20数年前に出逢った一冊の本
『存在の詩(うた)』
当時の私には、とても難しく感じたのですが、何か大切のことがここにあるような気がした。
心の探求はここから始まったのかもしれない。
そういえば、ヨーガもこの頃から始めたように記憶している。
この本の中に記された言葉ではないのですが、マッサージについて、和尚ラジニーシの感動的な言葉を見つけたので、ご紹介したいと思います。
愛する人にふれるとき…
どんなエネルギーが流れていますか?
この詩は、トリートメント講座で、読ませていただくことがありました。
その後、生徒さんから「あの言葉が印象に残った。」と聞きます。
with Fairyサロンには、セラピストの方が多くお越しになられますので、参考になればと思います。
マッサージとは学び始めることは出来るが、決して学び終えることのない何かだ。
それは、何処までも続いていく………
経験は深まり、高まり続けていく。
それは、最も繊細なアート………技術の一つだ。
テクニックの成熟度が問題なのではない。それ以上に愛が問われる。
まずテクニックを学んでごらん。
学び終えたなら、テクニックを忘れ去ってしまいなさい。
そして、ただ感じ、感じるままに動いてごらん。
マッサージを深く学んでいけば、その90%のワークは、愛によって為され、10%はテクニックによって為される。
ただ触れること、愛を込めて触れることで、身体の中の何かがくつろぐ。
その人を愛し、慈悲を感じるならば………
相手の究極の価値を感じるのなら………
その人を正さなくてはならない機械のように扱うのではなく、とてつもなく価値のあるエネルギーとして扱うならば………
その人があなたを信頼してくれ、自身のエネルギーと戯れるのを許してくれたことに感謝の念を覚えるならば………
あなたは、次第にオルガンを奏でているかのように、感じられるようになる。
その人の身体全体がオルガンの鍵盤となり、その身体の中にハーモニーが築かれていくのを、あなたは感じるだろう。
そして、その人ばかりが癒されるのではない。
………あなたも、また癒されるのだ。
マッサージは、この世に必要とされている。
というのも、この世から愛が消えてしまったからだ。かつては愛する人が、触れるだけで充分だった。
母親は子供に触れ、その身体と戯れた、それはマッサージだった。
夫は妻の身体と戯れた、それはマッサージだった。
それだけで充分以上だった。そこには、心からのくつろぎと愛があった。
しかしこうしたものは、この世から消えてしまった。
次第に何処に触れたら良いのか、どう触れたら、どのくらいの強さで触れたら良いのか………
人は忘れてしまった。
事実、触れることは、最も忘れられてしまった<言語>の一つだ。触れることは、ぎこちないものになってしまった。
何故なら、いわゆる宗教家によって、正にその言葉自体が汚されてしまったからだ。
彼らは「触れる」という言葉に、性的な色合いをもたせた。その言葉は性的なものになってしまった。
こうして、人々は<触れられること>を恐れるようになった。誰もが許可することなしに、誰からも触れられることのないように、注意している。
そして今や西洋では、これと対極をなすものごとが起きている。「触れること」やマッサージが、セックスそのものになってしまったのだ。
今やマッサージは、セックスを覆う単なる表紙、包みになってしまった。だが、実際には「触れること」やマッサージは性的なものなどではない。
それは愛の機能だ。
愛がその高みから落ちてしまえば、それはセックスになり醜悪なものになってしまう。だからこそ、祈りに満ちていなければならないのだ。
人の身体に触れる時には、あたかも神その人自身が目の前に横たわっていて、
あなたは神に仕えているかのように、祈りに満ちていなければならない。
全てのエネルギーと共に流れてごらん。
そして身体が流れ、漂い、エネルギーが新たなハーモニーを築くのを目の当たりにすれば、今までに感じたこともない程の喜びが感じられるだろう………
あなたは、深い瞑想の内へ落ちていく。
マッサージをしている時は、マッサージだけすること。
………他のことを考えてはいけない、それは邪魔になる。
指や手の内に、あなたの全存在、魂が存在するかのように「ありなさい」。
マッサージを単なる身体に「触れること」にしては駄目だ。
魂の全てが相手の身体の中に入り、貫くことで、深奥の「もつれ」が解放されるのだ。
そして何より「遊ぶ」ようにして行うことだ。仕事にしては駄目だ、ゲームのように楽しんでするのだ。
笑ってごらん、そして相手も笑わせてごらん。