると、どうなるかという発想があったかもしれない。ミステリの趣向やケレンはバリンジャーに劣るが、ドラマの盛り上がりはバリンジャーより『最後の証人』の方がいいように思う。

エイドリアン・マッキンティは、こういうスピード感のあるサスペンスも書くのかと、芸風の広さに感心した。物語の舞台はイギリスではなくアメリカ、ボストン郊外。心身ともに満身創痍のシングルマザーが、巨悪に果敢に立ち向かう内容からかデニス・ルヘインも太鼓判を押している。


 

 

 


シングルマザーのレイチェルは、乳ガン手術を終え、低賃金の不安定な仕事から哲学の教員職につける矢先、ガンの再発と娘のカイリーが誘拐されたことを告げらる。犯人の要求は、身代金2万5千ドルのビットコインでの振り込みと自分で次の子供を誘拐すること。できない場合は娘は死に、警察関係者に通報した場合は親子共々「ザ・チェイン」に始末されるという。

そして、カイリーを誘拐した誘拐犯たちも「ザ・チェイン」という誘拐システムに組み込まれてしまった哀れな被害者だった。レイチェルは自分が最悪の犯罪に手を染めることに悶えながらも、娘の命のため元夫の兄ピートの助けを借りながら危険な任務を遂行していく。今までの誘拐ミステリとはひと味ちがう斬新なビジネスモデル、スリリングで終盤ではアクション増し増しの内容で読む手が止まらなくなる。まず、素晴らしいのはその斬新なモデルだろうか。被害者が音をあげない程度の身代金を払わせた上で、被害者を積極的に犯罪行為に関わらせ、抜き差しならない状況に追い込むことで沈黙を担保する。沈黙を破れば悲惨な目にあうことも十分に思い知らせることで、黒幕の労力を最小限にし「ザ・チェイン」のシステムが回る限り金が入り続ける。

この悪魔のシステムに従順になり、レイチェルは無事に娘を取り戻すのだが、物語は終わらない。情緒不安定になっいく娘を見かねて、死を間近に感じる母親は諸悪の根源である「ザ・チェイン」をぶっ潰すことを決意する。



ミステリは時代を映す鏡なんて言われることもあるが、正に『ザ・チェイン』は最先端だ。解説の杉江松恋さんも以下のように書いている。



「強者が弱者を蹂躙する、最も卑劣な犯罪を(略)社会全体に敷衍可能な暗喩として読者の胸に刻みつけた」



『ザ・チェイン』はメタファーに溢れている。”Chain”という単語には鎖から転じて「拘束」や「連鎖」を示す。強者が弱者を誘導し、がんじがらめにして搾り取る様は貧困ビジネスの様に似ているし、弱者の犠牲の上で成り立つ一握りの人間だけが豊かな社会もこの悪辣なシステムと変わりない。

しかし”Chain”には「絆」という意味も含まれる。家族の絆を悪用し、悪意と恐怖で被害者を縛り上げる「ザ・チェイン」は、被害者たち、家族によって結ばれた信頼と絆の鎖によって断たれることになる。上手いねぇ。


デニス・ルヘインはどんなジャンルを書いても「ルヘインの小説」になる。本書もあらすじだけ読めば、ポーラ・ホーキンズなどその筋の女流ミステリ作家が得意とする巻き込まれヒロインのニューロティックスリラーの雰囲気を漂わせるが、最終的には紛うことない「ルヘインの小説」になっている。





物語は三部構成になっている。

第一部は、己のルーツを探る旅の物語である。

父親を知らないヒロイン、レイチェルは自分の出生に悩み、成長していく。知的ではあったが、母親は決して父親の存在を明かさず、女手一つでレイチェルを育ててきた。彼女はなぜ父親の存在を語らないのか、その事について喧嘩も絶えなかったが、母の死を契機にレイチェルは自分の父親を捜し始める。

最初は探偵に依頼するも手がかりがなさ過ぎて断念、しかしジャーナリストとなり顔が広くなったことで、当時、母親が付き合っていた男性を見つけ出す。しかし、すでに別の家庭をもっている男性は血のつながりのない「父親」であること知る。ようやく誰かと「つながり」を持てることを期待していたレイチェルは失望するも、あたらしい「父親」とは友人のような関係になり、また結婚を通して、落ち着きを得るのだが、「父親」が脳梗塞で倒れ、過酷な取材現場に足を運ぶうちに死と隣り合わせになることで、もともとのパニック障害に拍車がかかり、築き上げた地位も結婚生活も失ってしまう。




ここで描かれるレイチェルの孤独は、ルヘイン作品によく描かれるものだ。孤独に陥れることで絶望させ自死に至らしめる作品もあるくらいだ。レイチェルも不安定な状態であったが、昔からの知りあいであった探偵ブライアン・ドラクロワと再会、再婚することで居場所と心の平安を得る。しかし、読者は彼女がプロローグで夫を撃っているのを知っている。




第二部は幸せな夫婦となったのになぜ、レイチェルは夫を銃で撃つことになったのか。そして、第三部は、さらにレイチェルを「夜の世界」へと誘う危険が迫る。

引きこもりやパニック障害なんて起こしている暇はレイチェルにはない、しっかり目を開いて行動しないとすぐ死んでしまう。面白いことに、この異常な状況で彼女は生気を取り戻すのだ。




敵を倒したレイチェルは、その敵に「がんばれ」と励まされ「夜の世界」へと旅立つ。自分の人生を誰かの掌の上で転がされてきた彼女が、危険であっても自分の足で茨の道を歩く決意するラストの文章に心打たれる。



「世界に残っているのが夜だけで、そこから這い出る方法がなかったとしたら? そのときには、夜とともだちになろう。」



映画化の話は全然進んでいないようだが、そうこうするうちに2023年、待望の新作"small mercies"が出た。翻訳は来年だろうか。楽しみでしかたがない。





本書は2011年に出た短編集『夜と音楽と』と2019年の長編『石を放つとき』の贅沢なカップリングで、ファンにとって待望の一冊になっている。


まずは短編集『夜と音楽と』


「窓から外へ」(1977年)
初期に多く登場したアームストリングの店。そのお店でウェイトレスをしていたポーラ・ウィットロウワーと常連のスカダーは顔見知りになる。「また、明日と」声をかけられれば「神が許せば」と返すスカダー。しかし神様は無慈悲にもポーラを死なせてしまう。自宅のあるマンションの17階から裸で落ちたポーラ。薬物中毒でもあったポーラは自殺と警察は断定するのだが、その死に不審を抱いた妹がスカダーに再調査を依頼する。ポーラの部屋は鍵とチェーンがかけられており、状況は明らかに自殺。誰かに突き落とされた場合どうやって犯人は逃げたのかわからない。しかし、スカダーはポーラの部屋の状況、警察の撮った写真を眺め何者かの作為があったことに気が付く。
飛び降りは高層ビルの多いマンハッタンならではというか、怖い話だ。トリックは自体は大したことないが物語にうまく溶け込んでいるのがいい。


「バッグ・レディの死」(1977年)
スカダーが住むホテルにやってきた弁護士は意外なことを告げる。メアリー・アリス・レッドフィールドという見知らぬ女性がスカダーにささやかな1200ドルの遺産を残した、というのだ。困惑するスカダー、しかしメアリーが三か月前に惨殺された顔見知りの「バッグ・レディ」であったことを知る。もらえる物はもらっておく主義のスカダーは遺産を受け取るのだが、しかし、何かせずにはいられない気持ちになり、依頼人のいない仕事をはじめる。メアリーはスカダー以外にも沢山の人たち少額の遺産をのこしており、スカダーの調査が呼び水となり、誰もがメアリーのうわさをしはじめる。彼女がいないことに淋しさを覚え始めた時、事件は唐突に終わりを迎える。
人の噂も七十五日。メアリーの事も人々の記憶から蝋燭のように消えてなくなるだろう。それでも、その蝋燭が沢山集まれば一時のあいだとはいえ大きな輝きとなり、犯人をあぶりだすまでになる。謎解き要素はないが、殺伐とした都会でも人のつながりを感じられる名作。


「夜明けの光の中に」(1984年)
最初のMWA短編賞を受賞した作品。後に長編『聖なる酒場の挽歌』へと膨らむ。



スカダーはある新聞記事を読んで在りし日のアームストロングの店を思い出す。常連の飲み仲間のトミー・ティラリーとガールフレンドのキャロリン・チータム。ある日スカダーはトミーの妻が強盗に殺されたことを新聞で知る。キャロリンとトミーの大人の関係を察したスカダー。そして、当のトミーから妻を殺した強盗二人組がトミーにそそのかされて事件を起こしたと根も葉もない証言をしており窮地に陥っているから助けて欲しい依頼され、飲み仲間の為に調査を開始する。事件は二人組のうち一人が刑務所内で自殺したことで終結。しかし、祝いの酒宴でスカダーはトミーが口を滑らすのを聞き逃さなかった。悪人が罪を逃れることを手助けしてしまったことに自責の念を感じるも酒で紛らわすのだが、ある事件をきっかけにスカダーはトミーに制裁を科す。
初期にあった罪と罰のテーマが色濃く反映された作品。スカダーが「神の役を演じ」る行為は何度もあるが、それがとんでもない怪物を生み出し、しっぺ返しをくらうことにもなる。


「バットマンを救え」(1990年)

露店の商標侵害商品を取り締まる手伝いをするスカダー。最近では「ブルシットジョブ」なる呼び方もあるようだが、仕事のための仕事、しかもそれが移民から法の名のもとに生活手段を没収する仕事であることに気に食わないスカダーは一日で止める。日本でいえば「ドラえもん、駄目」「ピカチュウ、駄目」になるかもしれない。


「慈悲深い死の天使」(1993年)

HIV患者のホスピスを訪れる謎の女性”マーシー”。彼女が立ち寄った患者がほどなく死ぬことから疑念を抱いた職員がスカダーに調査を依頼する。安楽死をテーマにした一編。病気や加齢による認知症や寝たきりで人間の尊厳や生きがいがなくなってしまう場合、生きていることが苦痛になってしまうこともある。”マーシー”を見つけたスカダーは、彼女に同行し、言葉によって患者を苦しみから解放する様を見る。そして、”マーシー”が言葉以外にも苦しみから患者を解放したことを告白させる。”マーシー”は金銭を受け取っていないが、リアルでは「安楽死」するのにも金がかかるようだ。人間やっぱりピンコロが一番。


「夜と音楽と」(1999年)

スカダーとエレインが夜のニューヨークを徘徊し、オペラからジャズまで夜通し音楽を聴きまくるお話。誰も傷つかない、誰も死なない良い話。「ピノキオさん、もっと嘘をついて」というジョークはかなりエロい。こんなんベッドで言われたら・・・。


「ダヴィデを探して」(1997年)

アンソロジー『短編回廊』にも含まれているホワイダニットの逸品。



ダヴィデ像のあるフィレンツェに旅行に出かけたスカダー夫妻。ある日、スカダーはかつて殺人で逮捕した男、ホートン・ポラードに遭遇する。年老いた彼もスカダーを認め、食事に誘う。刑期を終えたポラードはなぜフィレンツェに住んでいるのか? そもそも25年前なぜ、恋人だった若い男を猟奇的に殺害したのか? ミケランジェロのダヴィデ像に「恋」をした男の倒錯した動機が明かされる。「愛すること、人のことを深く気づかうこと。それは正気のなせる業」であって「恋とは凶気の一形態」という警句が見事。


「レッツ・ゲット・ロスト」(2000年)

エストレリータを死なせる前の刑事時代のエピソードだ。エレインの口利きで、ある高級住宅の男の死体について刑事としてアドバイスしてほしいと頼まれる。現場は明らかに何か工作したあとがあるのだが、スカダーは「もみ消し工作」のもみ消しを勧める。過去のエピソードを回顧するうちにスカダーはあるミュージシャンを思いだす。



タイトル「レッツ・ゲット・ロスト」はチェット・ベイカーの十八番のトランペットと歌。また彼のドキュメンタリー映画のタイトルでもある。ただ、個人的には「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」が一番好き。


「おかしな考えを抱くとき」(2002年)

スカダーとエレインは、エレインの友人モニカと新しい恋人とともに夕食を共にしていた。話題に拳銃自殺した男のことがあがったことで、スカダーは制服警官時代に担当した事件の事を思い出す。オートマティックでこめかみを撃った夫とそれを目の前で見た妻と子供。夫の自殺を先輩のヴィンス・マハフィは、オートマティックのマガジンが死者のポケットに入っていたことから、夫は死ぬつもりはなく、オートマティックからマガジンを取り除いても自動的に弾倉に一発装填されていることを忘れていた事故だと断定する。しかし、スカダーはマハフィが自殺を事故の捏造したのではないかと感じる。それは優しさからか? それとも別の計算があったからか? 差し出されたものは黙って受け取っておけ、という信条をスカダーに教えたマハフィの事を描いたリドル・ストリー的な要素のある一編。「もらえるものは病気以外もらっておけばいいんだ」にも通じる処世訓だ。


「ミック・バルー、何も映っていない画面を見る」(2011年)

ミックから呼び出しをうけ、深夜にグローガンの店に行ったスカダーは、ミックから死にまつわる話をされて不安を覚えるのだが・・・。『すべては死にゆく』でのエレインの予想がめでたく的中する短い一編。紀州のドンファンにも劣らない歳の差婚だが、こちらの夫婦は両方金持ちだから超円満。


「グローガンの店、最後の夜」(2011年)

クリスティンと結婚したミックはグローガンの店を売ることを決め、金曜日に盛大なお別れ会を実施する。しかし、本当のお別れ会が土曜日に四人でしめやかに営まれる。血塗らた恋しい過去より大切な今を生きるミックやスカダーたち。このシリーズが面白いのは時を経るにつれ主人公たちの心境に変化があること。アル中時代オンリーなら、ここまでシリーズは長く続くことはできなかっただろう。


未収録短編について触れておこう。

「ブッチャーとのデート」はミステリマガジン1989年5月号に訳載されたスカダー物の一編。実はアメリカでは未発表で日本オリジナルの短編になっている。故に『夜と音楽と』からは零れ落ちている。



「ブッチャーとのデート」(1989年)

タイトルの通りグローガンの店のオーナーと初めてご対面する短編だ。ただし、このオーナーは名前がミッキー・バーゴインになっている。ミックのプロトタイプを作ったが、この時点ではスカダーの生涯の友人になるとは考えていなかったのかもしれない。なおパディ・ファレリの生首ボーリングエピソードはそのまま長編『慈悲深い死』に移行され『皆殺し』へと繋がっていく。



短編ではエディの死の顛末のプロットが中心になる。ニューヨークの家賃統制というのは、いまでもあるのだろうか?

タイトルが示すようなデートシーンがなかったので長編に発展する際に、失踪した女優の卵のエピソードを加え、ミック自慢のオマラの農場でのデートシーンが付け加えられることになる。思えば『皆殺し』も決戦の地まで二人でデートしていたな。ホント仲良し。



『石を放つとき』(2019年)

探偵稼業からほとんど足を洗ったスカダーは、エレインと穏やかな老後を送っている。ある日、スカダー夫婦は、エレインがコールガールをしていたことのある女性の集まり〈タルト〉で知り合った若い女性、エレンから「恋人体験」で知り合った男性からストーカーされていると相談を受ける。「ポール」としかわからないこの男性とたびたびお客として同衾をしていたが、コールガールを引退することを宣言したとたん、彼氏ヅラし始め、アブノーマルなプレイをしようと迫ってくる。脅威を感じたエレンは、アパートを出てホテルに逃げるが、男は彼女のアパートの中にまで入ったことを電話で知らせる。ストーカー男に危険な兆候を嗅ぎ取った齢八十の探偵は、老体に鞭打ち、久しぶりに探偵稼業に繰り出す。



傘寿を過ぎたブロックさんが、シリーズファンに向けたボーナストラック的作品だ。タイトルは旧約聖書の「コヘレトの言葉」の一節から採られている。この世のすべてのことに定められた「時」があり、喜びも悲しみも人智を超えた大いなる力が働いている。人生にまつわる十四の活動を明るい「時」と暗い「時」と対になるように表現した詩になっている。マット・スカダーシリーズはまさにこの「コヘレトの言葉」のままに一人の探偵の人生の「時」を描いてきたシリーズだ。少女を死なせ、アルコール中毒になり、家族を失い、もがき苦しんだ男がゆっくりと立ち直っていく。ミック・バルーという無二の友人、エレイン・マーデルという伴侶を得て悲痛な出来事があっても、支えあい、暗黒面に落ちることなく平穏な晩年に至る。シリーズが始まった1970年代の時点で、作者も読者も『石を放つとき』のような穏やかな小説が登場するとは夢にも思っていなかっただろう。

だからこの小説を読むのにも十分な「時」が必要だ。シリーズをあらかた読んだ読者だけがじ~んと感慨にふけることができる。一見さんは間違っても、この小説から読んではいけません。



ひと昔のスカダーならばミック、TJ、ダーキンといった仲間に手伝ってもらったかもしれないが、ミックはグローガンの店を閉め、クリスティン・ホランダーとの幸せな結婚生活を送り、TJは登場しないが40代の立派な中年男性になり、ダーキンはエディ・コーラと同じように引退後、フロリダに引っ越してしまっている。痛む膝に鞭打ち、単独でストーカー男を捕まえて撃退しようとする。

その他にも懐かしい名前が出てくる。レイ・グルリオウ弁護士は禁酒に成功したり失敗したり、レイ・ガリンデスはもはや警察官よりも画家としての時代の方が長くなったが、その似顔絵は今回も役に立つ。噂にもでなかったダニー・ボーイ・ベルは遂にくたばってしまったかもしれない。



職業作家としてデビューした当時、ブロックはポルノ小説を書いていた時期がある。今回そんなキャリアを発揮した内容にもなっている。事件解決のお祝いに待っていたのは、スカダー夫妻とエレンの3Pである。老いても夜の生活が充実しているというのは素晴らしいことだ。直接描写があるわけではないが、妙に艶めかしい。スカダー夫妻のように生涯現役で頑張れるようになりたいもんです。



御年85歳のブロックがもうスカダーの物語を書くことはないないと思っていたら、どっこい出ましたよ!
The Autobiography of Matthew Scudder
スカダーが自ら生い立ちと近況を語る。『石を放つとき』以上にオマケ感漂う小説(自伝!)だとのこと。

Kindleで読んでみますかね。




「どうする家康」を観たり、観なかったりしているが、本書のことを思い出す。


徳川家康影武者説は、在野の歴史研究家、村岡素一郎によって「史疑」という本で明治に発表された。この『三百年のベール』は、その村岡と「史疑」をモデルにした南條範夫のフィクションだ。ただフィクションだけど、絵空事では片付けられない部分もある。


明治維新から三十余年、新政府下の静岡の一官吏であった平岡(村岡素一郎)は、趣味の古文書を読んでいるうちにある文書に引っ掛かりを覚える。東照公こと徳川家康が晩年を過ごした駿河でのことが書かれた駿府政事録。その中で家康が側近に子供時分に五貫文で売られ、十八まで駿河国にいたと昔ばなしを語ったと記録されており、広く知られた史実と異なることに気がつく。なぜ、晩年こんな話をしだしたのか? 
そもそも家康は三河が故郷なのに、なぜ今川に人質として取られていた駿府に愛着を懐き、終わりの地としたのか? 息子の信康や正室の築山殿について、なぜあっさりと信長の命を飲んで自害させたのか? 新田源氏と松平を結ぶためになぜ、得体のしれない時宗の浮浪僧をもちだしたのか? などなど一つの疑問から次から次へと疑問が浮かんでくる。


折しも、本業の方では部落問題の調停に部下の山根と奔走する。なぜ彼らは、徳川幕府時代に生まれた身分制度によって差別されなければならなかったのか? 平岡のなかで徳川家康という偉人への疑惑が深まっていく。
やがて平岡は一つの説を発表する。


あとがきにもあるが、家康が由緒正しき家の出か、ささら乞食の願人坊主であったかは、大した問題ではない。再三書かれている通りだ。真に問題なのは時の為政者が、己の「嘘」を隠すため「物語」をつくり民衆の意識に植え付けてしまうこと。そして、なお悪いことに民衆が、不満のはけ口として「物語」を利用し、謂れのない差別、迫害、ときには虐殺を産んでしまうことだ。世界には「シオンの議定書」という偽書が最悪の虐殺、ホロコーストにつながり、いまだに姿、形を変えて流布されている例もある。


「史疑」はたった500部出版されたのちバッシングを受け、消える。しかし、戦後の徳川家康ブームとともに南條氏が偶然、神田の古本屋で見つけたことで脚光を浴び、今では筑摩文学全集に収録され、多くの作家たちにインスピレーションを与えることになる。口碑・伝説と限られた史料とを使っての提言には、論証の不十分さが目立つといわれるが、これは仕方がないことだ。今でも大事な事はだいたい口伝で紙には残らないとインテリジェンス専門家、佐藤優さんも言っている。政府文書でさえ都合が悪ければ、いいように改ざんされてしまうのだから、紙で残る正史なんて当てにはならない。作中の重野博士も言うように時として、書かれなかったことを見ようとするフィクションの力が、必要なこともあると思うのです。


『三百年のベール』はもともと短編がベースになっている。おそらくこちらのアンソロジーが一番手に入りやすい。


短編「願人坊主家康」は、物語の視点を変えて簓者の少年が、斎藤道三や北条早雲に憧れ、松平家を乗っ取り、天下を目指す話。併せて読むと、なお面白い。




レマン湖のほとりに建つ広壮なクロップシュトック男爵のお屋敷で、慌ただしく荷造りをしている使用人たち。男爵夫人が男爵の秘書と懇ろになったことを契機に奇妙で倒錯した三角関係が成立。不穏な空気が支配していることを使用人たちは感じ始める。

執事のリスターと使用人たちは主人らの「予定された死」に備え、ゴシップ映画のシナリオ契約、マスコミ対応、葬儀の準備をし始める。
そして嵐の夜、当事者三人が書斎にこもり、リスターに誰が来ても「取り次ぎ不要」であると命じる。リスターたちは全力で主人の命令を守り、彼らが痴情のもつれで、殺し合うのを今か今かと待ち受ける。



『邪魔をしないで』は『運転席』と同じく予定された死を扱っている。晩年のP・G・ウッドハウスの口から飛び出たエクトプラズムがスパーク女史に入り込んで書いたかのようなブラック・コメディ。


読んでいて、本作には一定の「ルール」が存在するような気がしてしかたがない。ポイントは「色欲」。カトリックではいわゆる「逸脱的」な性行為は罪深いものとされる。『邪魔しないで』では、このルールが適用されているのではないか? 例えばリスターは身震いして屋敷の中では「セックス」は禁句だから使うなと何回かいう。おそらく作品世界の神様がそういうのが嫌いだと知っているからだ。男爵たちが、必ず死ぬと確信できたのもルールを知っている故だ。


男爵はニンフォマニアでホモセクシャルかバイセクシュアル。男性秘書や男爵夫人は、女マッサージ師とオカマが友達というから同じくバイセクシュアルかもしれない。姦淫や同性愛はこの世界のルールでは罪人になるから死ななければならない。男爵たちは銃で死に、お友達二人も屋敷の庭で落雷にあい、即死する。何故、女マッサージ師とオカマまで、死なないといけなかったのか、ルールが判れば納得できる。


リスターは最初、主人の死をネタに金儲けだけを企んでいたが、オイゲン大公の秘密の情報により、機転を利かして完全に男爵家を乗っ取るプランに変更。小間使いのエロイーズを利用し神様の怒りをかわないで、男爵家を乗っ取ることに成功する。


ヨーロッパのとある北の国で会計事務所ではたらく女性リズ。平凡なアラサー女子の彼女はある計画のため、会社を休み、とある南の国へ海外旅行へ出かける。チンドン屋みたいな服を着て練り歩き、パスポートをわざとタクシーに置いていき、店員や通行人、警察官に絡んで自分の臭跡をのこしていくことで、まわりの人々に自分を印象付けていく。それはやがて起こる悲劇の伏線となる。




ヘンテコな話だ。物語の前半部分でリズの旅が片道切符であると予告される。しかも、リズは自分が殺されることを知っているのだ。物語はリズが旅の途中で知りあった男に殺されるまでの顛末を描いていく。不気味なことに彼女は、自分を殺してくれそうな男を最初から探していて、目をつけた男に手当り次第に相応しい男か確認していくのだ。リズの計画に乗らされた男は加害者になるのだが、悪女に引っかかった被害者なので可哀想になる。



作中「嬰q長調のホワイダニット」という単語がでてくるが、この物語の最大の謎はやはり、なぜ彼女は自ら進んで殺されたのか? ということだろう。




ミステリファン的な発想だが、もしかしたら彼女は殺されたかったというより、自殺に見られたくなかったのではないだろうか?

だから、わざわざまわりの人にアピールをし、殺人計画に無理やり引っ張り込んだ男性に対して手足を縛ることまで要求したのではないか。あくまで、殺人だと印象付けるために。



では、なぜリズは自殺と見られたくなかったのか? そのヒントは作者のミュリエル・スパークがカトリック信者であったところにあるように思う。カトリックでは自殺は罪だ。リズが殺人にこだわった理由は、彼女がカトリックだったからではないか? 衆人さらには神を欺き、自殺という罪を隠すために殺人計画を編み出したのではないか?

見当違いかもしれないけどホワイダニットに対する解釈は、これがしっくりくると思う。


ダニエル・ホーソーンシリーズ三作目。



『メインテーマは殺人』の刊行まであと3ヵ月。ホロヴィッツさんはプロモーションとして、ダニエル・ホーソーンと文芸フェスティバルに参加することを出版社に勧められる。気難しいホーソーンが文芸フェスに参加するとは思えないホロヴィッツさんだったが、ホーソーンは意外に乗り気で、二人は文芸フェスの開催地、チャンネル諸島のオルダニー島を訪れる。
催しは滞りなく進行するが、ホロヴィッツさんは不穏なものを感じ取る。のどかで自然豊かなオルダニー島は島の電力会社の送電線建設を巡り、島民たちが対立。さらに島にはホーソーンが在職中に怪我させた(かもしれない)小児性愛者の元受刑者がいた。
やがて文芸フェスの資金提供していた島の有力者で実業家のチャールズ・ル・メジュラーが、トーチカを改造した隠れ家でおびただしい血の海の中で発見される。
かつて第二次大戦中、ナチスの占領により強制収容所が建てられ、多くの人が死んだ悲劇的な歴史があるオルダニー島だがその後凶悪犯罪が起きたことはなく、島にはまともな捜査機関もない。そのためホーソーンが駆り出されることになる。残された手がかりをふるいにかけ、次々と殺人とは無関係な事実をふるい落とし、犯人を絞っていく。


いつも通り謎や手がかりの見せ方が上手く、楽しませる。また、物語の舞台も中身もクリスティへのオマージュになっている。
右手以外は拘束し、頸部をナイフで突き立てる処刑風の殺害方法、トランプ、コインといった小道具は過去の戦争が絡んだ復讐を匂わせるが、単なる個人的な意趣返しなのかもしれず最後まで惑わされた。
意外な人間関係を示す手がかりの見せ方も感心する。一つ一つは伏線としては弱いが、いくつか重ねることで説得力が生まれてくる。
そして、なんと言ってもクリスティっぽいのが、視線の方向だ。『死との約束』『カリブ海の秘密』などこの手が使われていましたね。旅先で事件に巻き込まれそうな時は誰が何を見ているのか、ちゃんとよく見ましょう。


ホーソーンの息子に秘密があることが明らかになって、シリーズの行方がますます気になる。


今年は原尞が亡くなった年なのでぼちぼち再読してみようと思う。



既に廉価な文庫があるのに、わざわざ愛蔵版と銘打ち、豪勢な単行本が出版されることがある。一読者としては「無駄」な本だと思っている。ポケミス版『そして夜は甦る』もその類のものだが、この本に限っては思わず手が伸びてしまった。まんまと早川書房の商法にはまっている自分がいて、悔しい。

しかし、このポケミス版は歴史的快挙といってもよく、買う価値は十分にある。ミステリファンならば一家に一冊あるべきだ。



まず何が凄いかというと著者のあとがきにもあるように、ポケミス史上四人目の日本人作家作品になったこと。

過去には浜尾四郎、夢野久作、小栗虫太郎しかこの叢書に入っていない。早川書房にゆかりの深い都築道夫、生島治郎、結城昌治などもこの叢書に入ることができなかった。作者はポケミスに自分の本が入ることを夢見て、ポケミスにあわせた二段組みの原稿用紙をわざわざ用意して、処女作を書き、早川書房に送りつけたエピソードは有名だ。三十年越しの夢がかなったことになる。



原尞=レイモンド・チャンドラーのイメージが強すぎて、そのアプローチから語られることが多い。本書でいえば『さらば愛しき女よ』が下敷きといえる。しかし、エッセイなどを読むと原さんは、チャンドラーや他の私立探偵小説にとどまらず、海外ミステリ、和洋のクラシック映画、ジャズに関する広範な知識と愛着があり、それらが沢崎シリーズのバックボーンになっている事がわかる。



例えば、このポケミス版ではほぼ半世紀ぶりに表紙の具象画だ。『そして夜は甦る』が、原さんが好きだと公言するルネ・クレマン監督『狼は天使の匂い』に少なからず影響を受けていること示している。作中で「ロバート・ライアンの映画」となっている映画だ。




また、新装文庫版では喫茶店〈ハリー・ライム〉があやかった『第三の男』でオーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムの絵がかかれている。




その他、黒澤明監督「酔いどれ天使」、ドラマ版「逃亡者」と昔の映画やドラマが顔をだす。


西新宿に事務所を構える私立探偵、澤崎は、行方不明となったルポライター佐伯の行方を捜してほしいと謎の男と、佐伯の家族から依頼を受ける。佐伯は妻と離婚を考え別居しており、何かの事件を追っていた。そして事件は、少し前の夏に起きた東京都知事狙撃事件へと繋がっていく。死体が三つの転がるなかで、澤崎は無事に佐伯を見つけることができるのか?



やはり面白い。

一見複雑に思えるが、物語は二つのプロットしかない。二つは本来独立したものなのだが、物語の中心にいる佐伯や、他の登場人物たちの「勘違い」で、複雑に絡み合うような錯覚に陥る。澤崎の語りは「勘違い」をありのままに描くのだが、どこが勘違いだったかは読者には途中で教えてくれない。終盤の解決編でようやく読者にも絵解きしていく。



再読していて、原さんはチャンドラーと同じく、セバスチャン・ジャプリゾにも入れ込んでいたというのが分かる。原さんはポケミス『狼は天使の匂い』の解説で、映画シナリオを手掛けたジャプリゾの才能をこう評価する。





「彼の創作の根底にあるものは人間の心に潜む純真さ真実と欺瞞を、決して単純な善悪の色に染めるのではなく、むしろ欺瞞が人を救い、純真が人を傷つける場合も含めてフランス的な諧謔に満ちた物語を紡ぎ出す。」



ポケミス版311ページの上段、佐伯と元妻、奈緒子の顛末についての澤崎の考察は、まさしくジャプリゾのそれだ。単純なチャンドラーフォロワー作家とは一味違うのはこういうところなのだと思う。



「ミステリ」「映画」というジャンルに対する原さんの深い愛着が文章から滲み出て、それがこのジャンルを愛する読者の心をとらえて離さないのだと思う。