ホントに筆不精になってしまいました。
というか、馴れない環境と久しぶりの就職、そして仕事などでとにかくドタバタしていました。
61日付で採用された職場では、非常に私の障害について事細かに配慮して呉れ、仕事を増やすたびに課長が私に確認をとるという徹底ぶりでした。

おかげで無理なく少しづつ仕事を増やしていってもらう一方で、メインの仕事が一番苦手な受付業務というのは正直、あちゃあ~というのが第一印象でした。

実はほとんど受け付け業務ってしたことないんです。

しかもメインが電話の受付つまりは取次役でした。

電話業務には苦手意識しかありませんでした。

というのも、障害者になって初めて採用された企業での仕事がテレフォンアポインターでした。この時に碌でもない目に遭ったのが未だに15年くらい経ってもトラウマになっているのです。


研修期間3カ月は就職保証付きなどと謡い、.その後は能力次第で採用や解雇もあり得ることはにおわせていましたが、それでも3か月は仕事にあぶれる事が無いならと応募して採用されたのでした。


 

ところが、.実際に研修を受けてみると結構大変な上に、自分の障害の影響もあってなかなかマニュアルが覚えられない、同時進行の作業が出来ないなど、私自身にも相当な欠陥がある事が暴露されました。それ自体はある意味働いてみて障害の深刻さを知る事が出来たので、いい事と言えばいい事なのですが、問題は企業側の契約違反でした。

3か月は雇うと宣言しておきながら10日で解雇されたのです。


 

まあ、自分でも研修についていくのが大変で、3か月後の試験に残れるかなあという心配はしていました。


 

だから能力不足で解雇されたことは別にいいんです。

人間得手不得手がありますからね。


 

契約違反で首を切ったこと自体も頭にきているのですけど、其れよりも許せないのが、同じ日に社命で午前中に近所の社会保険事務所を訪れて国民年金と国民保険から厚生年金と厚生保険に切り替えの手続きをさせられたのです。

そして、昼ごはんを食べた後で呼び出されて、解雇されたのです。


 

こんな人を馬鹿にしたような事させられて怒らない方がどうかしています。同じ部署で全く違う業務だから違う人間同士がかかわっていたとはいえ、人をおちょくるにもほどがあります。


 

しかし、怒って詰め寄ったところで解雇が変更されるわけじゃないので、解雇することがわかっていたのならなぜ、午前中に保険年金の切り替えに行かせたのですかということはやはり文句を言わざるを得ませんでした。

この不愉快な事件のトラウマがあったので最初、電話受付をメインに頼みたいと勤務当初に第一声で言われたときには、そのまま回れ右して

「お呼びでない?…お呼びでないね。こりゃまた失礼いたしました!

と言って、仕事を投げ出してそのまま家に帰ろうかと思いました。


しかし、せっかく決まった仕事を、苦手意識だけで捨ててしまうのも勿体ないし、食わず嫌いの可能性もあるからとりあえずはやってみるかと気持ちを切り替えて、嫌々ではなく新しい自分の可能性を知りたいなと思い、前向きに仕事に取り組んでみるように心がけました。

 

結果、どうだったかというと、苦手だったことはよくわかりました。

 

頓珍漢な受け答えをして顰蹙を買っていることはまちがいないでしょう。

 

こういうことがあったんです。

 

お客さんからの問い合わせがあり、指名の電話でもありました。

ところが指名された職員はあいにく外出していて、営業時間ぎりぎりに変える予定でした。

私は自分の勤め先の営業時間も知らないでただ9時から5時で漫然と働いていたので、電話受付が可能な時間というのを知りませんでしたし、職場の人にも聞こうともしませんでした。

 

それでお客さんが何時まで電話受付してもらえるんでしょうと問われて、営業時間を知らない私は、
「手前も95時で契約して嘱託で働いているので営業時間が何時かまでは恥ずかしながら知らないんです。」と馬鹿な受け答えをした挙句、
行動予定表という表を見るように言われていたのにみていなかったために、月曜にその指名された職員が休みを取っていることを見逃して、
「それじゃ月曜に電話しますわ」といってくれたので「お手数おかけします」と言って電話を切ってしまいました。

 

個人のお客さんではなく官公庁や企業相手なので、不愉快にさせてもブチ切れられることはないでしょうが、ブチ切れさせるのに十分な阿呆な対応をやらかしてしまいました。
 

働き始めて1週間だから何て理由が通じるのは仲間内だけで、そんな事情はお客さんが知る由もありません。

 

ベテランも新人もへったくれもありません。
 

お客さんにはそんな区別できるわけがないんです。

 

やっぱり駄目だなあ受け付け業務は難しい仕事だなというのは1週間通してやってみた結果です。
 

結論を出すのが早過ぎるか遅すぎるかは別として、それでも私を我慢して職場の人達が受け付け業務に使ってくれるのであれば、その知遇に応えるために、早く電話業務に馴れないといけません。

一方で、私の自分を信じない、信用しない、相手に朝鮮人の様に責任転嫁する卑劣で陰険な仕事スタイルがうまく機能した場面もありました。

電話取次だけでなく、実際に許認可の書類をお客さんに交付するんですが、その時にお客さんに必ず

「この書類で間違いないかご確認ください」と言って渡していました。

私は上司からはここにある書類のうち、差し込んでいる書類を相手にすべて渡背と言われていて、書類の内容がどんなものか全く知らないでただ言われたことを馬鹿みたいに機械的に渡していました。


暇な時間帯の時には手交する書類を見てどんな書類何だろうという興味がないわけじゃないので勝手にのぞき見していますが、そうしてもいいとは一言も言われていないので、手交する書類についての情報は私自身はほとんど持ち合わせていませんでした。本来であればそこまで突っ込んで上司に聞いて具体的にこの書類の時にはこれだけということを聞いておけばよかったのにそれをしていなかったのは明らかに私の怠慢でした。

 

勤め先から500mくらい離れたところにある企業さんがやってきて、書類を渡した際に間違って内部資料迄手交してしまったのですが、気が付いて数時間後にわざわざ届けてくれたばかりか、私が言った

「この書類で間違いないかご確認ください」という一言を覚えていて、

「確認しないでお渡しされた書類をそのまま持って帰ってしまって申し訳ございません。」

とお客さんに謝らせてしまう結果となりました。

その後は、手交する書類が棚に投函されるたびに中身を見て、おかしいなと思ったら作成者に問い合わせ、以後は間違って相手に書類を渡してしまうことは今のところありません。

 

散々にお客さんに迷惑ばかりかけて、これでは私がいないときの方が仕事が回ってんじゃねえかという気もしてきました。

 

それで昨日退社時間直前に所属長が「一週間働いてみてどうだった」と聞かれたときに
「ご迷惑のかけ通しで職員の皆様に余計な負担をかけさせ続けて申し訳なく思っています。早く、雇ってよかったと思われるように精進します。今は本当に私がいるだけで仕事を増やしている状態なので心苦しいです。」と素直に心境を吐露しました。


「うちの職場の人間は雇って一週間で成果だせなんていうセッカチはいないからゆっくりしごとになれていけばそれでいいよ」

と言ってくれたのは正直本当にありがたかったです。

 

話しは急に変わりますが私の実家の公共交通機能が猛烈に不便なんです。

だから朝方はバイクを購入しない限りは母に会社まで送ってもらわないといけません。
最寄りのバス停まで毎日2kmを歩けということは無理です。


帰りは就業時間が午後5時なのですがこれに実にうまく合わせてバスが走っているんです。
ただ帰りは運がいいのか悪いのか、実家から500mくらい離れた最寄りのバス停までバスでぎりぎり帰る事が出来るのです。

職場からバス停までは最寄りのバス停が二か所あり、片方は信号に引っ掛からない為乗り遅れた場合はさようならという悲劇しかないリスクの高い場所にあるものの200mくらいです。ここに午後59分にバスが来ます。
もう片方のバス停は信号に引っ掛かるのでここでうまくバスが引っ掛かれば時間を稼ぐことができますが自分が引っ掛かったらさようならという悲劇が待ち受けています。このバス停には400mくらいの距離があります。こちらは午後511分にバスが来ます。


障害者で松葉杖歩行なのでどちらのバス停もぎりぎりで全力疾走で走らないと間に合いません。
普通によたよた歩いていたらアウトです。

健常者なら5時ジャストに退社したとしたら走る必要も無く余裕でバス停につけると思います。

しかもこの乗ったバスで一本で家に帰れるわけではありません。

これで家から2㎞先のバス停に午後519分に付き、

午後522分に私の家から500m先にある最寄りのバス停を通るバスがこのバス停にやってくるのです。

つまり乗り換え時間はたったの3分しかありません。

 

間に合わなくて目の前で逃げられることも何度かあります。

そういうときはこの2km先のバス停から一寸行ったところにある大きな駐車場を抱えているコンビニまで親に迎えに来てもらうようにしています。

ところが親も親で仕事があるので、それがかぶった場合は2kmの道のりを松葉づえをついて家まで歩いて帰るしかありません。
福島県や宮城県のタクシー会社の様に迎車料金を取らないでくれたらいいのですが、香川県はへらこい(金に意地汚い)ので東京と同額の310円を上乗せして取っています。

2㎞先なのでぎりぎり初乗り料金を超えてしまうし、310円余分にかかるんで、結果2kmを千円以上だして時間と楽を買うかということになります。


行きと帰りが違う交通手段を使う通勤事情を雇用先が認めてくれるかどうかまだ話してはいません。

来週ド頭に庶務課の人に相談しないといけないかもしれません。


働いてみるとあれやこれやといろんなことが出てきて、兎に角忙しかったです。

忙しい事はでもいいことです。

今日何してたんだっけで終わるような日ばかりを今まで暮らしていましたから、まだまだ戦力にはなってませんが、そのうち勤め先の歯車として辞められたら困るという存在に馴れればいいなあとは思っています。

 

電話取次や受付係専門で私を起用して呉れた理由は一週間居てよくわかりました。

 

あっという間にお客さんが来たら来客対応に職員が必ず一人以上は取られるのであっという間に打ち合わせ所も満室になるし、職員もゼロになります。この一週間でもそんなことが何度か発生し、長い時には私一人の時間が二時間以上続いた時もありました。

 

この時ばかりはお客さん来ないでくれ~

電話かけてこないでくれ~

と神頼みにすがりました。

 

えてしてそういうときほどお客さんが殺到するもので順番待ちのお客さんの列が扉の先の廊下にまで連なってしまい、要領よくさばききれなくて申し訳なかったなあと恥じ入るばかりです。

 

 

 

配慮

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私の松葉杖、派手にきらびやかにしていますけど、ここまで派手にしていても ながら歩行者やながら運転している自転車が松葉杖に追突してくることが ままあるんです。 写真の通りにこれだけ派手でもぶつかってくる馬鹿はぶつかってくるんです。 笑えるでしょ。 あんた、目ん玉ついとるんかいといいたくなりますわ。
 
だいたいはぶつかってきた人がごめんなさいと謝ってくれますが、 私の実家がある香川県ではどういうわけか馬鹿野郎気をつけろと言われることが多いですね。
 
流石、全国で岡山と香川だけに存在する写真のような道路標識があるだけあって 交通マナーがずれまくっています。
私は健常者の時に道路工事のガードマンをしていたり、 自分が交通事故で障害者になったこともあって、 交通マナーに関しては異常に強いこだわりを持っているので、 交通マナーの悪い香川県での生活は私にはストレスしか与えず、 一度は香川県から逃げ出し、 交通マナーが比較的マシな東京都心へと逃げ出したのでした。
 
一時期、本当に冗談抜きで松葉杖にセンサー搭載して、 エレクトリカルパレードが流れるような装置をつけていました。
流石にそこまでしていた時にはぶつかってくる阿呆はいませんでした。
ところが、ボタン電池の消費が激しいのと、 防水機能がないため雨の日にうっかりつけっぱなしにしていて何度もぶっ壊してしまい、 あまりにも費用負担が甚大なので止めてしまいました。
 
今は光がド派手にころころ変わるパチンコ屋顔負けの けばけばしい照明を松葉杖に搭載することで、 ながら通行中の対向者でも視線に光が入るようになり、 ぶつかってくることはかなり低減しました。
 
このおかげで夜に大きな駅で待ち合わせをしても、 相手に見落とされることはまずなくなりました(笑) というか、いつだったか実家に帰った時に、母に、 「あんた、それ勘弁してえな。 どう見ても、それ、サンドイッチマンにしかみえへんねん。」 と強烈な突っ込み入れられてしまいました(笑) 実は下肢障害者の人は私のように転倒したらおしまいなので、 安全安心にウエイトを置きまくって見てくれを度外視する傾向がある人は そんなに珍しくないんです。 私もそんなわけで自分のTシャツがめくれあがっていて背中が丸見えだったり、 パンツ迄丸見えになってたりすることがたまにあります。 だから、例えばエレベーターの中などで話しかけられたりしたときに、 話しかけてくれた方に背中がめくれてないですか。 パンツがずり落ちて見えてないですか。と確認してもらうこともあるんです。 遠くの親戚より近くの他人。 これは本当に自分が障害者になってからはつくづく痛感しています。 だいたい、こんなおかしなお願いをしても話しかけてくれるほど好意的な人だと、快くチェックに協力してくれます。 障害者や高齢者になればなるほどコミュニケーションは大事だなと感じています。 自分ではできないことが増えてくるから誰かのサポートがないと困るんです。 だけど、それだって自分から相手に言わないと、なかなか抜けている点、落ち度については気づいてもらえません。また気づいてもらったとしてもこちらからアクションしない限り、よほどに面倒見のいいひと以外は指摘はしてくれないものです。 使えるものは何でも使う。そういう図太さが許されるのも障害者の特権といえるかもしれません。 尤も、そんなことが出来るのも明らかに見た目が完全に障害者に見えるからです。 仰々しい松葉杖を両手に抱えて歩いています。明らかに足が悪い人というのがわかるからです。 あまり普及していませんが、障害者の友人数人はヘルプカードやヘルプマークというのを携帯しています。

http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/shougai/shougai_shisaku/card.html


15年も障害者やっていて他人や役所をうまく利用して使いこなしていると自負していた私ですら5から6年前に知りました。ユニイクな点は障害者だけじゃなく、妊婦なども含まれる点です。要するに困っている人全般がこのカードを見せて助けを求めていたら助けてあげてください。あるいはこのカードを目にしたら席を譲ってあげるとか、声をかけてお手伝いを申し出てくれたらありがたいですみたいなものなわけです。 見た目に一発でわかるような困っている人ならいいのですが、そうでない人もいます。 そういう人の手助けにというわけで東京都がまずやり始めたのを他地方も模倣して、東京スタイルが全国展開したみたいです。 去年、フェイスブックで知り合った人と意気投合して去年の話ですが、リアルで会食したことがありました。 この時初めて現物を見せてもらいました。背負っているリュックのストラップにしていました。 このマークに気付いて何かしらのアクションをしてくれる人がいるのかどうか聞いたら、数人はいたそうです。 ところが大半の人は気づかないので、今まで通り本当に困った時にはたまたま居合わせた人にお願い事を頼んでいるよという回答でした。 せっかくのいいものも、仲間内だけで広めて、もっと世間一般にアッピールしないといけないのに何もしていないのはいったいどういうことなんだろうと思います。一応公共放送を自称しているNHKなどでは番組の幕間の時間などにこういうことを広告広報すればいいのにしているのを見たことがありません。 東京都ももっとMXテレビにお願いしてこういうことを広報してくれればいいのに見たことがありません。 仲間内で広まっても社会全般に認知されないと何の意味もないんですけどね。 ヘルプマークやヘルプカードが社会常識として広まり普及することを期待しています。 見た目に障害者に見えないで苦しんでいる人も結構います。 内部障害の人などに多いんじゃないでしょうか。 私のようにど派手に自分が障害者だとチンドンやらかしながら歩いている人間は少ないです。 それ以外の人への助け舟という意味では役所や公的機関中心に広がってますが、いいものだと思います。 別に皆さんに拡散までお願いする気はありませんが、この記事を目にして今後このマークを目にしたら、その人の様子を見て困っていそうだったら声をかけるだけでも結構ですから、何らかのアクションをしていただけると幸いです。 先日北関東を旅行した時に、中学生くらいの男の子たちが両側のシルバーシートに座っていました。 対戦ゲームをしていたから対戦ゲームから外れた1人は向かいのシルバーシートに座ってボケっとしていました。そのボケっとしていた子が私の姿を見るとさっと席を外れ対戦ゲームをしていた子の横に座ってくれたのです。別に彼がそこに座ったままでもよかったのですが、彼は自分が角の席でしかも扉の横に座っていたので、松葉杖を立てかけられるようにと席を譲ってくれたのでした。リュックだけじゃなく手荷物を持ったうえでなおかつ松葉杖を持ってました。だから松葉杖を前に抱えていたら荷物も抱える格好になるから邪魔で大変だろうと思い、松葉杖が立てかけられるようにという配慮で角の席を譲ってくれたのです。 私が二駅ほど乗って下車した後、すぐにまた彼は元居た座席に戻りました。 別のお客さんが乗り込んできたけど、席を譲るようなことはしませんでした。 それで私も理解したのです。わざわざ、私のために角の席だったから譲ってくれたということを。 ちょっとの配慮が配慮してもらった障害者にとっては非常にありがたくいつまでも覚えている感謝の出来事にもつながるのです。 私自身はまだこのヘルプカードを持ってませんが、配布されている場所がわかればもらいに行きたいなと思っています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘルプマーク

 

障害者の友人

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私の人付き合いの根底は転勤族や転職が多かったので、その場限りの付き合いでもよかったのですが、そういう付き合い方ではなく、常に全力で赤心を推して人の腹中に置くそういう付き合い方ばかりをしていました。
だからというわけでもないですが、小学校や中学校の友人とフェイスブックで再開してまた縁を築け直したりできたのです。
尤も私の自分史を読んだことがある人だと私の悪行の限りをご存知ですから、悪名が強烈過ぎて覚えていてくれただけだろうと思う人もいると思います。
おそらく、そっちの方が強烈で、それで思い出してくれていたのかもしれません。それでもフェイスブックで簡単に友人関係を再構築してくれたのは自分の中では赤心を推して人の腹中に置く、そういうスタイルを取っていたからなのかなあと勝手に思い込んでいます。
 
さて、私の知り合いの障害者がいます。 今日は彼が話の主人公になります。
彼は今は寝たきりにまでADLが低下してしまい、私と彼との障害のレベルは懸隔の差が出来てしまいましたが、そうなる前は彼が片麻で私より身障面で重度な以外は似たような障害でした。 だから話のウマもあってお互いにリアルでもあってカラオケであそんだりしていました。 年齢も2つ違いなので子供のころのブームなどの話もかみ合うことが多かったのです。
 
高松への退転が決定したので、東京で付き合っていた障害者の友人が日中のコミュニケーションを取れる相手がいなくなって困るというので、同じような障害の人を紹介してその人とゆっくりと親交を深めてもらおうと思いました。もちろん、彼からも私に変わる障害者の友人を紹介してほしいという話があったから私もコミュニケーションの途絶によって状態悪化は深刻化するので、私に変わる誰かを紹介しなければと思い、私や友人とそう変わらない年代で障害も同程度という人を紹介することにしました。
 
ただ、私は彼がファーストコンタクトが非常へたくそな人間ということを知っていました。
 
本人は多分すっかり忘れていると思うけど、前にも一度、同じような障害の方を私は紹介したことがあるんです。
ところがその時に失礼なやり取りをやらかして、相手は激怒、私との友人関係も解除されました。
「君は性格もいいし、人づきあいもいいけど、他人に人を紹介するときはその辺でナンパした何もわからないような人間しか紹介できないほど馬鹿なのか」
こんな強烈な捨て台詞を吐かれて絶縁されてしまいました。 何とかよりを戻そうとこちらから何度もアプローチしましたが、許してもらえず、相手からアク禁もくらってしまったのです。
もう何年も前の話なのでそんな昔のことを持ち出したってしょうがないし、あの時から彼自身もADLは落ちても年齢も加算したし、以前連発していた感情爆発自体は起きていないので、今度は大丈夫だろうと思い、私がいなくなって今迄毎日話し相手していた人間が消失し、コミュニケーションが取れなくなっては確かに気の毒だなと思い、今から紹介して私の知り合いとゆっくり交流してもらえばお互いに理解を深めることが出来るかなと思いました。せっかちに友人関係になろうとせずに丁寧に付き合っていってくれと頼んだのですが・・・ また同じことをやらかして相手は完全に激怒してしまいました。

直接個人を紹介するのでなく、私の知り合いが運営しているコミュニティに参加してもらってそこで交流を深めてもらおうかなと思ったんです。

まだ関係も構築されていない相手に、しかも相手からコミュニティの使い方の説明を受けていながら真摯な返しをしていなかったみたいで、完全にそれで知り合いは激怒し、私とは盟友であっても、あなたとは友達の知り合いという認識しかないから態度を改めない限り、コミュニティからは退会してもらうという通告を受けてしまったようでした。そしてコミュニティの管理人である知り合いも私の紹介だから歓待して迎えたけど、ごめん、ダメダメだわといって即日紹介した彼との縁切りを通告してきました。
 
リアルでのコミュニケーションを取らないで仮想空間だけのコミュニケーションだけしかとっていなかったとしても、最低限のネットリテラシーというのはやっていれば身につくものだし、失敗しながら学んでいくものです。一度大失敗をやらかしているにもかかわらず、結局何も学んでいなかったようです。

私にも今回紹介した人間以外にもう紹介できる人間はいません。
二度もへまをやらかしたリアルの障害者の友人に対して、私ならば我慢して付き合えても、ほかの人には無理というのがよくわかったからです。一度目と同じような失敗を繰り返したのです。けど、だからと言って私の代わりになる人間を見つけてやらないと彼が精神的に破綻するのは目に見えています。

実際、失態をしでかしてしまった後、狂ったように家に何度も電話してきていますが、電話に出るのもあほらしいので出ません。居留守使いました。暫くは反省してほしいです。 といっても多分反省しないでしょう。反省しないんじゃなくて反省できないんです。自分のどこに問題があったかを理解していないからです。けど、こればっかりはどうしようもありません。誰かが指摘しない限り、本当に分からない理解できないからです。
 
SNSやインターネット、パソコンに詳しくない普段しない人ならこういう失態もあるかもしれません。
そうじゃなくてずっとそこにどっぷりつかってどっぷりはまっている人が、以前と同じ失態をやらかしたのです。

流石に私はこんなどうしようもない相手でも友達として10年以上の付き合いがあるから関係を捨てるということはしません。
もし、私がここでさようならといって、関係を完全に断ったらおそらく彼は精神的にパンクして精神疾患を発症して自滅して最悪自殺か孤独死してしまうでしょう。
流石に私もそこまではしたくないし、する気もありません。

実は今回迷惑をかけた盟友とは一度盟友の勘違いで関係を断ち切られたことがありました。 盟友が勘違いして関係を断ったから私からタイミング見て声をかければ関係が復活することもあるだろうし、ひょっとしたら向こうが気が付いて連絡してくれるかもしれない、あるいは盟友の彼女と接点もあったので、盟友の彼女が間を取り持ってくれる可能性もあるかなと思い、しばらく静観していました。その後、自分の誤りに気が付いて陳謝してくれ、そのことがあったことからより深い関係になり、今年のゴールデンウィークでようやくリアルでお会いすることが出来たのでした。自分より年下の人間に自分が勘違いから絶縁をしたとしてもなかなか簡単にその否を認めて素直に頭を下げるというのはなかなかできることではありません。

会って話をして、そしてより友好と交流を深めました。 不器用なところがあっても非常に誠実な人だとわかったからです。
盟友と会った直後だったので今回の紹介はうまくいってほしいと心底おもっていたのです。

正直普通に会話もできるしコミュニティの書き込みを見ても相手を怒らせるような書き込みをしていなかったので、こんなことになるとは思いもよりませんでした。

多分、最大の失敗の原因は彼が私とのコミュニケーションがなくなるのは確実で、そのあとのコミュニケーションづくりにいきなりフルスロットルで私が紹介口利きしただけの相手に接触したのが失敗だったのだろうと思います。

たとえていえば、いきなり友達の紹介で面会した初対面の相手が、よう、これからよろしくな。みたいな感じでため口でいきなり口を利かれたりしたら、幼稚園や小学生ならそれもありですが、学生とはいえ大学生同士でも多少違和感を感じるだろうし、社会人では違和感しか感じないでしょう。
そういうことをやらかしてしまったんです。
しかも紹介された相手は本人より年長者です。たとえて言えば、中1に中3の先輩を紹介し、よう、よろしくなと中1が中3にやらかしたら、中3の先輩はどう思うでしょうか?
これがまだ20代、30代相手ならまだしも50代相手にそんなことやれば、違和感感じるのは当然です。
幾ら50代同士とは言え常識が外れています。
意気投合して話が盛り上がる前にそんなことされたら普通の人はどう感じるでしょう。

慌てる必要はないし、ゆっくりじっくり関係性を作ってほしかったのに、本人の焦りとすぐにでも私と彼が築いた関係に彼自身がもっていきたかったのでしょう。

もちろん彼と私がお互いなんでも言い合えるような仲間になるまではかなりの年月が経っています。
私が本音で彼と話をするようになったのは、彼のせいでせっかくの障害者の友人をうしなったところから私は建前の付き合いをやめて本音で話すようになったのです。
そうしないとこの人は本当に気付いていない。
これ以上無神経なことをすると奥さんにも愛想をつかされて逃げられてしまうかもしれない。
その奥さんも、もう彼との生活に限界が来ていて、私と彼が電話で話していると、私の声が気に入らないから早く電話を切れという声が聞こえてくるほどに病んでいました。 けど、本人は自分が原因で奥さんが病んでいることを全く理解していません。 普通友達と電話のやり取りをしていて、どれほど相手の声が本当に自分にとって気に入らない声であってもそんなことを堂々と言い切るわけがありません。
彼がいること、それ自体がどれだけ奥さんにとって苦痛になっているかということを全く理解していません。
私のしゃべり方や話す声が気に入らないんだってとまるで他人事のように話す彼に対して、普通の常識的な大人が、しかも会社では管理職を任されているような人が旦那の友人の話す声と話し方が気にいならないなんて旦那に向かって罵倒することがあり得るのかと問いただしてもよくわかってないようなので、懇々と説明し、ようやく納得したようでした。

障害者が他人の世話にならないと生活できないのはしょうがないことです。 だけど、それを当たり前としてとらえて日ごろ世話になっている身内に感謝する、お礼をその都度言うことを忘れてしまっては、健常者の身内から障害者が見捨てられてある日突然本当にすべてを失う危険もあるわけです。

ほんと、どうしようもない友人です。 なんで同じ失敗を何度もするんだろうとあきれ果てました。 遠慮して物言わないよりもこの人の場合は直言しないと本当に分かってないんだろうとつくづく痛感しました。

東京中心に集まっている障害者サークルを何件かフェイスブックで見ていますので、ここに先に入って、様子を見てみます。
それで彼でもうまくやっていけるかどうかはわかりませんが、様子を見てから紹介してあげようとは思います。
 
多分、私が彼に手助けできるのはこれが限度でしょう。
 
なんで自分が入りたいから入るのでなく、彼のためにはいってやるようなことをしているかといいますと、福祉関係のような社会的弱者が群がるところには必ず支那朝鮮と反日日本人がはびこっているからです。
案の定、障害者サークルの隠れ蓑を着た支那人や朝鮮人の侵略サークルが何個かありました。
 
 話し相手さえできれば誰でもいいというのであれば、こんなのでもいいのでしょうが、さすがに母親が創価で苦労してきた彼にこんなひどいサークルを紹介するのもあまりにひどいので止めました。 ほんと、社会の底辺や心底困った人に付け入って自分たちの細胞を増やすことに関しては非常に朝鮮人や支那人は長けているなあと感心しました。 こうやって日本人の中に支那人や朝鮮人を増やしていくんでしょうね。
誰だって誰かと繋がっていたい、コミュニケーションに飢えています。
そんなところに気軽に話が出来て、話を聞いてもらえる場所があれば、孤立した人間はゴキブリホイホイのように簡単に集まってきて、気が付いたら反日という粘着剤に体全体を塗りたくられて日本人でありながら反日日本人の出来上がりということになるんでしょうなあ。
そこへチョイチョイ支那自慢や朝鮮自慢のうんちくを隠し味のように投入していけば、ここまで馬鹿をさらけ出し非常識民族であることが常識化した世の中であっても彼らの味方をする阿呆を作り出すことが出来るんでしょうなあ。
 
報道関係も社会から散々にたたかれて孤立しているから余計に支那朝鮮に引き込まれて反日化していくんでしょうなあ。
 
ほんと、障害者は韓流大好きな人多いですよ。
私のリアルで知り合っている障害者が10数人いて、うち4人が女性なのですが、この4人とも韓流が好きです。
 
他人の趣味をとやかく非難するのもどうなのかなと思って、韓流の話には一切私も触れないし、私の日頃の言動から私が発展途上国に対して軽蔑しか持ち合わせていないことを彼女たちも知ってるので、韓流好きではあってもそのことを熱心に話したりすることはありません。
ただ、ある人が彼女たちにその趣味をは非常に恥ずかしい事だからやめたらというような人がいるとやはりそこは琴線に触れるらしく抵抗しています。 傷のなめあいの代償に特亜の細胞になるのは日本人としてはもったいないと感じるのですが、仕方ないのかもしれません。居心地のいい場所を提供して呉れたらそこのカラーに染まってしまうのは仕方ないですからね。

汚いやり口だけど、実に巧妙なやり口だなと感心しています。

彼がこういうのに騙されないかどうかはなはだ不安なので、私の代わりのコミュニケーション相手を見つけてくれるまではとりあえず手伝いをしてやらねばと思っています。
 
寝たきりでADLだけが悪化したのかと思ったらほかの部分までもが退化しているとは思いもよりませんでした。

人間本当にいろんな部分を使わないでいるとトコトン劣化していくものなんですね。
他人のふり見て我がふりなおせじゃないですけど、彼を見ていて本当に痛感しました。
 
障害者に転落する前は都庁に高卒で入り、管理職まで上がった人間だったのに・・・
健常者で働き盛りの時は優秀な人間でも寝たきりで呆けた生活しているとすべてが呆けてしまうんですね。

今ですらほとんど投稿していませんが、今後、投稿の数はもっと激減することが予測されます。

 

実は香川県の嘱託職員に短期契約ですが採用されました。
具体的な勤め先は遠慮させてもらいます。
ただ、6月1日から来年の3月31日まで一応働けるようです。
更新は一度だけ可能で2020年4月1日から2021年3月31日までだそうです。

そこから先はまた登録試験を受けて採用を目指すということになるようです。

今年の3月に嘱託職員採用登録試験というのがあり、優秀な人は採用、微妙な人は登録だけさせてもらえるという面白試験があったんです。21人が登録されたのですが、うち採用が12人。つまり9人が補欠合格というわけです。補欠合格者には順位付けがあって私は21人中19位というブービー賞をもらっていました。

 

いくら障害者の継続雇用が難しいとはいえ登録順位のべべたから二番目のところまでお呼びが掛かるとは思ってませんでした。

 

単純な身体障害だけの人なら、ま、ゴールデンウィークで辞めちゃうなんて人は少なかったんでしょうが、精神障害や、私のような精薄と身体の両方を持つ障害者にとっては、長期休暇は気力を断つには十分すぎるものとなり、結果多分大量の離職者が出たのでしょう。

 

障害者の就職率は障碍者雇用枠の増量や精神障害者雇用の積極展開などによって就職率自体は悪くないんです。

ただ、定着率が低く、数カ月で辞めてしまう人間が非常に多いのです。

 

なんで定着しないで簡単に辞めちゃうかというと、障害者は失敗体験や経験があまりにも多いため、自分に自信がない人が多いんです。そういう人が新しい職場で仕事に慣れようと必死になってもなかなかなじめなくて、長期休暇を機会にやる気を失い、やめてしまうのです。

障碍者雇用枠で採用された同期ではない人間が私よりも先に数カ月で退職していくのは何人も目にしました。

 

私から見れば噴飯物で、何をやってるんだと思いますが、障害者にとって継続雇用というのは非常に難しいことなのです。
負け癖のついているかれらにとって、些細な失敗体験でもそれが継続して続くことはかなり苦痛で結果的に短期間で仕事を転々とするという悪循環に陥るのです。

私は解雇されるまで食らいついていた口なので、自主退職というのを障害者になってからは一度だけしかしていません。

それだって次の勤務先が決まっていたから自主退職しました。つまり次の仕事が決まってなかったらきっと自主退職なんてしないで解雇されるまで働き続けていたと思います。

とにかく、どこも採用されることなく、ボケっとしていた環境から、ようやく社会の歯車に参加できるというのは非常にうれしい限りです。

ただ、無駄に示談金を食いつぶして消費というか浪費でしか社会貢献できない社会のダニから、ようやく歯車の一つ似れた成れたことが何よりうれしいです。社会の歯車に成れたのは約10年ぶりとなりますので、本当にうれしいです。

働きたくて働き口を必死に探しているのにどこもかしこも落選しまくり、毎年100件以上から不合格通知を5年も6年ももらい続けたことを想像してみてください。社会にとって全く不必要な社会のダニ、寄生虫、粗大ごみと指定されているようなものです。

自分自身でも人間的魅力もないし、仕事のスキルも大したものを持ち合わせていないから、社会貢献できない歯車にすらなれない馬鹿のごく潰しというのは自覚はしてました。だから余計に毎年毎年みじめになり、そのうち作り笑いすらも出来なくなるほど精神的には悪化していました。ここ数年は受からないのが当たり前、受かるのは奇跡。だけど受けに行かないと奇跡も起きないと腹をくくって就活していたので、精神的にはかなり図太くなり、落ちても全くしょげることはありませんでした。

けど、まあ、ほんと、決まってホッとしました。

 

あとは何とかこれを契約期間内で契約解除されないように持続させ、来年の契約期限まで持続させ、来年になりますけど、今度は正社員でも少しまともな待遇の会社を受験するステップに利用できればなと考えています。

 

月10万しかほぼフルタイムで働いてるのに給料がもらえません。

8時間拘束の7時間労働だったか、9時間拘束の7時間半労働だったかのどちらかです。

勤務日数や勤務時間などは調整してもらうことも可能なので、これについては6月1日迄に譲歩を引き出せるところは引き出させるように仕向けて行こうかなと思っています。一応フルタイム化フルタイムに近い勤務形態で働いた実績を作っておけば、翌年正社員雇用を探すときにも有利に働くでしょう。流石に月10万の手取りを生涯の仕事にしようなんて気はありません。
はっきり言います。腰掛にしかすぎません。


それでもお役所勤めになるので、あまり乱暴な発言をしていて個人を特定されてあげつらわれてはたまったもんじゃないので、大好きなSNSも今までのような毒の吐きまくりから、キャッキャうふふのくだらない上っ面だけの話になってしまうことはご容赦ください。

おそらく趣味の歴史の話や城跡探索や日常のちょっとした話題などくらいしか、今後書かなくなると思います。
 

臨時職員でしかも小遣い程度の賃金しかもらえなくてもまあ香川県の職員は職員です。
私とてせっかく就いた就職先を捨てても自分の発言を重視するというほどまで信念の人というわけじゃありません。

今迄就職も出来ないような無責任の立場だったから言いたい放題の馬鹿がある意味出来たのです。

 

今迄の切れ味鋭い暴言は吐けなくなってしまいましたが、その点はどうか事情をお含みおきお許しいただきたく願います。

 

ちなみに私が読者登録している皆さんへの訪問は今までと同じペースで巡回し、たのしまさせてもらいます。
本当に読みたい人以外の読者登録はすぐに外してしまうので、今、私が読者登録している人っていうのは一番長い人で多分10年、短い人でも2年くらいは経過しています。あまりに沢山の人を読者登録すると読めなくなってしまいますからね。
だから長い付き合いの人が多いので、コメントに関しては気が緩んで、以前と変わらず過激なコメントを残していくことはあるかもしれません。

とにかく私の社会生活の中で大きな転換点を迎えましたこと、ご報告申し上げます。

 

ちなみに、本格的な引っ越しはしません。

新しい職場に定着できるかどうかもよくわかりませんし、今住んでいる家が賃貸ではなく持ち家なので、投資することも可能ですが、それよりも優先することは新しい仕事に慣れて、フルタイムでフル出勤し、きちんと社会の歯車として働くことが最優先です。
だからそれが安定するまでは身一つだけ香川県に向かい、あとのことに関しては仕事に慣れてから徐々に片づけていく方針です。

 

最後にお詫びを二つ。

太郎丸さんというブログ仲間の方から依頼されていた選挙不正に関する告発文の投稿をするといっておきながら結局しませんでした。

太郎丸さんに深くお詫び申し上げます。


私の自分史を楽しみにされていた方へ、

何度も連載が中断し、今回に至っては数ヵ月も連載を中断したことを深くお詫び申し上げます。

自分史については今後も連載していく予定であります。

ただ、連載からかなり時間が空いていますので、ダイジェスト版か、今迄の自分史のまとめ版みたいなものを連載再開の最初に投稿してから再開する予定ではいます。

 

 

緊急告知の通り、友人のブログをリブログします。
予定時間より遅れてしまった点はお詫びします。
私が何も書き加えないでそのまま全文掲載します。
一応掲載期間は今日から1週間くらいを考えています。
ブロ友さんが早めに切り上げてもいい、書き足したいなど何かしらのアクションがあればそれに合わせますが、特に動きが無ければ来週の日曜日までは掲載予定でいます。

今の日本にこんな事がいや、こんなところがあっていいんでしょうか。
ブロ友さんご本人も動揺していて文章が可成り乱れていますが、それくらいに国民不在、住民不在の選挙だけの選挙。
一部のハイエナに私物化された選挙や市政がまかり通っている地方の腐敗ぶりに仰天しています。
表にあぶりださせれなければだれも気づかない。
そして一部の人間だけが誰も気づかないことをこれ幸いに特権をむさぼり尽くせるわけです。
発展途上国から先進国へ駆けあがっていた昭和の時代ならまだしも、先進国だった平成の世でこんな情けないことが昭和と同じようにまかり通るのは許せない話です。

私が長くお付き合いさせていただいているブロ友さんからのご依頼で、また政治問題のブログを掲載することにしました。
その事が原因で暴漢に襲われたりしてかなりひどい目にも遭われ後遺障害迄負う破目になっていて、ちょっと個人的な義憤もあり、自分史投稿を中断して先にこのブロ友さんのブログを今晩0時くらいをめどにリブログ投稿します。
私がこの投稿前に掲載していたブログも北海道の友人からのご依頼で掲載したのですが、私の手を可成り多く加えてつくり直していましたので、ご本人のお伝えしたいことを間違って伝えてしまったかもなという心配も多少ありましたが、ご本人からはお礼状を頂戴したので自己満足ですが、目的は達成できたのかなと思います。

今回は全文そのままブロ友さんの文章の方が絶対に臨場感があって解りやすいと判断し、私の文体とは全く違う、ブロ友さんの文章そのままを掲載します。この事件については実は以前に同じブロ友さんのご依頼で私が文章をほぼ作り変えて公開したことがあります。
この問題は決着ついたのかなと思ったら実はついてなかったというのも今回知りました。

 

参考のために昔投稿し後悔したこのブログのアドレスをここに添付しておきます。

https://ameblo.jp/bakadorigoichimonn/entry-12026396337.html

https://ameblo.jp/bakadorigoichimonn/entry-12026976726.html

https://ameblo.jp/bakadorigoichimonn/entry-12027802943.html


寝屋川での同和利権は今も続いていてしかも状況は膠着しているのではなく、悪化の一途をたどっているようなのです。
予備知識として以前のブログを読んでいただけると幸いです。


 

暫くご無沙汰していました。

今日はちょっと、自分史ではなく頼まれていたことを記事に書きあげたく思い書いてみました。
 

北海道の人からのご依頼で、でたらめにアイヌ人が大量生産されて、アイヌ人ではない人間の背乗りが増える危険性があるというお話を聞く機会があり、これはヤバイと思い、急遽自分史ではなくアイヌ協会についての新聞記事と動画を取り上げることにしました。

(参考 以前ですが、北海道知事の高橋はるみ氏が道東の某支部に、アイヌ人とは思われない人が多数会員登録をしているとの発言が有りましたが、一週間後には会員数が激減の珍事が有りましたのも事実です)

 

自分史の方は後日改めて再開します。

動画はこちらをご覧下さい。
 

https://youtu.be/NYsYb-QYr2c

 

 

アイヌ協会、血を引く方は2割 北海道新聞平成3128日付

自民青山氏 アイヌ新法巡り発言

「理解しがたい」、アイヌ協会青山氏へ抗議

 

実際の表題は、非常に分かりにくい書き方をしているので私の方で北海道新聞の記事の一部を書き換えて載せています。表題に関してはこんな書き方をしているのです。

 

アイヌ協会、血を引く方は二割 

自民青山氏 新法巡り発言

「理解しがたい」、協会抗議へ

 

いやあねえ、確かに北海道の人はこれでもわかると思うのですが、北海道以外の人には主語が抜けていると誰が何を理解しがたいのか、何の新法なのか、さっぱりわからない文章になるので、私の方で補足しました。

最近ビジーイングリッシュならぬ、ビジージャパニーズを移民たちに教えようと政府や文科省が仕組んでいるみたいなのですけど、日本人が読んでもようわからん意味不明な日本語が新聞記事や週刊誌を中心に増えてきているのですよ。

不特定多数の人に広く読まれるものなのですから、全く予備知識を持ってない人が読んでもわかるような文書にしてもらわないと、友達向けや、意思の疎通が図れている仲間向けに文書を配信しているわけじゃないのですからねえ。

多少文章がくどくなっても、説明は最低限でいいですから、つけてもらいたいものですね。

 

このお題目でいうと何の新法か知らない人は知らないですし、何の協会なのかもわかりません。いくら頭にアイヌ協会というヒントを入れていてもなんの事かと思いましたよ。

 

「アイヌ協会、血を引く方は2割」 自民・青山氏、新法巡り発言

2/8() 13:55北海道新聞配信

「理解しがたい」と協会は抗議へ

 自民党の青山繁晴参院議員(比例代表)は7日の党参院議員総会で、政府が今国会に提出予定のアイヌ民族に関する新法案に触れ、「(北海道)アイヌ協会の中に本当にアイヌの血を引く方(かた)は2割くらいしかいない」と発言した。同協会は発言内容を否定した上で「理解しがたい」と非難しており、今後抗議する方針。

「国民の税金の行方として問題」

 青山氏は法案について「アイヌの血を引く日本国民の文化を保護し、育てるという趣旨は素晴らしい」と一定の評価を示した一方、「北海道在住のアイヌの血を引く方々」からの情報だと前置きして「協会にアイヌの血を引く方は2割くらいしかいない。残りの方々の中に『日本は先住民を差別している』という運動に携わっている方や外国の方々までいる。こういう方々に、もしも主導権を握られると、国民の税金の行方として問題だ、などと持論を展開した。

 

 北海道アイヌ協会によると、会員の要件は1》アイヌの系譜を持つ人《2》系譜を持つ人の配偶者《3》系譜を持つ人の養子―の3点。系譜を持つかどうかは戸籍に基づいて協会が認定しているといい、阿部一司副理事長は取材に対し「2割ということはあり得ない。青山氏は先住民族の権利を認めた2008年の国会決議の趣旨を理解していない。理解しがたい発言だ」と述べた。

(アイヌも明治7年に戸籍法が制定されてから、苗字と名前が持てるようになり、戸籍が作成されました。明治以前、つまり江戸時代のご先祖様の名まえは当然書かれていませんが、一応改製原戸籍で確認はできます。和人の戸籍には江戸時代のご先祖様の名まえは当然に書かれています)

 

そもそもなんですけど、アイヌ協会の基準自体が変なのです。

アイヌの系譜を持つ人。これはまあいいでしょう。

ただ、問題はその系譜がでたらめでもアイヌの系譜と言い張ればアイヌ人に成れてしまう点が非常に気になる要素を残していますけどね。

 

系譜を持つ人の配偶者。これは若干疑問を感じます。

アイヌの血がなくてもアイヌ協会に入れるという点がおかしいです。

ただ日本国籍を、結婚しただけでバーゲンセールしている今の日本国籍のバラマキ基準に合わせたら、やむを得ないのかもしれません。

 

系譜を持つ人の養子。これ、養子の数の制限が特に書かれていません。

百人も千人も万人も養子にしようと思えばできるわけで、不法移民の不法を否定するために悪用される危険が十分すぎるほどあるように感じます。

現に南米移民の日本人の子孫と称する方々も日本に沢山住んでいますが、日本に移民するために偽の養子縁組で来日している現実があります!過去に移民の元日本人の老人が現地人に頼まれて100人くらい養子にしたとの報道が有りました)

系譜を持つかどうかは戸籍に基づいて協会が認定しているといいますが、北海道アイヌ協会だけが独占的にこれを認定しているわけですよね。

 

犬の血統書をほぼ独占的に日本市場で席巻しているジャパンケネルクラブですら犬猫の血統書を独占しているわけじゃありません。ほかにも血統書を認定する団体はありますが、ジャパンケネルクラブがその中で最大の規模と今までの実績の積み重ねがあって、ジャパンケネルクラブがほぼ独占的に犬猫の血統書を独占しているような形になってしまっているのです。ジャパンケネルクラブは一般社団法人です。もちろん、ほかの団体が認めた血統書がいいかげんというわけじゃないですよ。きちんとした血統書をだしているところもあれば、いい加減なところもあります。

 

北海道アイヌ協会はどういった組織なのでしょうか?

公益社団法人になっています。

公益社団法人?

公益社団法人とは「公益事業を主に目的としている法人」になります。

公益事業とは「公衆の日常生活に欠くことのできない事業」のこと。

公益社団法人を設立するにはまず「一般社団法人」として会社を設立していることが条件となります。そして、国や都道府県に対して「公益認定申請」を行ない、受理されないと設立できないのが公益社団法人です。

 

公益社団法人の認定を受けるには国が定めている23の事業に当てはまっていることが必要です。

例えば次のようなものがあります。

1. 学術、科学振興(を目的とする事業;以下同様、略)

2. 文化、芸術振興

3. 障害者、生活困窮者、事故・災害・犯罪の被害者の支援

4. 高齢者福祉の増進

5. 勤労意欲のある人への就労支援

6. 公衆衛生の向上

7. 児童、青少年の健全育成

8. 勤労者の福祉向上

9. 教育、スポーツを通じて国民の心身の健全発達に寄与

10. 犯罪防止、治安維持

11. 事故や災害の防止

12. 人種、性別などによる不当差別の防止、根絶

13. 思想及び良心の自由、信教の自由、表現の自由の尊重や擁護

14. 男女共同参画社会の形成その他のより良い社会の形成の推進

15. 国際相互理解の促進、開発途上国への国際協力

16. 地球環境保全、自然環境保護

17. 国土の利用、開発、保全

18. 国政の健全な運営確保に資する

19. 地域社会の健全な発展

20. 公正、自由な経済活動の機会確保

21. 国民生活に不可欠な物資、エネルギーの安定供給の確保

22. 一般消費者の利益の擁護、増進

23. その他、公益に関する事業として政令で定めるもの

厳しい審査のもとで設立されるので、社会的に信頼性が高い法人として扱われ、法人税が非課税になるなど、税金面で優遇されています。

 

上に上げているお題目が通ればぶっちゃけ、公益社団法人は作れてしまうというわけです。

一度作ってしまえばもう完全に親方日の丸ですから、よっぽどの不正が暴露されない限りはジャンプすることはありません。

 

つまり、何が言いたいかというと、一般社団法人と違って、消滅の危険性が少ないから腐敗しやすい団体であるということが言えるわけです。

 

アイヌ人がいなかったとは言えないし、よっちゃんがいなかったとは言えません。

けど、彼らが戦前戦後の時期にぐるぐるにかき回されて、混血がすすみ、純潔のある由緒はあるよっちゃんやアイヌというもんは数を減らしたりおらんようになったわけです。

 

これを証明するために戸籍などについても、古い戸籍などは抹消されてわかりませんから、せいぜい三世代前くらいまでしか遡れません。つまりは明治大正は本当によっちゃんや、アイヌだったかもしれないけど、昭和のどさくさに紛れて勝手によっちゃんやアイヌを自称した人間がアイヌに成りすますことも可能というわけです。

 

だって、公益社団法人の北海道アイヌ協会様が認定されたアイヌ人ならアイヌ人であるはずだということになっているわけですからね。

 

では、北海道アイヌ協会が歴史の浅い団体かというとこれがそうでもなく、昭和10年つまり、戦前から組織された団体でした。このあたりが非常に厄介なのですよね。

 

ちなみにジャパンケネルクラブは昭和24年と戦後にできましたが、歴史が古い組織であることは間違いありません。

 

付記

ネットでは、松前藩のアイヌに対する悪政を糾弾するブログが沢山ありますが、ならば、江戸時代の全国各藩の藩政が全て善政だったのでしょうか?

全国的に自藩の悪政に怒った農民が幕府に直訴に及び、また一揆が有りましたが、その事実には目をつぶり、「松前藩」のみ糾弾するのは片手落ちではないのか!

そして、明治8年の千島樺太交換条約により、樺太アイヌ約三千人がロシアによる樺太アイヌの支配を嫌って北海道移住を開拓使に希望して、明治政府が許可して、札幌市東区に集団移住したのも、現代では強制移住と強弁しています!どこかの民族のようです!

また、学校教育も嫌々強制的(強制修学)に勉強させられたと、言い募っています!

歴史と云う長い時間が過ぎると、事実関係が真逆になる不思議さには、違和感を覚えます!

 

片輪者一代 藤原教諭

テーマ:

久しぶりの投稿です。といっても実はこれ、作り置きしていて投稿したつもりでいてしてませんでした。

長いこと、投稿してなかったのは、実家に帰っていたからで申し訳ございません。

といいつつも、まだ実家にいます。

今回の滞在はほぼ1カ月。そのほぼすべてを就活投入しました。
今のところ二次試験まで残ったのは4件。結果はまだ出ていませんが、いつもここまではだいたい残るんです。

履歴書が転職回数が多いのと、偶然なんですが倒産転職ばかりしている点から、ブラックなために、最終家庭まで残されてその最後にふるいにかけられて落とされるということが続いています。まあ、履歴書に嘘は書けませんからね。どこぞの国の人間みたいに通名や嘘が平気で書けたらこんな苦労はしないんですけどね。さて、それでは久しぶりの自分史に戻りましょうか。
さらっとあらすじだけ追っかけておきましょう。

昭和45年万博の年に生まれた。人相の悪い赤ん坊は左手首に入れ墨のような痣を身にまとい、生後すぐの発熱で目が外斜視になり、余計に目つきが悪くなっただけでなく、真正面を見据えていても余所見しているようなめつきになってしまいました。この外見ゆえに、幼少期から汚物扱いや人相の悪さから第一印象を悪くして敵を作るようになり、集団生活の中で生き残るためには武力と謀略でのし上がるしかないと極端な思想を持つにいたり、教師と衝突ばかりを繰り返していくことになってしまいました。
そんな私にも何度かの転機がありましたが、そのせっかくの転機を生かすことなく、引越しを繰り返すたびに益々悪質さを増す救いようのない悪ガキにとなっていきました。

保育園の時には自分を陥れようとした園児仲間を毒殺しようとたくらんだり、
幼稚園の時には教師に悪態をついて物置小屋に閉じ込められたり、
小学校にあがってからは女の子ばかりの集団から集団暴行を受けて、その仕返しに運動会で暴行をふるった加害者相手にわざと転倒して彼女のブルマをパンツ事引きずりおろして下半身フルヌードの御開帳をして辱めたり、
小学校二年生の時には学校で担任教師に叛旗を翻して教室で立てこもり事件を起こしたり、

小学校3年の時には教育委員会に出廷して担任教師の不正を暴露して失脚させるなど無茶苦茶を通り越して、小学生とは思えないえげつなさと巧妙なやり口で教師を地獄送りにしていました。
全く隙がない4年時の担任教師との間では特に衝突らしい衝突もなく、表面上は穏やかに時は過ぎていきましたが、私のクラスではなく同学年のほかのクラスでは学校を巻き込むオカシナ事件も発生したりして、やはり、何かを引き寄せていました。

 

そんな中、小学校5年に上がる少し前、小学校4年の2学期頃から実は声が出にくくなりました。
私はまた幼稚園時代に発症したドモリが再発したのかと恐れ、母もそれを心配したのですが、父と兄は別の事だと気づいていたようです。
兄はまだなっていなかったのですが、兄の周りでは同級生が声変わりをし始めていました。中学生の時期に声変わりする子が結構多いのは私も自分が中学生になって初めて知りました。私の場合は身長が既に小3の段階で155㎝を突破し小4の段階では160㎝を超えていました。だから性徴も普通の子供よりはかなり早かったんだろうと思います。

女の子では性徴の早い子は小3~4年くらいでつまり二桁の年齢に達しないうちに初潮を迎える子もいます。
そういう子は小3~4年くらいで大人の身長に手が届き、成長もそこでストップしてしまう子もいるわけです。
私もどうやらそういう性徴の早い子供だったようで、声変わりが始まっていたということのようでした。
高い声を話していたのにその高い声が出せなくなり、この声を失うことを恐れた私は何とか必死になって高い声を守ろうと努力していましたが、努力の甲斐なく高い声を失い一人おっさんじみた声を出すようになっていきました。
一方でこの時に色んな変な声を出しては声変わりを止めようとしたことが今はもうそんなに声音を変える事は出来ないのですが、33歳までの間12~24色の声音を出せるだけの人間になれたきっかけでもありました。

左手首に汚い入れ墨に失敗したような真っ黒な痣をつけて、おまけに、どこを見ているのかわからない外斜視、とどめに子供とは違う明らかに違う低い声、益々見た目の異様さに拍車をかけることになりました。
ただ、流石に小学校5年生ともなれば男の見た目の異様さだけでいじめを仕掛けてくるようなのはほとんどいなくなりましたが、それでもやっぱりそういう馬鹿はクラスに少数派とはいえいる物です。
小5が始まって直ぐに浜坂さんという女性が私と同じ痣が顔についていてその痣の事をクラスメイトの男子がからかいました。

私をからかったわけじゃないのに、私は浜坂さんに飽きたら次は私が同じようにからかわれると下種の勘繰りをして浜坂さんを庇って痣をからかった男子を袋叩きにしました。袋叩きにした男児の顔に自分の左手首の痣を擦り付けて、気持ち悪いか、怖いか、許してほしいか、俺も浜坂さんと同じものがくっついてんだよ。からかいたいほどに関心があるならいくらでも触らせてやると、馬乗りになって無理矢理顔に痣をこすりつけて泣きじゃくる男児生徒にまたがって他の生徒たちが止めに入っても振りほどいて延々と擦り付けました。翌日からこの男児生徒は虐めは辞めたのですが、私が怖くて結局私とは一度も口を利かないままで終わりました。私がクラス関連の事で彼と話しなければならないことがあっても呼び止めようとすると逃げ回るくらいに私に対して恐怖心しか持ち合わせないようになってしまいました。

 

担任は杉教諭から藤原教諭という別の中年女性に引き継がれました。ごくごくその辺にいる普通のおばさんという感じの当時40前後くらいつまりまあ私の両親と変わらないくらいの年齢の教師でした。大阪の市井にいる品のない感じのおばちゃん教師で自分ところにも僕らと変わりない年齢の子供がふたりいました。ところがこれが気の毒なことに1人は先天性の障害者で、おばちゃん教師は子供の世話を旦那の両親に任せて、自分のところでは真っ当な子供と旦那とで暮らしていたようです。

私はこの新しい担任教師の自己紹介の時に猛烈な違和感を感じたのです。
自分が生んだ子供なんだから自分が面倒見るのが筋だろ。
何で面倒な失敗作を自分の親じゃなく旦那の親に押し付けて、自分達は出来のええ子と暮らしてるねん。

そんなんするくらいやったら、教師の仕事棄てて出来不出来関係なしに子供の面倒全部見るんが失敗作産んだあんたの責任とちゃうん?
親に助けてもらうんは普通の子とちゃう分余計に銭がかかるんやったら経済的な面は助けてもらわなあかんかもしれんけど、それ以上の事を頼んだりやらせたりするんは、向こうが面倒見たる言われてもそれは絶対断っててめえのケツはてめえで拭くんが道理なんちゃうんと。

そら、出来損ないの子が暴力ばかりふるって暴れ回るんであれば別々に引き離さんとあかんやろうけど、その辺はどないなってんねんやろなあと色々違和感を感じたのでした。小5の子どもがこんな変な感情や考え持つこと自体もやはり歪み切っていたからなのかもしれません。

藤原教諭はその専門は日本文学だったようで、何本かの日本文学について書物なども出していたようでした。一小学校教諭が本を出すというのはなかなかない事ですから、それは確かに自慢してもいい事だし自慢して当然なことだとは思うのですが、自分の事を自慢ばかりする教師というのにあった事がなかったのでこれまた違和感を感じざるをえませんでした。

 

第一印象があまり良くなく、それでもだからと言って敵対関係に直ぐに入ったわけではありません。

小学校5年生からは強制的にクラブ活動に入る事が命令されていたので、漫画部でもあれば漫画部に出も入ろうかと思ったのですが、ありません。それでじゃあ漫画部を作ろうとして何人かの小3~4年時のクラスメイトに声をかけ署名をもらってこれだけの人間が漫画を描きたいといってるんだから、漫画部を作ってもいいだろうかと打診を図りましたが、学校側が漫画なんかは怪しからんといって拒否。結局漫画部は立ち消えになってしまいました。ところがやりたいクラブ活動が全くありません。それで同じようにやりたいクラブ活動が全くない連中を集めて、当時女の子を中心に一部男子でも流行っていたのですが、文通がブームになっていて、文通部というのを新たに作らせてくれと言いました。

ところがこれもどこの馬の骨ともわからない人とやり取りをして、そのうち相手が文章を合わせるのに長けた人間なら会ってみたいというのが人情だから休み期間に会いに行ったときに実は小児性愛者だった場合どうするんだと言って却下されそうになったので、ここにいる連中とだけ文通をしあうんですと嘘も方便で言い逃れして何とかしぶとく許可を得ようとしたのですが、危険が伴うから却下と結局駄目でした。

私は二回も知り合いを誘って二回とも創部に失敗し面目丸つぶれにされてしまいました。

私自身は二度とも自分の意見が通らなかったので、三度目の正直と今度は誰も誘わないで自分だけで創部を企図しました。

潰されてもいいと思って提案したのです。その名も帰宅部。

やりたいものが学校にないため、家に帰ってやりたいことをやり、何をやったか翌日担任教師に報告するだけという部活を作ろうと企図したのです。あまりにもなめたふざけた創部内容と企画だったために、クラブ活動の創部に関しては直接校長に直談判するしかなかったので、三度目の訪問でなめ切った私の提案に校長は激昂し、
「貴様が今後どんなまともな提案をしてきても創部を認める気はない。諦めて今あるクラブ活動の中からやりたいものを選べ」
と行ってきました。
私がいくら創部の提案をしても創部させる気が全くない事はこれで十分に理解できました。
学校側とは秋葉の件で完全に敵対関係になっていた私と学校側では私がいくら良い提案を使用と受け入れる気はなかったのでしょう。
当時は学校における競争社会の矛盾が爆発して学校崩壊学級崩壊体罰問題教師のモラルハザードなどが問題視された学校自体がもう組織としてかなり限界が来ていて組織改革しないとやばいという時代に差し掛かっていた時でした。そこで学校側が体制建て直しの切り札としたのが管理主義教育で教師の威厳の再構築と、不良品生徒への対応でした。不良品生徒を差別化して、これを無視孤立化させ、犯罪行為を行えば情け容赦なく警察や検察というゴミ箱に捨てるという方法をとっていました。私もやり方があくどすぎたので目立ってしまい、学校側からは不良品扱いされていたんだろうと思います。
仕方ないので将来何か役に立つような技能が身に付いたらいいなあと思い、漫画を描くのにも必要な技術の一つだし、これだけで御金もらっている人もテレビでその当時放送されていました。それで選んだのがレタリング部でした。

 

元々芸術的センスがないので不器用で結局身にもつきませんでした。

このレタリング部の部員の中に私と男子はあと一人だけ。加藤というのがいました。

小5の時にはじめて同じクラスになり、同じ箕面ハイツという集合住宅の別棟ですが、住んでいました。

そのため家も近いし直ぐに仲良くなったのです。

 

ところが段々に色んな所がかみ合わないことがわかってきて、お互いの事が嫌いになって行きました。

そのまま自然に物別れして別々のコミュニティーに入ればよかったのですが、素早く4月の初旬にはもう既にコミュニティーがしっかりと確立されていてどこにも受け皿がなかったからです。受け皿がなくて孤立するということに二人して気付いたために、二人の関係は屈折した犯しな関係へとなって行きました。加藤は勉強は出来るのですが、小柄で体力がないため結局体格の差武力の差で私が加藤を一方的にからかい虐める関係へと歪んだ形で継続していきました。この歪んだ関係を壊すためには私が転校する、或いは加藤が転校する、或いは転校生が来て私か加藤かどちらかが今の関係を切って転校生と仲良くするこれくらいしか方法がありませんでした。加藤への虐めは加藤との関係を切りたかった私から積極的に仕掛けました。おとなしい性格の加藤が私との縁を切りたくて嫌がらせ行為をする事なんてできるわけがありません。それに私は日頃から冷酷に不要なものは切り捨てていましたから、躊躇いなく加藤へ容赦なくいじめを続け、加藤が離れていくことを期待しました。ひょっとしたら露骨な虐めにクラスの同情を引いて誰かのコミュニティーが加藤を拾って呉れるかもという算段もそこにはありました。
ところが同じレタリング部でこのレタリング部の顧問が藤原教諭でした。

加藤へのいじめに一番に気が付き、熱心に止めに入ろうとしましたが、私に止める意思がないため虐めはエスカレートして行き、加藤に非があって虐められているなら互いの問題がありますが、特に非が無くて、関係を切りたいからやっているためここに先生が介入しても関係が改善することはないばかりか余計に増悪するしかありませんでした。

 

関係を切りたいから嫌がらせをしているのにそれを妨害しに教師が介入するというややこしい状態が続き、こうなってはもうどうしようもないと自分が悪役に徹して縁切りすればいいと思い、加藤への虐めも益々露骨にそしてエスカレートしていきました。それをまた藤原教諭が止めようとする。完全に悪循環にハマっていました。

そんなときに伊豆本という生徒がゴールデンウィーク明けくらいから転校してきてくれたのです。


願ってもないチャンスでした。
しかも伊豆本とは話をしてみると同じ歴史馬鹿、伊豆本の場合はその特殊な苗字から、自分の苗字の研究から家系図関連へのこだわりが非常に強く、私の歴史馬鹿にまだ家系図への関心がなかったので、伊豆本と知り合ったことで当時存命だった祖父や父からも本名の所縁になった話を聞くようになりました。また伊豆本の父親が歴史関係に趣味でか仕事でかはわからなかったのですが相当に造形が深い人で家に呼ばれたときに歴史関係の辞典が家中にあって、また父親とも歴史の話が出来たために完全に私は伊豆本の虜になってしまいました。
伊豆本は人当たりのいい性格をしていたために、友達に飢えていた私と加藤を公平に招き入れてしまったために結局私は加藤との関係を完全に断ち切れないままでいました。お互いにもう憎しみしか残っていない加藤と私。だけどクラブ活動という強制力が働いて縁が切れないために切り離したくていじめをする私。加藤は私と縁を切りたいのだけどそうするとせっかく友達になった伊豆本を全部私にとられてしまう危険があるために私との縁が切れない。何とも不思議で嫌な腐れ縁となってしまったものでした。

 

加藤は歴史に対する興味関心は全くありません。
だから趣味の話だとわたしと伊豆本は完全に合致するために伊豆本も他のクラスメイトともも勿論仲良かったのですが、一番親しくしてくれていたのは私でした。そして私には伊豆本だけじゃなく伊豆本の父親とも無二の親友みたいな関係になっていました。

 

私は全く知らなかったのですが、陣取りゲームを箕面の山でやって遊んでましたが、それよりもう少し奥の方に行ったところに、本当の山城の跡、止々呂美城跡というのがあるというのを教えてくれ、現地まで連れてってくれて、説明までしてくれたのも伊豆本の父でした。

私にとって伊豆本ファミリーは憧れの的の様になっていて、この関係に邪魔して入ってくる加藤が本当に鬱陶しくて邪魔で仕方ありませんでした。

 

ある時加藤と何が原因だったか忘れたのですが学校で喧嘩をし加藤が激しく抵抗したので思い切り突き飛ばした拍子に加藤がまともに窓ガラスにぶつかって大怪我をしてしまいます。全身血まみれになって出血が止まらない加藤を見て何も手が出せずにただ茫然としていた私は伊豆本という友人迄この時失ってしまいました。

伊豆本は加藤のもとに駆け寄って止血を一生懸命しようとして自身が血まみれになりました。

クラスメイトの米長、植田というクラスの軸になっている生徒は保健室へ急いで走り、女子の方で女子をまとめていた宮崎というのが割れたガラスを箒を使って他の女児たちにも手伝わせて後片付けをしている中、私は本当に何もしなかったのでした。

 

当時者が何もしないで無責任に放置していたことは他の生徒からの心象も一挙に非常に悪くなり、私は完全に孤立しました。


曲がった事が大嫌いで、謹直な性格をしていた伊豆本は私に絶交を告げると本当にそれから一切私を呼ばなくなりました。

ところが、伊豆本の謹直さは徹底していて私と伊豆本の関係は絶交でも伊豆本の父と私の関係は別に学校でのトラブルが原因で切れる必要のないものです。だから伊豆本は君がうちに来て父と話をするのは止めはしないが、私がもう君と話することは幾ら趣味が一緒で幾らでも話が合う中であってももう絶対にありえない。人に怪我をさせて置いて血まみれにしておいて何も反省もしないし、助けも使用としなかった人間味のない人とは口も聞きたくないと言い切られてしまいました。

加藤はこの時の怪我が原因で入院し、1週間ほど入院しました。

 

私の両親は私を連れて謝罪しに行きましたが、加藤の両親は子供のやった事ですし、傷跡も残らないというのですから、今後喧嘩をしないでお互いに仲良く付き合ってくれるのであればそれを和解としましょうなどと、かなり穏便にことを納めて呉れました。

私が加藤に何かをするということはなくなりましたが、クラスメイトは冷酷で薄情な私を当たり前ですが許す気にはならず、必要最低限以外のコミュニケーション以外は誰も私とはとろうとはしなくなりました。子供にとって学校へ行っている時間は起きている時間の中でも相当はウエイトを占めます。この間、ずっと誰とも話をすることなく無言で過ごすことは非常につらい事でした。ところが自分がそれだけのことをやらかしてしまったのですから、どうしようもありません。

 

ある日、藤原教諭から提案がありました。

加藤君が学校に通えるようになったその日か次の日でもいいからクラスのみんなにあなたが謝りなさい。

そうしたらクラスメイトもあなたとの関係を無視する関係を辞めてくれるかもしれませんよと。


はあ?知ってるんだったら、てめえが間に入って取り持つのが筋だろ??

俺が孤立してるの知っててこいつとぼけて手を出さなかったのか?

 

なんて糞婆だ!

 

私の当時の歪んだ感情ではこう捉えてしまいました。

 

私は藤原教諭の提案を受け入れず孤立の道を選択しました。

 

確かに藤原教諭の提案を受け入れて誠心誠意の謝罪をすればクラスメイトとの和解もできたし、伊豆本との和解も出来たかもしれません。
けど、それを先に提案されてしまってはあいつ藤原にそう言えって言われてやったんだぜというのがどこからか漏れ伝わったらただ恥をかいただけで終わりです。それどころかあいつ全然反省してないで芝居を見せつけただけだぜ。だってあいつ、秋葉先生の家庭を潰した恐ろしい奴だぜ。あいつが市教委を抱き込んだから秋葉は教師が出来なくなって辞めちゃったんだといううわさを流されてしまう危険がありました。

冷酷非情さの話で病弱な老婆を抱えていた秋葉の教師生命を断ち切った畜生生徒それが滝山というのは広く学校内に膾炙していました。

人のいない場所で藤原と二人だけでそういう話をしたのならいいのですが、大勢の人がいる中で提案されたのです。誰かほかの人が聞いていて漏らされたら台無しです。確かにいい提案ではあったし、それしか改善する方法はなかったのですが、これではもうその手が完全に打てなくなってしまいました。思い付きや感情で行動する教師だったのでこういう細かい配慮が本当にかけている女としてはザルな教師でした。

 

私はクラスメイト全員を敵に回した状態で夏休みに突入しました。
つまり加藤が退院してきても一切謝罪もしないし、口も聞かないし、挨拶もしませんでした。

もうこうなれば徹底的に敵役として嫌われた方がせいせいすると、自暴自棄に加藤へのいじめを自分のストレス解消の道具のためにエスカレートしようかとも思いましたが、それでは穏便にことを運んでくれた加藤の両親へも喧嘩を売ることになり、これでは最悪裁判沙汰になる危険も出てきます。そうなれば私個人は構わないけど両親を巻き込むことになるので、グっと堪えて、我慢し、お互い無視しあう関係を続けるしかありませんでした。

 

クラスメイトとの夏休みの遊ぶ予定なんてありません。
小3~4年の時のクラスメイト数人が当時も付き合いを残して呉れていたのが何人かいて彼らが居なければ私の夏休みは本当に寂しい夏休みとなっていたでしょう。

ところが、この時に父はかなり深刻な状態に陥っていたのでした。

 

父は高校を卒業して4年後の22歳の時に母と結婚しています。
勿論その4年間は一人暮らしをしていたのですが、一人暮らしとは言え独身寮があったためにそこに入っていたそうです。ところが、その独身寮が入居して直ぐに取り壊されてしまい、それからは親戚の家を転々と居候させてもらったそうです。父自体が居候生活が親戚に迷惑をかけて申し訳ないから1年毎に親戚の家を転々と移動したそうでした。つまり父は一人暮らしとは言いながら実質ほとんど一人暮らしをしていないのです。自炊が出来ないというわけじゃなく自炊も出来るのですが、する必要がなかったのです。

だから本格的な一人暮らしとなった岡山転勤は食べ物に関して父にブレーキをかける人間がゼロになった事を意味し、しかも下手に自炊が出来る分、余計に偏った食事になってしまったのです。父は脂身の多い肉を好んで食べていました。

私は子供の頃から母の料理の影響であっさりしたものばかりが好きでしつこい料理が嫌いだったので肉は好きでしたが脂身は嫌いで赤身の肉ばかりを食べていました。

逆に父は子供の頃からあっさりした料理ばかり食べさせられたために大人になって覚えたしつこい料理を好むようになり脂身の多い肉を好んだり、てんぷらやからあげなどの油を使った料理ばかりを好むようになりました。そして父が好きということを母も知っているから仕事で疲れて帰ってきているんだからせめて食事くらいは好きなものをたくさん食べて気分よく寝てもらって翌朝また頑張って働いてもらおうという考えから全く健康とかそういう考えなしに父の好きな料理ばかりを出すようになりました。

それは子供が出来てからも変わらなかったのですが、一時本当に金策に苦しんだ時期は子供が好きな料理を優先して出すようにし、大人である夫婦は食事を質素に我慢しようとした時期もあったのです。

ところが江東区の家のローンを払い終えたらもう別に、食事に制限をかける必要も無くなり、子供と父が好きな料理ばかりを作るようになっていました。健康とかそんなことは考えていませんから野菜が全然ないということはないのですが、野菜は少なく肉類が多い食事であったことは間違いありません。

そんな食事を食べさせられ続けて、さらに一人暮らしで完全に自分の好きなもの以外は食べなくなった父、当時父は40代になっていましたから、当然蓄積された悪い習慣がたまりにたまって爆発してもおかしくなかったのでした。

 

そしてある日のこと仕事中に父は気分が悪くなってどうにもならなくなり、職場で自分で救急車を呼んで緊急入院します。

 

職場から緊急搬送された病院では原因が究明出来ないので、国立病院へ転院させられ、そこで胆石であることが判明しました。

 

今は腹腔鏡下手術で簡単に患者にも負担をかけることなく手術が出来ますが、当時はそんな技術有りません。

 

胆石をとるか胆石を薬で溶かして小さくしていくかという方法しかありません。結局胆石をとるということになり、その手術のために国立病院に入院することになりました。緊急入院したから着替えもへったくれもありません。母は父から入院して暫くしてから入院した事実を知らされ着替えやなんやかんやと準備して岡山に移動しました。結局手術後も退院まで1か月かかりました。

 

母は身動きできない父のために大阪岡山の間を新幹線で何度も行き来していました。

 

胆石はとりあえず治った。だけど、このまま父をほうっておいていいのか?

 

一人暮らしをしている限り、常に好き勝手な食事をとるだろう。
胆石は取ったらそれでおしまいというわけじゃなく食生活を変えないとまた胆石が出来て癖の様に石が出来続けると医者に言われたそうです。
だとしたら自分の食事に無頓着な父は医者から駄目といわれても一人暮らしさせていたらまた揚げ物中心の生活をするに違いない。

父のためにもこれは子供たちを連れて転居した方がいいんじゃないか。

いや、それとももう父も大人なんだし、それに高松と岡山で高松からも近いから祖父に頼んで祖父にたまに様子を見に行ってもらおうか。

何だったら船での通勤は大変だけど祖父と高松で同居してもらってそこから通勤してもらうという手もいいかもしれない。

 

色々母は思い悩んでいたようでした。

 

祖父にその事を相談すると、当たり前ですが、「この年になって子守は出来ん」という答えが返ってきました。


公共交通機関を使っての通勤は物理的に無理でした。時間が足りないのです。

車通勤であれば朝5時くらいに高松を出れば間に合いましたが、毎日そんな地獄通勤が出来るかという問題も生じます。

 

今なら勤め先の社宅から車で5~10分。一人暮らしをさせたら半年と持たないで体を壊してしまったようではまた同じことを繰り返すでしょう。

だから岡山がどんなところかはわからないけどやっぱりこれは子供を連れてとりあえず至急社宅で家族同居しないとどうしようもありません。

社宅で犬が飼えないのは解っているから社宅は一時的な緊急でしばらく住まわせてもらうだけにして箕面の荷物を全部持って行ってぶち込めるような大きな広い家に住まないと住めない。とりあえずは急いで社宅に住んで、後は向こうについてからじっくり腰を据えて生活出来る場所を捜そう。

 

そう、母は決断したようでした。

 

決断してからの母の行動は非常に早かったです。箕面の知己で岡山に住んだ事がある人、或いは知り合いで今岡山に住んでいる人のところを回れるだけ周り、岡山市でも京山地区がいいというのを突き止めてきたのでした。京山地区というのは岡山市立京山中学校の学区つまり岡山市立伊島小学校と岡山市立津島小学校の学区ということになります。津島小と伊島小ではどっちがより学区として暮らしやすいかあるいは小学校としていい小学校かとなると、当時は伊島小の方が圧倒的に評判が良かったんです。今はどっちが上かはわかりません。

 

父の会社があるところつまり、父の会社の社宅がある学区はどうかというとよくない噂しかないようなところでした。好き好んであんなところに暮らす馬鹿はいないとまで言われるほどにぼろくそに評判が悪かったので、いずれ伊島に住むとしても特例で半田山から伊島小にバス通学、兄の場合は自転車通学を認めさせるように交渉しないといけません。家庭の事情から根掘り葉掘り馬鹿丁寧に実際に起きたことを事細かく説明して住んでる学区は違うのはわかってるけど伊島小学校と京山中学校に通わせたいという母の熱意は学校側にも市役所側にも伝わりました。ただ、今住んでいる人がいてもいいから伊島小学校や京山中学校の学区内に家を借りる予定があるという証明だけは9月までにしてほしいという条件が付きました。

 

すると幸運なことに同じ箕面ハイツの違う号棟に住んでいて私と同学年の男の子で三木君という子がいました。
彼が先に小学校4年の三学期の終わりに引っ越しをして小5の頭から伊島小学校に通っていました。そして三木君のクラスメイトの林君がお父さんの都合で10月に転校することが決まっていたのです。そして林君の家は三木君の家からは50mくらいしか離れていません。

つまり林君のお父さんが借りている家をうちが借りればいいのです。

 

こんな奇跡的な偶然がありました。

ところが奇跡的な偶然は続くのです。

子供会の知り合いで懇意にしていて子供の年齢はかみ合わなかったものの母親同士で意気投合していた柳井さんという初老の女性がいました。この人が母の急な転居に自分が以前住んでいた伊島町時に世話になっていた高崎不動産という不動産会社に連絡をつけて呉れて伊島小学校の学区内の物件について何か所か資料を取り寄せて呉れました。この中に高崎不動産側から直ぐに出る物件じゃないけど二階建ての古い家で現状渡しのままでよければ家賃5万円で貸せる物件がありますよといっておすすめされたのが、三木君のご両親が進めて呉れた林さんが借りている川原さんの物件でした。今の金額に直せば10万くらいでしょうか。いやもうちょっと安いな。7万5千円くらいでしょうかね。因みに父の会社は家賃補助で9割負担してくれるのですが、それは社宅がない場合。

ところが今回は社宅があるにもかかわらず家を借りているのでそういう場合は5割しか負担して呉れません。それでも2万5千円の負担で済みます。今だったら3~4万円で岡山駅から徒歩30分最寄りのバス停からは10分くらいのところで60坪の庭がついた2階建ての6K男女トイレ別風呂付物件が借りれるというわけです。どれだけ異常に安いかというのが何となくわかってもらえるかなと思います。

 

これでほぼ林さんが借りている川原さんの家を続けて借りる事がほぼ確定的になりました。

 

何せ、実際に今住んでいる三木さんが非常にいいところだよと太鼓判を押し、柳井さんからも伊島小学校と京山中はいいところだと裏取りが出来たのです。柳井さんの一番上の息子さんは当時大学生でしたが阪大医学部に通っていました。何度か柳井さんの家に上げてもらったときに来やすく遊び相手になって呉れた好青年でした。その人が伊島小と京山中に通っていた経験があるといっているのです。

住む環境が子供に与える影響というのは母は江東区、東住吉区、箕面で経験積みでした。
だから東住吉区の失敗をしたくないために、短時間ではありましたが、下調べに人を使ってでしたが住む場所を先に調査したのです。
東住吉の時は私も相当無茶苦茶でしたが、兄もおかしかったのです。本当に悪ガキになっていたのです。
友達仲間に碌なのが居なかったので、遊びも悪い遊びばかり覚えてはやっていました。
例えば公園のベンチの下にウンコを持って来て、それに爆竹を突きさして、ベンチの上に誰かが座ったら導火線に火をつけて爆発させて、ウンコをしたから浴びせかけるというような事を兄はしょっちゅうしていました。私は他人に迷惑かけて遊ぶのは当時流行ったピンポンダッシュくらいでしたが、実際に服を汚すなどの実害を与える兄の悪戯には私も閉口し、一緒にやったことはありませんでした。
もっとひどいのになると、生きている蛙を捕まえて帰るに爆竹を呑み込ませて導火線に火をつけて破裂させたり、カエルの校門に爆竹を突っ込んで破裂させたり、アマガエルやトノサマガエルを捕まえてロケット花火に括りつけて特攻などといってたちの悪い遊びをやらかし、空中で炸裂させたりしていました。もっとたちが悪いのが、ゲーム喫茶に行ってカチンコを使ったゲームの不正です。100円ライターを改造したものでどういうからくりで料金入れないでゲーム機が作動するのかわかりませんが、何しかお金を払わなくてもカチンコを使えば払ったことになってゲームやり放題だったようです。店側にとっても売り上げに影響するんでこれがバレた生徒は警察に突き出されていました。兄は数回やってバレないうちに手を引きましたが、兄のクラスメイトの何人かは補導されていました。そこまでしてゲームがしたかったのかと兄に聞いたことがあるのですが捕まるか捕まらないかのあのドキドキスリル感がたまらなくて、一時期ハマった。だけどクラスメイトが補導されるのを見て怖くなり辞めたと行ってました。兄の目の前で捕まって呉れたどんくさい兄のクラスメイトに感謝しないといけません。
補導歴があればきっと受験や就職の時に致命的な影響を受けていた可能性がありますからね。

兄や私が受験や就活していた時代、昭和末期から平成初期にかけてはまだ前歴照会や興信所に頼んで採用側が身元調査するのが普通の時代でしたからね。
 

私は私で東住吉の時にはあまりにも悪人として有名人になり過ぎていたので、同級生の一部だけが友好的なだけで、基本的には親たちが私と子供が接触するのを警戒していました。そのため、直接私本人が自分の子供と遊んでいると一揆くんと遊んではいけませんといって引き剥がすような親もいました。
凄いですよね。本人要るんですよ。そこで子供の手を引いて本人を目の前にして遊ぶなって言い切れる親の性根が実に素晴らしい。

子供の為なら親は畜生にもなんにでもなれるというのは私も自身が体験しなければきっとわからなかったでしょうし、自分が親のような年齢になった時にやっぱりあの親と同じような行動取るだろうなと思いました。我が子が何より大事ですからね。我が子を狂わすような異分子が混ざりこみそうになればそれは相手が何歳だろうと関係ありません。酷薄に接するだけじゃなく、精神的にも社会的にも相手の子供を殺してでも自分の子供を守るのは親として当たり前です。

私は自分に子供がいなかったから甥っ子たちのシェルター代わりの役割を果たすため、甥っ子を叱るという行為はほとんどしたことがありません。本当は自分が叱りたいと思った場でもそれは親の仕事とあくまでもシェルターに徹しました。だから海外に留学した甥はともかくとして、末の甥は親子喧嘩して罰が悪かったら、私のところへ何度か逃げてきました。それも自分には悪いところがあるという自覚があるから一人では逃げてこないで友達を連れて逃げてきました。友達の家に逃げるよりはうちに逃げて呉れた方が兄も安心しますし、気を使わなくても済みます。私はわざと自分が本当に具合が悪ければ別ですが、そういった場合は席を外して甥っ子たちだけを部屋に泊まらせて自分はカラオケなどに行って次の日朝帰りなどして時間を潰していました。親への不満色んな不満、友達には言えても親戚や親には言いにくいものが多々あるでしょうからね。

 

父の社宅には衣装だけ段ボールケース10箱分、後私と兄の文房具類だけ送って、隣近所だけに引っ越しを伝えて電光石火の様に引っ越しをしました。ピアノは置いたまま、家具も勉強机もありません。父からミカン箱の上で食事したり勉強したりしていたという話を聞いたことがよくありましたが、文字通り段ボールのミカン箱を勉強机にして勉強する日がこようとは思ってもいませんでした。

 

さて次回は岡山へ転向する話となります。

実は父の病気がきっかけで転校したこの岡山での生活が私の悪童人生の中の一つのターニングポイントとなるのです。

よく調べもせずに人の情報だけを鵜呑みにして引っ越し先まで一挙に決めてしまった母の決断は私の人生にどのような影響を今後与えるのことになるのでしょうか。お楽しみに。

 

 

 

片輪者一代 的場

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的場は私の住んでいたマンションから遠くないところにあった昔の巨人の星に出てくるような長屋に住んでいました。
父親は何か特殊な技能を持つ職人の仕事をしていたようで、ほとんど自宅に帰る事はなく、車に乗ってあちこちに移動していたようです。

最初、的場と私の中は悪くなく、会ったら挨拶を交わすなど多少見知った友人という関係でした。
どうしてそんな平穏な関係だったのに劣悪な関係になったのかが思い出せないのですが、私が思い出せないということは多分私の側に何らかの落ち度があって的場を怒らせるような事をしたのかもしれません。いずれにせよ、関係が破綻した後は修復することは一度もありませんでした。そして的場は私より一歳上で学年もひとつ上でした。奇しくもタレントの的場浩司さんと顔もよく似ているし完全に同姓同名でした。だから、彼がテレビで売れ出した頃は的場本人と思って物凄い嫌っていました。年齢まで一緒とは思いませんでした。ただ、タレントの的場さんは早生まれなので私より二学年上になります。

険悪な関係になってからは的場は自分ところの手下を使って私の家に襲撃をかけてきました。たまたま私が不在で兄がその時滞在しており、兄が的場の手下を中学生の窃盗団と思い、木刀で数人殴り倒して生け捕りにしようとしたらしいのですが、的場の部下たちは叩かれた仲間を救って逃げのびたそうです。ただし家のガラスを破られたりこっちも相当の被害を受けました。兄ははっきりと相手の顔を見ていますから、被害届を出して警察迄入れて捜査に入り、的場の指示で動いて襲撃したのは間違いないのですが、部下たちが的場を庇って勝手にやったと言い張ったので結局彼らの親からガラスの修理代や部屋のクリーニング代と慰謝料を取り落着しました。弁護士を挟んでやろうとしたのですが、その前の朝廷の段階で的場の部下の子供たちの親が事件の広がりを恐れて5人で100万を持参してきたので父も手打ちをしたようでした。

だけど私としては紺なので納得できるわけがありません。やられ損ではないですけど、部下たちを動かしていた的場が何も罰を受けていません。今迄は学校や児童公園など的場の家のものとはかかわりのないところで殴り合いのけんかをしたり、的場の家族には迷惑かけないようにしてましたが、うちの家族だけが迷惑蒙って後は金で決着というのが我慢できず、苦労している的場の家庭事情は知っていましたが、やっぱりやられたらやり返さないと示しがつきません。

的場の家に的場の弟妹と母親がいる時を狙ってロケット花火とドラゴン花火を投げ込みました。ドラゴン花火の先端にはくぎを結び付けて窓ガラスを破壊するように工作をし、割れたガラスで弟妹や母親が怪我しても構わないという恐ろしい暴挙にでました。

幸い怪我人は出ませんでしたが、ガラスは割れるし、家の中でドラゴン花火が火を噴き上げるしで、母親も弟妹達も怖さで悲鳴を上げて大パニックに陥りました。的場はガキ大将ですから色んな奴から恨みは買っていましたが、ここまで報復してくる相手となるとわたししか思い浮かばないのは当然でした。私は的場とその取巻きに一人でいるところを捕まえられて袋叩きにされました。するとその翌日にまた的場の家に花火が撃ち込まれねずみ花火が家の中を縦横無尽に駆け回り母親と弟妹は大パニック状態に。好きなだけ集団暴行すればいい。幾らでも殴らせてやるが、その代わりこっちもお前の弱点ばかり狙い撃ちにしてやる。根競べだなあ的場。暗に私は的場に態度でこう告げたのでした。

 

的場は長男でした。そして学校ではガキ大将でしたが、家庭ではいいお兄ちゃんだったのです。

弟妹がべったり懐いていたのはまだ友好関係にあった時の的場と弟妹の関係を見て知っていました。
的場は私の冷酷無惨な性質を知り、それからは私も喧嘩をすれば負けるので、お互い意識して合わないようにしていました。

それでも何度か遭遇戦のようなことがありましたが、運がいいのか悪いのか通りがかった大人や知人が止めに入り小競り合い程度で済みました。

 

的場の忠良なる部下の一人に私と同じような陰湿な奴がいて、私の家で飼っている犬が庭で飼っていたのですが、その犬の餌に毒を混ぜて犬を殺そうとしました。的場本人を学校で捕まえて詰問すると、俺はそんなことをやれと指図していない。仲間内にそんなのがいるのならお前のもとに出頭させるから好きにすればいいといったので、とりあえず報復行為を待っていたら、私の家に踏み込んで来て家を荒らしたうちの一人が父親と一緒に頭を剃髪して謝罪にやってきました。父は犬も無事だったんだし、何の関係もない父親までもがたかが子供の喧嘩にけじめ付けるために剃髪迄したんだから許してやれというので、仕方なく、謝罪を受け入れました。

 

それ以後は的場も的場の部下たちも意識して私を避けるようになりました。

因みに私は的場本人とは絶縁でしたが、的場の弟妹達とは絶縁しているわけではありません。そしてどうやら的場は学校であったことを親に話しするタイプの人間ではないようで、私と的場が険悪な関係であることを弟妹達は知りませんでした。だから時折遭遇したりするとお互いに険悪な関係じゃなかった時に何度か一緒に遊んであげたりしていたので、まさか花火を打ち込んだ張本人とも知るわけがなく、一緒に遊んでもらった楽しい思い出だけが彼らにはあるだけなので、遊んで遊んでと構ってもらおうと声をかけてくることはよくありました。
私の人間性がトコトン腐っていたので、私はまるで何事もなかったかのように普通に遊んでいました。そしてそこに的場が遭遇したりすると、お兄ちゃんも帰って来たみたいだからじゃあ僕は帰るね。続きはお兄ちゃんに遊んでもらいなといって去って行きました。
別に弟妹達に今更怪我させてやろうというような悪意はありません。ただの知り合いのお兄ちゃんというだけで遊んであげていただけですが、絶交断絶状態の相手の身内と楽しそうに遊び、別れ際にニヤアと笑いながら去っていく私の薄気味悪さは的場にとっても気味悪かったと思います。しかも私は本気で遊んであげているので彼らは非常に私に懐いているのです。人一倍弟妹を可愛がっていた的場にとっては人質を握られているような状態でした。自分に弟や妹が居なかったから年下の子で知り合いが出来るといつも溺愛して猫かわいがりしていました。


これは小学生の間だけの事じゃなく、中高になっても変わりませんでした。


元々子煩悩な素質はあったんでしょう。だけど、そこまで私の事を知らない的場からしたら恐ろしかったと思います。


的場との抗争は小学校3~4年の頃はひどかったのですが、5年になってからはほぼなくなりました。
それは的場の住んでいた家が取り壊されて的場の家族が引越しをしたというのも大きいですね。

今度はかなり私の家からは離れました。

次回の話は5年生に上がってからの話です。

片輪者一代 箕面での小噺

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私自身は比較的穏やかにおとなしく過ごしていた4年生の時期には実はいろんなことがありました。
私がかかわっている事件もあればそうでもない事件もあります。

置石事件の多発。これについては前々回に触れました。校長が数回置石事件のせいで引責辞任したのです。

(妊娠事件)
小学生同士の情交で女児が妊娠。これについては学年が違うために詳しい情報は伝聞でしか聞いていません。そういうことをするような子ではないと思われていた二人が情交に及んで妊娠したものの、子宮外妊娠になり、二人の年齢のこともあって中絶し堕胎したというのは朝礼で校長が報告していました。興味本位であるいは欲情に任せてセックスをした結果関係ない人間を一人殺したという二人の罪は一生消えないものですと校長が涙を流しながら演説していたのは今も強く心に残っています。
丁度親戚で不倫騒動があり、しかも妊娠させてしまったという話があり、余計にこの話題は私の中で強烈に記憶に焼き付いています。
親戚の不倫トラブルについてはその後の経緯を私も知らないのでどうなったのかは知りませんでしたが、最近この親戚が死んだ事でその後の経緯もわかりました。親戚が年の離れた若い女性を妊娠させ、もう中絶も出来ない状況になったので、子供を引き取って育て、妊娠させた女性とは別れたそうでした。つまり親戚は自分の本妻の子と誤ってできた子を同じ家で扶養していたようです。相手の女性は女子大生か女子高生か一応結婚しても大丈夫な年齢には達していたようですが、20歳以下だったそうです。それでお前の種なんだかお前が面倒を見ろと言って相手の女性の親が出産した子供を連れて押し付けて行ったそうです。相手の親の怒りはわかりますが、女性本人はどうだったのかが全く分からないですね。本当に間違いで出来てしまったのか、それとも親戚を好いていたのか、そこがさっぱりです。親戚の本妻は自分の腹でもない子供の面倒まで見させられてどんな気持だったのでしょうか。ただこの女性よくできた人で、結局今親戚の家を継いでいるのはこの妾腹の子なんですよ。自分の腹の子達を外へ出して、自分の腹じゃない子に家を継がせるというのはよほどのことがないとできません。兄弟仲は非常によく、上二人が姉で妾腹の子だけが男だったというのもありますが、ベタベタに可愛がっていましたね。今も兄弟仲はいいようです。

(蟯虫検査)
大事件といえば大事件ですね。当時、クラス内で引っ掛かるのは数人、場合によってはいないクラスもありました。
これは4年生の話ではなく3年生の時の話なのですが、私が蟯虫検査でひっかかりました。

クラスで引っ掛かったのは私ともう一人だけで、そのもう一人が超ド級の貧困家庭で、家も藁葺の家に住んでいました。

父親が専業農家をしていて、僅かな田んぼで生計を建てることも出来ず、かといって農業以外の事をしたことが無いため、母親が内職やバイトをして食いつないでいました。家には子供同級生を頭に6人兄弟があり、母親は当時の現代風の顔ではなく、明治大正昭和前期の貧困家庭のようなやつれ果てたひどい顔をしていました。あれで当時30なんぼって行ってたかな。見た感じでは完全に老婆でした。
肥料を買う金もないから人糞肥料を撒いて農作物を作っており、それで蟯虫検査に引っ掛かったんでしょう。
 

当時、私の祖父も人糞肥料で野菜などを作っていたし、箕面に住んでいた時に無尽野菜販売などをしていた農家も人糞肥料を使っていました。そして母方の長兄も人糞肥料で野菜を作っていましたので、私も蟯虫検査で引っ掛かりやすい状態ではあったのでした。
でも引っ掛かるなら私だけじゃなく兄も引っ掛かって当然なのですが、兄は引っ掛かりませんでした。
それは神経質な兄ならではの防衛線を貼っていたからです。

兄は母がスーパーで買ってきた野菜は生野菜でも食べていましたが、無人野菜販売所で買ってきたもの、両親の里から送られてきた野菜などでは生野菜を拒否して煮物野菜しか食べませんでした。私は逆に煮物野菜が嫌いで、生野菜ばかり食べていたので余計に当たる確率を高めてしまったのかもしれません。
ただ、蟯虫に当たってしまったということは、非常に屈辱であり、蟯虫持ちと言われて散々馬鹿にされ虐められたりもしました。しかもわざわざ検査で引っ掛かった人と言って朝のホームルームの時に教壇の前に呼び出すのです。
この無神経な秋葉の対応にも腹が立ちました。
しかし、本当に蟯虫持ちだから言い返すことも出来ずに農家が里という事のコンプレックスだけを強めることになりました。
流石に祖父や伯父たちを責めるわけにはいきません。一応は洗って送ってくれているのですけど、流水で洗っているか貯めた水で洗っているかの違いがあるでしょう。兵庫県も香川県も水がないという点では共通していますから、人糞肥料で作った野菜をそのまま洗いもしないで送りはしていませんから多分桶に水でも張ってそれで洗ってくれていたんだろうと思います。でもこれでは蟯虫の卵を洗い落とすことは出来ません。

駆虫薬が何とも言えない異様な味で味がないまずさと言うのでしょうか。
苦みも甘みも辛味も何も感じないんです。ドロッとした片栗粉みたいな変な薬でした。
それを1週間だったか1か月だったかずっと強制的に飲まされ続けて、糞を確認して虫がいたらその部分だけをピンセットでつまんで、またクリームケース見たいな器に入れて提出させられました。要するにちゃんと駆虫できたかの確認までさせるのです。これも無神経に教壇の前に呼びつけて提出させました。浜崎と私がこの無神経な対応でどれだけ嫌な思いをさせられたことか。秋葉を市教委を使って粛清したのはこの時の恨みも勿論ありました。蟯虫検査のようなデリケートな事案をわわざわざ公開処刑するなんて無神経にも程があります。
子供の私ですら、こういうデリケートな事案についてはあとで職員室に呼び出す成り、保健室に呼び出す成り、どこか別室に呼んで他の生徒に見つからないように配慮するのが当然だろうと思っていました。
蟯虫持ちというのは人糞肥料で作った野菜をいい加減にしか洗ってないものを食べているから蟯虫持ちになるわけでつまりは不衛生イコール汚いものを食べている汚い人間ということに繋がり不潔な人間と思われても言い返しも出来ない為、こんな恥ずかしい事をクラスメイトの前で晒し者にすれば当然格好の虐めのターゲットにされることは教師でなくても生徒でなくてもだれでもが簡単に推論できる話しでした。
それを無神経に晒し者にした秋葉という軽率な教師の軽率な行為は秋葉が既に鬼籍に入っているような年齢であっても私個人としては許せるものではありません。

 

(箕面一中職員室突撃事件)
箕面一中に通う生徒の親によっちゃんがいて、子供がいじめにあったのよっちゃんの子だからとまともに対応せず逆に虐められていた自分の子供を糾弾したと因縁を吹っかけて、学校を脅迫。学校側が無視する態度をとると、トラックを職員室に特攻させて親が捕まるという事件がありました。特攻したのは夜だったのでけが人は突っ込んだ親以外にはおらず、多分用務員だと思うのですが警察に連絡して現行犯逮捕されたという事件がありました。この当時同中学の1年生だった兄に聞いてみると、親のいい分とは全く違う内容でした。中学でも札付きの悪で学校中にその名が知れ渡り、他の中学の同じ悪い生徒をこの悪と取り巻きが拉致しては身代金を要求するなど相当にたちのわるいことをしていたようです。その事が学校にバレて、担任が厳しく彼を糾弾し、君に縄をつけて常に犬の様に監視下に置くことが出来ないから学校に来なくていいということは言ったらしいんです。そしたら勝手な作り話を生徒がしたのか、親がしたのかわからないのですが、因縁吹っかけて学校に脅しをかけに行き、相手にされないものだからトラックを夜にぶつけに行ったそうです。
まあとにかくおかしな人間が小学校にも中学校にもいたという事です。同じ学区ですから仕方ありません。
人の性質というのはそうそう簡単に変えられるものじゃありません。
研究者や開発者に大人になってなるような人間は、大体夏休みの宿題なんかも一気に片づけようとしないで毎日量を決めてキチンとコツコツ努力してやっていました。
大人になって極悪非道の犯罪者になるような奴はやっぱり子供の時からそんな片鱗を見せていました。
大人の屑というか社会の屑みたいな人間は子供の頃からやっぱり言い訳ばかりして責任転嫁して自分を観ようとしないで、兎に角自分が被害者だ被害者だと騒いでは責任回避ばかりして自分に同情が向くようにばかりしたり、論点をづらしてはなしをそらしたりごまかしたりしていました。こんな子供ホント多かったですね。私もこんな屑でしたが、今から思い返してみてもホント朝鮮してましたわ。


(明治の森箕面国定公園と勝尾寺の思い出)
私の住んでいた場所から箕面の滝までは子供の足で一時間足らずくらいで行けました。まだあの当時は観光馬車みたいなのが客車を引いてウンコ垂れ流しながらのんびり足の悪いお年寄りのお客さんや馬車の風情を味わいたいお客さんを載せて行き来してました。私の記憶では多分二台くらいが運行していたように覚えています。馬車の値段は知らないのですが、私はいつも馬車に乗りたかったんだけど満車で結局一度も乗ることなくいつの間にか観光馬車も廃業して消滅してしまいました。再興すれば一人千円か二千円くらいとっても多分利用する人は利用すると思うんですけどね。

滝の途中にお寺があって、そこも参拝客が結構いましたね。なんだっけなあ寺の名前は忘れました。

箕面の滝を超えてずんずん登って行ったところに箕面ダムというダムがあるんですが、そっちではなくつまり北に行くのでなく東に行くと、日本の寺にしては割と派手な色合いの寺で紅葉でも有名な勝尾寺という寺があります。モミジの天ぷらなんかも勝尾寺のモミジから転じて箕面国定公園のお土産としてブランド化したんじゃないでしょうかね。勝尾寺のモミジが箕面国定公園内に広がって行ったそんな気がしてなりません。これはまあ、私的な考えですけどね。でもあの食べられそうに見えないモミジの葉っぱをどうやって食用に改良していったのかがホント知りたいところです。

勝尾寺のモミジは流石に綺麗でしたね。小学校の遠足だったと思うのですが行きました。箕面の滝までは歩かされたのですが、そこからなぜかバスに乗って勝尾寺まで行き、モミジを鑑賞してまた箕面の滝まで戻り、そこから歩いて滝と箕面駅の途中にある名前を忘れた寺の境内や外れでお弁当を広げて食べたのは憶えています。よく寺側が承知したなあと思います。平日だから参拝客が少なかったから遠足の昼食場所として開放して呉れたのでしょうか。

あとはあちこちにどういういわれがあってなのか知らないですが野口英世に関する記念碑や説明が木みたいなのも結構ありました。

山の中で自然が潤沢に残されていましたから昆虫の資料館みたいなのもありました。標本が沢山小学生の時には飾られていて生きている昆虫の放し飼いはしてなかったのですが、2000年代の後半に箕面の山を登った時には昆虫の放し飼いをしていました。今はどうなんでしょうね。辞めちゃったという話もきいているんですが、どうなんでしょう。

箕面の滝までの道筋に野生のアケビが結構ありました。
いまだから言えることですが、遊歩道からは当然外れた場所です。
だから遊歩道の柵を乗り越えて山の中に勝手に踏み込んで、アケビを泥棒して家に持ち帰って食べていました。
しかも農家出身の両親が率先して泥棒していたってんですからタチが悪過ぎます。
アケビや山菜、きのこは取って帰ってましたが、マツタケは流石に高級過ぎて泥棒するのも気が引けたのか、これはマツタケだよと説明してそのままやり過ごしていました。あれは何で取らなかったのか不思議です。収穫できるサイズではなく小さかったですから取らなかっただけかもしれません。しかも、根こそぎ盗ろうとしたら引っ叩かれて怒られました。来年盗れなくなるだろうといって・・・・多分、箕面から岡山に転校しなければずっと毎年山菜やアケビキノコを採りに毎年恒例で延々とひょっとしたら父の定年までやっていたのかもしれません。両親の中では箕面で腰を据えて生活するつもりだったようですからね。

確かに適当に自然が残り、江東区や東住吉みたいに空気は汚くないし、淀川水系を使っていたけど、十分自前の水系箕面川の水系を使ってもあの当時であればまかなえたし水質も当時の割にはかなりよかったですからね。
当時大きな河川の大半は溺れたら危ないという理由ではなく、誤って水を飲んだら死んでしまうという水質の悪さから、川に入るなって言われていたんです。でも箕面川に関しては水流の流れが早過ぎるから入るな溺れて死ぬからダメと言われていただけで、川の水は平気で飲んでましたが腹を壊す事もありませんでした。

 

箕面の山は散歩コースでよく犬を連れて散歩に行きました。
犬と猿との戦いなんかもしょっちゅうあり、猿もちゃんと人を見て襲ってましたから、家族の中でも母か私だけを狙って襲ってきました。だから母か私が犬の紐を持っていて、襲われたら紐を外して犬に猿を襲わせていました。犬も猿を襲えばジャーキーという俸禄を得ることが出来るし、散歩を延長してもらえるという知行地安堵が約束されていたので、猿に突進していきました。ある日の事、何度も猿に襲撃されて頭にきた私がわざとビニール袋に可成りの砂を入れて軽そうなふりをして実は相当に重たい砂の入ったビニール袋を振り回しながら散歩をして猿をおびき寄せました。まんまと罠にはまり、私からビニール袋を強奪したまではよかったですが、所詮、猿。食料でもない砂に気づかないで、必死に重い砂を持って逃げようとしているところを私からはソフトボールをまともに投げつけられ、犬にはまともに噛みつかれて、強欲にしがみついていた袋から手を離して遁走しようとしたものの、犬が離れない為、犬諸共滝つぼへと転落して水没しました。
暫く両者が浮かんでこないのでヤバイ犬を殺したかと思ったのですが、暫くすると両方浮かんできて両者違う方向に岸辺を捜して泳ぎ着きました。必死になって岸辺を捜して泳いでいる猿めがけて容赦なくソフトボールを投げ続ける私はやはりどこまでも冷徹漢でした。いや、冷徹韓といった方がいいでしょうかね。弱り切っている相手を徹底的にいたぶろうとするなんてまさに漢か韓ですね。ノーコンの私では至近弾がいいところで命中弾は結局与えられませんでした。それから何回かこの作戦を用いたのですが、今度は罠にハマって呉れません。猿同士で情報が伝わっていたのでしょうか。

(陣取りゲーム)
あとは箕面の山に登って山の荒蕪地でよく陣取りゲームを友達としていました。陣取りゲームが出来るのは山の荒蕪地では通年できますけど、田圃などでやるとなると農閑期の秋の終わりから冬の間だけです。それも当時は全く気付いていませんでしたが、当時の農家が近所の子供たちのためにとわざわざ作付けするものがあったのにかかわらずそれをしなかったのです。おかげで陣取りゲームはその地域のちょっとした冬の恒例行事になりました。毎日そこで戦われるというわけじゃないけど、ほとんど誰かが田圃の全部ではないにしても一部を陣取りゲームで利用して晴れている日は遊んでいました。農地があるとはいえ協力してくれる農家は少ないですから、陣取りゲームの場所取りは結構被ったりすると大変でした。それで被ってしまった方はしょうがなしに箕面の山を登って、山の荒蕪地で陣取りゲームをしていたのです。
或いは芦原池という池が近所にあったのでその池の周囲で陣取りゲームをしていました。


山の陣取りゲームの場合は攻めてと守り手を分けて攻めては山を登る労力分だけ仲間を守りての3倍まで増やしていいというルールにしてその代わりに時間制限を設けてそれまでに攻略できなければ負け、攻略出来たら勝ちという風にしていました。

山の場合、遊ぶ場所が決まっていたから守り手が守りやすいように色々細工を作ったりしていたので、本当の山城の様に地形を利用して掘りを掘ったりしていました。でもまあ子供がやる細工でしたから大局に影響を与えるほどに効果的な構造物まではつくれませんでしたけどね。

 

まだまだ田んぼがたくさん残っていた時代でしたので、冬場は人様の田んぼで陣取りゲームみたいなことをしてよく遊んでいました。小2の時に教室で籠城戦をやらかして、采配を振るったのが忘れられず、冬場の田んぼで陣取りゲームなんかはほんとよくやってました。
二つのチームに分かれて本丸に建てた旗を倒されたり、奪われないようにして、守りながら、相手の陣地に攻め込んでいくというものでした。田んぼの稲の切り株を引っこ抜いてこれを手りゅう弾代わりにして相手陣地に投げ込み、当たったプレーヤーは戦死。盾とか防御するものを持ち歩いても構わないというルールでやってました。また竹やりの先に怪我をしないようにぼろ布を巻いて相手を突き倒して進軍したり、結構本格的な遊びでした。兄たちの世代くらいかそのちょっと上の世代くらいからこの陣取りゲームが流行り出して、それが一挙に低学年へと広まりました。剣道の胴着が甲冑をつけているみたいで格好いいというので絶対あれは室外で使って泥だらけにしていいものではないのですが、剣道少年たちから火がついて一挙にブームになりました。剣道やってない子などは段ボールで甲冑を作ったり、ベニヤで盾を作ったりしてオリジナルな戦闘着を作っていました。

私は島津が得意とした釣り野伏せに似た戦術を使って、小集団の弱い囮部隊を繰り出して敵の主力を誘引している隙に本丸を攻略するというやり方が得意でした。

自分の采配に合わせてみんなが整然と動いて呉れるのはほんと最高に楽しかったですね。まさに一軍を預かって将兵を動かしているような感覚でたまりませんでした。

昭和は平成と違って日本人自体が本当に適当でいい加減でしたから山や池や田んぼで子供が勝手に侵入して遊ぶことに関して真剣に抵抗するところは少なかったですね。

 

今は激しく抵抗するところが多くなっていますけど、それは勝手に入ってきておきながらトラブル迄持ち込み、そのトラブルの代償を所有者や管理者に押し付ける事が増えたから激しく抵抗して入れないようにするようになったのです。以前は子供が山や池や田んぼで遊んでけがをしたと行っても山の所有者、池の所有者、田圃の所有者に文句を言う馬鹿は折らず、トラブルを起こした当事者同士で問題解決していました。

 

勝手に入ってやってる方が悪いのに、今は勝手に入れる状況を作っている所有者が悪いという責任転嫁が普通となってしまったために所有権が厳格化され所有者は所有物に必要以上の経費を割いて一切の侵入物が入らないようしなければならない状況に追い込まれてしまいました。

 

2007~8年くらいに30年ぶりくらいに箕面の山や池や川を訪問した時にガチガチにフェンスで無粋に囲まれた昔の遊び場を見ると時代の流れと日本人の特亜化を見ているようで不愉快な気分になりました。日本人が特亜のような責任転嫁をして話をすり替えて人様に迷惑かけても自分さえよければどうでもいいという無責任動物に成り下がってしまったから所有者や管理者が一切の隙なく所有或いは管理権が発生する場所を頑なに守らないといけなくなったんでしょうね。

(滝山学校)
自然がなにせ多く残っている場所だったので山河でよく遊びました。
小3の時にそれで夏か冬か忘れましたが、大きな休みの時に自由研究みたいな感じで気の合った仲間同士のコミュニテイーで探検したところを絵や図や文章にしてまとめたものを偶然何個かのグループが提出したら秋葉がそれを絶賛して呉れました。それで調子に乗った生徒たちは4年生5年生になっても同じような仲良し探検グループを編成して、探検結果などを自由研究代わりにグループ単位で報告して出していました。そのため各グループの中心人物の名をとって何とか学校というグループが沢山出来たのです。
歴史馬鹿な私は同じく歴史馬鹿の友人ばかりを集めて近所の山に縄張りを張るとしたらどういう風に縄張りを張って要害堅固な山城を作るかという馬鹿の限度を超えたマニアックな事をやってました。当然航空写真とかが必要になるんで図書館に行って航空写真の地図なんかを捜してそれを模写してこの山とこの山を使って城を作るとか相変わらず小学生がやらないようなぶっ飛んだことをやってました。
当時、プラモデルから発生したと思うのですが、ちょっとしたお城ブームの時代でもあったんです。


(常用漢字反対運動)
簡略化された旧字体ではなく現在の漢字になっている常用漢字。当用漢字が廃止され常用漢字になった事で当用で使われていた臨時の文字が常用化されるというので、繁体字つまり旧字体であれば支那とも筆談が出来るのにこれでは漢字文化圏の日本、台湾、支那の三国間で筆談でのやり取りが出来なくなるし、表意文字である漢字の意義を失うと反対運動をしている人がいました。どうして私がこの人と知り合ったのかはわからないのですが、兎に角知り合い、それで共鳴し、常用漢字に反対し、旧字体への復活の陳情書をこの人と一緒に誰か議員さんのところだったかお役所だったか忘れたけど届けに行ったことがあります。小4か小5の時の話です。
やっぱり完全にずれているんですよね。小学生でやっと二桁の年齢になったかくらいの人間がこんな政治活動していること自体がかなりぶっ飛んでいます。しかも子供が好む破壊と混乱ではなく秩序と安寧つまり保守的な考え方ということも子供ではありえない変人ぶりでした。

(口裂け女)
口裂け女が話題になっていた時期にミツクチの知的障害者女性が小学校周辺をたまたま徘徊していたため、口裂け女が実在していたと大騒動になり、心無い子供たちがミツクチの障害者女性宅や彼女が通所していた施設などに押しかけて見物したため結局この女性は転居せざるを得なくなったという最低な事件がありました。校長も朝礼で激怒して怒っていましたが、当然でしょう。
私は自分が左手首の痣や、外斜視などの見た目の差別で虐められていたためにこういう物見遊山が大嫌いで、率先して調子に乗ってそういうことをしようぜ、行こうぜと言っている連中と自分の事を馬鹿にされているわけじゃないのに大喧嘩したこともありました。
子供は鶏と一緒で本当に残酷です。目に付いたらそのことだけしか見ていませんから、異物が目に付くとそればかりつつくんです。まるで鶏が怪我した仲間の鶏をつつきまくったり、体調不良の鶏をつつきまわって殺したりするのと一緒です。

次回は一学年上ですが的場との抗争について話をしていきます。