私は保育園から教師に対する不信感を露骨に態度で示すようになり、教師は敵という認識で行動する事が多く、大学と中学校を除くとほぼ担任教師と私は衝突する羽目になりました。
だから、私にとっては学校はある意味戦場みたいなものでしたが、仲の良い友人や楽しい部活などもありましたから、学校へ行くのが苦痛とはいいながらも楽しみもあったので不登校にはならなかったのかもしれません。
これは私の性格もあるのでしょうが、転勤族だったことがかなり影響しているでしょう。
引っ越し先の恥はかき捨て、それに転勤族だから幼馴染がいない。だからコミュニケーション能力がないと友達が作れないため、自分から結構話しかけたり積極的に友達作りをしていました。
それと、これは多分、運も左右していますが、転校先全てで友人は全部障害者に転落するまでは残すことが出来ました。障害者になった時にもう物理的に会ったりすることもないだろうと健常者時代の友人とはバッサリ縁を切り、フェイスブックで再会できた友人を除いてみな切れてしまいましたが、引越しするたびに友人作りは比較的うまくいき、しかもこれも完全に運なのですが、自分より人間的にも出来た人を友人によく選んでいました。
多分、転勤族で転勤を繰り返すことで嗅覚が働き、この人はいい人だというのを直感的に見抜いていたんだと思います。一方で来るもの拒まずで問題児の友人も少なからずいました。
自分から友人関係を結んだ友人はホントどういうわけか自分よりも人間の出来がいい人が多かったですね。まあ、私のような偏狭な人間とも分け隔てなく付き合ってくれていたのだから、人間としての度量が元から広かったんでしょうけど。
勿論学校に行くのが嫌で学校さぼりたいなあと思った事はあります。
けど、結局は学校に行ってるんですよ。
何故なんだろうと色々思い返してみたんですけど、やっぱり行くのが義務、仕事という認識が一番強かったんだろうと思います。
それでも苦痛だったり、つまんなかったら学校に行かなかったはずなんですが、多分家でゴロゴロしているよりも学校の方が刺激もあるし、楽しみも多かったんでしょう。
そう、家に娯楽が少なかった。
家に娯楽が少なかったというより、当時の子供たちの娯楽が少なかったといった方がいいのかもしれません。
他の家の子が持っていて私が持っていなかったものはファミコンくらいでした。
けどファミコンの代わりにパソコンが家にあったので、ファミコンのゲームソフトの大半はパソコンでもありましたから、ゲームは家に潤沢にあったはずです。
けど、今のように娯楽に囲まれた状態ではありませんから、それだけやっていても飽きてしまうんです。
1日2日なら家でゴロゴロしていても楽しいですけど、それが1週間や1カ月となるともうやることがなくなってつまらなくてしょうがないんです。
だから、夏休みなんかは楽しいはずなんですが、結構苦痛でした。
遊んでくれる友人がいればいいですが、友人は友人で予定を突っ込んでいるから会えなかったりするわけで、何の予定も入れていない私は暇な時間をどう過ごすかというのが結構苦痛でした。土日は両親がどこかに小学生くらいまでは必ず連れて行ってくれていたので、週末は楽しかったんですが、平日は母も内職をしていましたし、何もやることがないので暇がつらかったですね。
だからおそらく不登校にならなかったんだと思います。
今は娯楽が満ち溢れています。
スマホ、パソコンをひらけばなんでもできますし、ゲームや動画でいろんなものが楽しめます。しかも無料で遊べるものも結構ありますし、無料じゃ物足りないかもしれないけど、そこを割り切って使えば十分に時間を潰せるでしょう。
私の甥っ子で一人、不登校になったのがいましたが、それに理由を聞いてもただなんとなくという理由でした。
私は兄と兄の子供との付き合い方で一つ、取り決めを決めていました。
兄や兄嫁は躾けや教育の関係上、どうしても子供たちと対立しなきゃいけない場面が往々にして出てきますが、私だけは絶対にどんな時でも兄の子供側にたつようにするというのを決めていました。
子供にとって逃げ場所がないというのがどんなにつらい事か兄も私も経験していたので、意図的に駆け込み寺になるようにしていました。
だから兄の子供が悪い事をしても私は叱ったり注意したりすることはありません。
賢い子だったというのもありますが、悪い事やよくない事をしたという自覚は持っていてやってしまっていることが多かったんです。
だから、決して叱らないで黙って話を聞いたり、悪い事を肯定はしませんでしたが、否定する事もしませんでした。話をただ聞いてあげることに徹しました。
甥っ子は私という駆け込み寺があったから、不登校の間、私のもとで半月くらい同居してまた自宅へ帰りました。そして帰った後直ぐにまた学校へ行くことを再開していました。
半月の間、兄と兄嫁は心配して私のところにほぼ毎日電話して様子を聞いてきましたが、好きなようにさせている。家でテレビ見たり、パソコンに無料ゲームをダウンロードして遊んだりしてる。私の体の事とお金の事を気にして外食ばかりに連れて行ってたら家で料理しないのなんて家庭の主婦みたいなこと言われてハっとさせられたよなんてことを兄とは話していました。
甥っ子は私と違い、人を見る目が無くて、悪い友人ばかりと付き合っていて負の方向や感情に引っ張られることが多く、損をしまくっていました。
不器用で行き当たりばったりで親に叱られ続けているのは少年期の私とダブって見えて、養子にもらいたいと思っていたくらいにかわいがっていました。
しかし、留学する時に発展途上国の人間だけは信用するなといった事が彼の逆鱗に触れて絶交してしまう事になりましたが、リベラル教育を受けてきた彼にとっては私のような差別主義者は唾棄すべき存在だったのでしょう。
ただ、留学先で、発展途上国の留学生と仲良くなり、その人間に自分の車で事故を起こされ賠償迄負わされて私の言っていた意味を理解してくれて今は向こうからの謝罪はないですが、一応和解は出来ました。私も別に甥っ子に謝罪なんてしてほしくはないし、懲りてくれたらそれでいいんです。それからは発展途上国の人間と深い付き合いはしていないようです。
昔通りに付き合いは戻っています。
先日、電話で話する機会があったので、不登校時代の話をしたら、彼にとっては黒歴史なのであまり触れたくなさそうだったのですが、何となく学校に行くのが嫌になった。元々学校がつまんなかった。さぼれるものならさぼりたいなあと思って、ふっと行きたくないからさぼろうかなと思って、何の気なしにサボってしまった。そしてずるずるそのまま過ごしていたら今度はもう今の生活にも飽きたから学校に戻ろうかなあと思ったら戻ることに何か鍵がかかって行けなくなってしまい、どうしようと頭の中がパニック状態になっていた。でも私が毎日自分の趣味に無理矢理でしたが付き合わせて外につれまわって遊ばせてくれたおかげで、外に出る家から出るという事への抵抗感はなかったから、ひょっとして学校に行けるんじゃと思い、それで自分からももう学校に行けると思って私の元を離れ兄のもとに帰った翌日からまた学校に通学する事が出来た。
私が調理するのが面倒なのと、どんな味付けが好みなのか知らないから外食ばかり連れまわして必ず外で食事していた事が外に出る事への抵抗を減らしてくれたと言っていました。
学校に行かないでサボっていることに対しても何にも怒らないし叱らないだけじゃなく、東京都内観光を連れまわしてくれて楽しかった。家でゴロゴロしているのも楽しかったけど、知らないところに連れて行ってくれるのは楽しかったと言ってました。
私は当時無職だったし、私も再就職が決まらなくてちょっと精神的におかしくなりかけていた時期だったので、これで甥っ子ともども家に引きこもったら最悪マジで甥っ子諸共孤独死してしまうと思ったから、自分の趣味の世界ではあるものの博物館や美術館に行くという目標を立てて無理矢理外出していました。
家でゴロゴロしていると楽なんですが、やることないから苦痛だったんですよ。
何かやることがあってそれでたまにゴロゴロならゴロゴロがいい癒しになったり、疲れをとるのに貢献するんですが、毎日ゴロゴロだと体力奪われるだけで何のメリットもない事を体感的に知っていたから、甥っ子にも同じ目に合わせてはなるまいと、私は私なりに必死でした。
一時期ほんとに家だけで生活してゴミ捨て以外は外に出かけないという生活を数カ月くらい続けてしまった事があるんです。宅配や出前も都心ですから充実していましたし、交通事故の示談金も手に入ってしばらくは働かなくても暮らしていけるという金銭的余裕も影響していたのでしょう。
そうするとゴミ捨てに行く僅か数十mの歩行すら体力がなくなって腰が痛くなったり息切れして息も絶え絶えになってしまいました。
引きこもりの一歩手前の状態だったのです。
その事に気付いて慌ててここからリハビリを独力でし始めたのですが、普通に歩けるようになるまで1年以上くらいかかりました。
無理矢理出かけようとすると体が勝手に拒否反応を示して、下痢を起こしたりするんです。
精神科の医者に掛かっていましたので医者にこのことを聞くと、神経性の大腸過敏症だろうという事でした。
これでは家でゴロゴロしていたら寝たきりになってしまうかもしれない恐怖というのを痛感し、再就職できなくてもなるべく外に出て家でゴロゴロしないような生活を送るように心がけました。
体力つけるために公営プールに行こうと家から結構距離は離れていたんですが、駐輪場があるのでバイクもおけることから公営プールにバイクで通うようになりました。
これで体力をつけることに成功し、長距離は流石に歩けませんがまあ日常生活を送る程度の距離であれば問題なく歩けるようになりました。
子供はそこまで体力堕ちないでしょうが、中年超えると衰えるのはあっという間です。
自分で自発的に気が付いて軌道修正しないと一旦引きこもりになって社会復帰や学校復帰するというのはかなり難しいと思います。
私の場合も甥の場合もそうですが、結局は自分からこのままじゃだめだと思って行動した結果引きこもりや不登校の状態から抜け出せました。
結局は不登校や引きこもりから抜け出すのは他力本願では無理。
自力本願で抜け出すしかないというのが自分が経験から導き出した答えでした。
ただ、自力で抜け出せずにもがいているときに他人からの意識づけがあれば自力本願で抜け出せ安いかもしれないなというのは甥っ子を見ていて感じました。
不登校や引きこもりの状態がいい状態じゃないというのは多分誰よりもその状態に陥っている本人が自覚していると思います。まあ中にはそうでない人もいるかもしれませんが。
強く執拗に意識づけする必要はないですが、私の場合はたまたま甥っ子が同居していた時は自炊でなく外食を導入していたから、必然的に外出しないとどうにもならないという状況を作り出していたので、完全な引きこもりや不登校にならなかったというのが良かったのかもしれません。
日常ルーチンの行動の中に外出する事を強制できるようなルーチンを突っ込むことで引きこもりや不登校から抜け出せるきっかけを導き出せるかもしれません。
まあ、あくまで私の経験上の話であり、偶然の産物ではあったんですけどね。
不登校や引きこもりの人を否定するような発言は辞めた方がいいとは思います。
私も甥っ子が不登校だった時にそれを否定するような発言はしていません。
せっかくの機会だから、学校に行かないでサボっている時間に学校じゃ体験できない事をしに行かないと言って甥っ子を誘って甥っ子は多分あまり関心なかったかもしれませんが、いろんなニッチな分野の博物館や美術館に連れて回りました。
寄生虫博物館と拷問博物館は流石にドン引きしてましたが、都庁や東京タワー、深川資料館キッザニアは楽しかったみたいです。キッザニアは中学生にはちょっとつまんなかったかなと思ったんですが、本人は結構楽しんでくれていたみたいでした。キッザニアの対象年齢は多分幼稚園から小学生くらいまでの間で多分小学校高学年くらいになったら物足りないんじゃないかと思ってたんですが、そうでもなかったようです。
毎日都内の博物館を私が勝手に調べそこにある意味無理矢理甥っ子もつれて出かけていました。甥っ子は顔は子供でしたが、身長は大人だったんで、私と平日外出していてもあまり変な顔で見られることはありませんでした。まあ大学生か専門学校生くらいに見えていたのかもしれませんね。中学生で180cmある生徒なんて多分そんなにいないと思いますから。
結果的には家でゴロゴロしているより外に出て何かしてる方が楽しいという事に気付いたんでしょう。
それが気づきになって学校に行くという事に繋がったんではないかと思います。
一時期ちょっとだけ社会問題になって今は全く話題にもなってませんが、そういう引きこもりの子供の面倒を主に親だと思いますが、保護者が見るのが限界になり、業者に頼んで無理矢理外に出してもらい、その業者に頼んで強制的に施設に入れるみたいなことが流行りました。
本人がやる気ないのに無理矢理外に引き出して、そして本人の希望でもないのに施設でカンヅメにして強制労働させて社会復帰させようとしてもそれは絶対に失敗するのは目に見えているし、追い詰められた引きこもりが自殺する可能性も高まるわけで、全く効果は期待できないでしょうね。
仲にはそういったショック療法で社会復帰できた人がいたとしてもそれはよほどに稀だったんだろうと思います。
まずは本人が社会復帰したいという気持ちを持っているか、そして社会復帰したいという気持ちを盛ってもがいているところに他人がしてやれることは行動を起こすためのきっかけの気づきをどうやってあたえることができるかという事しか手助けできるところはないんじゃないかなと思います。
私の場合は運よく気づきを与えることが出来たし、何より甥っ子自体がこの状況から抜け出したくてほんとにもがいていましたからね。
自分が変わるきっかけは他人が与えてくれたとしても結局は自分自身が能動的に動いた結果、そこにたまたま他人が与えてくれたきっかけがパズルのピースのようにハマっただけです。
結局のところ自力本願でしか不登校も引きこもりも社会復帰するためには必要不可欠なんだろうなと思います。