私は見てないから知らないんですが、卓球の平野女史には妹さんがいて、その妹さんが発達障害がありながらも大学に通い、両親やお姉さんたちの協力を得て、障害で困ることもあっても日常生活を前向きに過ごしている姿をテレビで映していたようでした。

 

テレビで発達障害だの、自閉症だの、学習障害だの。なんだかんだと障害名を話してくれているんですが、発達障害を知的障害と勘違いしている人が多いようです。

 

発達障害は脳の発達つまり脳機能の偏りが極端で、一部は健常者でもその他が劣っているわけです。勿論発達障害と知的障害を両方持っている人も大勢いますし、そうじゃなくて発達障害だけという人もいます。

そうなると、発達障害の人は知能レベルは健常者なんですが、脳機能が偏っているため、ある行動が苦手だったり、理解できなかったりするわけなんです。

 

だから発達障害があっても知能は健常者なんだから大学に行く人もいるし、発達障害があっても事業を起こして経営者として優秀な人もいます。

 

さて、卓球選手のお話は私も見てないから知らないんですが、このお話のコメンテーターに脳性麻痺の子供を持つタレントさんが呼ばれて、コメントをしていたみたいです。

 

たしかこのタレントさんのお子さんは生まれる前から脳性麻痺の可能性が高かったようなことが書かれていたように記憶しています。だけどせっかく妊娠した命だし、障害を持っていてもちゃんと育てていこうと覚悟をして産み育てていらっしゃったように記憶しています。

 

なかなかに出来る事ではないと思います。

 

こういう考えの人だからこそ、お笑い芸人の時にもこの人に汚いというイメージはわかなかったのかもしれません。

 

いいお話だったんでしょうし、ネットニュースのコメントにも感動した。素晴らしい。

など肯定的な意見が多かったんです。

 

障害者の人が身内にいない、あるいは障害者の人との接点がほとんど皆無のような人が障害者の人を知るきっかけになったり、障害者問題に関心を持ってもらうためには障害者の人が努力している姿、その親が身を削って子供のために奮闘している姿は感動を呼びますし、共感も得るでしょう。

 

障害者問題に関心を持ってもらって障害者福祉のために金を落としてもらうためには障害者絡みの感動ハラスメント番組と言ったら語弊あるんですが、感動の押し売り番組があってもいいとは思います。

 

偽善だろうが何だろうが、関心持ってもらって障害者福祉に金が落ちて集まってくれれば、高齢者福祉に力点置かれ過ぎてなおざりにされている障害者福祉にも視点が向き、金も集まってきて、今よりも経済的だけじゃなく、その他の問題でも障害者が抱える問題、その親や保護者、保護者候補が抱える問題に目を向けてもらえるようになるから、感動押し売り番組は必要悪だと思っています。

 

だから、もう何十年続いているのか知りませんけど、24時間テレビも私は無駄なようにも感じますが、失くしてしまう必要はないと思います。

夏場のあの時期だけでも障害者に目を向け、障害者が見世物みたいにされてもそれでも関心が向いて金が集まれば結果的には何かしら障害者にも還元されるだろうと思っているからです。

 

中途障害になってしまった場合は仕方ないんですが、先天性の障害がある人の場合、妊娠が発覚し、中絶迄のタイムリミットの間で先天性障害が判明する事もとうぜんあるわけで、そうなった場合は、私はやっぱり降ろす道を選択すると思います。

 

皆さんにもおろすように勧める気はありません。

 

人の命の絡む問題ですし、それは人それぞれの考えもあります。

 

何が正解で何が間違いというのはありません。

 

私が堕胎を選択する理由は私の経験から来ています。

 

私は今から30数年前、福祉バスの添乗員の仕事をしていました。

バスの添乗員のキャリアがいつの間にかベテランの域に達していた私はスポット的に穴が開いたバスに配属されて使われる機会が多くなりました。

そのバスの添乗員が社会人になるので退職してしまったために、次の添乗員の補充があるまでそのぬけたバスの添乗員を私が行う事になりました。

引継ぎもへったくれもなくぶっつけ本番でしたが、そこは馴れと転勤族で培ってきたコミュニケーション能力で短期間で利用者たちとも仲良くなりました。

 

その利用者の一人に筋ジストロフィーの男の子がいました。

 

彼は当時小学校4年生だったかな。10歳の割にはしっかりしていて、いろんなことをよく知っているし、勉強も好きなのかいろんな本を読んだり、勉強もよくしていました。10歳の段階でもう歩くことも出来なくなっており、上半身だけは健常者と変わりなく動いていました。

 

ある時、彼と彼の両親が送迎場所で口論をしていました。

 

いつまでたってもバスに乗ってくれないんで、喧嘩を仲裁してさっさとバスに乗ってもらわないと次の利用者にも影響が出ます。

 

何がきっかけで言い合いになっていたかはわかりませんが、私が聞いた言葉は強烈な言葉でした。そしてそれは今も忘れられません。

 

「誰が、産んでくれって頼んだ。しかもこんな不倶に。お前ら産む前に俺が不俱だってのわかってたんだろ。だったらおろせよ。なんで産んだんだよ。なあ」

 

「こんな欠陥品。生む前に処分するべきだったんだ。なぜおろさなかったんだよ。」

 

「人生80年の時代に俺は20歳までは絶対に生きられない。おれは人間だろ。

なんで犬猫並みしか生きれないのわかっていて産み落としたんだよ。

俺はお前らのペットなんか?俺は人間だよ。

人間だから生きていろんなことしたかったよ。

でも俺は出来ない。

俺は後1年か2年もしたら話す事すらできなくなる。

そして自分が何者であるのかもわからなくなる。

でも、お前らは俺という大事なペットが可愛いんだろ。

だから俺が死にたくてもしなせてくれないで、管に繋いで惰性の人生をすごさせるんだろうな。」

 

「お前らの勝手で俺は毎日が地獄なんだよ。代わってくれよ。なあ。頼むよ。代わってくれ。」

 

両親は言い返せませんでした。

 

父親の方はただ少年の血を吐くような言葉を黙ってしっかりと聞いていました。

 

母親の方は自分が産んだという責任もあってか泣きじゃくっていました。

 

私も流石に仲裁に入れません。

 

彼の心の叫びを止めることはできなかったのです。

 

しかし、こんなつらい言葉を子供に吐かせるくらいならやっぱり先天性障害がわかっているのならおろすべきなんじゃないかとわたしはそのとき強く感じましたね。

 

彼は小学校卒業するまでは確か生きていたと思います。

けど中学校に上がって直ぐに亡くなりました。

 

彼の予言通りでした。

 

半年後暗いから言語障害が酷くなり聞き取るのが難しくなりました。

その半年後にはとうとう発声機能が停止し、自分で話すことが出来なくなりました。

話すことが出来なくなった彼は私や運転手に対して多分気を使ってくれていたんだと思います。お話は出来ないけど、こんなに毎日楽しく過ごしていますよというのをアピールしたかったのか、それとも覚悟を決めていたから明鏡止水の世界に入っていたからなのか、穏やかに始終笑みを浮かべていました。

 

その一年とちょっとたったのち、亡くなったと教えてもらいました。

私はそのころはもう社会人になっていたので、当時のバイト仲間から教えてもらって知りました。

 

私が彼と知り合ったのは彼が小学校3年生の時、そして彼が小学校4年生の時にかれと彼の両親との大げんかを目にしました。5年生の時にはしゃべれなくなり、急速に死に向かって人生の幕引きを始めだした彼に私はほんとどう接していいのやら困りました。

 

彼と一緒になって悩んだり考えたりすることは自分がそういった障害を持ってないからわからない。だから私は私の方法で彼にこの時間だけは楽しく過ごしてほしいと思い、馬鹿話ばかりをし、とにかく下車するまで笑いの絶えないそういう空間作りを意識して作っていました。

 

しゃべれなくなっても人の話の内容は理解していますから、馬鹿話をすれば声には出ないけど、大爆笑してくれているのは表情からわかりました。

 

何もしては上げられないけど、今のこの時間を笑って過ごしてくれてたらそれでいいかなと思い、私がそのバスを降りて別のバスに移るまで続けていました。

 

話すことが完全に出来なくなってしばらくして私の異動が確定し、私の代わりに別のバイトさんが入ってくれることになりました。その人のために利用者一人一人の知ってる限りの個人情報をワープロで打ちだしてファイリングして渡しました。

 

結局、私の後釜に入ってくれた人の時に彼は亡くなってしまいました。

そして彼の死について知らせてくれたのもこの後釜の人でした。

 

多分、アメブロでも相当大昔にブログを掲載していたはずなんですが、かれこれもう10年近く前の話なんで、改めて掲載しようかなと思います。

 

前回は多分数回に分けて掲載したはずなんですが、今回は新聞記事にもなっていた神社に私も訪れていますので、その事を中心に写真も掲載して説明していこうかなと思います。

 

旅行に行ったのは平成25年(西暦2013年)の6月初旬の事です。

対馬は2泊3日で壱岐が1泊2日の合計3泊4日の旅行だったと記憶しています。

 

上の写真のように海の中に鳥居がたつ厳島神社みたいな感じです。
恥ずかしながら看板に反射して私と父も映ってしまいました(笑)
そのため非常に看板が読みにくくてすみません。
変わった形の鳥居というか何だか囲われたものがあります。
 
このなんだかわからないものに囲われた土塊みたいなものが神様なんだそうです。
海の中だけじゃなく、当然陸地にも神様は祀られているわけで、下の写真の後ろを振り向くとその下の写真のように神石が祀られ、建物があります。
この建物の裏に絵馬が沢山奉納されていました。
 
そして実はこの絵馬に朝鮮人が落書きをしているんです。
絵馬を買って奉納している朝鮮人もいましたが、それはごくわずかです。
私はおでん文字を訳する事が出来ないので、それはどなたかおでん文字を訳する事が出来る方にコメント欄にでも訳文を書いていただけたら助かります。
 
まあこの時期の話ですから訳さなくても書いてあることは多分竹島は朝鮮人のものだとか、対馬も朝鮮人のものだとか盗人が持ち帰った仏像も朝鮮人のものだとかそういうことでしょう。2012年に朝鮮人の泥棒が南に持ち帰ってそのまま帰って来てませんから多分タイムリーにそんなことでも書いてんじゃないでしょうか。
 
私が見つけた落書きはもっとたくさんありました。
絵馬全部の数は忘れてしまいましたが、落書きは37件だったかな。
絵馬の全体数の何割が落書きされていたかというのははっきりとここに書けないのが残念なのですが、落書きは目立ちましたね。
 
お賽銭に南朝鮮の通貨が結構混じってました。
 
だから朝鮮人はお賽銭の意味は理解しているし、神頼みみたいなこともするみたいというのがわかりました。
 
迂闊にもフラッシュたいて写真撮ったために朝鮮通貨だというのがわかりづらくてすみません。
 
だから絵馬も買って願掛けするってのは分かっているはずなんですが、日本人の絵馬に落書きして日本人の願掛けの妨害してやろうという魂胆から、こんなことをしているのかもしれませんね。
とにかく人が書いているものに落書きするという心底が理解できません。
朝鮮人の感情や考え、行動認識というのはかなり日本人とはズレているんだろうなと思います。
 
見た目はよく似ていますが、中身は対角線上いる存在。
 
それが朝鮮人なんだろうと思います。
 
まあ、尤も、朝鮮人に限らず、日本人とよく似ているモンゴル人もベトナム人も、支那人も中身に関しては日本人の対角線上にいる存在なんだろうなと思いますけどね。
 
10年前でこんなことしているくらいですから、今はもっと悲惨な状況になっているのかもしれませんね。
 
また対馬に旅行して観光被害の状況を調べに行きたいなとは思っています。
 
そうそう、落書きといえば、壁面にも落書きが散見されました。
場所は神社とは違うところですが、こんな感じです。
 
それとこれは観光被害よりまだなお深刻だと思うんですが、海浜に漂着した東アジア諸国のごみがすさまじかったです。
写真で残していたかと思ったら動画で残していたのでアップする事が出来ないのが残念です。
 
 
 

食品衛生法改正に伴い令和3年6月から、漬物を製造して販売する場合、「営業許可」が必要になりました。

 

きっかけになる事件がありました。

 

北海道の漬物製造会社岩井食品が製造していた白菜の浅漬け「白菜きりづけ」がO-157に汚染されていて、100人以上の食中毒患者を発生させ、8人の高齢者が死亡した事件がありました。

 

漬物産業は塩分が濃いイメージがあり健康食品嗜好が強まった平成期に入ってからは右肩下がりで市場が低迷していました。

 

そこで漬物産業が取った方針は減塩に主眼を置いた薄味で塩分濃度抑えた漬物を売り込むようになりました。元来の製造方法に比べて塩分濃度を下げた結果が消毒の効果を弱まらせたという説もあります。

 

塩分濃度を下げた分、消毒効果を高めるために消毒作業を強化するべきところを怠っていたのも原因の一つと言われています。

 

改正食品衛生法では漬物製造を許可制にかえました。

漬物製造をするためには必ず、 手を触れなくても水が出るセンサー式手洗い場など、衛生状態を保つための設備が求められています。 

 

漬物製造を事業化し、一定数の漬物を製造している中小企業や個人商店であれば、こんな改装大した費用も掛からないので、どうってことはないんです。

 

問題は道の駅や農協売店に出荷している個人です。

概ねこういうところに出荷している個人というのは高齢の農家が多いです。

キチンと儲けも考えて出荷している人もいれば、出荷するのが生きがいになって金銭面は考えていない人も多いです。

 

農家などの一個人の場合、改装費用も馬鹿になりません。

 

親戚に水道工事業者がいるんで聞いてみました。
 
物によりかなり値段に差が出るみたいですが、全自動蛇口に交換するとなると部品代と工賃込みで最安値は3万5千円くらい。業務用のかなりいいものだと20万くらいするみたいでした。
 
最安値の3万5千円だとしても国民年金だけで暮らしている人の場合だったら半額以上持ってかれてしまうんでかなり大きな出費になります。
 
道の駅から漬物がなくなるという事はないでしょうが、今迄のようにたくさんの漬物の中から選ぶという事は出来なくなるかもしれませんね。
 

 

 

 

 

私は保育園から教師に対する不信感を露骨に態度で示すようになり、教師は敵という認識で行動する事が多く、大学と中学校を除くとほぼ担任教師と私は衝突する羽目になりました。

 

だから、私にとっては学校はある意味戦場みたいなものでしたが、仲の良い友人や楽しい部活などもありましたから、学校へ行くのが苦痛とはいいながらも楽しみもあったので不登校にはならなかったのかもしれません。

 

これは私の性格もあるのでしょうが、転勤族だったことがかなり影響しているでしょう。

 

引っ越し先の恥はかき捨て、それに転勤族だから幼馴染がいない。だからコミュニケーション能力がないと友達が作れないため、自分から結構話しかけたり積極的に友達作りをしていました。

 

それと、これは多分、運も左右していますが、転校先全てで友人は全部障害者に転落するまでは残すことが出来ました。障害者になった時にもう物理的に会ったりすることもないだろうと健常者時代の友人とはバッサリ縁を切り、フェイスブックで再会できた友人を除いてみな切れてしまいましたが、引越しするたびに友人作りは比較的うまくいき、しかもこれも完全に運なのですが、自分より人間的にも出来た人を友人によく選んでいました。

 

多分、転勤族で転勤を繰り返すことで嗅覚が働き、この人はいい人だというのを直感的に見抜いていたんだと思います。一方で来るもの拒まずで問題児の友人も少なからずいました。

 

自分から友人関係を結んだ友人はホントどういうわけか自分よりも人間の出来がいい人が多かったですね。まあ、私のような偏狭な人間とも分け隔てなく付き合ってくれていたのだから、人間としての度量が元から広かったんでしょうけど。

 

勿論学校に行くのが嫌で学校さぼりたいなあと思った事はあります。

 

けど、結局は学校に行ってるんですよ。

 

何故なんだろうと色々思い返してみたんですけど、やっぱり行くのが義務、仕事という認識が一番強かったんだろうと思います。

 

それでも苦痛だったり、つまんなかったら学校に行かなかったはずなんですが、多分家でゴロゴロしているよりも学校の方が刺激もあるし、楽しみも多かったんでしょう。

 

そう、家に娯楽が少なかった。

家に娯楽が少なかったというより、当時の子供たちの娯楽が少なかったといった方がいいのかもしれません。

 

他の家の子が持っていて私が持っていなかったものはファミコンくらいでした。

けどファミコンの代わりにパソコンが家にあったので、ファミコンのゲームソフトの大半はパソコンでもありましたから、ゲームは家に潤沢にあったはずです。

 

けど、今のように娯楽に囲まれた状態ではありませんから、それだけやっていても飽きてしまうんです。

 

1日2日なら家でゴロゴロしていても楽しいですけど、それが1週間や1カ月となるともうやることがなくなってつまらなくてしょうがないんです。

 

だから、夏休みなんかは楽しいはずなんですが、結構苦痛でした。

 

遊んでくれる友人がいればいいですが、友人は友人で予定を突っ込んでいるから会えなかったりするわけで、何の予定も入れていない私は暇な時間をどう過ごすかというのが結構苦痛でした。土日は両親がどこかに小学生くらいまでは必ず連れて行ってくれていたので、週末は楽しかったんですが、平日は母も内職をしていましたし、何もやることがないので暇がつらかったですね。

 

だからおそらく不登校にならなかったんだと思います。

 

今は娯楽が満ち溢れています。

 

スマホ、パソコンをひらけばなんでもできますし、ゲームや動画でいろんなものが楽しめます。しかも無料で遊べるものも結構ありますし、無料じゃ物足りないかもしれないけど、そこを割り切って使えば十分に時間を潰せるでしょう。

 

私の甥っ子で一人、不登校になったのがいましたが、それに理由を聞いてもただなんとなくという理由でした。

 

私は兄と兄の子供との付き合い方で一つ、取り決めを決めていました。

 

兄や兄嫁は躾けや教育の関係上、どうしても子供たちと対立しなきゃいけない場面が往々にして出てきますが、私だけは絶対にどんな時でも兄の子供側にたつようにするというのを決めていました。

 

子供にとって逃げ場所がないというのがどんなにつらい事か兄も私も経験していたので、意図的に駆け込み寺になるようにしていました。

 

だから兄の子供が悪い事をしても私は叱ったり注意したりすることはありません。

賢い子だったというのもありますが、悪い事やよくない事をしたという自覚は持っていてやってしまっていることが多かったんです。

 

だから、決して叱らないで黙って話を聞いたり、悪い事を肯定はしませんでしたが、否定する事もしませんでした。話をただ聞いてあげることに徹しました。

 

甥っ子は私という駆け込み寺があったから、不登校の間、私のもとで半月くらい同居してまた自宅へ帰りました。そして帰った後直ぐにまた学校へ行くことを再開していました。

 

半月の間、兄と兄嫁は心配して私のところにほぼ毎日電話して様子を聞いてきましたが、好きなようにさせている。家でテレビ見たり、パソコンに無料ゲームをダウンロードして遊んだりしてる。私の体の事とお金の事を気にして外食ばかりに連れて行ってたら家で料理しないのなんて家庭の主婦みたいなこと言われてハっとさせられたよなんてことを兄とは話していました。

 

 

甥っ子は私と違い、人を見る目が無くて、悪い友人ばかりと付き合っていて負の方向や感情に引っ張られることが多く、損をしまくっていました。

不器用で行き当たりばったりで親に叱られ続けているのは少年期の私とダブって見えて、養子にもらいたいと思っていたくらいにかわいがっていました。

 

 

しかし、留学する時に発展途上国の人間だけは信用するなといった事が彼の逆鱗に触れて絶交してしまう事になりましたが、リベラル教育を受けてきた彼にとっては私のような差別主義者は唾棄すべき存在だったのでしょう。

 

ただ、留学先で、発展途上国の留学生と仲良くなり、その人間に自分の車で事故を起こされ賠償迄負わされて私の言っていた意味を理解してくれて今は向こうからの謝罪はないですが、一応和解は出来ました。私も別に甥っ子に謝罪なんてしてほしくはないし、懲りてくれたらそれでいいんです。それからは発展途上国の人間と深い付き合いはしていないようです。

 

昔通りに付き合いは戻っています。

 

 

先日、電話で話する機会があったので、不登校時代の話をしたら、彼にとっては黒歴史なのであまり触れたくなさそうだったのですが、何となく学校に行くのが嫌になった。元々学校がつまんなかった。さぼれるものならさぼりたいなあと思って、ふっと行きたくないからさぼろうかなと思って、何の気なしにサボってしまった。そしてずるずるそのまま過ごしていたら今度はもう今の生活にも飽きたから学校に戻ろうかなあと思ったら戻ることに何か鍵がかかって行けなくなってしまい、どうしようと頭の中がパニック状態になっていた。でも私が毎日自分の趣味に無理矢理でしたが付き合わせて外につれまわって遊ばせてくれたおかげで、外に出る家から出るという事への抵抗感はなかったから、ひょっとして学校に行けるんじゃと思い、それで自分からももう学校に行けると思って私の元を離れ兄のもとに帰った翌日からまた学校に通学する事が出来た。

私が調理するのが面倒なのと、どんな味付けが好みなのか知らないから外食ばかり連れまわして必ず外で食事していた事が外に出る事への抵抗を減らしてくれたと言っていました。

学校に行かないでサボっていることに対しても何にも怒らないし叱らないだけじゃなく、東京都内観光を連れまわしてくれて楽しかった。家でゴロゴロしているのも楽しかったけど、知らないところに連れて行ってくれるのは楽しかったと言ってました。

私は当時無職だったし、私も再就職が決まらなくてちょっと精神的におかしくなりかけていた時期だったので、これで甥っ子ともども家に引きこもったら最悪マジで甥っ子諸共孤独死してしまうと思ったから、自分の趣味の世界ではあるものの博物館や美術館に行くという目標を立てて無理矢理外出していました。

家でゴロゴロしていると楽なんですが、やることないから苦痛だったんですよ。

何かやることがあってそれでたまにゴロゴロならゴロゴロがいい癒しになったり、疲れをとるのに貢献するんですが、毎日ゴロゴロだと体力奪われるだけで何のメリットもない事を体感的に知っていたから、甥っ子にも同じ目に合わせてはなるまいと、私は私なりに必死でした。

 

一時期ほんとに家だけで生活してゴミ捨て以外は外に出かけないという生活を数カ月くらい続けてしまった事があるんです。宅配や出前も都心ですから充実していましたし、交通事故の示談金も手に入ってしばらくは働かなくても暮らしていけるという金銭的余裕も影響していたのでしょう。

そうするとゴミ捨てに行く僅か数十mの歩行すら体力がなくなって腰が痛くなったり息切れして息も絶え絶えになってしまいました。

引きこもりの一歩手前の状態だったのです。

その事に気付いて慌ててここからリハビリを独力でし始めたのですが、普通に歩けるようになるまで1年以上くらいかかりました。

無理矢理出かけようとすると体が勝手に拒否反応を示して、下痢を起こしたりするんです。

精神科の医者に掛かっていましたので医者にこのことを聞くと、神経性の大腸過敏症だろうという事でした。

これでは家でゴロゴロしていたら寝たきりになってしまうかもしれない恐怖というのを痛感し、再就職できなくてもなるべく外に出て家でゴロゴロしないような生活を送るように心がけました。

体力つけるために公営プールに行こうと家から結構距離は離れていたんですが、駐輪場があるのでバイクもおけることから公営プールにバイクで通うようになりました。

これで体力をつけることに成功し、長距離は流石に歩けませんがまあ日常生活を送る程度の距離であれば問題なく歩けるようになりました。

 

子供はそこまで体力堕ちないでしょうが、中年超えると衰えるのはあっという間です。

 

 

自分で自発的に気が付いて軌道修正しないと一旦引きこもりになって社会復帰や学校復帰するというのはかなり難しいと思います。

 

私の場合も甥の場合もそうですが、結局は自分からこのままじゃだめだと思って行動した結果引きこもりや不登校の状態から抜け出せました。

 

結局は不登校や引きこもりから抜け出すのは他力本願では無理。

自力本願で抜け出すしかないというのが自分が経験から導き出した答えでした。

ただ、自力で抜け出せずにもがいているときに他人からの意識づけがあれば自力本願で抜け出せ安いかもしれないなというのは甥っ子を見ていて感じました。

 

不登校や引きこもりの状態がいい状態じゃないというのは多分誰よりもその状態に陥っている本人が自覚していると思います。まあ中にはそうでない人もいるかもしれませんが。

強く執拗に意識づけする必要はないですが、私の場合はたまたま甥っ子が同居していた時は自炊でなく外食を導入していたから、必然的に外出しないとどうにもならないという状況を作り出していたので、完全な引きこもりや不登校にならなかったというのが良かったのかもしれません。

日常ルーチンの行動の中に外出する事を強制できるようなルーチンを突っ込むことで引きこもりや不登校から抜け出せるきっかけを導き出せるかもしれません。

 

まあ、あくまで私の経験上の話であり、偶然の産物ではあったんですけどね。

 

不登校や引きこもりの人を否定するような発言は辞めた方がいいとは思います。

私も甥っ子が不登校だった時にそれを否定するような発言はしていません。

せっかくの機会だから、学校に行かないでサボっている時間に学校じゃ体験できない事をしに行かないと言って甥っ子を誘って甥っ子は多分あまり関心なかったかもしれませんが、いろんなニッチな分野の博物館や美術館に連れて回りました。

寄生虫博物館と拷問博物館は流石にドン引きしてましたが、都庁や東京タワー、深川資料館キッザニアは楽しかったみたいです。キッザニアは中学生にはちょっとつまんなかったかなと思ったんですが、本人は結構楽しんでくれていたみたいでした。キッザニアの対象年齢は多分幼稚園から小学生くらいまでの間で多分小学校高学年くらいになったら物足りないんじゃないかと思ってたんですが、そうでもなかったようです。

毎日都内の博物館を私が勝手に調べそこにある意味無理矢理甥っ子もつれて出かけていました。甥っ子は顔は子供でしたが、身長は大人だったんで、私と平日外出していてもあまり変な顔で見られることはありませんでした。まあ大学生か専門学校生くらいに見えていたのかもしれませんね。中学生で180cmある生徒なんて多分そんなにいないと思いますから。

 

結果的には家でゴロゴロしているより外に出て何かしてる方が楽しいという事に気付いたんでしょう。

それが気づきになって学校に行くという事に繋がったんではないかと思います。

 

一時期ちょっとだけ社会問題になって今は全く話題にもなってませんが、そういう引きこもりの子供の面倒を主に親だと思いますが、保護者が見るのが限界になり、業者に頼んで無理矢理外に出してもらい、その業者に頼んで強制的に施設に入れるみたいなことが流行りました。

 

本人がやる気ないのに無理矢理外に引き出して、そして本人の希望でもないのに施設でカンヅメにして強制労働させて社会復帰させようとしてもそれは絶対に失敗するのは目に見えているし、追い詰められた引きこもりが自殺する可能性も高まるわけで、全く効果は期待できないでしょうね。

 

仲にはそういったショック療法で社会復帰できた人がいたとしてもそれはよほどに稀だったんだろうと思います。

 

まずは本人が社会復帰したいという気持ちを持っているか、そして社会復帰したいという気持ちを盛ってもがいているところに他人がしてやれることは行動を起こすためのきっかけの気づきをどうやってあたえることができるかという事しか手助けできるところはないんじゃないかなと思います。

 

私の場合は運よく気づきを与えることが出来たし、何より甥っ子自体がこの状況から抜け出したくてほんとにもがいていましたからね。

 

自分が変わるきっかけは他人が与えてくれたとしても結局は自分自身が能動的に動いた結果、そこにたまたま他人が与えてくれたきっかけがパズルのピースのようにハマっただけです。

 

結局のところ自力本願でしか不登校も引きこもりも社会復帰するためには必要不可欠なんだろうなと思います。

 

 

 

私がまだ障害者に転落する前、二足の草鞋を履いていました。

正社員としてグループホームで働く一方で、アルバイトで警備員として働いていました。

最初のうちはグループホームの方の給料の方が当たり前ですが上でした。

あくまで警備員はアルバイトだったので、毎日働いていたわけではありません。

それでも給料が安いのでやっぱりダブルワークしないとやっていけなかったので、気分転換とお小遣い稼ぎの両方で警備員の仕事をしていました。

 

グループホームでの私の仕事は最初は普通に生活指導員という役職で、生活指導員というたいそうな役職名が与えられていましたが、やっていることといえば、入居者の日常生活の介護や介助をするといった感じでした。

 

働き始めて1年半くらい経ったら、仕事に対する欲が出てきました。

グループホームと言いながら、お年寄りと障害者の入居者が混在していました。

障害者の人はお年寄りに比べるとうんと若く、何人かの人には私が入職する前からお年寄りの介助を手伝ってもらっていたりしていました。勿論障害者の入居者の人も混在させるくらいに重度で何もできない人も大勢います。

またグループホームという組織的な事情もあり、生活保護世帯の独居老人などが終の住処として利用している人もいたのです。

そういうお年寄りには元気な人もいました。

勿論、そういう元気な人には掃除や洗濯、シーツ交換なんかを手伝ってもらったりしていたのです。

 
 
それである時、ふと気づいたんです。
 
 
これ、障害者雇用出来なくない?と
 
それで施設側と相談し、入居者の中で働けそうな障害者をアルバイト採用しませんかと切り出したのでした。施設長は簡単にやってみろと言ってくれたので早速開始したのでした。
 
 
手始めに入居している利用者のうち、働けて戦力になっている人を実際に採用しました。
 
正社員ではなくアルバイトとしてです。
 
 
これには生活保護で入居している年寄りはいれませんでした。
 
働いた収入が入ると彼らはグループホームからでなければなりません。
 
 
だから、彼らには申し訳なかったのですが、今迄通りの宙ぶらりんのままで働いてもらいました。
 
障害者の方は障害者雇用で働いてもらえばこちらも障害者採用でわずかですが助成金ももらえます。
 
それに障害者雇用に積極的な企業として企業ブランドのイメージもよくなります。
 
 
それで近所に隣接していた別法人の通所の障害者施設(仮にAとします。以降Aと表記)ともタイアップし、彼らの日常や生活状況を何度か私がじかに見せてもらいに行きました。
 
私と施設長、施設長夫人(グループホームの生活指導員をしていました)の3人でよく訪問して使えそうだなという人間をピックアップして、Aの職員の方たちとも相談し、何人かの人を研修という名目で預かり、やって行けそうだなと思ったら採用していきました。
 
このやり方をA以外の近隣の作業所にも拡大し、さらには社会福祉協議会ともタイアップして障害者雇用に積極的に取り組むようになりました。
 
とはいえ障害者で作業所レベルの人を雇っても彼らだけでは多少の戦力になってもやはり健常者とは違います。そこで健常者で障害採用の人をヘルプする人材をこれまたアルバイトで採用していました。
 
言い出しっぺだった私は採用関係一手を引き受けさせられることになり、障害者採用も健常者採用も両方引き受ける羽目になり、障害者採用もグループホームの支援だけの採用じゃなく、障害者の人に登録してもらって働けそうな仕事場を斡旋するようなことをやるように迄なりました。施設長が人材派遣や斡旋の資格を有していたので、事業として進めることが可能になりました。実際には私があちこちの作業所や福祉協議会や障碍者団体やサークルに顔を出して働きたい人を手当たり次第に声をかけ面接を受けさせ、研修に放り込んで適性を見て働いてもらいました。
 
グループホームを経営している企業は、グループホームは副業であって本業は土建会社でした。私は副業で警備員の仕事をしており、主に雑踏警備なんかをしていたので、土建会社で雑工が足りないというのはよく知っていました。
そして障害者の特性にもよるんですが、意外と一つの事を無限に集中してやる能力が高い人が障害者には結構いるんです。
だからそこに特化して雑工として採用してもらえたら意外と仕事が続くんじゃないかと思い、何人か親会社の土建屋に雇ってもらいました。
それが軌道に乗って評価を得る人も少なからず現れたので、これはイけると思い、アルバイト先の警備員の仕事先の現場の職長に話をして障害者を雑工で雇ってみないと声をかけアルバイトとして採用してもらえるようになりました。
 
私が口利きしたのは100人未満くらいだったと思います。
勿論、直ぐにやっぱり合わなくて辞めてしまう人も結構いましたが、多くは研修を噛ませて採用してもらっていたので、グループホームが倒産した後も継続して雇ってもらえた人も少なからずいました。
 
グループホームで採用されたものやその親会社で採用された人たちは倒産に連座して職を失ってしまいましたが、そうでない人達は私が障害者に転落した後でもまだアルバイトを続けてくれている人もいました。
 
しかし、実はグループホームや土建屋で採用してもらった人たちがかなり優秀な人が多かったので、彼らが倒産に連座して失職したのは本当に残念でしたし、彼らの大半に次の仕事を提供してやれなかったのが残念でなりませんでした。
 
何人かは自力で次の仕事を見つけて再就職してくれた人もいましたが、大半は無職のままでした。まああれから四半世紀経ってますから、その後に彼らが再就職できたかもしれませんし、あのままだったのかもしれませんが、そこは分からないですね。
 
なにせ倒産した年に私も障害者に転落してしまいましたから、自分のことで手いっぱいでその後の彼らの事を心配はしてましたが、何もできる立場じゃなくなったんでどうしようもありませんでした。
 
さて、話は変わりますが、障害者を採用してそのサポートに健常者を採用するという事をしていたという話をしましたが、その健常者採用の時に書類選考で落としていた人がいます。
 
自分達の身内に近い人達であれば気心も知れてるし、付き合いもあるからそこには信用や信頼の関係も出来ています。
 
だからそういった伝手での採用の場合は保証人がいなくても高齢者は採用していました。
 
しかし、そういった関係性のない人達が募集に応じてやってきた場合は、高齢者と外国人だけは容赦なく落としていました。
 
最大の理由は連帯保証人がとれないからです。
 
ただ、募集をかけてもなかなか人が集まらない時は高齢者は面接していました。
 
外国人だけは連帯保証人がまず取れない事をわかっていたので書類選考だけで落としていました。
 
募集をかけて書類選考を通過し、面接となった時、貴重な時間を割いて面接に来てもらっているからという理由で、お車代の予算をつけてもらって、一人当たり1000円と非常にしょぼいのですが、車代を封筒に入れて渡していました。
 
この時、忘れもしない一人の応募者がいました。
ラテン系の人間で、もう名前も忘れてしまいました。
誰か日本語に通暁する人が知り合いにいたのか、日本人でいたのか知りませんが、日本人の名前でワープロ打ちして履歴書を書いて送ってきました。
写真も日本人の協力者がいるのかそれともネットから手に入れたんでしょうか。
よくわかりませんが、日本人の顔立ちの写真をつけて、送ってきました。
面接会場には日本人の見た目のはずが完璧にラテン系の顔の人間がやってきました。
 
え?うそ??これってどういう???
 
目が点になりました。
 
しかも日本語も結構適当な日本語しか話せないから、面接でコミュニケーション取ろうとしてもうまく取れません。
 
尤も本人とは似ても似つかない写真をつけて送って来る段階で採用する気はありませんでした。
 
こんなのでも来てもらったからにはしゃあないなと車代を渡して帰らせました。
 
するとこの御仁、その後何度も名前を変え、写真を変えて応募してきました。
 
ワープロ打ちの履歴書は送らないでとすればよかったんでしょうが、実際の仕事ではワープロやパソコンもそこそこ使う事があります。
だから、ワープロ打ちやパソコンで自家製の履歴書を作ってきてくれる人はそこそこⅠTに通じている人として私の中では評価していたんです。
だから、写真と名前を変えられたら同じ人が何度成りすましされてもこっちはそうかもしれないなと思っていてもやはり面接するしかないんです。
 
 
同じラテンが何度もワープロ打ちしてお車代だけもらいにやってきました。
 
 
流石、発展途上国、日本人とは次元の違う考えと行動をするなあとある意味感心しました。
 
恥なんて概念がないんでしょうね。
 
現物主義者というか、現金主義者というか、なんというかまあ、あのラテンはなかなかに強烈でした。
 
するとこのラテンが他のラテンに教えてやったんでしょうか、ラテン達がこのラテンと同じ手法で何度も面接を受けに来るようになったんです。
 
まあ、金額は微々たるものだからいいんですけど、こっちは期待しているのにこんな乞食ばかりやってきて、本当に働きたい人間は受験してくれないというのは結構精神的にはクるものがありましたね。
 
私が発展途上国移民を殊更蔑視するのはこういった経験もかなり影響しています。
 
たまたまラテンだけしか発展途上国の受験者がいなかったんで、ラテンばかり相手にする羽目になりましたが、きっとラテンだけじゃなく、東アジアや盗難アジアが面接までこぎつけていたら、同じような事をしていただろうなあとは思います。
 
だって、行ったらお金もらえるんだもん。それがたった1000円でも自転車や徒歩で行けばまるまる1000円の儲けになるんですからね。
 
ラテン達は自転車で面接に来てましたよ。
 
いや、こんなしょうもない微々たる小遣い稼ぎするくらいなら日雇いでもいけよと思いましたけどね。
 
日本語殆ど話せないから無理だったのかもしれませんね。
 
 
 
 
 
 
 
 

火災現場から逃げ出していたピットブルが自宅に戻ってきて無事保護されましたという事でまずは良かったというお話でした。この犬が逃げ出している間にトラブル起こしていたらそれはそれで記事になってるでしょうから、そういった記事がないという事は犬自身が興奮状態から冷静になり家に帰ってきたという事なんでしょう。やけどを負っているみたいですけど、人に被害はなかった模様だし、犬も動物病院で治療を受けたようです。

 

 

実は今から40年以上前、岡山に住んでいた時に樺太犬を飼っていました。

私の家から見て斜め向かいほどの距離にあるお宅で火災が発生し、この時火災に興奮した犬が紐製のリードを引きちぎって遁走してしまいました。逃げ出した直後を目にした私は追いかけたのですが、足が速すぎて追いつけず、犬は諦めて先行して消火活動にあたっていた父に続いて、家の外水道のホースを長尺のものと交換して(50mくらいはあったと思います)家の外水道を使って火災の発生したお宅に水をかけつつ、接近して家の中に人が取り残されてないか声掛けをしました。

火元のお宅は日中は専業主婦の奥さんと、高齢で足腰の弱っているお姑さん、お子さんは5人かいてそのうちの一人はまだ乳飲み子だったので、お子さんとお姑さんが取り残さ 

れている可能性があったんで必死になって声掛けしていました。

その後、消防がやってきたので、消防隊の人に、声掛けをしたけど中から人の反応は聞こえなかった。しかし、普段は中年女性と高齢の女性、お子さんが5人いることを伝えました。

奥さんは買い物に出かけて不在なのは奥さんがいつも使っている自転車がない事からわかっていましたが、お姑さんと乳飲み子がどうなっているのかはわかりません。

他のお子さんは自転車がない事から多分出かけているんだろうというのは分かりました。

消防は私をはじめ他の消火活動を手伝っていた近隣の人達からの話を聞き、火中の中、ためらいもなく入って行きました。

とりあえずはこれで一安心かと思いましたが、火勢はまだまだ衰えていなかったので、火元の家の両隣の家からうちの家にも水をかけてくれと頼まれたので、びしょびしょになるまで一生懸命火元の両隣の家に水をかけました。

ようやく火勢が衰えてきたところで、もう大丈夫だろうし、消防の応援も結構来ていたので、父が撤収したのに合わせて私も撤収。

犬が逃げ出していたから犬を探しに行かなきゃと思ったら、当の犬は、てんと小屋の中に戻ってまあるくなっていました。

 
火事と人の怒声と喧騒に興奮して外に出て行ってしまったんですが、興奮状態が収まって冷静になったのとおそらくひとしきり勝手な散歩を楽しんで満足したから家に帰ってきたんだろうと思います。
 
家の人や近所でよくしてくれる人以外には懐かない反面、人に攻撃する事はなく、逃げる、我慢してじっとしてる、そんなタイプの犬だったのですが、かなり興奮状態で出て行ったので、誰かに弾みで何かしてないかはかなり気がかりでした。
 
近所で樺太犬なんて飼っている人いませんからうちだと一発でわかってしまうので、何かあればうちに連絡が来るだろうと一週間くらいはやきもきしてましたが、何もなかったんで、結局あの30分くらいの逃亡劇の間、あいつは特に人様に迷惑かけずに戻って来たんだなと思いました。
 
 
 
当時は犬を外で飼うのは当たり前だったし、庭で放し飼いにするのも当たり前の時代でした。
 
 
室内で犬を飼うだなんてどこの上流階級だという認識だったんです。
 
 
紐製のリードから鉄の鎖のリードにこの一件から変えました。
しかもその鉄の鎖の先には父が職場で眠っていたからもらってきたという鉄アレイ30kgを二個もらってきてそれを鎖の先に括り付けていました。
ところが、全く効果ないんですよ。
樺太犬だから引っ張る力が強いんです。
合計60kgも鉄アレイをずるずる引きずって庭中歩いてました。
 
それで父も今度はと意地になって犬小屋の横に大きな穴を掘ってそこに捨てコンを流し捨てコンにくさびを打ち込んで、そのくさびに鎖を通して犬を繋ぐことにしました。
 
流石に今度は引きずって歩くことは出来なくなったんですが、器用にどうやってなのか首輪を外す知恵がついて、首輪をスポンと外して逃げ出すようになってしまいました。
 
ある日、父が翌朝まで残業して家に帰ってきたら、その後ろを勝手に出かけて午前様で帰ってきた犬の姿を見て父がブチ切れて、犬を万成石の採掘場に捨てに行ってしまいました。
 
万成石の採掘場と家の距離は多分10㎞くらいは離れていると思います。
 
だから流石に帰ってこないだろうと諦めていたら一週間後、てんと小屋の中で丸くなって寝ている犬がいました。
 
一番最初に犬が家に帰ってきているのに気づいたのは犬を棄てた父でした。
 
「あいつ、勝手に帰ってきてたぞ」
 
まさか帰って来るとは思ってなかったんで、びっくりしました。
 
犬は申し訳なさそうに愛想尻尾振りしながら上目づかいに私たちを見ていました。
 
その姿が
「私ここに戻ってきちゃいましたけどお許し頂けるんで」
見たいな感じに見えてなんだか犬が飼い主一家に下手にでまくってこびへつらってる姿が滑稽な感じに映り大笑いしたのを覚えています。
 
 
 
そういえばこの犬含めて6匹の犬を飼いました。
 
そのうちの2匹の犬は救急車やパトカー、消防車の音に反応していました。
犬なりにあの喧騒な警告音が何か興奮を誘っていたのかもしれません。
 
最期に飼った犬は交通事故が起こると知らせてくれる面白い犬でした。
またそれくらい実家が交差点の角にあるため頻繁に事故が発生していました。
今は信号機が付いたりして改善され、1年に1~2回起こるかどうか程度まで減少しましたが、信号機がついていない頃は死亡事故が3度発生していました。
 
車同士の衝突音だけに反応していたわけじゃなく、家の横を用水路が流れているのですが、その用水路には柵がかかっていないので、車をよけようとした自転車や歩行者が誤って用水路に転落して骨折するという事故も結構起きてました。
それにも反応していました。
表通りはかなりの交通量があるんですが、裏通りは住宅街の抜け道程度の交通量なので、多少の交通量はあっても用水路に落ちてケガしていたら誰にも気づかれない可能性はかなり高いので、犬が吠えて知らせてくれなければ捜索願を出されていたかもということはありえなくない話でした。
 
今はもう家にいなくなって7年くらいたちます。
 
その間に何人かの人が用水路に落ちてその中には母の知り合いの人もいたそうです。
その人はたまたま骨折しなかったからよかったものの、用水路から這い上がれずにかなり苦労して這い上がれたそうでした。携帯電話で助けを呼べばよかったんですが、その携帯電話も用水路に転落した時に破損してしまって使えなかったそうです。
 
先日はいつからハマっていたのか知らないんですが、会社から帰ってきたら家の横に救急車と警察車両がとまっていて、母が警察官と話していました。
後から話を聞くと、お昼ごろに高齢者が用水路に転落したのだけど、誰にも気づいてもらえず、夕方頃になってたまたま通りかかった車の運転手が気づいて連絡し救出されたらしいという事でした。
 
結構岡山県もそうだったけど、香川県も用水路の落下防止の柵がないんです。
 
せめて交差点周辺とかくらいは設置してもらえないかなと何度か打診はしてるんですが、今のところダメですね。
 
犬が生きているときに用水路に落ちた人の数をカウントしてデータ取っておけばよかったですよ。
 
数字を見せれば説得も出来たでしょうし、必要な事は納得はしてもらえたでしょうから。
 
今は家にセキセイインコ飼ってますけど、音には敏感ですが、流石に犬のように何かあったよと言って知らせて鳴いてくれることはありません。
 
せいぜい自分の名前を言う、自宅の電話番号を出鱈目な番号で言うくらいでしょうか(笑)
 
 
 

万博やオリンピックが原因で爆発的な経済成長をした国は確かに多くあります。

しかし、これには方程式のようなものがあって、発展途上国から躍進して先進国を脅かすような存在になりつつある国が万博やオリンピックをきっかけに爆発的に経済成長していますが、そうでない国、例えば今の日本のように先進国から衰退し今や発展途上国といっても過言じゃないような国でやらかすと投資した資金を回収できないばかりか経済の起爆剤にもならずに空振りをし、かえって衰退を加速させてしまうのです。

 

では、外国の例を見てみましょう。

 

万博はオリンピックよりも時期が早く始まっていますから、こっちから見ていきましょう。

 

スタートしたのはフランス革命期のフランスでした。

ずっとしばらくはフランスだけで開催されていましたが、好評を得たので、じゃあ他の国でもやって行きましょうかという事になり、今の万博に近いものがスタートしたのは19世紀半ばの

イギリスではじまりました。

 

19世紀半ばのイギリスといえば太陽の沈まぬ国と言われるほどに海外に植民地を有していましたし、産業革命をいち早く進めたことで植民地も産業力も世界のトップを走っていました。

 

まさにイギリスの最盛期ともいうべき19世紀中葉にロンドンで開催されたのです。

1851年イギリスのロンドンで開催されました。民間主体で行い、604万人が入場しています。

 

 

1855年にフランスで政府主催で開催され、入場者は516万人でした。
1852年にフランスは第二帝政が始まっていて、権威主義体制が確立しながらも、経済に関しては放任主義で、景気自体はかなり良かった時代でした。
経済に関しての放任主義が上手くいかなくなり後に権威主義体制から自由主義に移行します。自由帝政が始まったのは1860年でした。
1867年にも政府主催で万博が開かれていますが、この時には1020万人の入場者が集まりました。
ちなみにこの3年後にフランス第二帝政は普仏戦争で破滅します。
さてこの1867年ごろのフランスはどうだったかというと、殖産興業にはある程度成功していたものの、社会保障に関しては全く未整備状態であったため庶民の暮らしは非常に不安定で暴動なども頻発していました。
それだけでなく1867年には1863年にメキシコ出兵して傀儡で建てたメキシコ皇帝がフアレス軍に捕まり処刑され完全にフランスの威信が地に落ちた時代でした。
フランス第二帝政に行き詰まりが見えていた時代でした。
 
 
1929年にスペインのバルセロナで万国博覧会が開かれました。
当時の国王はアルフォンソ13世で政情不安の国を安定させるため、1923年からプリモデリベーラ将軍を起用して権威主義体制によって乗り切ろうと考えたのですが、経済不安と治安悪化共和主義者の台頭によって国内の混乱は益々深刻な状況に陥っていました。そこで国威発揚のために万博を開催したのですがなんとか開催できたという状態でした。1930年にはプリモデリベーラは失脚後すぐ病死し、頼りになる人間がいなくなったアルフォンソは1931年に王制を打倒され国外亡命し、フアンカルロスを王位後継者に指名しましたが彼が即位したのは1975年で44年もあとのこととなりました。
 
 
さて、日本ではご存知の通り1970年に万博が開かれました。
アジアでは初めてでした。入場者数は6421万8770人で日本の万博史上最高動員を誇ります。この記録は塗り替えられていません。
 
日本のこの頃の状況はというと高度経済成長はひと段落ついた時代ではありましたが、まだまだ経済成長は進んでいた時代でした。
この3年後に石油ショックが無ければしばらく経済成長も続いていたかもしれません。
しかし、石油ショック後の日本は衰退期に入ったわけではなく低経済成長期、成長期から安定期に入ったと言えなくもありません。
 
私が実際に見に行った万博は神戸博でした。1981年の春休みに親戚と一緒に見学して回りましたが、私は兵庫縣館で歴史の展示ばかり追っかけてみていたのを覚えています。母がプラネタリウムが大好きなので一緒にプラネタリウムを見た記憶があります。
私の記憶ではどこもかしこも人込みだらけで、かなり広い会場だったのにもかかわらず、あまり落ち着いて展示物を見て回れなかった感じがしたのですが、大阪万博よりは入場者数が大幅に減少し(1610万2752人)、失敗の万博だったと当時一部報道がされていたのを覚えています。
今現在は地方博覧会ブームの火付け役として1980年代以降の小規模な地方博覧会の乱立のきっかけを作った成功した博覧会と評価されています。
どこの新聞だったか忘れたけど株式会社神戸市とまで評価され、神戸市はこの博覧会で60億円の利益を上げたそうです。
それが今や・・・
 
 
それに対し1985年のつくば万博は皇太子殿下が名誉総裁となり、皇室まで巻き込んでのある意味かなり政府主催の万博となり、これは神戸博とは違い、活況を呈したなどと言われていました。実際、神戸博よりは入場者数が増えており、(2033万4727人)後世からも評価された博覧会でした。
この博覧会から数年後バブル時代が始まります。
土地神話はもうこの頃にはかなり進んでいました。
1970年に江東区大島のマンション(公団住宅)を父が購入したのですが、この時の値段は550万でした。それがこの年には築15年経過しているのにもかかわらず、2000万で売ってくれ、うちなら2500万でという問い合わせが殺到していた時代でした。
わざわざ、東京の不動産会社が岡山まで手土産持って売ってくれと頭下げに来たのはかなり強烈でよく覚えています。(ちなみに今でも築半世紀経過しているのに販売価格は2500万前後の値段がついています。不動産屋の引き取り価格の最高値は3500万ついたこともありました。)
 
また昭和54年に大阪府箕面市で購入したマンションも1500万で買ったものが、引き取り価格が2000万に上がっていました。(今は300万や500万で売れよといってくるほどに落魄してしまいましたが(笑)ちなみに販売価格は1500万くらいです。ぼったくんじゃねえ(笑))
 
 
1990年には花の万博が開かれ、入場者数は2312万6934人でした。
この万博の名誉総裁は皇太子殿下であったことから政府主催といえる内容でした。
世はバブル時代、そしてバブル期最大のイベントと言われていました。
しかし、この万博による経済効果は期待するほど現れていません。
ちなみにこの万博、大阪で行われています。
大阪市鶴見区と守口市で行われていました。
大阪市政100周年記念だったと思いますが、それで開催されたんだと思います。
 
イベントが万博だけじゃなくいろんなイベントが乱立する時代、万博だけに人が集まるという時代ではなくなっていました。
たしかに半年間の開催、そして大型イベントという事で注目も集めますが、この時代、どんな時代だったかというと、日本各地にテーマパークが乱立し、テーマパークに近い万博は日本全国に乱立したテーマパークに客を取られて分散してしまったんじゃないかと後から思ったものでした。(ちなみにこの時代に乱立したテーマパークの多くは閉園に追い込まれています。)
 
 
さて、バブル崩壊後の大規模な万博といえば、2005年の愛知万博です。
これも政府主催に近い形で行われましたが、出資額は国・県・民間が1対1対1の割合で拠出したようです。当初予想見積もりの2倍の費用が掛かっていますが黒字化させたのは万博自体は確かに成功したといえるでしょう。
しかし、その経済効果は日本国内を活性化させるほどのパワーはありませんでした。
万博それ自体の内容も高く評価もされていますが、当時の政府の発言にもありましたが経済効果は限定的で終わってしまいました。
 
この3年後にリーマンショックが発生し、日本の衰退は確定的になりました。
 
 
このような感じで経済刺激策として万博をやるタイミングは結構重要な要素の一つであることがわかります。

 

 

 
ではオリンピックはどうなっているんでしょう。
 
1936年のベルリンオリンピックはナチスドイツ躍進の時代に行われ、国威発揚も大成功だったし、経済効果もかなりありました。この3年後に第二次世界大戦に突入します。
 
1964年の東京オリンピックは高度経済成長期に行われ、その後もしばらく高度経済成長は続きました。国威発揚にも大成功し、日本は新興国から先進国への仲間入りもその後果たすことになります。
 
1972年には冬季オリンピックですが札幌でオリンピックが開催されました。
この1年後に石油ショックが起こり、低経済成長時代に入りましたが、経済成長自体は止まってしまったわけではありません。
石油ショックというイレギュラーが発生しなければ、ひょっとしたら数年は高度経済成長が続いていたかもしれません。
 
2008年に行われた北京オリンピックは中国の国威発揚に大いに利用され、その後の中国の躍進に弾みをつけました。中国の絶頂期は短かったですが、そのきっかけのひとつにおそらく北京オリンピックも影響を与えているとは思います。
 
 
2012年のロンドンオリンピックもイギリス経済には影響を与えていないと評価されていた事を新聞記事で読みました。
 
 
2016年のリオデジャネイロオリンピックはブラジルの国威発揚には貢献しました。
経済効果についてはよくはわかりません。
 
2020年の東京オリンピック(実際は2021年開催)は中国ウイルスの影響などもあって自粛ムード漂う中で開催されました。その影響もあったと思うのですが、経済への波及効果はなく、そればかりか、無理矢理実行しようとしたためにいろんな不正がのちに暴露され前回大成功した1964年の東京オリンピックと違い、何のせいかものこさなかったばかりか、負債だけを残してしまいました。
経済衰退した日本、しかも中国ウイルスの影響で自粛ムードの中、開催を強行し、結果、何も得ませんでした。
 
 
上記のごとく、やはり、先進国でも落ち目の経済衰退している国で万博やってもオリンピックやっても何の意味がない事は証明されています。
 
 
国に力があり、経済成長しており、国威も高まりつつあるような勢いのある国でやるなら効果ありますが、衰退し、停滞感漂うような国でやってしまうとより停滞感と衰退に拍車をかけることになります。
 
愛知万博や特に東京五輪の大失敗で骨身に染みているはずだし、ついこの間の経験にも拘わらず、なぜ大阪で万博を強行するのでしょう。
大阪経済の地盤沈下は昭和から続いていて、衰退は延々と続いています。
 
そんなところで莫大な投資をしたところで持続的な投資ならいざ知らず、一瞬の花火でそれを付け火にして大阪を躍進させようなんてとんでもない無謀な行為です。
 
成功する要素がありません。
強行して負債を増やし、大阪の衰退没落を確定させてしまう事がわかりきっているのになぜやるんでしょうか。
今からでも遅くないから中止するべきでしょう。
開発も中断し、建設中の建物は改装するなどして工場や倉庫に変更し、産業団地を造り、産業を誘致した方がまだ被害を抑えることができるんじゃないでしょうか。
もしくは大学や研究機関を誘致し学園都市のようにするのもまだ万博をやるよりはマシなような気がします。
 
たった数か月か数日かはわかりませんが、1年も使わない施設に膨大な金を投入したところで経済効果などおそらくほとんど起こらないでしょう。
 
いまならまだギリギリ間に合うので万博を断念してほしいものです。
 
青島都知事が都市博を中止したのと同じように、ある程度話が進んでいても辞めた方が得ということもあるんです。
あの時も辞めた後の経済的影響を心配していましたが、実際には開催予定の費用830億円よりも低い610億円の損失で済んでいます。
博覧会が中止になったため、既に会場内の工事やイベント企画を受注していた企業が、発注先の企業から代金を受け取れないという問題が発生しました。
救済策として、東京都は1社あたり2億円を限度とした緊急融資を実施し、最終的に280社に合計約77億8500万円を融資しています。
中止から14年が経過した2009年12月の時点で全額返済したのは181社で、総額は58億円にとどまっており、2009年3月に約2億6000万円の債権を放棄したものの、約20億円が未回収のまま残っています。
都の決定した博覧会中止がそもそもの原因であるといった経緯もあり、強制的な措置を講じることも困難な状況です。
 
中止するにも大きな費用が掛かりますが中止する事で被害を抑えることも都市博である程度証明されています。
 
大阪万博と都市博では中止のタイミングが違いますが、やって何も残さないで負債だけ確実に増やすより、辞めた方が費用が抑えられるのであれば今すぐに辞めた方がいい様に思います。

ゴールデンウィーク前半は体調崩して寝て過ごしていました。

そんなわけで昔話になるんですが、ひとつお話を。

 

今から10年いや15年くらい前になるでしょうか。

 

私の実家の前に片側二車線の幹線道路が走っています。

この幹線道路の追い越し車線を逆走しているシニアカーがありました。

皆どういうわけか、追い越し車線を走らず、走行車線ばかり走るのでなんでだろうと思い、つられて私も走行車線に車線変更をして走っていました。

その時、

割と私はかなり遠くの方を見て走る習慣がついているので多分300mか500m先に逆走してくる何かが目に入りました。

ああ、あれでみんな走行車線に逃げているのか、質の悪い奴だなあと思って走行していたら、はっきり姿かたちが視認できる100mくらいになってそれがシニアカーであることに気付きました。

はあ、ま・じ・か

これ、本人も逆走してるの理解してないかもしれないし、理解していたとしたらパニック状態なのかもしれない。

そう思っていたらシニアカーは転回できるところで停車。

おいおい、勘弁してくれ、まさかそこで転回するんじゃないよね。

そっちも逆走になるんだけどと思ったら、また逆走していってしまいました。

反対車線の車たちも大パニックでクモの子散らすように走行車線に逃げていきました。

 

結局私もシニアカーの様子を心配して通過しただけでした。

 

するとサイレンを鳴らしてパトカーが私の後方から接近したので、これはチャンスとパトカーが通り過ぎる時に向こう向こうと指を指し示しました。

他の運転手さんも同じ様な事をしていたからパトカーも気が付いて一回シニアカーをやり過ごしてから一つ先の交差点で転回し、シニアカーを保護していました。

 

はあ、やれやれと思ってホっとしました。

 

シニアカーに乗っていたのは老婆で多分80は超えており、90近いか超えている感じでした。

 

これと同じ日だったのか違う日だったのかそこは定かじゃないんですが、今度は電動車いすで逆走している人がいました。

とはいっても追い越し車線じゃなく走行車線の逆走。

歩道がないから逆走しているならわかるんですが、歩道は十分に車椅子も走行できる広さがあるのに逆走していました。何台かの助手席側の人が電動車いすにはなしかけていましたが、車椅子は話を聞いているようでしたが、逆走を辞めませんでした。

 

その段階でああ、この人話通じない人だなあと思い、私は追い越し車線に逃げて走行しました。

しばらくしたらシニアカーの時同様にパトカーのサイレンが聞こえたので、誰かが連絡してくれたんだろうなあと思いました。

 

電動車いすは60~70代くらいの男性の老人に見えました。

 

今は二人とも見かけることはないんで、物故したんだか、施設に入って出られないのかわかりませんが、ほんとあれを見た時はびっくりしました。

 

電動車いすは2回くらい。

シニアカーは3回くらい目撃しています。

 

相手がスピードがさほど出ないものだからどちらも回避可能だから救われますが、車やバイクだったらと思うとゾっとします。

東京に今年の3月に旅行した時のことです。

 

旅行に出かける直前に軽い腰痛を発症してしまい、ずっと腰が痛い状態で高松を出発、成田に到着、成田からは横浜まで空港バス、そして横浜からは電車で町田に行き、町田で宿をとって起点にして調子が良ければ昔住んでいた瀬谷周辺に行ってみようかなと思っていました。

 

ところが横浜駅で下車してうろちょろしているときに腰痛がかなり深刻な状態になり、町田のホテルに行ってホテル周辺で夕食を調達したうえでホテルに行こうと思いました。

 

駅からホテルは歩いて私の足でも10分圏内。

 

電車に乗っているうちに腰痛が収まってきたので、町田の駅がどうなってるのか気になったので無理をしなけりゃいいものをここでタクシー乗り場に行かないで、歩いてホテルに向かってしまいました。しかし、100m歩いた辺りからかなり深刻な状態になり、やばい、タクシー乗り場200m先まで戻るべきかどうするかと悩んだのですが、少しリュックをおろしてその上に腰を下ろしてゆっくりたばこふかしてくつろいでいたら痛みが減ってきました。

だましだましなら時間制限もないんだし行けるかと思い、ここで選択ミス。

歩きながら向かいました。道順は分かっていたのですが、随分と変わった街並みを惚けてみていたらホテルを通り過ぎてしまいました。

しかも迂闊だったのが、町田という町の地形です。

あれだけ何度も訪れているんだから覚えていて当然なのに昔懐かしにハマって町田の特徴を忘れていたんです。

渋谷同様に起伏の激しい地形を。

地図でしか見てないし、ああ、あのへんだなという認識はあったんですけど、ホテルが駅から多少勾配あるところを上がった先にある場所であるというのをすっかり忘れておりました。

行き過ぎた道を戻りここからまっすぐ行けばというところで急な坂道を正面に見て初めて

「しまったああ」

と一人絶叫。

 

いやまあ確かに町田来るのは久しぶりで10年ぶりくらいになるから忘れちゃっててもしょうがないっちゃあしょうがないんですけどね。

 

いやはや困りました。

 

すると目の前にタクシーがとまっているじゃなあないですか。

 

わずか数十メートルだけど、載せてもらおうと手を挙げましたが、運転手さんが手でバッテンして提灯を見ろと上を指します。提灯消えてました。

何らかの事情があって空車でも乗せれない状態なんだなと思いました。そしてふとナンバープレート見て納得。

こちらもごめんなさいと手を合わせてお辞儀し、運転手さんもお辞儀を返してくれました。

 

なぜ、私は乗車拒否されたんでしょう。

 

ヒントは提灯がついてないのと、私が気づいたナンバープレートです。

 

そう、営業範囲外なんですよ。

 

成田空港でお客さんを乗せて町田まで連れてきたとしましょう。

その成田空港のタクシーの運転手さんが町田でお客さん載せられますか?

ということなんですよ。

 

実際のナンバーは埼玉県のナンバーでした。

 

仕方なく、急勾配な坂道を脂汗かきながら登り、這う這うの体でホテルに到着。

そのあとホテルで一息つかせてもらって楽になったんで、部屋に入りこれはもう瀬谷に行くのは次回の旅行迄あきらめるしかないなと断念しました。

 

タクシーが運よく停まっていて拾おうとしてそのタクシーの扉をたたいても運転手さんが無反応で扉あけてくれないという事を体験した人もいるかと思います。

私も何度か酔っ払っていた時に体験して不愉快に感じていたのですが、きっとこういった事情があったんだと思います。

 

皆さんも酔った勢いで、短絡的に無視されたと思い込んでタクシーの扉を蹴っ飛ばしたり、運転席を開けさせて問答無用で運転手につかみかかるなんて馬鹿な事はしないでくださいね。

 

知り合いでほんとにこんなことやらかしておまわりさんのご厄介になったのがおりました。

 

幸い、運転手さんの方も事件にしないでくれたし、運転手さんを雇ってくれている会社の方も事件化しないでくれたんでおバカな知り合いはおまわりさんにお説教食らっただけで済んだんですけどね。

 

それでもそのまま返すわけにいかないというわけで誰かに迎えに来てもらいなさいという事で、

酔った彼も奥さんに電話するつもりがうっかり私に電話かけてしまったそうで、私もすっとんで迎えに行きました。電話口では酔っ払ってるからずっと○子〇子と奥さんの名前連呼してましたけど。

 

急いでタクシーで保護されている交番まで向かい、被害者の運転さんはすでに立ち去った後だったので、交番のおまわりさんに保護してもらったお礼を言い、被害者情報をもらって彼をタクシーに乗せ、私の家に彼を連れて行きました。

 

酔っ払ってオオトラになって被害者を出した挙句に、奥さんと間違えて私に電話してきてるという大失態をやらかしているんですから、彼の家に返したら奥さん臨月間近でしたからね。ショックでという畏れもあって家には帰せませんでした。

 

私の家についてから家の中まで入れるのも大変でしたが運転手さんが手伝ってくれたんで何とかなりました。泥酔した人間ってほんとなんであんな石みたいに重くなるんですかね。わざと踏ん張ってんじゃないかと思うくらい重たかったです。運転手さんに彼を運んでもらった手間賃で1000円チップ払ったら喜んで受け取ってくれてよかったです。

奥さんの携帯電話は知らなかったけど、彼の固定電話は知っていたので、固定電話の方にかけたら奥さん夜遅くだけど直ぐに電話に出てくれたので、調子に乗って飲ませ過ぎてよい潰してしまったんで私の方で面倒見ますと言って今日は私の家に泊める旨連絡しておきました。

 

当人、朝目覚めて素面に戻って知らない家。

慌てて飛び起きて逃げ出そうとしたから、

「おい待て待ておれだよ滝山だよ」

といって慌てて声かけました。

 

起きて事情を説明し本人猛省してました。

時間を気にしてましたが、まだ朝6時台だったので本人一安心。

風呂も沸かしてやっていたので、風呂はいれよとお風呂を勧め、彼も喜んで入浴。

私と体型が近かったんで下着と靴下それにワイシャツは私が来てない新品のものを彼にあげ、後日飲みに誘ってくれた時にでもタクシー代含めて清算してくれたらいいといって、風呂から出てきたらホテルに行っては集めていたアメニティグッズを渡して身支度させて帰しました。

 

後日、飲みに誘ってくれてこっちはまあ諭吉さん1枚くらいもらえたらいいなと思っていたら、想定外の諭吉さん5枚を出してくれました。奥さんへの口止め料もこりゃ含まれてるなと思いました。

 

まあ5万円の口止め料で四半世紀黙ってたんだから今ならネタとして暴露してもいいでしょう。義理は果たしたんじゃないかな(笑)。

あ、ちゃんとタクシー会社に彼は菓子折り持ってお詫びに行ったそうです。

泥酔トラブル起こした客が菓子折りもってお詫びに来るのは警察沙汰にした時以外はなかったんで、タクシー会社の人達もびっくりしたそうです。

その日は運転手さんがお休みの日だったんで直接お詫び言えなかったそうでした。

勤務日の日にお詫びに来たいと言ったら、今日の事を伝えておくから構わないよと言ってくれたそうで、それに甘えさせてもらったと言ってました。

会社と運転手さんが事件性にしなかったのは車がへこんでなかったのと、運転手さんも運転席から出てただつかまれただけで怪我も負ってなかったからだとのことでした。

 

 

なんだか本線の話よりも脱線話が長すぎるのが私の与太話の悪いところですが、そんなわけで、タクシーが空車でもお客さん載せない事情結構あるんで皆さんもカっとならずに一度何でと思っていただけたら幸いです。

 

 

 

ガールズバーと言って、女の子ばかりがバーテンダーをしているお店に昔、友人に連れて行ってもらった事があります。今はそこにプラス風俗要素も加わるお店もあるようですが、私が連れて行ってもらったお店は、本格的なカクテルバーのお店でみんなバーテンダーとしてのキャリアも積んでいてた女性の人ばかりでした。

 

私が健常者の頃に行ったので20代後半から33までの間の頃の話なので、今から四半世紀以上前になります。バーテンダーの女性は全員私らとそう年齢が変わらないくらいの世代の人達ばかりで、王道のカクテルを王道に作ってくれました。

 

私も丁度その当時にバーテンダーをやっていた事もあったんで、お酒を友人と飲み酒談義で花咲かせるのも楽しみだったんですが、友人の目論見通り、バーテンダーさんの技術を盗み見するのも楽しみでした。

 

バーテンダーの学校も出てないし正規の教育も受けてないし、すべて我流でやって、何とか見た目の体裁を整えていた私と違って、本格的に修練を積み、お師匠さんの太鼓判を押されてのれん分けされた人たちは流石に技能も違いました。

 

使っているお酒はそんなにいいものを使っているわけではありません。

普通に酒屋で市販されてるし、誰でも手が届くようなそんなもんばかり。

流石にウイスキーやワインは結構なものも置いてありましたが、店の雰囲気がカジュアルスタイルだったので、廉価で美味しく快適に過ごしてもらおうというコンセプトを強く押し出していたので、くつろぎやすい感じの店づくりと照明を取り入れていました。

 

だからお客の回転率は考えていないので、店の照明は明るすぎるということもなく、暗すぎるということもない。ただまあ普通の家の照明比べたらやや暗い感じがするかなという感じでした。

 

お店のバーテンダーさんは全員ポニーテールをしていました。統一感を狙ってそうしていたのか、そこは分かりませんが、きびきび動く姿にポニテの髪がなびく姿は凛々しく感じました。

 

このお店がまだそのままそこの場所で四半世紀以上営業しているという事を友人から教えてもらいました。そして驚いたことはもう一つ。そのお店の従業員もメンツの入れ替わりは多少はあったのでしょうが、ほぼ変わっていないという点でした。

というのも友人がお店のバーテンダーさんの了解を取り付けて一緒に撮った写真があったのですが、あの当時のバーテンダーさんが僕らと同じように歳食ったような感じになっていたんです。

しかも、あの当時と同じポニーテールで統一されていました。

 

友人から見せてもらった写真を思わずしばらくの間ガン見していました。

 

すると友人、「こんなかに好みのひとでもいたんかい?」と。

 

「いや、そういうのじゃなくて、まさかお店も人もそれほど変わらずに続けていた事に驚いてるんだわ。まあ、女のバーテンダーさんばかりってのは珍しいコンセプトだからなあ」

 

このお店の制服は女性のバーテンダーさんが執事服みたいな男性ルックなんだけど女性仕様の制服を着用して黒の蝶ネクタイ締めていました。髪留めは統一されてはいませんでしたが、シックな色合いの落ち着いた柄のものでした。

 

にしても四半世紀、よくお店続けてこられたなあと感心していました。

 

まあ、また東京に行く機会は何度かあるんで、その時に立ち寄らせてもらいたいなと思いました。

 

二件目の話は先日、仕事帰りに母の見舞いに出かけ、そこで母に捕まって結局家に帰ったのが夜の8時過ぎになりました。その道中での話です。

夜間工事をしていて、交通誘導していたのが女性でした。

そしてこの交通誘導していた女性の制服が私が昔勤めていた警備員の制服とよく似ていたので思わずガン見し、しかもよくよく見たら結構綺麗な女の人だったので余計にガン見していました。

するとその視線の先にさらに珍しい光景を目にしたんです。

ユンボで合材を剥がしているオペさんがまだハイティーンじゃないかと見えるくらいに若い女の子でした。

ユンボのオペさんで女の人はホント見かけないんで、ガン見してしまったんです。

そしてよくよく見てみたら、あれ、手元の職人もあれ、女の人じゃない?

そうなんです、オペさん以外の職人の中にも女の人がいました。

 

工事現場にしてはあり得ない女性比率に仰天して固まってボケーとみていたら、ガードマンさんが、「ご協力ありがとうございました。」と声をかけてくれました。

流石に全員女性ってわけじゃなかったんですが、手元に女性が1人、オペさんが女性、ダンプの運ちゃんがこれまた女性、そして現場監督さんもよく見たら女性でした。しかもこの人が一番小柄で童顔な顔立ちしていたので、七五三みたいに見えてしまいました。子どもに普段着せない晴れ着や正装をさせると服に着させられているといった感じで写真写りしてしまうことがありますが、そんな感じに見えてしまったんです。

ちなみに交通誘導してくれていたガードマンさん3人のうちユンボ周りは男性だったけど片交していたのは女性二人でした。

 

オペさん以外は30~50代くらいの女性に見えたけど皆さんそれぞれに綺麗な感じの方だったんで、ここまで美人さんが集まるなんて珍しいなあと感じました。

 

まあ、ガードマンは私も10年のキャリアがあるんでわかりますが、単純だからこそ奥深い職業なので、やってて非常に面白いし、またスポット現場といって1発仕事。例えば、吊り荷を一個だけ吊り上げるのに繁華街で危ないからガードマンさんをつけてくれという現場が滅多ないんですが、たまにあります。こういう現場ばかりを運よく、同じ日に4つも回ったことがあるんですが、一発仕事でもそれはそれで時給じゃなくて一日分の仕事と計算してくれるので、この日の日当は4日分、当時の給与で行くと8500円かけるの4回つまり、たった5時間程度(移動時間を含めたら8時間労働にはなりましたが(笑))の仕事で3万4千円も荒稼ぎ出来たのです。

 

こんなことが今もあるんかどうかは分かりませんが、四半世紀前には年に何度かあったんで、ガードマンと乞食だけは三日やったらやめらんねえとよく冗談交じりにガードマン仲間と話していました。

 

 

それにしても女性の社会進出が進んだんだなと実感しました。

 

私の職場でも技師の女性職員多いですし、申請に来られるお客さんでも施工管理技士や土木管理技士の資格を所持されている方を目にする機会が多いです。

 

私が今の職場に勤めるようになって今年で6年目ですが、6年前はそれ程でもなかったんですが、今は事務員の人が書類をお使いで届けに来るだけじゃなく、専門の女性技師さんが直接書類以て相談に来られることも結構当たり前に目にするように変わってきています。

 
しかも最近は新卒採用されたような若い女性技師さんをよく見かけるようになりました。

 

 

若い女の人が安心して働けるくらいに土木工事の会社の雰囲気も変わってきているのか、そこまでしないと人手不足で大変なのかわかりませんが、令和になって私も職場が変わったけど、女性のブルーワーカーへの進出が結構目に付くようになったことに最近になって気づきました。今年に入ってからは移民女性の技師さんも目にするようになりました。

 

流石に移民の技師さんは今年から始めて目にしました。

 

移民の技師さんを見るのは男女通してみるのは今年が初めてでした。

 

移民の日本社会への浸透は結構進んでいるんだなと複雑な気持ちになりました。