片輪者一代 的場

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的場は私の住んでいたマンションから遠くないところにあった昔の巨人の星に出てくるような長屋に住んでいました。
父親は何か特殊な技能を持つ職人の仕事をしていたようで、ほとんど自宅に帰る事はなく、車に乗ってあちこちに移動していたようです。

最初、的場と私の中は悪くなく、会ったら挨拶を交わすなど多少見知った友人という関係でした。
どうしてそんな平穏な関係だったのに劣悪な関係になったのかが思い出せないのですが、私が思い出せないということは多分私の側に何らかの落ち度があって的場を怒らせるような事をしたのかもしれません。いずれにせよ、関係が破綻した後は修復することは一度もありませんでした。そして的場は私より一歳上で学年もひとつ上でした。奇しくもタレントの的場浩司さんと顔もよく似ているし完全に同姓同名でした。だから、彼がテレビで売れ出した頃は的場本人と思って物凄い嫌っていました。年齢まで一緒とは思いませんでした。ただ、タレントの的場さんは早生まれなので私より二学年上になります。

険悪な関係になってからは的場は自分ところの手下を使って私の家に襲撃をかけてきました。たまたま私が不在で兄がその時滞在しており、兄が的場の手下を中学生の窃盗団と思い、木刀で数人殴り倒して生け捕りにしようとしたらしいのですが、的場の部下たちは叩かれた仲間を救って逃げのびたそうです。ただし家のガラスを破られたりこっちも相当の被害を受けました。兄ははっきりと相手の顔を見ていますから、被害届を出して警察迄入れて捜査に入り、的場の指示で動いて襲撃したのは間違いないのですが、部下たちが的場を庇って勝手にやったと言い張ったので結局彼らの親からガラスの修理代や部屋のクリーニング代と慰謝料を取り落着しました。弁護士を挟んでやろうとしたのですが、その前の朝廷の段階で的場の部下の子供たちの親が事件の広がりを恐れて5人で100万を持参してきたので父も手打ちをしたようでした。

だけど私としては紺なので納得できるわけがありません。やられ損ではないですけど、部下たちを動かしていた的場が何も罰を受けていません。今迄は学校や児童公園など的場の家のものとはかかわりのないところで殴り合いのけんかをしたり、的場の家族には迷惑かけないようにしてましたが、うちの家族だけが迷惑蒙って後は金で決着というのが我慢できず、苦労している的場の家庭事情は知っていましたが、やっぱりやられたらやり返さないと示しがつきません。

的場の家に的場の弟妹と母親がいる時を狙ってロケット花火とドラゴン花火を投げ込みました。ドラゴン花火の先端にはくぎを結び付けて窓ガラスを破壊するように工作をし、割れたガラスで弟妹や母親が怪我しても構わないという恐ろしい暴挙にでました。

幸い怪我人は出ませんでしたが、ガラスは割れるし、家の中でドラゴン花火が火を噴き上げるしで、母親も弟妹達も怖さで悲鳴を上げて大パニックに陥りました。的場はガキ大将ですから色んな奴から恨みは買っていましたが、ここまで報復してくる相手となるとわたししか思い浮かばないのは当然でした。私は的場とその取巻きに一人でいるところを捕まえられて袋叩きにされました。するとその翌日にまた的場の家に花火が撃ち込まれねずみ花火が家の中を縦横無尽に駆け回り母親と弟妹は大パニック状態に。好きなだけ集団暴行すればいい。幾らでも殴らせてやるが、その代わりこっちもお前の弱点ばかり狙い撃ちにしてやる。根競べだなあ的場。暗に私は的場に態度でこう告げたのでした。

 

的場は長男でした。そして学校ではガキ大将でしたが、家庭ではいいお兄ちゃんだったのです。

弟妹がべったり懐いていたのはまだ友好関係にあった時の的場と弟妹の関係を見て知っていました。
的場は私の冷酷無惨な性質を知り、それからは私も喧嘩をすれば負けるので、お互い意識して合わないようにしていました。

それでも何度か遭遇戦のようなことがありましたが、運がいいのか悪いのか通りがかった大人や知人が止めに入り小競り合い程度で済みました。

 

的場の忠良なる部下の一人に私と同じような陰湿な奴がいて、私の家で飼っている犬が庭で飼っていたのですが、その犬の餌に毒を混ぜて犬を殺そうとしました。的場本人を学校で捕まえて詰問すると、俺はそんなことをやれと指図していない。仲間内にそんなのがいるのならお前のもとに出頭させるから好きにすればいいといったので、とりあえず報復行為を待っていたら、私の家に踏み込んで来て家を荒らしたうちの一人が父親と一緒に頭を剃髪して謝罪にやってきました。父は犬も無事だったんだし、何の関係もない父親までもがたかが子供の喧嘩にけじめ付けるために剃髪迄したんだから許してやれというので、仕方なく、謝罪を受け入れました。

 

それ以後は的場も的場の部下たちも意識して私を避けるようになりました。

因みに私は的場本人とは絶縁でしたが、的場の弟妹達とは絶縁しているわけではありません。そしてどうやら的場は学校であったことを親に話しするタイプの人間ではないようで、私と的場が険悪な関係であることを弟妹達は知りませんでした。だから時折遭遇したりするとお互いに険悪な関係じゃなかった時に何度か一緒に遊んであげたりしていたので、まさか花火を打ち込んだ張本人とも知るわけがなく、一緒に遊んでもらった楽しい思い出だけが彼らにはあるだけなので、遊んで遊んでと構ってもらおうと声をかけてくることはよくありました。
私の人間性がトコトン腐っていたので、私はまるで何事もなかったかのように普通に遊んでいました。そしてそこに的場が遭遇したりすると、お兄ちゃんも帰って来たみたいだからじゃあ僕は帰るね。続きはお兄ちゃんに遊んでもらいなといって去って行きました。
別に弟妹達に今更怪我させてやろうというような悪意はありません。ただの知り合いのお兄ちゃんというだけで遊んであげていただけですが、絶交断絶状態の相手の身内と楽しそうに遊び、別れ際にニヤアと笑いながら去っていく私の薄気味悪さは的場にとっても気味悪かったと思います。しかも私は本気で遊んであげているので彼らは非常に私に懐いているのです。人一倍弟妹を可愛がっていた的場にとっては人質を握られているような状態でした。自分に弟や妹が居なかったから年下の子で知り合いが出来るといつも溺愛して猫かわいがりしていました。


これは小学生の間だけの事じゃなく、中高になっても変わりませんでした。


元々子煩悩な素質はあったんでしょう。だけど、そこまで私の事を知らない的場からしたら恐ろしかったと思います。


的場との抗争は小学校3~4年の頃はひどかったのですが、5年になってからはほぼなくなりました。
それは的場の住んでいた家が取り壊されて的場の家族が引越しをしたというのも大きいですね。

今度はかなり私の家からは離れました。

次回の話は5年生に上がってからの話です。

片輪者一代 箕面での小噺

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私自身は比較的穏やかにおとなしく過ごしていた4年生の時期には実はいろんなことがありました。
私がかかわっている事件もあればそうでもない事件もあります。

置石事件の多発。これについては前々回に触れました。校長が数回置石事件のせいで引責辞任したのです。

(妊娠事件)
小学生同士の情交で女児が妊娠。これについては学年が違うために詳しい情報は伝聞でしか聞いていません。そういうことをするような子ではないと思われていた二人が情交に及んで妊娠したものの、子宮外妊娠になり、二人の年齢のこともあって中絶し堕胎したというのは朝礼で校長が報告していました。興味本位であるいは欲情に任せてセックスをした結果関係ない人間を一人殺したという二人の罪は一生消えないものですと校長が涙を流しながら演説していたのは今も強く心に残っています。
丁度親戚で不倫騒動があり、しかも妊娠させてしまったという話があり、余計にこの話題は私の中で強烈に記憶に焼き付いています。
親戚の不倫トラブルについてはその後の経緯を私も知らないのでどうなったのかは知りませんでしたが、最近この親戚が死んだ事でその後の経緯もわかりました。親戚が年の離れた若い女性を妊娠させ、もう中絶も出来ない状況になったので、子供を引き取って育て、妊娠させた女性とは別れたそうでした。つまり親戚は自分の本妻の子と誤ってできた子を同じ家で扶養していたようです。相手の女性は女子大生か女子高生か一応結婚しても大丈夫な年齢には達していたようですが、20歳以下だったそうです。それでお前の種なんだかお前が面倒を見ろと言って相手の女性の親が出産した子供を連れて押し付けて行ったそうです。相手の親の怒りはわかりますが、女性本人はどうだったのかが全く分からないですね。本当に間違いで出来てしまったのか、それとも親戚を好いていたのか、そこがさっぱりです。親戚の本妻は自分の腹でもない子供の面倒まで見させられてどんな気持だったのでしょうか。ただこの女性よくできた人で、結局今親戚の家を継いでいるのはこの妾腹の子なんですよ。自分の腹の子達を外へ出して、自分の腹じゃない子に家を継がせるというのはよほどのことがないとできません。兄弟仲は非常によく、上二人が姉で妾腹の子だけが男だったというのもありますが、ベタベタに可愛がっていましたね。今も兄弟仲はいいようです。

(蟯虫検査)
大事件といえば大事件ですね。当時、クラス内で引っ掛かるのは数人、場合によってはいないクラスもありました。
これは4年生の話ではなく3年生の時の話なのですが、私が蟯虫検査でひっかかりました。

クラスで引っ掛かったのは私ともう一人だけで、そのもう一人が超ド級の貧困家庭で、家も藁葺の家に住んでいました。

父親が専業農家をしていて、僅かな田んぼで生計を建てることも出来ず、かといって農業以外の事をしたことが無いため、母親が内職やバイトをして食いつないでいました。家には子供同級生を頭に6人兄弟があり、母親は当時の現代風の顔ではなく、明治大正昭和前期の貧困家庭のようなやつれ果てたひどい顔をしていました。あれで当時30なんぼって行ってたかな。見た感じでは完全に老婆でした。
肥料を買う金もないから人糞肥料を撒いて農作物を作っており、それで蟯虫検査に引っ掛かったんでしょう。
 

当時、私の祖父も人糞肥料で野菜などを作っていたし、箕面に住んでいた時に無尽野菜販売などをしていた農家も人糞肥料を使っていました。そして母方の長兄も人糞肥料で野菜を作っていましたので、私も蟯虫検査で引っ掛かりやすい状態ではあったのでした。
でも引っ掛かるなら私だけじゃなく兄も引っ掛かって当然なのですが、兄は引っ掛かりませんでした。
それは神経質な兄ならではの防衛線を貼っていたからです。

兄は母がスーパーで買ってきた野菜は生野菜でも食べていましたが、無人野菜販売所で買ってきたもの、両親の里から送られてきた野菜などでは生野菜を拒否して煮物野菜しか食べませんでした。私は逆に煮物野菜が嫌いで、生野菜ばかり食べていたので余計に当たる確率を高めてしまったのかもしれません。
ただ、蟯虫に当たってしまったということは、非常に屈辱であり、蟯虫持ちと言われて散々馬鹿にされ虐められたりもしました。しかもわざわざ検査で引っ掛かった人と言って朝のホームルームの時に教壇の前に呼び出すのです。
この無神経な秋葉の対応にも腹が立ちました。
しかし、本当に蟯虫持ちだから言い返すことも出来ずに農家が里という事のコンプレックスだけを強めることになりました。
流石に祖父や伯父たちを責めるわけにはいきません。一応は洗って送ってくれているのですけど、流水で洗っているか貯めた水で洗っているかの違いがあるでしょう。兵庫県も香川県も水がないという点では共通していますから、人糞肥料で作った野菜をそのまま洗いもしないで送りはしていませんから多分桶に水でも張ってそれで洗ってくれていたんだろうと思います。でもこれでは蟯虫の卵を洗い落とすことは出来ません。

駆虫薬が何とも言えない異様な味で味がないまずさと言うのでしょうか。
苦みも甘みも辛味も何も感じないんです。ドロッとした片栗粉みたいな変な薬でした。
それを1週間だったか1か月だったかずっと強制的に飲まされ続けて、糞を確認して虫がいたらその部分だけをピンセットでつまんで、またクリームケース見たいな器に入れて提出させられました。要するにちゃんと駆虫できたかの確認までさせるのです。これも無神経に教壇の前に呼びつけて提出させました。浜崎と私がこの無神経な対応でどれだけ嫌な思いをさせられたことか。秋葉を市教委を使って粛清したのはこの時の恨みも勿論ありました。蟯虫検査のようなデリケートな事案をわわざわざ公開処刑するなんて無神経にも程があります。
子供の私ですら、こういうデリケートな事案についてはあとで職員室に呼び出す成り、保健室に呼び出す成り、どこか別室に呼んで他の生徒に見つからないように配慮するのが当然だろうと思っていました。
蟯虫持ちというのは人糞肥料で作った野菜をいい加減にしか洗ってないものを食べているから蟯虫持ちになるわけでつまりは不衛生イコール汚いものを食べている汚い人間ということに繋がり不潔な人間と思われても言い返しも出来ない為、こんな恥ずかしい事をクラスメイトの前で晒し者にすれば当然格好の虐めのターゲットにされることは教師でなくても生徒でなくてもだれでもが簡単に推論できる話しでした。
それを無神経に晒し者にした秋葉という軽率な教師の軽率な行為は秋葉が既に鬼籍に入っているような年齢であっても私個人としては許せるものではありません。

 

(箕面一中職員室突撃事件)
箕面一中に通う生徒の親によっちゃんがいて、子供がいじめにあったのよっちゃんの子だからとまともに対応せず逆に虐められていた自分の子供を糾弾したと因縁を吹っかけて、学校を脅迫。学校側が無視する態度をとると、トラックを職員室に特攻させて親が捕まるという事件がありました。特攻したのは夜だったのでけが人は突っ込んだ親以外にはおらず、多分用務員だと思うのですが警察に連絡して現行犯逮捕されたという事件がありました。この当時同中学の1年生だった兄に聞いてみると、親のいい分とは全く違う内容でした。中学でも札付きの悪で学校中にその名が知れ渡り、他の中学の同じ悪い生徒をこの悪と取り巻きが拉致しては身代金を要求するなど相当にたちのわるいことをしていたようです。その事が学校にバレて、担任が厳しく彼を糾弾し、君に縄をつけて常に犬の様に監視下に置くことが出来ないから学校に来なくていいということは言ったらしいんです。そしたら勝手な作り話を生徒がしたのか、親がしたのかわからないのですが、因縁吹っかけて学校に脅しをかけに行き、相手にされないものだからトラックを夜にぶつけに行ったそうです。
まあとにかくおかしな人間が小学校にも中学校にもいたという事です。同じ学区ですから仕方ありません。
人の性質というのはそうそう簡単に変えられるものじゃありません。
研究者や開発者に大人になってなるような人間は、大体夏休みの宿題なんかも一気に片づけようとしないで毎日量を決めてキチンとコツコツ努力してやっていました。
大人になって極悪非道の犯罪者になるような奴はやっぱり子供の時からそんな片鱗を見せていました。
大人の屑というか社会の屑みたいな人間は子供の頃からやっぱり言い訳ばかりして責任転嫁して自分を観ようとしないで、兎に角自分が被害者だ被害者だと騒いでは責任回避ばかりして自分に同情が向くようにばかりしたり、論点をづらしてはなしをそらしたりごまかしたりしていました。こんな子供ホント多かったですね。私もこんな屑でしたが、今から思い返してみてもホント朝鮮してましたわ。


(明治の森箕面国定公園と勝尾寺の思い出)
私の住んでいた場所から箕面の滝までは子供の足で一時間足らずくらいで行けました。まだあの当時は観光馬車みたいなのが客車を引いてウンコ垂れ流しながらのんびり足の悪いお年寄りのお客さんや馬車の風情を味わいたいお客さんを載せて行き来してました。私の記憶では多分二台くらいが運行していたように覚えています。馬車の値段は知らないのですが、私はいつも馬車に乗りたかったんだけど満車で結局一度も乗ることなくいつの間にか観光馬車も廃業して消滅してしまいました。再興すれば一人千円か二千円くらいとっても多分利用する人は利用すると思うんですけどね。

滝の途中にお寺があって、そこも参拝客が結構いましたね。なんだっけなあ寺の名前は忘れました。

箕面の滝を超えてずんずん登って行ったところに箕面ダムというダムがあるんですが、そっちではなくつまり北に行くのでなく東に行くと、日本の寺にしては割と派手な色合いの寺で紅葉でも有名な勝尾寺という寺があります。モミジの天ぷらなんかも勝尾寺のモミジから転じて箕面国定公園のお土産としてブランド化したんじゃないでしょうかね。勝尾寺のモミジが箕面国定公園内に広がって行ったそんな気がしてなりません。これはまあ、私的な考えですけどね。でもあの食べられそうに見えないモミジの葉っぱをどうやって食用に改良していったのかがホント知りたいところです。

勝尾寺のモミジは流石に綺麗でしたね。小学校の遠足だったと思うのですが行きました。箕面の滝までは歩かされたのですが、そこからなぜかバスに乗って勝尾寺まで行き、モミジを鑑賞してまた箕面の滝まで戻り、そこから歩いて滝と箕面駅の途中にある名前を忘れた寺の境内や外れでお弁当を広げて食べたのは憶えています。よく寺側が承知したなあと思います。平日だから参拝客が少なかったから遠足の昼食場所として開放して呉れたのでしょうか。

あとはあちこちにどういういわれがあってなのか知らないですが野口英世に関する記念碑や説明が木みたいなのも結構ありました。

山の中で自然が潤沢に残されていましたから昆虫の資料館みたいなのもありました。標本が沢山小学生の時には飾られていて生きている昆虫の放し飼いはしてなかったのですが、2000年代の後半に箕面の山を登った時には昆虫の放し飼いをしていました。今はどうなんでしょうね。辞めちゃったという話もきいているんですが、どうなんでしょう。

箕面の滝までの道筋に野生のアケビが結構ありました。
いまだから言えることですが、遊歩道からは当然外れた場所です。
だから遊歩道の柵を乗り越えて山の中に勝手に踏み込んで、アケビを泥棒して家に持ち帰って食べていました。
しかも農家出身の両親が率先して泥棒していたってんですからタチが悪過ぎます。
アケビや山菜、きのこは取って帰ってましたが、マツタケは流石に高級過ぎて泥棒するのも気が引けたのか、これはマツタケだよと説明してそのままやり過ごしていました。あれは何で取らなかったのか不思議です。収穫できるサイズではなく小さかったですから取らなかっただけかもしれません。しかも、根こそぎ盗ろうとしたら引っ叩かれて怒られました。来年盗れなくなるだろうといって・・・・多分、箕面から岡山に転校しなければずっと毎年山菜やアケビキノコを採りに毎年恒例で延々とひょっとしたら父の定年までやっていたのかもしれません。両親の中では箕面で腰を据えて生活するつもりだったようですからね。

確かに適当に自然が残り、江東区や東住吉みたいに空気は汚くないし、淀川水系を使っていたけど、十分自前の水系箕面川の水系を使ってもあの当時であればまかなえたし水質も当時の割にはかなりよかったですからね。
当時大きな河川の大半は溺れたら危ないという理由ではなく、誤って水を飲んだら死んでしまうという水質の悪さから、川に入るなって言われていたんです。でも箕面川に関しては水流の流れが早過ぎるから入るな溺れて死ぬからダメと言われていただけで、川の水は平気で飲んでましたが腹を壊す事もありませんでした。

 

箕面の山は散歩コースでよく犬を連れて散歩に行きました。
犬と猿との戦いなんかもしょっちゅうあり、猿もちゃんと人を見て襲ってましたから、家族の中でも母か私だけを狙って襲ってきました。だから母か私が犬の紐を持っていて、襲われたら紐を外して犬に猿を襲わせていました。犬も猿を襲えばジャーキーという俸禄を得ることが出来るし、散歩を延長してもらえるという知行地安堵が約束されていたので、猿に突進していきました。ある日の事、何度も猿に襲撃されて頭にきた私がわざとビニール袋に可成りの砂を入れて軽そうなふりをして実は相当に重たい砂の入ったビニール袋を振り回しながら散歩をして猿をおびき寄せました。まんまと罠にはまり、私からビニール袋を強奪したまではよかったですが、所詮、猿。食料でもない砂に気づかないで、必死に重い砂を持って逃げようとしているところを私からはソフトボールをまともに投げつけられ、犬にはまともに噛みつかれて、強欲にしがみついていた袋から手を離して遁走しようとしたものの、犬が離れない為、犬諸共滝つぼへと転落して水没しました。
暫く両者が浮かんでこないのでヤバイ犬を殺したかと思ったのですが、暫くすると両方浮かんできて両者違う方向に岸辺を捜して泳ぎ着きました。必死になって岸辺を捜して泳いでいる猿めがけて容赦なくソフトボールを投げ続ける私はやはりどこまでも冷徹漢でした。いや、冷徹韓といった方がいいでしょうかね。弱り切っている相手を徹底的にいたぶろうとするなんてまさに漢か韓ですね。ノーコンの私では至近弾がいいところで命中弾は結局与えられませんでした。それから何回かこの作戦を用いたのですが、今度は罠にハマって呉れません。猿同士で情報が伝わっていたのでしょうか。

(陣取りゲーム)
あとは箕面の山に登って山の荒蕪地でよく陣取りゲームを友達としていました。陣取りゲームが出来るのは山の荒蕪地では通年できますけど、田圃などでやるとなると農閑期の秋の終わりから冬の間だけです。それも当時は全く気付いていませんでしたが、当時の農家が近所の子供たちのためにとわざわざ作付けするものがあったのにかかわらずそれをしなかったのです。おかげで陣取りゲームはその地域のちょっとした冬の恒例行事になりました。毎日そこで戦われるというわけじゃないけど、ほとんど誰かが田圃の全部ではないにしても一部を陣取りゲームで利用して晴れている日は遊んでいました。農地があるとはいえ協力してくれる農家は少ないですから、陣取りゲームの場所取りは結構被ったりすると大変でした。それで被ってしまった方はしょうがなしに箕面の山を登って、山の荒蕪地で陣取りゲームをしていたのです。
或いは芦原池という池が近所にあったのでその池の周囲で陣取りゲームをしていました。


山の陣取りゲームの場合は攻めてと守り手を分けて攻めては山を登る労力分だけ仲間を守りての3倍まで増やしていいというルールにしてその代わりに時間制限を設けてそれまでに攻略できなければ負け、攻略出来たら勝ちという風にしていました。

山の場合、遊ぶ場所が決まっていたから守り手が守りやすいように色々細工を作ったりしていたので、本当の山城の様に地形を利用して掘りを掘ったりしていました。でもまあ子供がやる細工でしたから大局に影響を与えるほどに効果的な構造物まではつくれませんでしたけどね。

 

まだまだ田んぼがたくさん残っていた時代でしたので、冬場は人様の田んぼで陣取りゲームみたいなことをしてよく遊んでいました。小2の時に教室で籠城戦をやらかして、采配を振るったのが忘れられず、冬場の田んぼで陣取りゲームなんかはほんとよくやってました。
二つのチームに分かれて本丸に建てた旗を倒されたり、奪われないようにして、守りながら、相手の陣地に攻め込んでいくというものでした。田んぼの稲の切り株を引っこ抜いてこれを手りゅう弾代わりにして相手陣地に投げ込み、当たったプレーヤーは戦死。盾とか防御するものを持ち歩いても構わないというルールでやってました。また竹やりの先に怪我をしないようにぼろ布を巻いて相手を突き倒して進軍したり、結構本格的な遊びでした。兄たちの世代くらいかそのちょっと上の世代くらいからこの陣取りゲームが流行り出して、それが一挙に低学年へと広まりました。剣道の胴着が甲冑をつけているみたいで格好いいというので絶対あれは室外で使って泥だらけにしていいものではないのですが、剣道少年たちから火がついて一挙にブームになりました。剣道やってない子などは段ボールで甲冑を作ったり、ベニヤで盾を作ったりしてオリジナルな戦闘着を作っていました。

私は島津が得意とした釣り野伏せに似た戦術を使って、小集団の弱い囮部隊を繰り出して敵の主力を誘引している隙に本丸を攻略するというやり方が得意でした。

自分の采配に合わせてみんなが整然と動いて呉れるのはほんと最高に楽しかったですね。まさに一軍を預かって将兵を動かしているような感覚でたまりませんでした。

昭和は平成と違って日本人自体が本当に適当でいい加減でしたから山や池や田んぼで子供が勝手に侵入して遊ぶことに関して真剣に抵抗するところは少なかったですね。

 

今は激しく抵抗するところが多くなっていますけど、それは勝手に入ってきておきながらトラブル迄持ち込み、そのトラブルの代償を所有者や管理者に押し付ける事が増えたから激しく抵抗して入れないようにするようになったのです。以前は子供が山や池や田んぼで遊んでけがをしたと行っても山の所有者、池の所有者、田圃の所有者に文句を言う馬鹿は折らず、トラブルを起こした当事者同士で問題解決していました。

 

勝手に入ってやってる方が悪いのに、今は勝手に入れる状況を作っている所有者が悪いという責任転嫁が普通となってしまったために所有権が厳格化され所有者は所有物に必要以上の経費を割いて一切の侵入物が入らないようしなければならない状況に追い込まれてしまいました。

 

2007~8年くらいに30年ぶりくらいに箕面の山や池や川を訪問した時にガチガチにフェンスで無粋に囲まれた昔の遊び場を見ると時代の流れと日本人の特亜化を見ているようで不愉快な気分になりました。日本人が特亜のような責任転嫁をして話をすり替えて人様に迷惑かけても自分さえよければどうでもいいという無責任動物に成り下がってしまったから所有者や管理者が一切の隙なく所有或いは管理権が発生する場所を頑なに守らないといけなくなったんでしょうね。

(滝山学校)
自然がなにせ多く残っている場所だったので山河でよく遊びました。
小3の時にそれで夏か冬か忘れましたが、大きな休みの時に自由研究みたいな感じで気の合った仲間同士のコミュニテイーで探検したところを絵や図や文章にしてまとめたものを偶然何個かのグループが提出したら秋葉がそれを絶賛して呉れました。それで調子に乗った生徒たちは4年生5年生になっても同じような仲良し探検グループを編成して、探検結果などを自由研究代わりにグループ単位で報告して出していました。そのため各グループの中心人物の名をとって何とか学校というグループが沢山出来たのです。
歴史馬鹿な私は同じく歴史馬鹿の友人ばかりを集めて近所の山に縄張りを張るとしたらどういう風に縄張りを張って要害堅固な山城を作るかという馬鹿の限度を超えたマニアックな事をやってました。当然航空写真とかが必要になるんで図書館に行って航空写真の地図なんかを捜してそれを模写してこの山とこの山を使って城を作るとか相変わらず小学生がやらないようなぶっ飛んだことをやってました。
当時、プラモデルから発生したと思うのですが、ちょっとしたお城ブームの時代でもあったんです。


(常用漢字反対運動)
簡略化された旧字体ではなく現在の漢字になっている常用漢字。当用漢字が廃止され常用漢字になった事で当用で使われていた臨時の文字が常用化されるというので、繁体字つまり旧字体であれば支那とも筆談が出来るのにこれでは漢字文化圏の日本、台湾、支那の三国間で筆談でのやり取りが出来なくなるし、表意文字である漢字の意義を失うと反対運動をしている人がいました。どうして私がこの人と知り合ったのかはわからないのですが、兎に角知り合い、それで共鳴し、常用漢字に反対し、旧字体への復活の陳情書をこの人と一緒に誰か議員さんのところだったかお役所だったか忘れたけど届けに行ったことがあります。小4か小5の時の話です。
やっぱり完全にずれているんですよね。小学生でやっと二桁の年齢になったかくらいの人間がこんな政治活動していること自体がかなりぶっ飛んでいます。しかも子供が好む破壊と混乱ではなく秩序と安寧つまり保守的な考え方ということも子供ではありえない変人ぶりでした。

(口裂け女)
口裂け女が話題になっていた時期にミツクチの知的障害者女性が小学校周辺をたまたま徘徊していたため、口裂け女が実在していたと大騒動になり、心無い子供たちがミツクチの障害者女性宅や彼女が通所していた施設などに押しかけて見物したため結局この女性は転居せざるを得なくなったという最低な事件がありました。校長も朝礼で激怒して怒っていましたが、当然でしょう。
私は自分が左手首の痣や、外斜視などの見た目の差別で虐められていたためにこういう物見遊山が大嫌いで、率先して調子に乗ってそういうことをしようぜ、行こうぜと言っている連中と自分の事を馬鹿にされているわけじゃないのに大喧嘩したこともありました。
子供は鶏と一緒で本当に残酷です。目に付いたらそのことだけしか見ていませんから、異物が目に付くとそればかりつつくんです。まるで鶏が怪我した仲間の鶏をつつきまくったり、体調不良の鶏をつつきまわって殺したりするのと一緒です。

次回は一学年上ですが的場との抗争について話をしていきます。
 

 

 

 

 

 

片輪者一代 鶴丸事件

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鶴丸事件と私が勝手に名付けたこの事件は鶴丸という同学年の別クラスの担任教諭が自分の受け持ちの女子生徒が宿題を忘れたために体罰を行いました。ところが女子はスカートをはいているため、ケツたたきのお仕置きがスカートにまとわりついてうまくお尻を叩けないことがあります。それでは同じケツたたきにあっている男子生徒との間に罰の差が生じるためにキチンと叩けなかった場合はもう一度叩き直しで回数自体は男児よりも増えますが叩かれることがあったそうです。ところがこの余分に叩かれたことに納得がいかなかった女児は家に帰って父親にこの事を報告しました。解同ともつながりがあり、河川で採石や土砂を販売していたこの父親は自分の会社の従業員や解同にも声をかけて翌日学校の正門前に車で乗り付けて拡声器を使って娘が鶴丸に凌辱された。鶴丸は少女に虐待する性癖のある変態教師だと罵倒を繰り返し盛大なビラ配りと中傷演説をしていました。

鶴丸は確かに体罰教師ではありました。だけど、その体罰に公平性を期すために女児がスカートの場合余分に体罰をして無防備に引っ張たかられる男児生徒との差をキチンと解消するなど、公平性を重要視する教師であり、人望は高かったのです。悪いことをしている現場を見れば自分が担任外の教師でも容赦なく体罰をふるう一方、普段悪名が先行している生徒であっても特に悪事をしていなければ疑ってかかるような行為をしないというなにかにつけて割とキッチリした教師でした。だから私は担任である杉教諭も評価していましたが、他クラスの担任で体罰教師として恐れられていた鶴丸教諭も評価していました。

私が授業中に廊下に立たされているのを見て、声をかけてきたときも私がこういう理由で立たされていると言ったら、「そうか」の一言だけ発して余計なことは一切言わない教師でした。他の教師などは私が既に罰を受けているにもかかわらず、同じように声をかけてきて理由を説明したらくどくどお説教する教師が多い中、鶴丸だけはそういう蛇足な行為をしなかったのです。既にキチンと罰を受けている物になんでまた余計に自分の担任でもないのにお説教する必要があるでしょうか。鶴丸のクラスにも迷惑をかけていたならお説教食らってもいいですが鶴丸のクラスには何の迷惑もかけていません。つまり罰は終わった事なのです。だからそうかしか言わないで鶴丸は立ち去るのです。ところが他の教師はどういう考えで私にお説教していったのか理解できませんが、私にとっては関係ないあんたらからお叱り受けるいわれはないわけです。
でもお叱りをしていく教師が多く、教師への不信感を強めていくことにはつながりました。小4時代比較的おとなしくしてクラス内では暴れる事を控えていたのは小善に勝てない、杉教諭にも勝てないというこの二つの理由でやむなく自粛していただけでした。

杉教諭には体格差でも勝てる見込みがありませんでした。当時155cmくらいありましたが、それでも杉教諭の175㎝とは20㎝の開きがあり、本気でやり合えば相手が女であっても体格差で力負けするのは解っていました。母と冗談で相撲をとったりしていましたが、体格差で本当に勝てないんです。中学生になっても勝てず、高校になって体重が増えてようやく母と相撲をやっても勝てるようになりました。腕相撲に至っては浪人時代になって初めて母に勝てるようになりましたが、当時80歳だった祖父には右でも左でも勝てませんでした。

祖父は身長は165㎝位、体重も50㎏くらいしかありません。けど農業で自然に鍛えた腕力でまさか負けるとは思ってなかったのですが、瞬殺されてしまいました。

さて余談が過ぎました。元に戻しましょう。

解同から野盗に連絡がいき、共産党や社会党の市議たちが事件発生の当日だったか翌日だったかおっとり刀でハイヤーに乗って箕面小学校へ直ぐに乗り付けて鶴丸糾弾に政治的な圧力迄仕掛けてきました。

学校側は市議会議員迄迅速にこの事件に乗っかってきてしまったために、事件の迅速な処理が解決に繋がると、一方的に鶴丸に懲罰を与え鶴丸は謹慎処分になりました。実質は謹慎処分ではなく学校と市議の圧力による自主退職の強要でした。

 

ところがここで意外なところから鶴丸擁護の動きが発生するのです。

PTAが何と鶴丸擁護に動いたのです。子供から話を聞いている限りでは体罰教師ではあっても鶴丸は公平な人物であるというのはほぼすべての生徒が鶴丸に感じていたイメージでした。そして私は担任に当たったことはなかったけど、鶴丸との僅かな接点や鶴丸が担任している生徒たちの言動からも鶴丸が公平性に非常にこだわっている教師であることは知っていました。

そういう生徒たちつまり自分の子供たちの声を聴いていた親たちがまず鶴丸擁護に動き出したのです。そして親たちが独自に聞き取り調査を開始すると鶴丸の取った行動にどこにも問題点がありませんでした。男の子よりも余分に多く叩いたのもスカートにけつぴしゃ棒が絡まってうまく叩けなかったからもう一度余分に叩いただけで男の子から見れば非常に公平性ある行動だったわけです。

 

所で父親を動かして鶴丸に仕返ししようとした女児児童はどんな生徒だったかというと目立たない極普通の生徒で、忘れ物なども普段はしない真面目な生徒でした。本当にうっかりミスで宿題を忘れてしまったのです。だから家に帰ればちゃんとやった宿題のノートはありました。だけど宿題はやったから終わりではなくやったものを指定の期日に持って来て初めてやったということになります。うっかりミスでも平等に叩かれ、確信犯で宿題をやってこないで叩かれた男児生徒と同等に扱われた事も彼女にとっては不満だったのでしょう。宿題を忘れて叩かれた生徒はその時数人いたようです。宿題忘れの常習犯というか最初からまったくやってこないのも混じっていたようです。また逆にこの女児児童の様に宿題はやっていたのにノートを持ってくるのを忘れてしまった子もいたそうです。

確かに確信的な常習犯と同列の処分を受けた事にはうっかりミスした児童たちが納得するのは難しいでしょう。
鶴丸がその辺の当たりをちゃんと生徒に伝え、たとえ宿題をやっていても持ってこなければやってないのと一緒という風に決めごとを立てていたかどうかはわかりません。

杉教諭はこの点は細かいところまで私のような陰険な生徒がいたのでキチンと前もって説明していました。

だからああ言えばこう言うと責任転嫁や言い逃れが出来ないように枠を固定していたために私も言い逃れが出来ないから納得して罰を受けていました。だから私は宿題をやって来てもそれを持ってこなければやってないのと一緒というのは杉先生がそういう線引きを明確に引いてくれたので納得して、仮に宿題をやっていてもうっかり忘れて持ってこないで罰を受けた場合は納得して罰を受けていました。
この点をしっかりと枠をひょっとしたら決めていなくてこんな大騒動になったのだとしたらその点は鶴丸の落ち度と言えなくもありません。

市議会議員が呼び込んだのか、解同の連中が連れて来たのか箕面小学校には直ぐにワイドショーの記者たちが集まってきました。

私も取材を受けたのですが、他クラスの事だし、鶴丸の人相の悪さなども相まって、本当のところがわからないから、同じ学年ですけど違うクラスの話題なので僕は知りませんといって取材から逃げたことがありました。

学校側が沈静化しようと拙速に鶴丸処分に動いたことが鶴丸をまるで加害者の様に扱う風潮を助長し、体罰教師への厳しい処分へと関心が集まっていました。その一方で事情をよく知るPTAは真逆の動きをしたのです。鶴丸の人相は非常に悪く、川俣軍司を好演した大地康雄さんの様に変質者そのものみたいな人相をしていました。大地さんよりまだ人相が悪くこれが教師とは信じられない人相をしていました。つまり鶴丸の写真を見せれば誰もが加害者に見えてしまうというほど最悪の人相をしていました。PTA側の動きはテレビでは一切報道しないで鶴丸が体罰教師だったことを強調して話していました。つまり鶴丸を咎める術は常習的な体罰教師だったというその一点だけでそれ以外はある意味非の打ち所がない教師だったということになるわけです。今以上にテレビ絶対主義の時代、 川口浩探検隊ですら本当の事なんだと子供は騙されていたそんな時代だったのです。だから鶴丸が体罰教師でこの人相なら必ず女児も凌辱しているだろうという印象操作は簡単にできました。


昭和55年という年は何かと色んな事件が多く発生した年でテレビ局のワイドショーたちがワラワラ学校に集まって取材をしていたのは1週間か2週間くらいで沈黙しました。しかし市議会議員のお偉いさんたちはこれが点数稼ぎとばかりに野盗議員を中心に頻繁に議員がずかずかと車のまま校門をくぐっては職員室か校長室に足しげく通い詰めていました。

 

一方的に攻勢に出ている人間には隙というものが生じるものです。体罰を受けた女児の父親が産業廃棄物を適正に処理しないで不法投棄していたことが暴露されて摘発を受けました。これによって体罰を受けた女児の父親が経営する会社の悪質性が暴露されて参拝の不法投棄に、脱税やその他なんだっけ色んなまさに不祥事のオンパレードがとにかく噴出したのでした。こうなると与党の市議会議員などはさっさと鶴丸糾弾から手を引き、野盗議員の社会党と共産党だけがまだなお糾弾の手をゆるめませんでしたが、大騒ぎの中心人物の体罰を受けた女児の父親が追い詰められて動けなくなったために社会党と共産党の議員も数か月したら学校に来なくなり、結果的には鶴丸一人が謹慎処分を食らって泥をかぶっただけで落着しました。ところが、こんな大騒ぎをした挙句、一人の教師の教師生命を危うく断ちかけたわけです。そして自分の父親は告発者から犯罪者に転落。当然クラス中から孤立する形になったこの女児は転校して逃亡せざるを得なくなりました。当然の報いといえば当然です。ただあまりにも代償が大きすぎました。彼女がこの精神的な苦境に追い込まれ学校から逃亡せざるを得なくなった後、新天地で前の事件の事を蒸し返されなければ精神的な痛手も少なくて済んだでしょうが、どうなったことやら。
 

愚かな父親のせいで娘迄破滅する結果となったのです。

父親の会社は騒ぎの後で警察の調査が入り社長が逮捕されて存続できるほどの体力はなく、すぐに廃業しました。
暫くは手付かずの状態でしたが、そのうち会社内に止まっていたダンプや工作車輌なども銘柄や色が変わって別会社が同じような事業を行っていました。父親の会社の資産をそのまま別会社が継承したのか持ち込んでやり始めたのかはわかりませんが、会社の名前は全く違う名前に変わっていました。

 

次回は箕面に住んでいたことを思いだしつつかいた短編集みたいな形になると思います。
お楽しみに。

 

片輪者一代 置石事件

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この当時の箕面小学校は小学校自体が学校崩壊学級崩壊をするほどまでは荒れてはいませんでしたが、置石事件や小学生同士の姦淫事件などがあり、その度に校長が引責辞任という形で退職していきました。箕面小学校にいた期間はたったの2年と1学期間でしたが、その間に校長が数回交替しました。
中でもセンセーショナルだったのが、置石事件で死亡事故を起こしてしまったり、置石事件で電車が脱線し、学校の擁壁に電車がもたれかかってしまうなどかなり甚大な事件を起こしていました。

ところがこれらの事件を起こしているのが二桁未満の生徒、つまり、3~4年生以下の生徒ばかりがこの手の悪戯をするために見ず知らずの大人に親子そろって叱られるだけでどこかに身柄を拘束されたり、監禁されたり、懲罰を食らって使役に従ったりということもありません。

反省の体を装って、嘘泣きの一つでもすれば許されてしまうのです。
実際置石事件で老婆を殺した同学年は自慢げに話していました。
私も大概歪んでいましたが、箕面小の生徒による置石事件は私以上に闇を抱えた生徒たちの娯楽になっていました。
自分がしでかしたことで人が死に、けが人が沢山でても、何も反省をしておらずより大きな事故を起こさんと企てるほどに闇は深かったですね。洞元の「次は擁壁だけじゃなく学校自体にぶつけてやろうかな」という一言にもそれが集約されています。
流石に一度目の犯行はお咎め程度で済みますが、置石を常習しているような子供に対してはヒトケタの年齢の子供でも一時的に預かって身柄の拘束じみたような事をしていました。だから暫く学校を休んでいましたね。あれは精神病院に強制入院させていたのか養護施設に強制収容していたのかどっちなんでしょう。拘置所や少年院ではないと思うんですよね。私も相当な悪童でしたが、収容施設といっても夏休みに黄檗宗のお寺の修行施設に放り込まれた程度なので、素行の悪い少年少女が行政施設に放り込まれるのとはまた訳がちがいます。

 

ところで置石事件をやらかす連中の家庭が崩壊していたから、それがために歪んだ方向に向かったのかといえばそうでもありません。
親は常識人で全うであっても、子供がその歪んだ環境に足を踏み入れてしまったり、歪んだ環境にどっぷりと染まってしまうことで真っ当な親から生まれた子供でも環境次第では歪んでしまうということが往々にしてありました。実際に私が歪んだのも周りの環境が非常に大きかったですね。そして大体置石事件をやらかしていた奴の家は生活に困窮しているような家の奴ではなく、中流家庭の家の連中が多かったです。
決して貧乏ではなく、与えられるべきものはちゃんと与えられて、そこそこの生活をしているそういう連中でした。だから学校側も対処に非常に苦労していたと思います。親の経済問題、親の精神問題などが原因であれば、親と引き離すなりなんなり手が打てるのですが、親に問題がないんです。過干渉しすぎて子供がパンクしてそうなったというわけでもありません。親が子供と適当に付き合って無関心だからそうなったわけでもないんです。
チョットした環境によって狂いおかしくなる、子供とは実に不安定で扱いにくい生物だなというのが置石事件を横目で見ていての感想でした。

私自身は置石事件を一度もしたいとも思わなかったし、する気も置きませんでした。
クラスの中でも悪い子供としての評判だけは非常に高かった私にはいつも置石グループからの誘いの声はかかっていました。最初は敵を作りたくないからやんわり断っていたのですが、しつこく仲間に引き入れようとしてくるので、だんだん厳しく断るようになり、私が学校に通報するなどした結果、完全に絶縁状態になりました。

 

別に当時流行っていたやくざ映画に触発されたわけじゃないのですが、悪党なりの悪のポリシーというのが自分にはあって、迷惑をかけるのは教師と学校とまあクラスメイトだけであって、それ以外の人にはなるべく迷惑をかけないように配慮して動くようにしていました。だからクラスメイトでどうしても気に入らない存在などが登場した場合でもなるべくその本人だけを徹底して潰すために時間をかけ、その親や兄弟には恨みが無いために、親や兄弟への負担を最小限にするため、集中的な攻撃を加えるようにしていたのです。拉致ッた子の親が自分の子供が返ってこなくて心配するのは解っていましたが、そこは心を鬼にして一定期間身柄を抑えて家に帰さないようにし、その間に徹底的に痛めつけて私に反抗する意思を喪失させるように工夫を凝らしていました。

置石事件を起こしていた連中は完全な愉快犯で、事故が起きるまでのドキドキ感と、事故が起きて自分達だとバレるまでのドキドキ感、バレた後に警察や教師に追い回されて掴まえられるまでのドキドキ感が忘れられなくて何度もやっていました。だから事故が起こるとあいつがやったとみんな言うし、そして本当に名指しされた奴がやっていることが往々にしてありました。勿論名指しされた奴がやってない置石事件もありましたが、名指しされた奴は家が建築関係の仕事をしていたので自宅兼会社である家にコンクリートブロックやレンガなど、置石に手頃な置石道具が山の様にありました。子供で短絡的な行動で置石事件を遊んでいたから家にあるそういった資材を盗んで使っていましたから簡単に足がついて補導されていたのですが、捕まるところまでが楽しみだったという私からしたら理解できない彼らの闇は本当に理解の外の話でした。

同学年で何度も置石事件を起こしては捕まっていた奴がいて、4年生に進級した時にそいつだけが問題児の宝庫である杉クラスに移ってきたのです。問題児の宝庫と言われていたのは私や小善だけじゃなくこの置石野郎事洞元も問題児でした。私や小善は自分から問題行動を進んで侵すようなことはしないであくまでも自分の保身や身内に何かあった時だけ蠢動していた分、まだ杉教諭も扱いやすかったのかもしれません。洞元は、自分から進んで置石事件を起こしていましたし、何度もそれで捕まっていて、それでもまだなお繰り返してやっていたので、杉教諭としても相当に手を焼く相手だっただろうなあとは思います。何回も授業の途中で杉教諭が堰を外すことがありました。その時には決まって洞元がいなかったのです。

他にもこれは別の意味でですが、問題を抱えている生徒がいました。
心臓病の疾患を患っていて学校にそれでも無理して登校していたのです。ところが急変して体を壊すことが多々あったので、母親が呼び出されて毎日彼女の母親が教室の後ろで控えていて、容態がオカシイと母親が察知したり、本人が苦しくなったら手を挙げて、母親が保健室に連れて行ってました。

小善も私も洞元も、一生懸命に学校に通ってくる心臓病を患っていたこのクラスメイトには好意的に接していました。
本人が非常に純情な女の子であり、本当に何にでも一生懸命な子であったために、汚れきった私達3人でも彼女だけは穢すまいという意思が働いていました。また彼女自体が悪童として他のクラスメイト大半から色眼鏡で見られていた私たち3人を決して色眼鏡で見なかったのです。これがやはり一番大きかったんだろうと思います。恋をするという感情はありませんでしたが、女児を信じない私の中では信用に足る少ないクラスメイトの一人だったという点はあっただろうと思います。娘だけでなく彼女の母親も悪名高い私たち3人を決して色眼鏡で見なかったんです。誕生日会をした時でも他にクラスメイトで勉強やスポーツが出来るまともなクラスメイトがいくらでもいるにもかかわらず、必ず私達3人を招待して呉れました。恐れられ、警戒され、恨まれていた私達の孤独のようなものを彼女は知っていて心配してくれていたのかもしれません。結局家族や病院周りの人も病気に対して一緒に戦っては呉れても本当のところは孤独な戦いであったんだろうかとふとおもうことがあります。

今回は置石事件をメインに話をしました。
丁度、この置石事件が箕面小でブームになっていた時に、枚方市で京阪電車が枚方市駅だったと思うのですが、やはり置石が原因のシャレにならない大規模な事故をやらかしていました。ここでは中学生の5人組による犯行だったようです。100人以上の人が怪我にあい、天災ではなく人災であったため、中学生グループの親から雀の涙の賠償金しかとり返せなかったために京阪電車も復旧のために自弁しなければならず線路内に人が立ち入らないように徹底してフェンスで囲うなどの対策をたてたようです。でもいくらフェンスで囲ったって無駄なんです。フェンスをよじ登って入ろうと思えば入れちゃうし、大体置石事件をやらかすクソガキ共は踏切から線路内に入り置石をしています。

つまり、踏切に監視員を常駐させておかないとどうしようもないのです。
箕面小学校の場合は踏切のすぐそばに牧落駅があり、この牧落駅が箕面小学校の側面にありました。
となると、踏切に監視員を配置し、駅のホームにも監視員を配置し、彼らを駅の営業時間中はずっと張り付かせておく必要があったのです。

学校側もボランティアの監視員を踏切周辺に配置するなど当時もそれなりの対応はとっていましたが、ずっと監視員が学校が営業時間中も配置されているわけではないため、隙だらけでした。当時はまだガードマンを雇って駅に配置させるということをしているところは見かけたことがないので、そういう使い方を多分していなかったのでしょう。今では当たり前にガードマンを雇って駅のホームに張り付かせているのをJRだけじゃなく他の鉄道会社出も当たり前に目にします。あの当時そういうガードマンの使い方をしていたらひょっとしたら完全に防ぎきる事は難しくても置石事件の回数を減らすことはできたんじゃないかと思います。今では当たり前に活用している事でも当時は思いつきもしなかったのかもしれません。

 

さて、次回は小学校4年生の時に起きた他クラスでの事件ですが、非常に大きな騒ぎになった事件があります。

鶴丸事件と私は勝手に呼んでいますが、その鶴丸事件時ついて次回話をします。

片輪者一代 杉教諭

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ようやく自分史に話を戻すことが出来ます。連載が途絶え途絶えになり申し訳ございません。

間が空きすぎたので今迄の話がどのようなものであったか読み返したい人は、こちら

そして前回の話だけを読み返したい方はこちら


小学校3年生の時に転校し、箕面でまともになるどころか余計に悪化して、陰険さと謀略ぶりに益々磨きをかけて、担任教師とその家族を破滅させることに成功した私は4年になったからと言って態度を改める事をするわけもありませんでしたが、4年に担任交替した杉という女性教諭は女性ではありませんでした。非常に淡々とした人間で、感情的な女性ばかりを見てきた私にとっては初めてのタイプでした。

4年になっても悪行の限りを辞める気配のなかった私に対する杉教師の態度は冷酷でした。
給食をたべさせないんです。
口で言って言うことを効かない子にはその口に何も与えなければいいという発想だったのでしょうか。
給食の時間ずっと廊下に立たせておいて給食を与えません。
私も別に一食抜かれたからと言ってそれで腹が減って動けなくなるというわけじゃないので、反抗的な態度を最初のうちはとっていました。

杉教諭の冷淡さを知ったのは給食費を渡した時でした。
実は4月中ほどんど給食を食べておらず、金払うの馬鹿らしいなと思っていたら、食べた分だけキッチリ差し引かれ、食べていない分の日数だけ金を払い戻ししてきたのです。

しかもそこにはこういう理由で給食を召し上げたという理由が和文タイプで細かく打たれて表にされていました。

 

母も私が4年になってからやたらとお菓子を食べるようになったことに違和感を感じていましたから、こんなものが母の手に届いては大変です。

 

握り潰し、金は流石にガメた後の事を考えると危険だったので、払戻金は保管して隠しておきました。

ところが、私が母に払戻金も返さないし、給食を強制欠食させていたことを伝えていないことも杉教諭にとっては織りこみ済みで、母あてに親展で手紙が届き、同じ文面で同じ表になっていた強制欠食報告書を送りつけてきたのです。

 

これでは言い訳の仕様もありません。

私が秋葉の時同様に、教師を敵としてみなし、反抗的態度をとり続けていたことも完全に暴露されてしまいました。
学校から父兄あての手紙も報告書の中に同封されていました。
私は学校からの情報を意図的に操作することで母親を情報弱者にしてコントロール下に置いていましたから、如何に今迄私が母に学校からの連絡物資や情報資料を統制していたかもマルバレしてしまいました。

杉教諭は私という人間を全く信用も信頼もしていないから母にも直接手紙を送付していたのです。

他の生徒に聞いたら、他の生徒の親には直接手紙を送付などしていません。

つまり完全に私だけが全く信用も信頼もされていない、していないということを表明されたようなものでした。

担任になって直ぐの教師にここまで否定され、完全に否定されてしまってはもう如何にかして信用や信頼を勝ち得るということは無理であることはわかりました。信用や信頼を勝ち得るためにはおとなしく、騒動を起こさずに先生の言いなりに従うしかありません。完全屈服するまでは多分この教師は手を緩める気はないでしょう。ある意味、効果的な手を初っ端からぶっこんできました。教師側から先制攻撃を仕掛けてきたのは杉教諭がはじめてでした。そして、こちらがどういう手立てで接しようかと手探り段階の間に先手を打って、私の得意とする裏工作や謀略調略の手段を封じてしまいました。

一方でよく生徒を観察していました。

私が手をこまねいて仕方なく恭順の体を装っておとなしくしていたら、ある生徒が私の痣の事でからかってきました。私はいつものようにこういう相手とは会話をして辞めてくれと頼む気がありませんから、学校でさんざん言いたい放題言わせておいて、相手の行動パターンを掴んだら、いつもの手段で闇討ちを仕掛けて半殺しか殺す一歩手前まで暴力を加えて相手に恐怖でもっていじめを辞めさせるといういつもの手段をとる準備をしていました。するとその準備段階で杉教諭が痣でこいつが私をからかっているのをたまたま目にしてしまったんです。
しかもこいつは学級委員でした。
普通、学級委員と悪名高い人間とがトラブっていたら学級委員に味方するのが当たり前なのですが、杉教諭は彼の学級委員の役職をとり上げ、学級委員が同じクラスの生徒を虐めていたことがわかったので学級委員から除籍し、学級委員選挙を再度行ったのです。
除籍された彼は当然立候補できません。
他の奴が数人立候補し、推薦候補者も数人出て結局推薦候補者のうちの一人が勝ちましたが、初めてまともに裁定してくれたので、私も杉教諭には降参し、4年の間は自分が虐めに遭わない限りは悪いことをほとんどしませんでした。小学校6年間の中で一番安定しおとなしくなった時期と言えるかもしれません。

私だって教師だから全員的という単純な味方をしていたわけでもありません。
江東区時代の幼稚園の担任だった山根幼稚園教諭を見ていました。一生懸命になり過ぎて空振りし続けた彼女は私が足の骨を負って長期療養に入った時も様子を見に来てくれたり、足の骨を折って誰とも話をしない日が続きすぎたためにドモリが悪化してあちこちに診療にかかっていた時にも心配になって様子を見に来てくれました。夕方幼稚園から帰るときに1時間はいなかったかもしれないけど話し相手になって会話の訓練に付き合って呉れた非常にいい面倒見のある先生ではあったのですが、剛直で融通が効かないために、正月の餅つき大会の時に私の手で握ったお餅をみんなが抵抗して嫌がって泣きじゃくるのを無理矢理食わせようとしたり、私とお遊戯の時に手を繋ぐのを嫌がって泣きじゃくる女の子の手を無理矢理私と手を繋がせたりと(確かゴムかなんかで縛り付けていたような記憶も・・・)やり過ぎの正義が玉に瑕でした。また私が挑発すると面白いように挑発乗っかって感情的に追い回すという激情型の教師でした。宗教系の幼稚園だったからなおのことこのあたりの信条への融通性がなかったんだろうと思います。園長自体は融通が利きまくる、まあるい人でしたが・・・・

杉教諭は感情的な山根幼稚園教諭とは違い、非常に冷徹でした。感情的な態度や行動は一切取らないで、常に淡々としていました。
丁度杉教諭が担任して呉れていた同時期にイギリスの総理大臣のサッチャーさんが、鉄の女といわれていましたが、杉教諭はまさにそんな感じでした。顔もよく似ていました。
女としては異常に背が高く、私の母と同じ170㎝超えの女性でした。私の周りは巨人の女の人が多くおり、母が174cmでこれと同等が山根幼稚園教諭、そして杉教諭、それに京都に住んでいる伯父の嫁が180cmとぶっとんでいました。杉教諭を除いた大柄女性はみんな性格が感情的ではあるのですが、気が短いというわけではなくおおらかな性格をしていました。
色んな意味で本当に始めてみるタイプの女性でした。

杉教諭はキッチリ子供をよく見ているし、兎に角隙が無いんです。見た目は明らかに女なのですが、中身は本当に冷徹な金融屋というか全て計算づくでやるようなそんなタイプの人間に感じました。だから私もこの人とは闘っても勝てないと諦めてしまいました。それとキッチリ周りをよく見てキチンと依怙贔屓や見逃しがほとんどなかったからこの人の言う事なら真面目に聞いて素直に従おうと心服したというのもありました。

ようやくまともな教師に合えたのでした。

 

次回は箕面小学校で頻発した置石事件について話をしていきたいと思います。

 

自分史の連載が継続できずにホントに申し訳ありません。

実は私自身にとっても実は今のタイミングが可成り、切所となっているんです。

障害者で就活希望者にとっては去年の末から今年にかけてはまさに絶好のチャンス。
民間企業に障害者を雇え雇えと言っていたお役所がズルして障害者を雇ってない、精薄は雇わないなとインチキをやらかしていたことが暴露されてしまったんで、民間企業に指示した分だけ役所も数合わせのために主に非常勤でですが、雇い入れを行っています。
これはお役所の本庁だけでなくその支店である地方でも起きています。
勿論、この年でそう、50に手が届くような年齢で普通、お役所に入る事なんてありえません。

所が可成りインチキしていたのか、とにかく数合わせのために大量雇用が必要になったため、労働局などでは60歳でも雇ってくれるという大サービスを展開しています。(残念ながら今月18日で申し込みしめ切ってます)

ホントのところは労働局に採用されたらいいなあと思ってますがさあてどうなることやら。
多分香川県中どころか、多分隣接している他県からも殺到するでしょうし、私の様に実家が香川県という人間が戻ってくるパターンもあるでしょう。勝てない勝負はわかっていますが、それでも負けがわかって受験しないよりはまぐれ当たりもあるかもしれません。それも障害の等級が関係ないですから、ボーダー障害者が、障害者手帳をとって健常者での受験を辞めて自分を下げて障害者雇用枠を狙ってくる危険もあります。こういう人とは完全に勝負になりません。

けど、就活ってお見合いと一緒です。どういう縁で拾ってもらえるかわかりません。

以前に勤めていたのはキヤノンのグループ会社でした。たまたまその会社が新しく発足し、二つの会社が合併してできるというものでした。
片方の会社は障碍者雇用をきちんとしていたのですが、もう片方の会社は障碍者雇用をしていなかったために、慌てて数合わせのために大量の障害者が数として必要だったのです。それで私は拾ってもらえたんです。


今回の官公庁の障害者雇用不正はそういう意味では障害者にとっては神風のようなものです。
よくぞ、インチキしてくれた。よくぞ、水増しして呉れたです。

おかげで絶対にありえないという芽を増やして呉れたんです。

何とかして相手の印象に残り、これなら雇ってもいいかと思わせられるように仕向けて行きたいなと思っています。

 

さて、そんな訳で、実は2月7日から3月5日までまたまた実家に戻ることになりました。
暫くまた投稿回数がガタンと減ると思います。
具合が悪いわけじゃなく、実家に帰っているだけなのでご心配なく。
実は12月から1月まで実家に帰っていた時もそうだったのですが、プールリハビリでかなり体力を戻しました。
今回も就活がメインの帰省理由ですが、プールリハビリもメインになります。

兎に角今年中に仕事が決まらないと私も来年には50です。
焦っています。相当に。何とかどこかの官公庁に引っ掛かって呉れたら最高なんですけどね。

まだ帰省までに2週間くらいありますが、多分バタバタしてブログ迄手が回らないと思います。
そんなときにFacebookが1年前の投稿を理由に言論弾圧を仕掛けてきました。
私とFacebookでも繋がっている人はFacebookでもアメバでも私が沈黙しているので心配されてしまうかもしれませんが、大丈夫です。
 

お待たせしました。ようやく再開です。
文字数は一万5千字をかるくこえている長文になります。

毎度のこととはいえ一気読みしたい方には申し訳ない限りです。
のんびりゆっくりと読んでください。
あまりに間が空きすぎてしまったために前の話題がどんなだったか、というおさらいをしたい方は

こちらへどうぞ↓

https://ameblo.jp/bakadorigoichimonn/entry-12424753344.htm

 

さて、東京都江東区に生誕した悪童は東住吉の時には南田辺小学校で悪逆無道の限りを尽くし、小学生低学年とは思えない悪辣さとふてぶてしさで周囲を巻き込み今なら確実に新聞沙汰どころかネットで暴露されて私の家は無茶苦茶にされていたようなろくでもない事ばかり繰り返していました。私自身もヒトケタの年齢の間なら何しても許されるというのは計算に入れていました。こんな性根の腐りきった悪童が転校で環境が変わったからといって、性質や性格や遣る事がそうそう簡単に変わるわけがありません。第一本人に自分を変える気が全くないんです。母は私だけでなく神仏にすがってまでも私を改心させて呉れと懇願していたようですし、変わって呉れると本気で期待していたみたいですが、母の期待は無情にぶち壊されることになるのです。

小学校3年生ともなると既に小学校1年、2年で同じクラスだったクラスメイトとの関係は濃密な関係を形成しています。

クラス替えで小学校3年生になった時に一度シャッフルされるとはいえ、全員と離れ離れにはなりません。
多少は見知った顔の人間と交流が残るので、完全にゼロから人間関係を構築しなければならない転校生と在校生の差は非常に大きいものがありました。

しかもその転校生がバリバリの標準語を喋っているとなると、こらあ余計に悪目立ちするのは仕方ない事でした。
南田辺のような集団暴行にまでは行かないまでもクラス内ヒエラルキーの悪ガキの頂点に君臨している人間からすると生意気で、お仕置きをしてわからせてやる必要があると考えるのはある意味当然だったのかもしれません。家が武道教室をやっていた小善という餓鬼大将は生意気な私の頭を押さえつけるために私を徴発して喧嘩に持ち込み、私は完膚なきまでに叩きのめされました。体格差がなかったうえに武芸の心得のある人間と闘えば勝てる道理がありません。私の喧嘩は我流であり、決して喧嘩自体が強いわけじゃなく、体格差に物言わせて相手を圧倒するやり方でした。だから背の低い相手で武芸の心得のない人間にしか通用しないへっぽこなものでした。

 

喧嘩に負けるということはそれで序列も下位に堕ちるわけです。

 

転校して直ぐにクラス内ヒエラルキーの底辺に堕とされた私に待っていたのは、虐めとタカリの連鎖でした。
虐めの材料はここでもいつも通り左手首の痣、普通の人の肌とは全く違う肌質に触り心地は気持ち悪く人間の肌ではなく爬虫類を触っている感覚です。それは自分でも自覚していたし、実際にふれあい動物園で爬虫類を触った時に、ああ、これ自分の痣と同じ感触だなあというのはしみじみと痛感していました。

小善の腰ぎんちゃくたちに押さえつけられて左手首の痣を触られたり、強制的に触らせられたりして、辱めを受けました。
力がなければこんなものです。また底辺からのやり直し。ああ、またかあ。やはり世の中うまくいかねえというかやはり大阪ってところはどこも糞だなあというのはしみじみと感じました。ここからのし上がるのは通常のやり方では無理です。また南田辺の様に時間を多少かけても一発逆転を狙う卑劣な手段をとるしかありません。

小善は虐めやタカリなどはしません。小善が底辺の人間に集る必要がないからです。それは小善の腰ぎんちゃくたちがせっせと上納して呉れるからです。だから小善は堂々と正統派のガキ大将として君臨できたのでした。
腰ぎんちゃくたちは小善への上納を身銭を切ってやるわけじゃなく、小善との喧嘩に負けた人間から吸い上げて上納し、一部をピンハネするのです。つまり自分の腹も傷まないし、儲けもあるわけでガキ大将の腰ぎんちゃくほどおいしい立場はありません。腰ぎんちゃくたちは非力でもいざとなれば小善に助けを求めて助けてもらえます。それだけ分の上納をしているから小善も当然腰ぎんちゃくの味方につきます。

そうなると方法は一つ、腰ぎんちゃくと小善を離間する謀略をめぐらすか、腰ぎんちゃくを徹底的に叩きのめして小善への助けすらも呼べない恐怖を与えて、一人づつ腰ぎんちゃくを潰していくかという方法です。

 

最初は離間の計を用いようとしましたが、これは失敗しました。腰ぎんちゃくも小善との付き合いは長く小学校に入ってからというのもいれば、幼稚園以前からというのもおり、私を一番食い物にしていた敦という奴は、小善との付き合いは保育園からという長い付き合いなため離間させることは無理でした。

そうなればいつもの手段です。

 

私の得意な卑劣過ぎて容赦のない闇討ちです。
相手だって、自分の実力で私を収奪しているわけじゃなく、小善というバックホーンを利用して収奪しているトラの威を借りたキツネなわけです。正々堂々の喧嘩でも勝てる相手ではありますが、それではバックホーンにいる小善とまた喧嘩してそして負けて同じ地位にとどまるだけになってしまうので、闇討ちにして完全に無抵抗な状態で滅多打ちにして、小善への助けも呼べないほどの恐怖を植え付けて小善から引きはがすという手段に出たのでした。それは東住吉の時の朝鮮人の息子を袋叩きにして朝鮮人の息子が親族に救援依頼を呼べないほどに心の底から恐怖を与え恐怖で縛り、こいつには逆らえないと体に教え込ませたあのやり方と同じでした。


小善との喧嘩で私が勝つことはないと私自身は確信していました。でも負けたままで終わるのは腹が立つので、その手足をもいで、彼の収入を減らしてやろうという悪意は持ってました。小善の家は裕福な家の子には見えませんでした。道場を親が経営しているといっても道場を所有しているわけじゃなく体育館を借りてやっていました。クラスメイトで別の人間の親が道場を経営していましたが、これは自宅と道場が併設されていて家屋敷も広く、本人もかなり裕福な生活をしているのが随所に垣間見れたので、自前の道場を持っていない小善の親はそんなに稼げていないんだろうと子供の目ながら邪推していました。金をかけずに効率的に道場運営をしていたと今なら見て取れますが、当時はそこまでの知恵はなく、道場を持たない道場主なんて、道場主なんて偉そうなことぬかしているけど大したことないんだろうと馬鹿にしていました。こういう歪んだ発想や視点を持ち人を経済的な尺度で序列付けしてしまうなど本当に腐りきった考えを持つ卑しい子供だったのです。
こういうものの味方を定着させたのも東住吉の二年間の影響は大きかったですね。兎に角間違った学習や思い込みを小学生時代は重ね塗りしていました。後々これを軌道修正するのが本当に大変なことになるんですが、当時はそんな深刻な状態を全く把握していないどころか、ゆがみに拍車をかけている時期でした。

腰ぎんちゃくの手足をもいで小善の経済状態を悪化させれば経済的にも余裕がある小善が苦境に立ち、何らかの衝動的な行動に出て自滅して呉れることも期待していました。本当に腹の中が真っ暗で因循姑息な特亜も真っ青な救いようのない子供でした。


敦の生活パターンを探るために例によって例の如く、敦へのストーキングを転校して小善と衝突してから直ぐにとりかかっていました。

一方で、悪辣外道な私は4月の終わりか5月の終わりにあった担任教師の家庭訪問の時に、両親が出すのとは別に私の個人的な金から先生への志を準備していました。両親、父の兄弟、父方祖父からはそんなに大それたお年玉はもらっていません。母の縁者は会社経営者が多く居て母の兄弟からのお年玉が子供がもらう金額ではない金をたらふくもらっていたのです。そしてお年玉の金銭管理は両親はそろって子供に完全に一任していました。兄は使わないで貯金ばかりしていましたが、私は東住吉のクーデターの時に散財したり、自分の悪事で金がどうしても必要な時には遠慮なく投下していました。そして担任の家庭訪問も集中投下のタイミングと自分なりの計算から集中投下したのでした。

担任教師は母からの志をもらっておいて、私からも志をもらったところで、この異様な子供の行動に気づくべきでした。この子供が教師を抱き込むために私財を投入していたことに。しかし担任教師は志の二重取りをしておきながら、転校生の母親だから転校先の学校生活が母親として心配なのだろうと私が渡した志は私の私的な志とは取らず、あくまで私の母からの志と思ってしまったようでした。確かに小学校3年生が自分の小遣いを教師へのわいろに使うなんて普通の神経ではありません。しかも金額が何千円とかならともかく、二桁にちかい何万円です。親が教師に渡す志の相場よりやや高い金額でした。勿論これも私は計算して出していました。あまりにぶっ飛んだ額だと相手が萎縮するだろうから、多少割増しにして受け取りやすい額にしたのです。ここまで計算する小学校3年生がいるとは誰も予想できるわけがありません。因循固陋な畜生じみた性格性質をしている私だけが為せることでした。

今の時代に合わせてみても考えてみてください小学校3年生がスマホやインターネットで色んな事を知っているからと言って、直接お年玉の金を教師へのわいろに使う事なんてあり得るわけがありません。理解しろ想像しろという方が無理です。東住吉での人生経験がこんな腐った子供を作ったのでした。
母は私を殺して無理心中するということは考えたことはないようですが、私を少年院に御願いしてでも矯正するために入れてほしいと思ったことは何度もあったそうです。私が教師に賄賂を小学3年生で送っていたことを知った時には、これは大人になったら絶対犯罪者になるから今のうちからもう小学校に行かなくていいから少年院に入ってほしいと本気で思ったそうです。
確かに私が親でもそう思ったでしょうね。こんな恐ろしい小学3年生であれば当然です。


ホントに堕ちるところまでトコトン堕ちていました。金の使い方もおかしいです。
自分の欲しいものを買うのではなく、自分の地位の保全のために金を使うって明らかにくるっています。
今の私の方がよほど小学生的な金の使い方をしています。自分が欲しいものだけに金をバンバカ見境なしに使っています。この頃の私は自分の物欲なんかは完全に無用の長物と決めつけて、欲しいと思っても我慢し忘れてしまうことが簡単にできました。一方で自分の保身のためにならいくらでも自分の金を湯水のように使っていました。物欲で買って満足するのは買ったその瞬間だけしか効果ないけど自分の保身のために金を使えば一定の期間つまり時間の安寧が買えます。私は瞬間の快楽より時間を金で買っていたといえるのかもしれませんが、こんな金の使い方を小学3年生がやること自体が異常だし狂っていました。

そんな訳で担任教師に鼻薬を効かせ根回しが済んだと思っていた私は、敦に対する報復に打って出ました。
 

東住吉と同じ手段でお稽古事からの夜の帰り道に廃屋が立ちならび再開発待ちの廃墟群の中で待ち伏せして不意打ちを仕掛けて滅多打ちにして、縛り上げて目隠しと口にさるぐつわを噛ませて、池に連れて行き、池に突き落として棒で頭を押さえつけて半殺しにしたのです。
体は冷えるし、息は出来ないし、縛られているからどうにもしようがありません。苦しみもがいて池から引き揚げられて一息ついたらまた突き落とされて苦しみもがいてを何度も繰り返され敦は完全に疲労困憊していました。「滝山くんにはもう手を出しません。許してください」何度も命乞いをしていましたが、そんなもの私が聞き入れるわけもなく私はまるで機械の様に敦を池に落としては溺れさせて死ぬ直前に引き上げ、一息ついたらまた突き落として溺れさせて死ぬ直前に引き上げるを延々と繰り返していました。今回以前と違うのは捜索隊に加わる偽装をするよりも痛めつける方を優先し、捜索隊が出動していたことは承知のうえで暴行行為を続け、捜索隊が池の周辺に出没したら、池に突き落として放置して逃げようと、本当にぎりぎりまでなぶりものにすることを決めていました。
トコトンまで私を馬鹿にしていびっていたので、こっちもトコトン迄、嬲り者にして精神に異常をきたすか死ぬかの一歩手前までやりました。
そうしないと多分本心から屈服しないと私自身が思ったのでしょう。
池に捜索隊の手が及んだ時に私は敦を池に沈めてなぶりものにしていました。慌てていけから引き揚げて池のほとりにある神社の祠の中に押し込めて私も同じ祠に隠れてやり過ごしました。捜索隊が居なくなった後、急いで祠から抜け出して敦の両手両足を動けなく縛りあげて、祠にも鎖をかけて南京錠で閉めて放置して帰りました。敦の母親は狂乱して警察に捜索願を出し、大規模な捜索が開始されていたことは私の計算外でしたが、翌朝早起きして祠から出してやると、残虐な仕打ちをした私に深々と頭を下げてお礼を言う敦に、完全に屈服したことを確信しました。敦が私をからかう事やタカる事はこの一件で完全になくなりました。

ところが敦は私へのからかいやタカリは辞めても私の卑怯な不意打ちを許したわけじゃなく、このことを小善に告げ口していたようでした。
幼馴染であり忠実な下僕であった自分の手駒を卑怯なやり方で抑え込んだのです。小善としては私を許せる訳がありません。
まさか小善に敦が告げ口していたとは知らない為、小善の呼び出しでタイマン勝負を仕掛けられるとは思っても見ませんでした。
小善は絶対に私をタイマン勝負で完膚なきまで叩きのめしたいところですが、私はそのタイマン勝負で勝てないから外郭の敦を攻略したのです。これでは何のために畜生に成り下がって迄、敦を叩きのめしたのか全く意味がありません。小善とは険悪な関係でもいいですけど、喧嘩をするほどではない関係は私としては最低限維持しないといけません。

 

敦を潰すのは一日だけじゃ足りなかった。本当に殺してしまうところまでやるべきだったかと私は後悔しました。東住吉の朝鮮人とは違い、力業でねじ伏せようとしてもやり方があまりに卑劣に過ぎるとかえって根に持たれて暫くするとこうやって裏切られるんだなと初めて実感しました。所詮仮初で得た安寧です。力業でダメなら金の力でと、担任教師に鼻薬を使っていました。こういうときこそその効果を発揮させて、小善と私の間の調停を担任に任せるしかないと、タイマン勝負の場所へ教師を呼び出したのですが、その教師が来ません。

 

まさかの裏切りに私は唖然としました。

私はこういう時のために莫大な金を突っ込んで教師への志を渡したのです。
ところが、教師はそれを勘違いして私が直接投資した金も母からの追加の志と勘違いし、志を二重取りしておきながら、何も動きませんでした。子供同士の喧嘩は大いにやるべきだ。喧嘩の後でお互いの本心をぶつけあえば仲良くなれるなんて言うおとぎ話か番長漫画の読み過ぎの馬鹿垂れ教師だったので、私が喧嘩を止めてくれと陳情したのに正々堂々闘ってこいと全く取り付く島もありませんでした。他人事だからそんな適当な態度をとったのか、脳内お花畑だからそんな態度をとりやがったのかは知りませんが、私にとっては莫大な保険金のようなものです、掛け捨ての保険金が文字通りの掛け捨てになって何の効力も発揮しません。私は箕面で二度目の破滅を経験することになる事はこれはどうしようもないと覚悟を決めました。破れかぶれで小善に喧嘩を挑んで大敗して負け犬になるか、どうせ負け犬になるなら徹底的に無様な負け犬となって醜態をさらす、つまりはタイマン勝負をトンズラして退散するかを選ぶしかありませんでした。負け戦をするにしても次に繋がる戦をしないと意味がありません。

助けも来ない負けが確定した喧嘩でもタイマン勝負で負ければまだ何とかなります。
仕方ありませんでした。タイマン勝負に応じて案の定二度目の大敗を喫しました。


敦はこの喧嘩の見物には来てませんでしたが、他の腰ぎんちゃくは見物に来ている者もいました。
彼らとの一対一の勝負であれば私は体格差で多分勝てます。それを知っているから小善を隠れ蓑に敦は私にたかっていたのです。
一度負けた相手にまた勝負して負ける。普通はこんな馬鹿はしませんから、腰ぎんちゃくたちは敦を除いて私へのタカリやからかいは悪化して行きました。仕方ありません。こうなる事を想定してやったんです。腰ぎんちゃくが敦の様に小善へ告げ口する可能性はあってもこうなれば面倒でも一人づつ闇討ちにして徹底的に潰していくしかありません。私の心は完全に破壊され人間性を益々失い、どうすれば死なない程度に相手に暴行を加えることが出来るか感覚的にわかるようになりました。悪事でも何でも道を究めると勘や感覚というものが鋭敏になるものですね。悲鳴を上げ命乞いをしても私には馬耳東風。近所の犬が無駄吠えしているような感覚になっていました。腰ぎんちゃくどもにとっては初めての生き死にがかかった恐怖の体験を私から無理矢理受けさせられる羽目になりました。一対一のタイマン勝負でも私が体格差で多分勝っていたでしょうし、そうでなくても闇討ちという不意打ちで一方的に奇襲をかけたのですから受け手の彼らに私との喧嘩で反撃して返り討ちにすることは絶望的に無理な話で、完全にワンサイドゲームになったうえで、生きるか死ぬかの地獄を一方的に味合わされてしまったのでした。私は敦を池に沈めた不意打ちが余程気に入ったのか、他の腰ぎんちゃくたちも待ち伏せしたところで滅多打ちして抵抗を奪った後は池や川や用水路に突き落として溺死するかしないかの水責めを好んで使っていました。ほぼ全員水責めにしています。彼らがその後どんな大人になったかは知りませんが、少なくとも全員私との距離は取るようにしてくれたのは私の行為が結果的には正解だったという事の様でした。

間違った成功体験を積み重ね、東住吉の繰り返しをした私は益々冷血漢になっていきました。
小善へ告げ口したものが居なかったのか、小善からのタイマン勝負は敦以外の腰ぎんちゃくを屈服させた後はなぜかありませんでした。
ところが情報自体は伝わっているみたいで、「調子に乗ってられるのも今のうちだ次何かしたらお前を同じ目に合わせてやる」という意味深な脅しはかけてきました。武道家の嫡男が私のような卑怯な闇討ちをするわけがありません。おそらくは呼び出して何かしらの罰をあたえてやるということでしょう。武道の経験が剣道以外は皆無の私には小善と勝負して勝てるわけが無いし、剣道も下手糞で経験年数だけが無駄に蓄積されているだけでした。普通は絶対に不合格にならない3級の試験に堕ちたりするくらいに無能でした。結局私の剣道の資格は6級で止まっているんです。これって申請すればもらえる資格なので資格にもへったくれにもなりません。

 

兎に角、小善を利用しての腰ぎんちゃくどものタカリやからかいは自力救済によって落着しました。


虐めをやるような性根の腐った奴にはやっぱり徹底して反撃して体で虐めは怖いと教え込ませるのが一番だなと益々信念を持つように至りました。いじめられたら、からかわれたら、たかられるようになったら、闇討ちでの自力救済しか自分を助ける方法はないと確信し行動することはこの後も一貫してそして徹底するようになりました。

よくいじめ問題などをテレビなどで取り上げて、知識人とのたまう人達が偉そうな面をして、もっと話し合うべきですなどと言ってますけど、実際にそういう体験をした人間から言わせてもらうと、とんだ眉唾物です。やっぱり自分で解決するしかないんです。親や先生、学校を頼ってもいいでしょう。だけどそこには必ず被害者自身が能動的に動かないといけないんです。
受動的にお客さんになって周りにお任せていたらいつまでたってもいじめられっ子はいじめられっ子のままです。それは自分の体験上の問題というのでなく、他に虐められている生徒を見ていても痛感しました。
自分のやり方が正しいなんて思っちゃいません。自分にとって効率的で短期間に結果が出るからやっているだけでこんな悪辣外道なやり方を推奨なんてしたくもないし、する気もありません。人間壊れます。
虐めを克服した子は大半は先生や周りの言いなりに行動はしておらず、自分なりの道を模索して能動的に動いていじめを克服しているんです。いじめられる側に何かしらの問題があるという人がいます。今は理由なく虐めることもあるのでいじめられる側に問題があるということは一概に言えなくなっていますが、私達第二次ベビーブーム世代の人間が子供の時にいじめられていた時にはいじめられる側にも問題がありました。

総じていじめられる側には虐めやすい人間としての隙があり過ぎて、その隙をつついてやりたくなるような緩さがあったんです。


私も隙だらけで無能な子供でした。だから虐められたのです。
左手首がどうたらこうたらと常に痣のせいにしていますが、それは当時の私の発想で書いているからそういう見方をしているだけで、大人になっている私には虐められた理由というのははっきりとわかっていました。

隙だらけで緩いから、からかいやすく馬鹿にされやすいのです。


つまり私は自分がゆるゆるでガバガバの隙だらけの阿呆だったということなのです。

 

ところが自分の欠点をわかっていながらもそれに目をつぶり、朝鮮人や支那人同様に他の物、私の場合は痣や外斜視に責任転嫁して常に言い訳ばかりしていました。こんな人間的に魅力ゼロの馬鹿は虐められたり集団暴行されたりするのはある意味当然だったのです。

 

鶏を昔の家ではよく買っていました。
農家出身の方ならこんな光景を見たことないでしょうか。
鶏が弱ったり怪我をしている鶏の仲間をつつきまわって血まみれにしてしまうという行為です。
あれも仲間内で衰弱して隙を見せてゆるゆるガバガバになったから周りから突っ込まれるんです。
つまり私はどこに行っても落ち目の鶏であったという事なんです。
最初からそういう姿を見せて居なければ兄の様に一度も虐められることなく子供時代を過ごせていたはずです。
私自身のゆるゆるガバガバな隙だらけの突っ込まれやすい性格と行動が結局は虐めを誘引していたわけです。
つまりすべての原因もきっかけも自分自身にあったのです。

当時そのことに気づいてはいませんでした。朝鮮人の様に他のものに責任転嫁したり、すりかえていました。
腐った人間と付き合っているとその人間も腐敗して腐っていくものです。
私は東住吉の時に朝鮮人に合わせすぎた行動をとり、朝鮮人と同じように因循姑息で卑怯未練な腐りきった畜生にいつの間にか転落していたのです。この時には全く気付いていません。腐った卑怯者の人間として最低な自分に酔っていたといえなくもないでしょう。元々朝鮮気質があったんだろうと思います。だからこそ朝鮮人に合わせやすかったんでしょう。人間としては本当に恥ずべき限りです。

タイムマシーンがあれば当時の自分のところに行って、半殺しの折檻を与えて、教導してやりたい気分です。

 

さて話を戻しましょう。私は先に近々の問題を発生させていた小善の腰ぎんちゃくどもを各個撃破して自分のクラス内ヒエラルキーを何とか修復して安定させることに成功しましたが、金を騙し取った上に私に無駄な労力を使わせた担任教師を許す気はなく、どうやって破滅への引導を渡してやろうかと企みました。
ようやく思いついたのが、事実をそのまま利用して担任を破滅させるという方法でした。つまり、志を担任が家庭訪問時に積極的に無心していたということを暴露すればいいわけです。

この当時、つまり昭和50年代中期に小学校の先生への付け届けというのは当たり前に行われており、そこに金銭の授受も志という名前を使っていても実際は賄賂という形で横行していました。ところが賄賂と違って、見返りを求めるものではなくまあ先生に自分の子をちゃんと見てもらいたいという親の愛情がそこには含まれていました。成績を操作してくれとかそういう意味合いは受験の学年ではあったでしょうが、受験が関係していない学年や児童には関係のない話でした。

 

私が自分のクラス内ヒエラルキーを保持するために悪逆無道な行為でその地位を守っていることをどうやってかは知らないのですが、担任教師に気づかれました。そして学校で呼び出しを食らい、詰問され叱られたのです。

これがもう決定的な担任教師秋葉と私との訣別になりました。やはり教師は敵か。ならばまた東住吉同様に闘って勝たねばならない。そして私は結果を重視するために結果を出すまでの過程に対してはどうでもよかったので、冷酷無惨な手や卑劣な手段を講じる事にも全く躊躇いはありませんでした。

まずはクラスメイトへの調査を開始したのです。クラスメイトの家にお邪魔した時に志の話をそれとなくするのです。クラスメイトの母親も悪いことをしている自覚がないから聞けば大体は話して呉れたし、包んだ金額まで話して呉れる母親もいました。小学生が何でこんな変な質問をというのを感じた母親もいるかもしれませんが、以外と聞けば簡単に情報を漏らして呉れました。小善や小善の腰ぎんちゃくどもや、クラスの女子。他に私とはグループが違ってほとんど接点のない派閥の男子の家などには訪れませんでしたが、自分と友好関係下にあったクラスメイトからは十分過ぎるほどの情報を集めることが出来ました。クラスの3分の1くらいから情報を集めました。これ以上はクラスからの情報は集められないので、兄を使って兄のクラスでは志はどうなっているか聞いてもらったんです。人望ある兄はクラスメイト大半から情報を引き出してくれて表やグラフ化までしてくれました。兄に頼んで他の同学年の他クラスからの情報も入手してもらいつつ、私も同じマンションに住んでいる知り合いを伝手に、数クラス分の志情報を手に入れることに成功したのです。

そう、私は秋葉が他のクラスの先生よりも多く志を要求しているという証拠をつかみたかったのです。普通、一度受け取っておいてまた直ぐに志を渡されてそれを簡単に懐にしまい込むわけがありません。おそらく秋葉自身が、家庭訪問の時に取れる親からは無心して取ってるんじゃないかと邪推したのです。

 

今は普通ですが、当時、つまり、昭和50年代半ばで40代の男性が離婚しているならともかく一度も結婚をしていないというのはかなり異常なことでした。しかも学校の教師という安定した職業でです。ニコヨンやサブロクならともかく、公務員の中年男性が一度も結婚していないのはかなり異常でした。性癖に問題があって男しか愛せないのか、家庭に問題があって結婚出来ないのかのどちらかでした。そのため秋葉の周辺にも探りを入れてみると秋葉が結婚出来ない理由がわかったんです。一緒に暮らしている母親が病弱で目が離せない状態だったのです。生命力だけは強かったようで、何度も大病を患ってはその都度体力を落としてADL(日常生活動作)を低下させても生き続けていたようです。冷徹な冷血漢の私に秋葉のこんな致命的な弱点が暴露されてしまいました。

使えるものはトコトン利用して使い潰すのが当時の私の流儀でした。

私の目的は秋葉は私を今のところ敵として認知していない点を徹底した絶縁状態に持って行って、怒らせて理性的な行動を失わせしめて自滅させる方向に持って行くことでした。情報は十分に集め、これを資料として見やすいようにつくり直しました。この頃の私は自分の悪事の為であれば執念深いしかなりそつなく行動することが出来、そのために必要な技術を身に着けることも子供ならではの柔軟さがあってか運動スキル以外は割と身に着ける事が出来ていたようでした。
母が父と結婚後、岡山に引っ越すまで延々と内職で和文タイプを打っていたのですが、幼稚園の時などは悪戯をするので絶対にタイプに触らせてもらえないばかりか近寄ることも厳禁となり、父は書斎をトイレに移転して自分の部屋を母の内職部屋にあてがいました。それくらい大事にしていた母の商売道具である和文タイプの使い方を教えてもらい、学校の宿題、夏休みの宿題と称して、タイプで打ち込んで作りこんだ秋葉のわいろに対する告発文をせっせと作り始めました。まさか秋葉を潰すために和文タイプで正式の告発文を打ち込んでいるなんて私の両親も想像だに出来るわけがありません。母などは自分の仕事に興味を持ってくれたことと、本当にちゃんと文書作成をしている点からも心を入れ替えて呉れたのかと誤解をしていたようでした。私がそうそう簡単に心を入れ替えるわけがありません。現状に満足していたわけではないですが、自分が原因で自分を変えないと何も変わらないという事にはまだこの時点では全く気が付いていません。だから小学校二年生で学校に立て籠もりをした悪童は小学校3年生で今度は告発文を作成して担任教師をハメて沈めようと企てていたのでした。より悪質化していただけだったのです。

 

恐ろしい子供は己の謀略のために秋葉との関係を一挙に破壊するその日迄表面上は友好的な関係を偽装していました。

喧嘩馴れしている私という外道は相手をどうすれば怒らせ、理性を失わせ、自分を徹底的に憎しみを持たせる自分に恨みを生涯持つように仕向けることが出来るか経験で知っていたのです。それは信用や信頼できると思わせておいてあっさり裏切る、仲良しと思わせておいて苛烈な仕打ちを与えるこれだけで簡単に関係は破綻するのです。

小学生の頃の私は自分の天寿はなく殺されて終わると思っていました。それくらいに周りに敵を多く作りそして恨まれていました。でもそれでいいと割り切っていたのです。死生命有。そうなるときにはそうなるんです。それくらいに自分の人生を簡単に淡白に割り切っていました。楽しいことも多かったけど嫌なこともそれ相応にあったために、ある日突然人生が終わってもそら、それでいいやと投げやりに人生の無駄遣いを小学生の時には意識的にしていました。それくらいに自分の人生というものが嫌だったのかもしれません。どこかでひょっとすると誰かに止めてほしかったのかもしれませんね。

秋葉との関係を良好に保った状態で、何かの縁で秋葉の自宅を訪問したことがありました。学校の先生というのは安定したいい商売と思っていたのですが、和田野や練尾とは違い、二階建てのボロアパートの二階の一角に3Kくらいの質素な部屋があり、そこに秋葉と老婆が暮らしていました。ヨレヨレの棺桶に片足突っ込んでいるようやつれ果てた婆さんがふらつきながら息子の教え子が訪れたというので給仕をしてくれました。小麦粉から団子を汚いしわくちゃの手でせっせとこねて作ってもてなして呉れました。流石にそんな姿を見て心が痛まない方がどうかしていますが、私がこの場を利用してやる事は既に決めていた事でした。しばらくは歓談をしてお茶を濁し、ほんわかムードを一挙にぶち壊しにするタイミングを図っていました。


「先生のおふくろさん体が弱いみたいでお金かかって大変でしょう。まだ年金もらえる歳でもないみたいだし。」

ボソッと急にそんな話を振ったのです。
話題の急展開についていけなかった秋葉と秋葉の母親の目を覚まさせるために、志の話をはじめ、
「その相場ってどうなのか気になったから調べたんですよ」
と言って具体的な数値を出して、秋葉がもらいすぎていることを暴露したのです。母親にとっては寝耳に水の話だし、裏金で養われていることを知ればショックを受けるのは当たり前です。今迄の和やかな雰囲気から一転して険悪な関係になり、何でこの場で損な話をして暴露するんだと言わんばかりに激高して秋葉が弾みで吐いた言葉が「君と君の両親を訴えてやる」でした。

 

「裁判所に訴え出てもいいですけど、こういう発言をする私の思考回路に問題があるというのであれば、教育の問題になるでしょうから教育委員会にでも私の親を訴えるんですか。言っときますけど、私の親は間違った教育はしてません。私が悪意を持ってあなたと正面衝突したくて徴発しているだけです。私も志の事もあるんで教育委員会に訴え出ますがいいですよね。あなたは私の教育をうちの親が無茶苦茶にしていると思って私の親を訴える。私はあなたの志に対しておかしいと思うので訴える。いいでしょう。受けて立ちますよ。では次は市教委の場で」

 

「こんな陰湿な事、子供が考えられるわけがない。君をきちんと教導してあげますよ」

 

まあ、普通はそう思うでしょうね。常識人なら。

でも、常識の通じない異端の馬鹿というのがいるんですよ。

ま、そんなことはどうでもよく、私の場合は意図的に挑発して破滅させることを主眼とし行動を示し、それに見事に愚かにも秋葉は乗っかってしまったのです。


秋葉は言うだけで行動しなければ破滅しなかったのですが、母親の目の前で面目を潰され不正教師として暴露されてしまったために、どうしても私を潰す必要が生じたのでした。

しかし、秋葉の敵は悪過ぎました。
東住吉では小学校で立てこもり事件を引き起こし、それでも何の学校側への影響を与える事も出来ずに惨敗した悪童だったのです。
次は失敗しないようにと、先の敗北を研究し、今度は負けないという執念が違いました。
秋葉は短絡的に感情で動いていただけなので、そこには計画性もなく対抗策らしいものは何もありませんでした。

負けを知っている人間は次同じように負けないために、勝つ努力と執念をみせます。それも学習の一つと言えるでしょう。

 

学習した人間と感情的に短絡的に動いた人間では最初から勝負が決まっていました。

 

売り言葉に買い言葉で市教委の場で、私の両親をしかりつけてこの悪童を矯正しようとした秋葉の感情的な目論見は、淡々と事実と数字を集めて告発文を練りに練って作り上げた私の精緻にして陰険な企みとは勝負になりませんでした。

 

両親が出頭するように言われていたのに、母だけ出頭する羽目になり、母は緊張していました。
自分の子供はどこまで人に迷惑をかけ続けたら気が済むのだろう。とうとうお役所のしかも学校の親玉のところへ出かけなければなりません。何度も何度もトイレに行ったり来たりして落ち着きがなかったのは今でも覚えています。この当時は訪問着で和装するのは珍しくなく、母は一張羅の訪問着を着て市教委が居座る施設へと私を連れ立って向かいました。私は父からもらった封筒にタイプで打ち込んだ告発文と資料を集めワクワクしながら向かいました。

母は怒られる叱られる事が間違いないと思っていたので、ビクビクおどおどしていましたが、私は学校崩壊や学級崩壊の原因は教師の力量に問題があるとして教師本人に厳しく接する風潮が当時あったことを自分の嗅覚で感じ取っていたのです。実際には教師の仕事量が膨大過ぎて一人では賄いきれない状態になっていてそこに隙が生じ、学校崩壊学級崩壊が派生しているというのが本当のところでした。教師の仕事量が多過ぎる事を指摘するようになったのは平成も半ばを過ぎた2000年代以降になってからでしょう。それより20年以上も前の時代です。
子供に責任を求めるようなことはまだなかった時代です。だから悪童が誕生するのは親か教師に問題ありという時代だったのです。

 

気の毒な秋葉は最初から悪意の塊で行動していた私によってこの日、破滅したのです。

 

まずは秋葉の言い分から聞いてもらうことにしてその後で私の言い分を述べるようにしました。
母は市教委にも秋葉にも挙句私にも言いなりになり、完全に思考停止したのか、質問されるたびに、はいそうです、はいそうですを繰り返していました。まるでAmazonの配送品が多過ぎて天手古舞になっているクロネコヤマトの様に・・・・

 

その後で私の意見陳述となりました。私は告発文と大書した紙を恭しく市教委に渡し、具体的な数値をだしながら、秋葉が志を一人当たりの親からもらう額が他教師に比べて非常に多い点を指摘しました。母親の治療費欲しさに、志の二重取りなどを行っていたといって、私の家では私と母から二重に志を受けとっている点について話をしました。この話は母にはしていませんから、母も寝耳に水で、私は確かに一度しか渡していません。息子がこんなことに金を使っているなんて全く知りませんとこの時ばかりははいそうですを辞めて否定発言をしていました。

 

他の人からも二重取りになるのか分割でもらったのかはわかりませんが、二回同じ人から志を受けとっていた事例もありました。

いずれにしても市教委としては学校で志が横行しているという事実を暴露されて知ることになり、大きな問題として取り上げてくれました。

 

秋葉は私の告発文の内情を知って、初めて自分がハメられたことを知りました。
それと同時にこの一件、全く両親がかかわっておらず、私一人で全ておぜん立てしていた事にもはじめて気づいたのです。

 

ガックリ肩を落として完全に目が死んでいた秋葉は、市教委での対立後、秋葉への処分は特にはありませんでした。
ただ私は勝ったと確信めいたものを感じていましたし、秋葉は逆に嵌められた負けたという顔をしていました。


私は今回の戦いで感情的になった方が負けだということを勉強し、益々冷静に冷淡に計算づくで、何段構えもの罠を仕掛け、段取りを組んでから喧嘩をするようになりました。私から仕掛ける喧嘩の大半はだから勝ち戦になる事が多かったです。ただし、私自身は冷徹で陰険な性格をしていたので人望は皆無なために、感情的になった相手から一方的に喧嘩を吹っかけられることも多く、この場合は想定していれば引き分けに近い状態にもっていくことはできたこともありましたが、想定していない相手と喧嘩になった場合は負ける事が多かったですね。

秋葉はこの事件の後も普通に教鞭をとり、私も秋葉との戦いに決着がついていることを確信していたので、秋葉が私にとって気に入らない動きさえしなければなるべく関わらないようにして接していました。

この後は大きな衝突もなく秋葉と私の間にはお互い険悪な感情を抱きながらも何もないままに過ぎて行きました。

 

そして小3が終わり小4になった時に秋葉が研修センター送りとなって箕面小を去ったことを知りました。

 

急に異動があると生徒が動揺すると市教委が判断したのか、どうかはわかりません。

ただ、これで完全に私が勝ったことが証明されました。

はじめて教師に勝利しました。嬉しかったです。調子に乗って蛇足な行動をとりそうになりましたが、秋葉が相手ならそれでもよかったかもしれません。新しい4年生からの教師は秋葉とはすべてが異なる教師が担任となったのです。

 

それまでの教師は本心はどうかは知らないですが、割と生徒に近づいて生徒の近いところに居ようとする教師ばかりと接していました。

今度の担任は全くそういうタイプではなく、研究者タイプで、教師と生徒の距離を一定に保ち、べたべたするような事は全くありませんでした。

後にも先にも自己紹介の時に子供が嫌いですとはっきり言った教師はこの教師だけでした。

 

次回はこの教師、つまり小学4年の時の担任杉教諭について書いていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

自分史の続きについては暫く再開までお待ちください。今製作途中です。といっても朝鮮人の様に嘘と虚構まみれの小説を書いてるわけじゃなく自分の思い出話です。まー、彼らの日本人相手なら何したってかまわないという風潮はこの数年でほんとひどくなりましたね。以前は裏でこそこそだったのが、こんなおっぴろげになる程増長させたのは日本人自身にも問題があるんでしょう。私が自分史でも頻繁に取り上げている虐めの経験。これって、今は一概に言えなくなってきていますが、昭和後期や末期の虐めには明らかにいじめられる側にも問題があったんです。隙だらけでいかにも虐めてくださいというようにオドオドした奴や、見た目が常人と違うようなのが狙い撃ちされていました。だから健常者と障害者のボーダーライン上の障害者などが比較的狙い撃ちされていましたね。気の毒だとは思いますが、子供の世界は残酷ですからしょうがないっちゃあしょうがないです。今投稿に向けて鋭意製作中の作品の中にも書いているんですが、能動的に虐めと立ち向かわないと結局はいじめを解消するのは無理なんですよ。私の様に武力による自力救済じゃなくても学校を使う、親を使う、それ以外の大人を使うどれでもいいんですが、とにかく自分が中心になってあがかないと受動的に誰か任せでは虐めは止まりません。その結果どうにもならなくなって虐めがエスカレートして殺されたり、虐めに絶えられなくなって自殺してしまうんです。自殺というのは最終的な行為ですが、それ自体は能動的に行っているんです。だったらその前に能動的に動いてほしいなあとは思います。まあこればかりは虐められている当人の問題ですから、そんな事出来るわけないという反論も帰ってくるでしょう。特に今の若い子は私達や私達の親世代の様に喧嘩を好みません。
ありえない話なのですが、甥っ子の一人は学校でクラスメイトと喧嘩を結局一度もしたことがなかったそうです。
世渡り上手なのか、それとも我慢して呑み込んでいるのか、よくわかりませんが、私からしたらありえない話です。

 

夫っと、余談ばかり話しして失礼いたしました。
今日はちょっと試し投稿をしたいんです。

Googleフォトに家族で動画や写真を共有してみられるように兄が設定して呉れているんですが、このうち写真は問題なく、ここでも掲載できるのが前回の日記で証明できたので、今度は動画が載せられるかちょっと実験をさせてください。


実は今回の実家帰省は12月12日から1月10日とほぼ1か月滞在していました。
そのうち外泊したのが4泊5日あり、結構外に出る機会が多く、実家に滞在中も毎日外出していました。母の買い物に付き合ったり、私のプールリハビリに隔日で母に付き合ってもらって送迎してもらいました。また本格的に香川県での再就職に動くために何度かハローワークにも行きました。しかしまあ、ハローワークの障害者雇用の仕事はどうしてあんなに待遇が悪いものばかり集めてくるんですかね。障害者雇用だけじゃなく健常者時代にもハローワークを利用したことが勿論あるんですが、この時にもどうしてこんなに待遇わるいものばかりかき集めてくるんだろうと感心していました。まあ、待遇が悪くても職場環境や人間関係のウマが合えば意外と仕事は長続きするもんなんですけど、最低賃金すれすれではなかなか・・・

さて、そんな愚痴はどうでもよくて、動画掲載の実験をさせてください。
今から載せる動画は2019年の1月6日に撮った映像で、葬式仏教として緩ーく檀家としてお付き合いしている日蓮宗日妙寺さんの水行パフォーマンス映像です。日蓮宗はその強烈な他宗攻撃や一神教的スタイルから日本国内でも広く信者を集めており、日蓮宗の宗派も創価学会だの、日蓮正宗だの、霊友会だの、顕正会だの、立正佼成会だの、何だの勘だのといろんな流派や宗派があって、それぞれおらが正統みたいなことをぬかしておりますが、日蓮さんが生きてりゃいいですが、死んでしまってるんで、死人に口なし、百家争鳴で信心皆無の葬式仏教としてしか利用していない私や私の両親のような薄情な信者からしたら、非常に意味ある水行という儀式も単なる物見遊山にしかすぎません。私自身は典型的な日本人なので神仏習合の考えを持っており、唯一分けて考えているのは仏教は死んだ後、神道は生きているうちに利用するもんだろうという風には考えています。だから親が死んだり自分が死んだ後の祭祀をお願いするためお寺さんとの付き合いを斬らないようにしているんです。

別に檀家でなくてもお寺さんにお葬式頼めば仏式のお葬式ならやってくれるんです。
だけど、やっぱり檀家じゃないから、頼まれたこと以外の事をしてくれません。無宗教の人の葬式を仏式で上げているのを見たことがありますが、粗末なものでした。
死んだ人間に見栄もへったくれもないでしょうが、残された遺族はシンプルで地味過ぎる葬式に満足していたらいいですが、周りの人間がこれじゃあなくなった人の功績をたたえて見送ってやれねえじゃんというほどに粗末でシンプルに過ぎていてなんだか哀れにかんじてしまいました。お寺さんも最低限の事しかしないから、3千円の読経代しかとらないでさっさか退散しましたが、共産党員として無宗教を貫くのはいいけど、なんだかなあ、人生85年の店仕舞いがこれではと私も感じたものです。実家の近所の共産党員の葬式がそんな感じでした。

 

相変わらず余談が過ぎました。

 

見てもらえば一目瞭然のユニイクな荒行なので、動画を3本掲載しておきます。

先に実験結果を言えば動画をそのままMOV形式で載せようとしたら失敗しました。
やはり、そのものズバリの動画は無理というのがわかったので、苦肉の策で、自分のユーチューブのアカウントがあるため、ここに動画を貼り付けて、ユーチューブのURLを貼り付けるというとても面倒くさい方法をとりました。

 

つまりこういうことです。

Googleフォト動画→動画ダウンロード→ユーチューブにアップロード→URL取得→URL貼り付け

 

面倒くさいなあとお思いでしょう。ええ、面倒くさかったです。

しかもユーチューブにアップロードした動画はまだヒトケタくらいしかない程やりなれていません。

 

この点、改善の余地はありそうですね。


とまれ動画を掲載しておきます。
私の両親が檀家になっていて多分、私も兄も檀家を継承するだろう日妙寺さんの正月恒例の水行という荒行パフォーマンスです。
途中からの映像で申し訳ございません。大遅刻して行ったので終わり際だけになってしまいました。
日妙寺さんは名前の通り日が入るんで、日蓮宗のお寺です。
530数年前に創立された由緒あるお寺さんの様です。
多分創価や、日蓮正宗や、顕彰会から言わせたら邪道な流派になるんだろうとは思います。
身延山久遠寺を総本山としているようです。

https://www.youtube.com/watch?v=oo94M3HK0Ss


水行の締めの儀式です。

https://www.youtube.com/watch?v=Xac_XRhgcGE


お寺さんが水行が終わって退場していくのを信者がでんでん太鼓で囃子ながらお見送りするシーンです。

https://www.youtube.com/watch?v=I7-pld0rsYY


儀式が終わった後は法話を聞き、お食事の接待を受けます。
何とかっていうちゃんとした言い回しがあるんですが、信心してないんで忘れてしまいました。


ひょっとしたら同じ信者さんが読者の皆さんの中にもいらっしゃるかもしれませんね。

私自身は日蓮さん嫌いなんですよ。独りよがりで剛直で、排他的で、・・・
あれ?誰かに似てると思ったら私自身とよく似てるんですわ。
似たもの同士なんですけどね。

でもこの日蓮宗は一部の日蓮宗の様に極端に排他的で攻撃的というわけでもないんで、檀家をやれています。
多分、一部の日蓮宗の様にしゃくふくに力を入れて相手を屈服させるようなスタイルだったら祖父の代はともかく、両親の代になったら辞めていたでしょうね。祖父は信者でしたが、両親は檀家であって信者じゃなかったですから。


今はどうなのかなあ、昔、日妙寺さんところのお子さんとうちの甥っ子が年齢が近かったんで、お子さんが小さい時には子供向けのイベントをよくやっていて、甥っ子連れて参加してました。宗教とは全く関係ない消防体験や防災訓練体験なんかをさせてくれましたね。

甥っ子たちは十分に非日常的体験を楽しませてもらって面白かったあと喜んでくれていました。


因みに毎年日妙寺さんの水行は四国新聞に載るんです。

 

だから信者以外の物見遊山の人もお寺にやって来て、水行動画を撮ったらとっとと退散している人が大勢いました。

私の動画撮影に完璧に邪魔になっているおじさんがいるんですが、この人もそんな感じの人でした。


とまあ、相変わらず横道其れまくりのブログになってしまいましたが、珍しいものが撮れたのでご覧になっていただけると幸いです。
 

お久しぶりです。

テーマ:

随分ご無沙汰していましたが、実家からまた帰京しました。
実家は中々に居心地がよく、東京の家を貸し出して、実家で暮らすのも悪くないかなあと思いました。

しかし、帰京した今日、悲しい出来事がありました。

実家にいた間、ずっと家族の癒しになり、両親や私達の中心にいた姫ウズラのシロちゃんが、誤って母に踏みつけられてしまったんです。

人が好きで好きでしょうがなく、いつも足元直近にまとわりついていました。

そのため母もいつかはこれ、踏みつぶすかもと言い続けて心配していました。
そのためずっと室内で放し飼いというわけじゃなく一時間や30分など決めた時間だけ室内で放し飼いにしていたのです。

母は私を高松空港へ見送る事を断念してシロちゃんを病院へ連れて行った後で介抱をしてくれましたが、シロちゃんは病院では特に異常はないと言われたものの、ぐったりして食事も自力でとらないし、水も自力で飲めません。

踏みつけた時に卵を産んでしまったというくらいに強い力がかかったので、内臓のどこかを痛めてしまったのかもしれません。
Facebookで鳥仲間という鳥の飼主さんや鳥好きさんのコミュニテイーがあり、そこに助けを求めて、香川県内かその周辺での鳥専門の獣医を捜してもらっています。何件か専門医を教えてもらったのですが、県外の獣医さんなので、説得してシロちゃんを鳥専門の獣医に見てもらうようにするのは難しいかもしれません。教えてもらったところは神戸市と岡山市。奇しくも私を含め両親も土地勘ある場所ばかりだったので、何とか動いて呉れたらいいんですけどね。
実家近くの獣医さんは犬猫主体で持ち込まれたら小鳥も見てくれる獣医さんで、見立ては上手なんです。ところが治療に必要な材料や道具が無いため、無いなりに努力はしてくれるのですが、いつも見立て通りに姫ウズラたちは死んでいきました。今迄死んでいった子は今回みたいな事故に遭った子もいましたが、皆一応天寿である4~8年以内で亡くなっているので納得はしています。

今回は両親は諦めていますが、私が諦めきれないのはまだたったの1年なんです。生まれてまだ1年しかたってません。天寿迄まだ3年以上あるんです。納得いくわけがありません。しかも今迄飼った中で一番人馴れした子だったのです。そんな子が大好きな人に殺されてお仕舞なんて最期はあまりに不憫だし、ここまで溺愛していた子を自ら殺してしまったとなれば母への心的ショックも大きいはずです。

絶対に明日迄寿命を繋いでくれることをシロちゃんに期待し、明日もう一度専門医の力を借りてシロチャンをよみがえらせてほしいと思います。

さて、話は変わりますが、私の帰京時の出来事について話していきます。

情けない話なのですが、50も目前となったいいおっさんの癖して、飛行機がまだ怖いんです。
以前は乗る事すら怖かったのですが、一応乗れるようにはなりました。
だって高松迄成田からたったの4000円くらいで行けることもあるんです。
そら、乗らなきゃ損でしょ?
しかも成田にも実は自宅から行きやすいんです。
ていうか、乗り換えなしで行けちゃうんです。時間食いますけどね。
とはいっても2時間くらいでしょうか。(電車の乗車時間は1時間15分くらい)
そんな訳で最近は実家に帰るのはひたすら飛行機オンリーです。
両親に高松空港まで迎えに来てもらうのが申し訳ないんですけどね。

因みに高松空港からリムジンバスが出ているので、高松駅や高松の中心街にでるのは苦労はしません。
他にも丸亀坂出方面もリムジンバスがあります。けど、さぬき市や東かがわ市など東讃方面、観音寺や三豊といった西讃方面はありません。人が住んでないというのもあるのですが、観音寺市で6万ちょっと、三豊市も6万ちょっといます。香川県ではこれでも人口数では3番目規模になるんですけどね。

さて話を戻しましょう。
高松空港で飛行機に乗るのを待っていたら、ムスリム教徒が真っ黒い敷物を敷いてコンパスを片手にメッカの方向を見て儀式を繰り返していました。その姿は日本人には恐らくかなり異様なもののように見えただろうと思います。子供が恐怖のあまり鳴いていました。
同じ動作を延々と全身黒づくめのひげもじゃの顔の濃い人間がやっているんです。子供から見たら怖いのは当たり前です。
大人たちはそれが宗教儀礼というのがわかっているから邪魔をしないようにムスリムを遠ざけて行動していました。
ムスリムもムスリムなりに敷地の端っこでやっていましたからそれなりの配慮をしているつもりなのでしょう。
でも彼らにとってはそれが当たり前で正当な行為ですからそのうち空港に礼拝所を作れとかいって騒ぎだすようになるかもしれません。
実際に学校給食でハラールを出せと強要する動きが静岡県かどこかで発生していました。
彼らの宗教儀礼や宗教規則にいちゃもん付ける気はないんですが、彼らの流儀を勝手に持ち込んでおいてそれを強要するのはいかがなものかなとは思いますね。今迄外国人を甘やかした結果が例えば南北朝鮮人は日本人に対して何しても構わないし許されるという状況を作り出したんだと思います。南北朝鮮人が何したって許されるなら自分達だって当然だろうと支那人やムスリムが考えるのは当然だろうと思います。郷に入らば郷に従えということを徹底するためにも外国人へ甘い顔をするのは辞めるべき時期に来ているんじゃないでしょうか。

 

さてそんなムスリムを載せた高松から格安飛行機に乗ったはいいのですが、子供がずうっと泣きっぱなしでした。女の子なので声がより甲高く、耳障りでした。外国人女性は子供が泣き騒いで声を枯らすほどになっていたんで、子供の事をかなり心配していました。
そこまでして泣きじゃくっていた理由はシートベルトを嫌がって鳴いて抵抗していたのです。若いお母さんは飛行機を降りる時に振り向いて深々と頭を下げて降りて行きました。
1時間以上子供は泣きっぱなしでした。お母さんが乗客に申し訳ない気持ちを持つのは仕方ない事ですが、私はそれよりも鳴き疲れて衰弱していたお子さんの方が外国人女性同様に心配でした。
私は普段鳴かない子だったのですが、泣きだすと興奮した自分にまた興奮して延々と何時間でも泣き続ける子供だったようで、泣いて体力を失ってそこを病原菌に襲撃されてよく発熱していたらしいです。
そういえば、同じようなことが行きの飛行機であったんです。

その時には泣きじゃくる子供を飛行機が安定飛行してシートベルト外してよくなった時に、保育士を引退した女性が、「お母さんちょっと変わって呉れる?」と泣きじゃくる子に手を焼いていたお母さんの目の前で拍手ひとつで黙らせました。多少の年齢差はあるかもしれませんが、ひょっとしたら帰りの飛行機で泣きじゃくっていた女の子もこのやり方で沈黙させられたかもしれません。教えてあげようかなあとも思ったのですが、失敗して余計に興奮する自分に興奮して自爆する危険もあったので黙っていました。
キャビンアテンダントが他の乗客に呼びつけられて、あの子供何とかしろというクレームをもらっていましたが、保育士でもないキャビンアテンダントにどうすることもできるわけがなく、お母さんが抱っこした状態でシートベルトしてあげてくださいとも言えませんでした。泣きじゃくる女の子の弟が既に母親に抱っこされていたので、流石に二人も抱っこしてシートベルトを締められるわけがありません。
泣きじゃくる女の子にとっても地獄のフライトでしたが、それを延々と聞かされる他の乗客にとっても地獄のフライトだったと思います。

飛行機が成田に到着した後、空港クルーの方達のお世話になってリムジンバス乗り場まで車椅子で運んでもらいました。前もって頼んでおくと本当に便利ですね。金とってもいいと思うんですが、こんなサービスが無料ってところが日本人らしいというかなんというか、ほんと素晴らしいおもてなしでした。

 

其れからリムジンバスに乗り込んで暫くは平穏な時を過ごせたものの、第一ターミナルで支那人が乗ってきました。
ずっと騒がしかったわけじゃないんですが、乗車してから30分間電話を大声で話し、その後はスマホでテレビをある程度音量は彼らなりに気を使って下げて聞いていましたがイヤホンして呉れないから音が普通にだだ洩れしていました。ようやくスマホに飽きてそれからは静かに景色を見てくれていたので助かりました。

色々ドタバタしているので、連載中断中の自分史の再開についてはしばらくお待ちください。


暫くブログの更新も停滞すると思いますので、割と好評だった自分史連載と

 

2015年の対馬取材の再録連載についてここに残しておきます。
 

12月11日から1月11日まで実家に帰省しますのでしばらくの間はブログの更新を怠ると思います。
具合が悪くなって連載を怠っているわけではないのでご安心ください。


 

 

予告です。 バラバラに書いていた自分史をとりあえず連続掲載してみます。


片輪者一代 悪童誕生


片輪者一代 悪童開眼


片輪者一代 練尾先生

 


片輪者一代 前哨戦

 

 

片輪者一代 籠城戦

 

片輪者一代 戦犯処分

片輪者一代 東住吉から箕面へ


 

予告です。 明日から5年前に行った対馬旅行の記事を再録版で掲載します。

【対馬旅行日記1】 再録版 前書き。

【対馬旅行日記2】 再録版 長崎県の搾取に喘ぐ対馬島民

【対馬旅行日記3】 再録版 朝鮮人観光客
 

【対馬旅行日記4】 再録版 ~巫女(シャーマン)集団呪詛行為跡地にて~