伝説の始まり | 読んだらすぐに忘れる

読んだらすぐに忘れる

とりとめもない感想を備忘記録的に書いています。


今年は原尞が亡くなった年なのでぼちぼち再読してみようと思う。



既に廉価な文庫があるのに、わざわざ愛蔵版と銘打ち、豪勢な単行本が出版されることがある。一読者としては「無駄」な本だと思っている。ポケミス版『そして夜は甦る』もその類のものだが、この本に限っては思わず手が伸びてしまった。まんまと早川書房の商法にはまっている自分がいて、悔しい。

しかし、このポケミス版は歴史的快挙といってもよく、買う価値は十分にある。ミステリファンならば一家に一冊あるべきだ。



まず何が凄いかというと著者のあとがきにもあるように、ポケミス史上四人目の日本人作家作品になったこと。

過去には浜尾四郎、夢野久作、小栗虫太郎しかこの叢書に入っていない。早川書房にゆかりの深い都築道夫、生島治郎、結城昌治などもこの叢書に入ることができなかった。作者はポケミスに自分の本が入ることを夢見て、ポケミスにあわせた二段組みの原稿用紙をわざわざ用意して、処女作を書き、早川書房に送りつけたエピソードは有名だ。三十年越しの夢がかなったことになる。



原尞=レイモンド・チャンドラーのイメージが強すぎて、そのアプローチから語られることが多い。本書でいえば『さらば愛しき女よ』が下敷きといえる。しかし、エッセイなどを読むと原さんは、チャンドラーや他の私立探偵小説にとどまらず、海外ミステリ、和洋のクラシック映画、ジャズに関する広範な知識と愛着があり、それらが沢崎シリーズのバックボーンになっている事がわかる。



例えば、このポケミス版ではほぼ半世紀ぶりに表紙の具象画だ。『そして夜は甦る』が、原さんが好きだと公言するルネ・クレマン監督『狼は天使の匂い』に少なからず影響を受けていること示している。作中で「ロバート・ライアンの映画」となっている映画だ。




また、新装文庫版では喫茶店〈ハリー・ライム〉があやかった『第三の男』でオーソン・ウェルズ演じるハリー・ライムの絵がかかれている。




その他、黒澤明監督「酔いどれ天使」、ドラマ版「逃亡者」と昔の映画やドラマが顔をだす。


西新宿に事務所を構える私立探偵、澤崎は、行方不明となったルポライター佐伯の行方を捜してほしいと謎の男と、佐伯の家族から依頼を受ける。佐伯は妻と離婚を考え別居しており、何かの事件を追っていた。そして事件は、少し前の夏に起きた東京都知事狙撃事件へと繋がっていく。死体が三つの転がるなかで、澤崎は無事に佐伯を見つけることができるのか?



やはり面白い。

一見複雑に思えるが、物語は二つのプロットしかない。二つは本来独立したものなのだが、物語の中心にいる佐伯や、他の登場人物たちの「勘違い」で、複雑に絡み合うような錯覚に陥る。澤崎の語りは「勘違い」をありのままに描くのだが、どこが勘違いだったかは読者には途中で教えてくれない。終盤の解決編でようやく読者にも絵解きしていく。



再読していて、原さんはチャンドラーと同じく、セバスチャン・ジャプリゾにも入れ込んでいたというのが分かる。原さんはポケミス『狼は天使の匂い』の解説で、映画シナリオを手掛けたジャプリゾの才能をこう評価する。





「彼の創作の根底にあるものは人間の心に潜む純真さ真実と欺瞞を、決して単純な善悪の色に染めるのではなく、むしろ欺瞞が人を救い、純真が人を傷つける場合も含めてフランス的な諧謔に満ちた物語を紡ぎ出す。」



ポケミス版311ページの上段、佐伯と元妻、奈緒子の顛末についての澤崎の考察は、まさしくジャプリゾのそれだ。単純なチャンドラーフォロワー作家とは一味違うのはこういうところなのだと思う。



「ミステリ」「映画」というジャンルに対する原さんの深い愛着が文章から滲み出て、それがこのジャンルを愛する読者の心をとらえて離さないのだと思う。