人情と刃傷のあいだ | 読んだらすぐに忘れる

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とりとめもない感想を備忘記録的に書いています。



男の嫉妬の見本市だった短編集『半席』は、自分の家を半席の旗本から御目見以上の真の旗本にするために、小役人の徒目付に励んでいていた実直な青年、片岡直人が上役の徒目付頭、内藤からの頼まれ御用をこなし、成長する時代小説だった。
秘めた想いをもつ事件関係者や得体のしれない浪人、沢田源内と接するうちに直人は、本当の自分の「励み場」をみつける。時代小説である一方で、事件の裏に隠れている意外な動機を穿り出し、上辺からは想像できない人の心を絵解きする内容だったので、各ミステリランキングにも登場した。

『泳ぐ者』はそんな片岡直人が再登場する長編だ。自分の生きる道を決めた青年が二つの事件に翻弄される。手痛い失敗を経験し、心身ともに弱るのだが、それを乗り越えていく。


内藤不在の時、直人にある御用が持ち込まれる。
三年半も前に離縁された女、菊枝はなぜ今になって、余命幾許もない病床の前夫を刺殺したのか? 熟年夫婦の奇怪な事件に直人は、水も漏らさぬ聞き取りを行い、動機を見抜いたと確信。牢獄にいる菊枝にその推理をぶつけるが、彼女は突き放すような発言をした翌日、縊死してしまう。
菊枝の死で完全に自信を無くした直人は、体調を崩すほどになってしまう。このまま徒目付をやめてしまおうかと悩む矢先に、内藤から海防の御用に行くかと尋ねられる。己の進むべき道に悩むある日、大川橋で泳ぐ男を見かける。毎日決まった時刻に冷たい大川を不恰好に必死で泳ぐその姿に事件の予兆を感じた直人は泳ぐ男、簑吉を問いただすと泳ぎは単なる願掛けで、あと二日で辞めるという。人好きがする男に半ば安心したのだが、満願前に直人の目の前で簑吉は意味不明なことをわめく御徒に斬り殺される。自分が泳ぎを止めていれば最悪の事態は起こらずに済んだのではないか、悔やむ直人だったがどうしても解せないことがあった。それは殺される前、簑吉がなぜか謎めいた笑みを浮かべていたことだった。死んだ簑吉の為に「なぜ」を追い始める直人だったが、やがて想像もしなかった「鬼」、さらに笑みの奥底に秘められた「闇」をみることになる。


平伏です。
人情と刃傷のあいだをホワイダニットで結びつけ、事件の様相を鮮やかに反転させるミステリセンスの素晴らしさ。沢田源内と比丘尼の話のようなサイドストーリーの充実ぶり。物語も本筋とは関係のない海防の話から始まるところも、また上手い。


家族、社会、国といった人の営みが長く続くと、知らず知らずに歪みが生じる。人の心の機微を「なぜ」と追求することは、歪みを正すことにも繋る。もし菊枝の心情を夫が少しでも疑問に持てば、家族はそのままだったかもしれない。御徒の間で日常茶飯に行われていた水練のイジメの異常さに疑問を持たれていたら悲惨な事件はなかったかもしれない。他者の心を考えること、関心をもつことは徒目付にかぎらず社会の中で他者と関わって生きる上で重要な能力だ。その大切さをミステリとして描く青山さんの手腕は感心するばかり。