東京に今年の3月に旅行した時のことです。

 

旅行に出かける直前に軽い腰痛を発症してしまい、ずっと腰が痛い状態で高松を出発、成田に到着、成田からは横浜まで空港バス、そして横浜からは電車で町田に行き、町田で宿をとって起点にして調子が良ければ昔住んでいた瀬谷周辺に行ってみようかなと思っていました。

 

ところが横浜駅で下車してうろちょろしているときに腰痛がかなり深刻な状態になり、町田のホテルに行ってホテル周辺で夕食を調達したうえでホテルに行こうと思いました。

 

駅からホテルは歩いて私の足でも10分圏内。

 

電車に乗っているうちに腰痛が収まってきたので、町田の駅がどうなってるのか気になったので無理をしなけりゃいいものをここでタクシー乗り場に行かないで、歩いてホテルに向かってしまいました。しかし、100m歩いた辺りからかなり深刻な状態になり、やばい、タクシー乗り場200m先まで戻るべきかどうするかと悩んだのですが、少しリュックをおろしてその上に腰を下ろしてゆっくりたばこふかしてくつろいでいたら痛みが減ってきました。

だましだましなら時間制限もないんだし行けるかと思い、ここで選択ミス。

歩きながら向かいました。道順は分かっていたのですが、随分と変わった街並みを惚けてみていたらホテルを通り過ぎてしまいました。

しかも迂闊だったのが、町田という町の地形です。

あれだけ何度も訪れているんだから覚えていて当然なのに昔懐かしにハマって町田の特徴を忘れていたんです。

渋谷同様に起伏の激しい地形を。

地図でしか見てないし、ああ、あのへんだなという認識はあったんですけど、ホテルが駅から多少勾配あるところを上がった先にある場所であるというのをすっかり忘れておりました。

行き過ぎた道を戻りここからまっすぐ行けばというところで急な坂道を正面に見て初めて

「しまったああ」

と一人絶叫。

 

いやまあ確かに町田来るのは久しぶりで10年ぶりくらいになるから忘れちゃっててもしょうがないっちゃあしょうがないんですけどね。

 

いやはや困りました。

 

すると目の前にタクシーがとまっているじゃなあないですか。

 

わずか数十メートルだけど、載せてもらおうと手を挙げましたが、運転手さんが手でバッテンして提灯を見ろと上を指します。提灯消えてました。

何らかの事情があって空車でも乗せれない状態なんだなと思いました。そしてふとナンバープレート見て納得。

こちらもごめんなさいと手を合わせてお辞儀し、運転手さんもお辞儀を返してくれました。

 

なぜ、私は乗車拒否されたんでしょう。

 

ヒントは提灯がついてないのと、私が気づいたナンバープレートです。

 

そう、営業範囲外なんですよ。

 

成田空港でお客さんを乗せて町田まで連れてきたとしましょう。

その成田空港のタクシーの運転手さんが町田でお客さん載せられますか?

ということなんですよ。

 

実際のナンバーは埼玉県のナンバーでした。

 

仕方なく、急勾配な坂道を脂汗かきながら登り、這う這うの体でホテルに到着。

そのあとホテルで一息つかせてもらって楽になったんで、部屋に入りこれはもう瀬谷に行くのは次回の旅行迄あきらめるしかないなと断念しました。

 

タクシーが運よく停まっていて拾おうとしてそのタクシーの扉をたたいても運転手さんが無反応で扉あけてくれないという事を体験した人もいるかと思います。

私も何度か酔っ払っていた時に体験して不愉快に感じていたのですが、きっとこういった事情があったんだと思います。

 

皆さんも酔った勢いで、短絡的に無視されたと思い込んでタクシーの扉を蹴っ飛ばしたり、運転席を開けさせて問答無用で運転手につかみかかるなんて馬鹿な事はしないでくださいね。

 

知り合いでほんとにこんなことやらかしておまわりさんのご厄介になったのがおりました。

 

幸い、運転手さんの方も事件にしないでくれたし、運転手さんを雇ってくれている会社の方も事件化しないでくれたんでおバカな知り合いはおまわりさんにお説教食らっただけで済んだんですけどね。

 

それでもそのまま返すわけにいかないというわけで誰かに迎えに来てもらいなさいという事で、

酔った彼も奥さんに電話するつもりがうっかり私に電話かけてしまったそうで、私もすっとんで迎えに行きました。電話口では酔っ払ってるからずっと○子〇子と奥さんの名前連呼してましたけど。

 

急いでタクシーで保護されている交番まで向かい、被害者の運転さんはすでに立ち去った後だったので、交番のおまわりさんに保護してもらったお礼を言い、被害者情報をもらって彼をタクシーに乗せ、私の家に彼を連れて行きました。

 

酔っ払ってオオトラになって被害者を出した挙句に、奥さんと間違えて私に電話してきてるという大失態をやらかしているんですから、彼の家に返したら奥さん臨月間近でしたからね。ショックでという畏れもあって家には帰せませんでした。

 

私の家についてから家の中まで入れるのも大変でしたが運転手さんが手伝ってくれたんで何とかなりました。泥酔した人間ってほんとなんであんな石みたいに重くなるんですかね。わざと踏ん張ってんじゃないかと思うくらい重たかったです。運転手さんに彼を運んでもらった手間賃で1000円チップ払ったら喜んで受け取ってくれてよかったです。

奥さんの携帯電話は知らなかったけど、彼の固定電話は知っていたので、固定電話の方にかけたら奥さん夜遅くだけど直ぐに電話に出てくれたので、調子に乗って飲ませ過ぎてよい潰してしまったんで私の方で面倒見ますと言って今日は私の家に泊める旨連絡しておきました。

 

当人、朝目覚めて素面に戻って知らない家。

慌てて飛び起きて逃げ出そうとしたから、

「おい待て待ておれだよ滝山だよ」

といって慌てて声かけました。

 

起きて事情を説明し本人猛省してました。

時間を気にしてましたが、まだ朝6時台だったので本人一安心。

風呂も沸かしてやっていたので、風呂はいれよとお風呂を勧め、彼も喜んで入浴。

私と体型が近かったんで下着と靴下それにワイシャツは私が来てない新品のものを彼にあげ、後日飲みに誘ってくれた時にでもタクシー代含めて清算してくれたらいいといって、風呂から出てきたらホテルに行っては集めていたアメニティグッズを渡して身支度させて帰しました。

 

後日、飲みに誘ってくれてこっちはまあ諭吉さん1枚くらいもらえたらいいなと思っていたら、想定外の諭吉さん5枚を出してくれました。奥さんへの口止め料もこりゃ含まれてるなと思いました。

 

まあ5万円の口止め料で四半世紀黙ってたんだから今ならネタとして暴露してもいいでしょう。義理は果たしたんじゃないかな(笑)。

あ、ちゃんとタクシー会社に彼は菓子折り持ってお詫びに行ったそうです。

泥酔トラブル起こした客が菓子折りもってお詫びに来るのは警察沙汰にした時以外はなかったんで、タクシー会社の人達もびっくりしたそうです。

その日は運転手さんがお休みの日だったんで直接お詫び言えなかったそうでした。

勤務日の日にお詫びに来たいと言ったら、今日の事を伝えておくから構わないよと言ってくれたそうで、それに甘えさせてもらったと言ってました。

会社と運転手さんが事件性にしなかったのは車がへこんでなかったのと、運転手さんも運転席から出てただつかまれただけで怪我も負ってなかったからだとのことでした。

 

 

なんだか本線の話よりも脱線話が長すぎるのが私の与太話の悪いところですが、そんなわけで、タクシーが空車でもお客さん載せない事情結構あるんで皆さんもカっとならずに一度何でと思っていただけたら幸いです。

 

 

 

ガールズバーと言って、女の子ばかりがバーテンダーをしているお店に昔、友人に連れて行ってもらった事があります。今はそこにプラス風俗要素も加わるお店もあるようですが、私が連れて行ってもらったお店は、本格的なカクテルバーのお店でみんなバーテンダーとしてのキャリアも積んでいてた女性の人ばかりでした。

 

私が健常者の頃に行ったので20代後半から33までの間の頃の話なので、今から四半世紀以上前になります。バーテンダーの女性は全員私らとそう年齢が変わらないくらいの世代の人達ばかりで、王道のカクテルを王道に作ってくれました。

 

私も丁度その当時にバーテンダーをやっていた事もあったんで、お酒を友人と飲み酒談義で花咲かせるのも楽しみだったんですが、友人の目論見通り、バーテンダーさんの技術を盗み見するのも楽しみでした。

 

バーテンダーの学校も出てないし正規の教育も受けてないし、すべて我流でやって、何とか見た目の体裁を整えていた私と違って、本格的に修練を積み、お師匠さんの太鼓判を押されてのれん分けされた人たちは流石に技能も違いました。

 

使っているお酒はそんなにいいものを使っているわけではありません。

普通に酒屋で市販されてるし、誰でも手が届くようなそんなもんばかり。

流石にウイスキーやワインは結構なものも置いてありましたが、店の雰囲気がカジュアルスタイルだったので、廉価で美味しく快適に過ごしてもらおうというコンセプトを強く押し出していたので、くつろぎやすい感じの店づくりと照明を取り入れていました。

 

だからお客の回転率は考えていないので、店の照明は明るすぎるということもなく、暗すぎるということもない。ただまあ普通の家の照明比べたらやや暗い感じがするかなという感じでした。

 

お店のバーテンダーさんは全員ポニーテールをしていました。統一感を狙ってそうしていたのか、そこは分かりませんが、きびきび動く姿にポニテの髪がなびく姿は凛々しく感じました。

 

このお店がまだそのままそこの場所で四半世紀以上営業しているという事を友人から教えてもらいました。そして驚いたことはもう一つ。そのお店の従業員もメンツの入れ替わりは多少はあったのでしょうが、ほぼ変わっていないという点でした。

というのも友人がお店のバーテンダーさんの了解を取り付けて一緒に撮った写真があったのですが、あの当時のバーテンダーさんが僕らと同じように歳食ったような感じになっていたんです。

しかも、あの当時と同じポニーテールで統一されていました。

 

友人から見せてもらった写真を思わずしばらくの間ガン見していました。

 

すると友人、「こんなかに好みのひとでもいたんかい?」と。

 

「いや、そういうのじゃなくて、まさかお店も人もそれほど変わらずに続けていた事に驚いてるんだわ。まあ、女のバーテンダーさんばかりってのは珍しいコンセプトだからなあ」

 

このお店の制服は女性のバーテンダーさんが執事服みたいな男性ルックなんだけど女性仕様の制服を着用して黒の蝶ネクタイ締めていました。髪留めは統一されてはいませんでしたが、シックな色合いの落ち着いた柄のものでした。

 

にしても四半世紀、よくお店続けてこられたなあと感心していました。

 

まあ、また東京に行く機会は何度かあるんで、その時に立ち寄らせてもらいたいなと思いました。

 

二件目の話は先日、仕事帰りに母の見舞いに出かけ、そこで母に捕まって結局家に帰ったのが夜の8時過ぎになりました。その道中での話です。

夜間工事をしていて、交通誘導していたのが女性でした。

そしてこの交通誘導していた女性の制服が私が昔勤めていた警備員の制服とよく似ていたので思わずガン見し、しかもよくよく見たら結構綺麗な女の人だったので余計にガン見していました。

するとその視線の先にさらに珍しい光景を目にしたんです。

ユンボで合材を剥がしているオペさんがまだハイティーンじゃないかと見えるくらいに若い女の子でした。

ユンボのオペさんで女の人はホント見かけないんで、ガン見してしまったんです。

そしてよくよく見てみたら、あれ、手元の職人もあれ、女の人じゃない?

そうなんです、オペさん以外の職人の中にも女の人がいました。

 

工事現場にしてはあり得ない女性比率に仰天して固まってボケーとみていたら、ガードマンさんが、「ご協力ありがとうございました。」と声をかけてくれました。

流石に全員女性ってわけじゃなかったんですが、手元に女性が1人、オペさんが女性、ダンプの運ちゃんがこれまた女性、そして現場監督さんもよく見たら女性でした。しかもこの人が一番小柄で童顔な顔立ちしていたので、七五三みたいに見えてしまいました。子どもに普段着せない晴れ着や正装をさせると服に着させられているといった感じで写真写りしてしまうことがありますが、そんな感じに見えてしまったんです。

ちなみに交通誘導してくれていたガードマンさん3人のうちユンボ周りは男性だったけど片交していたのは女性二人でした。

 

オペさん以外は30~50代くらいの女性に見えたけど皆さんそれぞれに綺麗な感じの方だったんで、ここまで美人さんが集まるなんて珍しいなあと感じました。

 

まあ、ガードマンは私も10年のキャリアがあるんでわかりますが、単純だからこそ奥深い職業なので、やってて非常に面白いし、またスポット現場といって1発仕事。例えば、吊り荷を一個だけ吊り上げるのに繁華街で危ないからガードマンさんをつけてくれという現場が滅多ないんですが、たまにあります。こういう現場ばかりを運よく、同じ日に4つも回ったことがあるんですが、一発仕事でもそれはそれで時給じゃなくて一日分の仕事と計算してくれるので、この日の日当は4日分、当時の給与で行くと8500円かけるの4回つまり、たった5時間程度(移動時間を含めたら8時間労働にはなりましたが(笑))の仕事で3万4千円も荒稼ぎ出来たのです。

 

こんなことが今もあるんかどうかは分かりませんが、四半世紀前には年に何度かあったんで、ガードマンと乞食だけは三日やったらやめらんねえとよく冗談交じりにガードマン仲間と話していました。

 

 

それにしても女性の社会進出が進んだんだなと実感しました。

 

私の職場でも技師の女性職員多いですし、申請に来られるお客さんでも施工管理技士や土木管理技士の資格を所持されている方を目にする機会が多いです。

 

私が今の職場に勤めるようになって今年で6年目ですが、6年前はそれ程でもなかったんですが、今は事務員の人が書類をお使いで届けに来るだけじゃなく、専門の女性技師さんが直接書類以て相談に来られることも結構当たり前に目にするように変わってきています。

 
しかも最近は新卒採用されたような若い女性技師さんをよく見かけるようになりました。

 

 

若い女の人が安心して働けるくらいに土木工事の会社の雰囲気も変わってきているのか、そこまでしないと人手不足で大変なのかわかりませんが、令和になって私も職場が変わったけど、女性のブルーワーカーへの進出が結構目に付くようになったことに最近になって気づきました。今年に入ってからは移民女性の技師さんも目にするようになりました。

 

流石に移民の技師さんは今年から始めて目にしました。

 

移民の技師さんを見るのは男女通してみるのは今年が初めてでした。

 

移民の日本社会への浸透は結構進んでいるんだなと複雑な気持ちになりました。

 

両親ともに内臓はそれほど悪いところがなく多少高齢のための高血圧程度があるくらいであとは内臓に関しては私などよりもよっぽどマシな状態なわけなんですが、高齢がゆえに筋が脆くなり、切れやすくなっていて、肩の筋が切れて腕が上がらなくなりました。

こんなところまで仲良く同じ時期に症状を発症しなくてもいいのにともに70代の時に発症し、両親はこの時私もまだ東京住んでいた事から同時に入院しました。

おかげで誰かが看護や介護をするという心配もなく、2人は無事手術も成功し、予後も良好に過ごしていました。

父はその後何の問題もほぼなく過ごしていましたが、母は田んぼに滑落して骨折したりちょっと大きなけがや事故などにも見舞われていました。そして先日、自分の動く動線に物をひょいと置く悪い癖が昔から母にはあり、その置いた事自体を忘れておいたものにけつまずいたり、踏んで滑って転ぶという事をよくやらかしていました。これは若いころからそうだったので高齢になってからというわけじゃないんですが、高齢になってから物事が億劫になって来たのか余計にそういう事が増えてきたので、毎度毎度注意していたのですが、私がいないところで遂にそれを玄関でやらかし、まともにひっくり返って角で左肩を強打しその拍子に筋が切れて左手をあげることができなくなってしまいました。

 

事故発生後すぐに病院に診察行けばいいのにそれもぐずり、ようやくいったのも診療所だから手術できないため、総合病院への紹介状を書いてもらって検査、そして入院、手術となりました。

 

診療所に行ってからはテンポよく入院まで進み、手術も無事に成功しましたが、問題はそれからでした。

 

これが私がしばらくブログに出没しなかった最大の理由となります。

 

譫妄が発生したんです。

 

手術は内視鏡手術でしたのですが、全身麻酔を行い、術後もいたみがのこるからとかなり強めの麻酔を効かせてくれていました。前回は手術後の麻酔を母自らがしてほしくないといったためにやらなかったので、かなり痛みがつらく苦しかったそうです。

 

それで懲りて今回は麻酔を効かせてもらったんですが、これが良くなかったんです。

 

麻酔の副作用で酩酊状態になり、譫妄が起こり、幻覚を見たり意識障害が発生するようになりました。

 

そのため、問いかけをすればそれには答えてくれているのですが、記憶に残っていないのです。

 

それに少し手術前後の記憶も飛んでしまったので、自分が手術後に集中治療室で予後観察されていることが理解できずにいて、自分の部屋に戻りたい、まだ麻酔が切れて覚醒していないのに勝手にトイレに起きて転倒していました。しかもトイレに行く前にパンツをおろしてトイレに行こうとするなどやってる順番も無茶苦茶です。

私が母の様子を心配して面会しに行った時の母の惨状たるや、もう見るのが嫌というレベルじゃなく、笑ってしまうレベルでした。

パンツをひざよりしたまでおろし、結丸出しの状態でうつぶせにひっくり返って、くれよんしんちゃんのけつだけ星人状態でベッドとクローゼットの隙間に挟まって動けなくなっていました。

 

思わずその姿を見た時

 

「なあ、ばっちゃん、もう大ちゃん(母の初孫)も30過ぎて結婚もしてんだから、今更クレヨンしんちゃんの物まねしてもウケねえよ。にしても病院で、こりゃないで。笑いをとるのに命かけるような馬鹿なこと、いくら関西出身(神戸市須磨区生まれ)とは言えやめてくれよ」

 

といってナースコールを押して看護師を呼びました。

 

私は右股関節に人工関節を入れているし、利き足が右足なので踏ん張れないんです。

 

だから母を助け起こしてやることが出来ません。

 

本当は利き足は左足だったんです。ところが5歳の時に箱ブランコで無茶苦茶な遊びをしていて骨折し、それから利き足を無理矢理右足にかえるように何年もかけて利き足を変えていきました。利き足を変えたころには左足は完治していたのですが、そんな事情も相まって、交通事故で利き足を駄目にしてから左足を利き足に戻そうとしてもどうにもうまくできませんでした。

 

母は麻酔の後遺症でかなり意識も混濁しており、様子もおかしかったのでCTスキャンで脳の状態を見てもらいました。脳には異常がなかったので、手術後の脳梗塞や脳出血ではないことがわかり、血圧が高かったので血圧からくるめまいと麻酔の副作用が出たのでしょうという事でした。

 

ご飯を食べるといったその言葉も乾かないうちになんでご飯をもってくるんだ、今は飯を食べる気分じゃないと自分が今言った事すらも酩酊状態だからわかってないようで看護師さんも困り果てていました。

 

これは泊まり込みでついていた方がいいかもと思い、看護師さんに譫妄強いみたいですから保護者として私が今晩泊まり込みましょうかというと、よくある事ですから大丈夫ですよといって看護師さんたちが面倒見てくれるとのことだったので、心配ながら家に父とともに帰りました。

 

食事も自力で食えなくて父がスプーンで掬って母に食わせてやっていたのですが、食っている最中に父に話しかけているから食べ物が母の口の周りにべちゃべちゃくっついて乳児か3歳児が食べた後のようになってしまい、その姿とみていて

 

「年より三つ子とはよくいったものだなあ」

 

とポツリと私がいうと父が

 

「ただの三つ子の方がまだまだマシだわ。階段上がって行って三つ子になるのと、階段降りて行って三つ子になるんとではこんなに差が大きくなるとはなあ。」

 

と母の惨状に父もかなり強烈な一言を吐いていました。

 

これは退院後の老人ホームも視野に入れて動き始めた方がいいとそう感じました。

 

この翌日、病院に行くと母が怒って泣きじゃくって私と父に文句を言います。

 

看護師たちに侮辱されたと。

 

うるさい。黙れと言われたと泣いていました。

 

男の看護師からは「うるさいこの野郎。黙れっつってんだろうが」と言われたと泣きじゃくりながらおこり、こんな病院退院してやると息巻いていました。

 

「お前がナースコールで看護師を呼んだりするから、私は気違い扱いされたんだ」

「私は精薄じゃない。健常者なのに。精薄と同じ扱い受けるだなんて屈辱だった」

 

はなしの顛末を看護師と母の両方から聞きました。

 

母はなんで集中治療室にいたのかわからないので、自分が覚醒してから何の問題もないのだから部屋に帰らせてくれと言い続け、それを深夜の時間帯で言い続けていたようです。深夜体制はこの病院では3人体制で行っていたので、ベッドの異動なんて物理的に無理です。

 

私と父は母に帰る直前に何度も何度もそれこそ10回くらい念仏唱えるくらいに今日は集中治療室で止まることになるからいつもと違う部屋で寝ることになるから理解してよねと言い続けたのですが、やっぱり理解していませんでした。

 

母は自分の部屋戻りたいだけの一心しかなく、看護師は人手が足りないし、何度も話せばそのうち理解してくれて落ち着くのではと思ったものの、もう部屋に戻るという執着しかない母には言葉が全く通じなかった模様でした。

 

父はそこまでする必要はないとは言ったものの、私はやはり、看護師さんに迷惑かけたからと菓子折り以て看護師さんに謝罪しに行きました。そして看護師さんからまた衝撃的な一言を聞かされます。退院はまだ抜糸もしていないから出来ないけど、この階の看護師を敵認定して信用も信頼も築けない状態になってしまったので、5階の患者さんと入れ替えする事にしました。

 

私達も根気よく話し合えばよかったんですが良好な関係が築けなくて申し訳ないと謝ってくれました。

 

いや、十分に看護師さんたちはやってくれましたよ。

 

母が薬の副作用や環境の変化で譫妄発症したのが原因だし、これについては母も悪くはないし、看護師さん達にも落ち度はないです。処方してくれたお医者さんたちも勿論悪くありません。

 

しいてあげれば運が悪かった。

 

その一言に尽きます。

 

もしどうしても悪い人を出せというのであれば、環境が激変する事を何度も説明し、納得させていなかった私達保護者の側が責任を負うべきでしょう。

 

とまれ、5階の患者さんまで巻き込んでのお引越しがあり、5階へと移りました。

 

そこでもまた問題を起こしていました。譫妄による看護師への攻撃はなくなりましたが、失禁が常態化したのです。排泄失敗を何度も繰り返し、毎日父が着替えを持って行く羽目に。排泄は一日10回はないですが限りなく10回に近い数の排泄機会がありそれを悉く失敗するため、父は母の着替えを朝晩持って行く羽目に。

 

私は平日は県庁アルバイトに出かけているため家事と見舞いは父に集中する羽目に。

 

それでも農家の長男として生まれてすぐに物心ついたら労働を当たり前のようにさせられていた父と、箱入り娘で育てられ結婚して60年家事をこなしてきた母とではスタートダッシュが違いました。

大人になって必要に迫られて家事や料理スキルを経験で磨き上げて行った母と、子供の頃から息するのと同じように家事や料理をこなし農作業迄強制させられていた父とでは器用さと熟練度が格段に違ったんです。

 

だから、疲れた時に家事や料理なんて普通の人にとっては苦行なんでしょうが、父はそれを息抜きに活用し、積極的に料理を作ってくれました。料理がいい気分転換になって見舞いストレスが軽減されていました。

 

父がいないで私が一人で母の見舞いと家の家事をしていたら多分、母の入院1週間で私も入院していたかもしれませんね。勿論父に家事一切を全部任せきりにはしていません。料理は父だけど、洗い物はすべて私が引き受け、洗濯物も洗濯するのは父だけど、洗濯物を畳むのは私がやっています。まあこれくらいしかアルバイトに出かけているので、やる時間がないんですけどね。

 

 

5階に行ってから看護師と喧嘩する事はなくなったのですが、母の暴走は続きます。

 

時間の概念が希薄になっており、私の勤務時間に見舞いに来いと言ったり、神戸から母の友人や親せきが見舞いに来てくれることになったら、見舞いの日まで今日来るんだろう今日来るんだろうと待ち焦がれている気持ちは分からなくはないんだけど、朝の5時にバス停まで迎えに行けとか訳の分からない電話をしてくる始末。

おととい、とりあえず大きなイベントの一つであった神戸からのお見舞いも終わりようやく落ち着いてきたので、こうやってブログが書けるようになりました。

 

正直、疲れました。

 

今も疲れ果てています。

 

まあ、今日は久しぶりに母のもとに見舞いには行く予定です。

買い物も頼まれていますので。

 

さあ、何を買って持って行ってやろうかな。

 

大好きなイチゴ大福がいいか。

 

大好きな芋納豆か芋けんぴがいいか。

 

久しぶりにエビせんべいでも買って行ってやろうか。

 

悩むところです。

 

ちなみに兄も今は香川県内で勤めているので、週に1回くらい様子を見に行ってくれているみたいです。

 

なにはともあれようやく落ち着いてくれました。

入院して今日で丁度15日。

入院期間は1カ月と聞いていたので、丁度折り返し地点に来た感じでしょうか。

 

昨日は私がアルバイトに勤めている間に外出許可をもらった母が久しぶりに家に帰り、かわいがっていたセキセイインコと再会しました。

 

私はセキセイインコの知能を低く見積もっていたのでちょっと驚いたのですが、2週間ぶりにあった母に大興奮してもっと触ってくれなでてくれと猛烈に甘えてきたそうです。

よく覚えていたなあと私は感心しました。

 

母は上機嫌で病院に戻ったそうです。

 

セキセイインコは今日も今日とて私の事を敵視ししているので、小屋掃除をしてやると自分の所領を侵略する侵略者から領地を守るため一所懸命に闘いを挑んできます。

なぜか出鱈目な電話番号を言いながら(笑)。

ゼロハチヨンってなんだよそれ、尾道市の市外局番唱えても尾道には誰も知り合いいないんだけど(笑)

私をその鋭いくちばしでガブガブ噛みついてきます。

2週間もお世話してるんだからいい加減覚えてくれよ(笑)。

痛いんだから(笑)。

この辺はカラスと一緒で一度敵認定されるともう関係改善は無理っぽいですね(笑)

 

けど、高齢者にとって環境というものがいかに大きく作用するか今回の件でよくわかりました。

 

70代は大丈夫でも80代になるとそれだけ年と取って言葉悪いですが劣化しているから目に見えない、勘付かないところでダメになっているところが着実に増えているんでしょうね。

 

見た目は若作りしていてもやはり着実に歳は取っているんでしょうね。

 

さあ、これから母に頼まれていた買い物に出かけないと。

入院生活の影響で、時間の概念がかなり希薄なので、買って来いと言ったらすぐに買って行かないと何度も執拗に電話してきますからね。

 

 

 

お役所で障害者雇用枠で採用され、とある出先機関の受付やら何やらかんやらをやっております。

受付で面と向かっての苦情も結構あるにはありますが、それよりも多いのが電話での苦情。

 
その大半は尤もな理由もあるし、まあこちらの落ち度っちゃあ落ち度みたいなもんが大半なんで、真摯に話を聞いて対応はしています。
 
ところが中には苦情をいい事に暴言を吐いてきたり、ストレス発散のはけ口にしたり、マウント取って機嫌よくなりたいだけの文句を言う輩もいるわけで。
 
そういうのは常連でいます。
 
中国ウイルスが蔓延する前はそんな人間がいて厄介でした。
 
最近全然電話してこないんですけど、死んだんかいな?
 
 

ところで、苦情処理の便利な言葉がいくつかあります。

 

相手を肯定する言葉、こちらが折れる言葉などが相手の心情に寄り添う事になるんで、

「さようですか」

「そうですね」

「いたりませんで」

「もうしわけございません」

このあたりの言葉を多用します。

 

「さようですか」は私もよく使います。
しかし、自分のストレス発散にクレームを言っているような人間や、怒った自分に酔っててコントロールできなくなってるようなクレーマーには「作用ですか」ではなく、「佐用ですか」と言ってます。
(佐用郡を知ってるなんて完全に地元ローカルか地理馬鹿しかわかりません。ちなみに佐用郡は兵庫県内にあります。岡山県とは美作市と備前市と隣接してます)

 

しかし、「さようですか」より多用している言葉があります。

 

それが「いたりませんで」

 

これに関してはモンスタークレマー相手になると
「いたりあせんべい」と言ってます。

 

今のところ電話相手には全くバレておりません(笑)
ただし、職場の人達にはまるバレしているので、隣や前の席の人は必死で笑いをこらえてくれています。またあいつふざけてるなと(笑)
何が「いたりあせんべい」やねん(笑)

パスタのせんべいかいな(笑)

何味やねん。オリーブ油風味かいな(笑)

 

ま、そうでもしてないと、お役所仕事やってられない苦情も多いですからね。

 

大半は尤もな理由での苦情ばかりで、こんなおふざけするのは滅多にない事ですけどね。
「佐用ですか」は5年以上働いていてまだ2~3回くらいしか使ってません。

イントネーションはちゃんと佐用郡の佐用にかえて発音しています。
一度だけクレーマーが凶暴で理不尽過ぎたから、「さよですか」と佐用郡の旧呼び名で呼んでいるときもありますけどね。
クレーマー相手にキョドったりしたら増長してつけあがってくるし、一緒になって感情爆発させても労力の無駄なんで、遊ぶしかないんですよ。
その場でストレスも発散できるし、マウント取って向こうは酔いしれてるんだろうけど実はこっちがおちょくってますよっていうのでスッキリできますし。
遊びながらも冷静に努めて言葉上は申し訳なさそうにひたすら恐縮感を盛ってやってますけどね。
こんなところで大学生時代にやってた紙芝居屋のスキルが役に立つとは(笑)
クレーム対応していて一番楽なのが、言いたいことだけ一方的に言い切ってこっちの相槌も聞かないでさっさと電話切ってくれる人。
だけど、この手が実は一番厄介なんで、言いたいことの中に必要な文言が多いほどに全部書き留めて行かないといけないから大変。
聞き逃しも出来ないですからね。
ちなみに私の電話に課の電話が集中するように設定しているんだから録音機能つけてほしいなとお願いしたら、予算がつかない。
私終了。
正直言えば悶着起きないためにもつけてほしいんですがね。
まあ、ない物ねだりしてもしゃあないんで諦めました。
まあ、なんとかやってますけどね(笑)
ちなみにクレーム電話全てに対して相手をおちょくってるわけじゃなく、あくまで理不尽な方向を向いている相手にだけですよ。

 

あまり私のいる部署は感謝される部署じゃなくて怒られてばっかの部署なんで、ストレスたまることは多いですね。腹立つ電話も多いですし。でも貯めないようにしています。

さっきこんな電話あってめっちゃ腹立ちました。

私の声が電話越しだと高校生くらいに聞こえるから舐めた口でも聞いてきたんでしょうかね。

若造が偉そうにのたまってましたよ。居丈高にマウント取ってとか上司や同僚にその場で愚痴ってます。

社会人なんだし、口の利き方くらいちゃんとせられ~と思うんですけどね。

それいっちゃあ、私も相手にいたりあせんべいはないですけど(笑)

前回、甥っ子を接待したお話をしましたが、その同じ日の昼間、チベット料理という看板でネパール料理を提供してくれるお店に行ってきました。

 
今回訪問したネパール料理の店はネパール人が常食している食事だけじゃなくおもてなしの時に食べるハレの食事の様なものも提供してくれるネパール料理としては少しグレードの高いお店でした。
 
ただ、お店自体は住宅街とオフィス街のメインストリートから一本入った横道沿いなので、閑静な住宅街にあるお店と言えるかもしれません。
そんなところに飲食にやってくるお客さん、しかも駐車場がないとなれば、地元の住民か勤め先の人くらいしか利用しません。
あまりに高級路線を突っ走るわけにはいきませんから、基本的には庶民向けの、それでいてハレの食事も取り揃えていますというスタンスで店をやって行くしかありません。
 
開店当初からそんな戦略で商売していたようでした。
 
何せ私は開店当初からこの店に定期的に通ってましたから(笑)
 
私は混雑の時間帯を避けるためいつも客が全く来ない2~4時くらいの時間帯を狙って来店していました。この時間帯に店を開けている飲食店がこの辺にないというのも最大の理由でした。
お店の従業員は結構沢山いました。
10人前後くらいいたように思います。
これだけの従業員を食わせていくのは大変だろうなあと思っていましたが、ランチが1000~2000円台と強気な価格設定で、周りにインド料理の店やスパイス料理の専門店が皆無だったことから泉岳寺や高輪近辺の市場を独占する事に成功したのでしょう。
 
まさかあれから15年くらいもこの店が持つとは思いもしませんでした。
 
基本的に開店当初とあまりメニューも内装も変わっていません。
従業員の方も多分変わってないように感じました。
 
愛想がいいし、長居するお客さんにも文句は言わない。
だから居心地いいから回転率さげて申し訳ないんだけど居座り続けてしまう。
そしてランチを食べ終わった後、酒の1~2杯で5時くらいまで粘られてしまう。
2000円くらいの金しか落とさないで2時から5時過ぎまでねばられるんだから迷惑だったでしょうね。
 
私が体調不良であまり外出できなかった時に無理して外出できる距離のギリギリがこのお店だったのでこんなひどい店の使い方をしてお店には迷惑かけていましたが、黙ってくれていました。
嫌だっただろうなあとは思いますよ(笑)
 
そんなお店でを6年ぶりくらいに訪問。
今回はランチとお酒を頼みました。
それにしてもほんと短期記憶が落ちてますね。
忘れちゃいかんと思って記録していたメモ用紙がどっか行ってしまいました。
なのでお酒の名前もランチの名称も忘れてしまいました。
朝鮮料理と一緒で見た目の色味はあまりよくなく茶色が主体です。
出汁が効いていておいしいという料理ではなく、微妙なスパイスの配合で味付けしているそんな感じでした。
 
焼きめしみたいなのがついてますが、これ自体も味がちゃんとついて単独で食べても問題ないくらいに美味しいんですが、カレーをつけながら食べた方が格段に美味しいです。
 
カレーの中はおそらく羊の肉が入ってました。
 
写真を撮り損ねてしまったんですが、チャンという名前のお酒も注文しています。
それは日本のどぶろくみたいな感じなのですが、どういう発酵のさせ方してるのかわからないんですが、セメダインみたいな香りがしました。
なのですけど意外とこれが癖になって美味しかったんです。
 
写真のお酒は熱燗のお酒。名前を忘れてしまいました。
蒸留した何かの中に稗か黍かわかりませんが、大量の種が入っていて、これがまたいいアクセントになるんです。
こっちも癖になりそうなお酒でした。味は焼酎でしたね。アルコール度数は多分そこそこあったんだろうと思います。20度から30度くらいはあったように感じました。私が飲むときにむせるくらいでしたから。
 
夜に甥っ子との飲食が無ければここで酩酊するまで多分チャンとこのお酒ばかり注文してザルのように飲んでいたんじゃないでしょうか。
 
ちなみに香川県にもネパール料理の店はあります。
10店舗くらい高松駅から瓦町駅周辺の間の繁華街で見かけています。
そのうちの一店舗に先日立ち寄りましたが、私がドはまりしたチャンも置いてました。
この時はバイクで店に立ち寄ったのと携帯忘れちゃったんで写真も撮っていません。
高輪で食べたのと同じようなネパール定食みたいなものを食べて帰りました。
写真が撮れなかったから店の名前も覚えていません。
 
日本料理のような繊細な味わいや見た目とは全く違いますが、ハマったらドはまりする。
そんな感じの料理がネパール料理なのかもしれません。
 
たぶん、また近日中に東京に行く予定があるんでその時にはまた利用するんだろうと思います。
そのくらい私はネパール料理にドはまりしているみたいです(笑)。
 
 
 
 
 
 
 

2024年2月9日から2024年2月11日まで東京に行ってました。

甥っ子夫婦にご馳走したのは2月10日の夜。

私の住んでるマンションから3件隣くらいに紋屋という高級料亭がありました。

本店はこの泉岳寺なのですが、支店が立川にもあります。

平日の晩にハイヤーに乗ってお客さんがやってきてました。

そしてそんなお客さんをおかみさんか女中頭みたいな人がお見送りしていました。

昼間もこんな感じで結構風情があるんですが、

夜だともっと風情があります。

ここだけはこのまま変わらずにいてほしいなと思います。

さて、甥っ子には4年いや3年か?

私の家に住んでもらいました。

家のローンの残債があるんで金をとるのは忍びなかったんですが、家賃は10万。

ただし水道光熱費は私が負担するという条件でした。

甥っ子たちにとって10万の家賃は最初はかなり重荷だったんじゃないかと思います。

歯学部を出て医者の卵にはなったけど、まだ新任だし、甥っ子は最初は博士課程に進んでいたので、勉強の合間に医者のアルバイトをするという感じだったので土日だけしかアルバイトを入れることが出来ません。週8~10日くらいの医者のアルバイトで20万には届かない程度のバイト代は稼ぐことが出来ていたようです。二人合わせて40万行かない程度らしいので生活は出来ていたでしょうが家賃引いたら30万足らずしか残らないので大変だったんじゃないかと思います。

港区高輪は住宅街もあるんですが、基本オフィス街なのでスーパーマーケットもあるにはあるんですが、そんなに安くはありません。物価もやっぱり近郊住宅地なんかに比べると二倍とまではいかないですが、やはりはっきりと高いとわかるくらいの差はあります。

 

だからずっと無理してもらったお礼に最後くらい贅沢させてやろうと思って、それと大事に住んでくれて綺麗に使ってくれていたお礼も兼ねてご馳走しようと思ったのでした。

 

この料亭、私は高輪に住んですぐに一度だけ訪れたことがあります。

料亭だと知らずに行き、単品ばかり頼んでそれがみんなうまかったから調子に乗ってバカバカ居酒屋で頼む調子で頼んで飲んで食ってしまったんで、帰りのお会計で危うくお金が足りなくなって恥かくところでした。たまたま預金をおろしたばっかりでそのおろした金を手に持っていたから救われました。

 

一人で飲み食いして5万超えるなんてのは初めての経験でした。

 

風俗店や女の子つきのお店ならこんな金額での飲み食いはざらですけど、普通に飯だけ食わせてくれるところで5万こえたのは初めてでした(笑)

 

でも高いだけあってめっちゃうまかったんです。

 

しかもその時酔っ払って店のひざ掛け持って帰ってきちゃうし(笑)

後で洗濯して返却に行ったら、あなたの様な律儀なお客様は初めてですと言われて、記念に差し上げますと言われてしまった事もこの店を気に入った要因の一つでした。

結局は今回と前回のまだ2回しか利用していないけど、前回5万。今回6万使っています。

まあそれだけの金を払っても満足できるだけのお店ではありましたね。

 

そんな高級料亭で、半沢直樹の話から始まってしまったことから私の幼少期の恐るべき100倍返しの話を延々と甥っ子と甥っ子のお嫁さんに調子に乗ってしてしまいました。

真ん中の甥っ子には子供の頃話して聞かせてましたが、一番上の甥っ子に話すは初めてだったんで、驚くやら笑い転げるやらで楽しんでくれたんでまあ恥をかいたかいはあったんかもしれません。

 

やっとずっと兄が結婚して子供を作ってくれてからやりたかったこと。

甥っ子(たち全員とはできませんでしたが)だけとサシで酒を酌み交わすという夢も実現できたし、私も満足できました。

 

二歳か三歳の頃に私が兄の家から帰ろうとすると泣いて引き留めてくれるほど私を好きでいてくれた甥っ子がこうやって大人の飲食が出来るくらいの年齢に気付いたらなってるなんてなんだか感慨深いものがありました。

 

私は結婚の絶妙のタイミングで交通事故に遭って障害者に転落したから当時付き合っていた女性と縁を切り、以降は付き合いらしい付き合いはしていません。まあ仮に結婚していたとしても多分子供は作ってないでしょう。痣がうつるリスクがありますからね。

 

 

食事もおいしかったのですが、甥っ子たち夫婦が聞き上手だったから一人で話し込んでしまって、お店の閉店時間も忘れて話に夢中になり、結局、しびれを切らしたお店の方がお会計に個室まで来てくれました。

 

そこでお会計の為に万札を無意識で一枚づつ出しては渡してを繰り返していたら甥っ子夫婦たちの目が点になってました。甥っ子たちは5000円か行っても1万円くらいだろうと思っていたのですが、私が頼んだのはこのお店で2番目にグレードの高い1万7千円のコース料理でした。

 

しかも甥っ子たちは結構遠慮なくお酒の方も頼んでくれていたので結構そっちのお金もかかり、トータルではかぎりなく7万円に近い6万円台のお支払いとなりました。

 

そして会計終わったところで、「げんさんご馳走様」と二人が言ってくれたのですが、その言葉を聞いた時にぐるぐるナインティ―ナインのごちになりますという番組を思い出して笑ってしまいました。あの作品同様に、おみや、つまりお土産も持たせて帰らせたので、ある意味番組通りの仕様になってかぶってしまいました。

 

今では甥っ子の方がわたしの10倍は給料もらってるんですが、それでも叔父と甥の関係は変わりません。

 

やっぱりいくら稼いでいようが、甥っ子は甥っ子叔父さんは叔父さんです。

甥っ子におごってもらうのはやっぱり抵抗があります。

叔父さんとして見栄を張りたくなっちゃうもんです(笑)

 

甥っ子のお嫁さんも結構お酒いける口で結構がっつり飲んでくれていました。

 

酒を注がれる前に中身を空にしないといけませんからどうしても飲むピッチが乱高下します。

これが飲みなれていない人には良くないんです。それが原因で悪酔いしちゃうんです。

だから、相手とよっぽど気心が知れていて飲むペースがわかってない限り、私から酒を注ぐことはありません。

 

甥っ子も甥っ子のお嫁さんも綺麗な酒の飲み方をするんで、その点はいい大人になったなとしみじみ感じました。

 

にしてもこの甥っ子のお嫁さん、兄嫁と見た目と性格がよく似ていて、やっぱり母親に似た人を嫁にもらうってのはホントなんだなあと思いました。

 

そういえば一緒に食事に行った記念にと後日こんな写真を送ってきてくれました。

ほんと兄の子たちはみんないい子に育ってくれました。

兄と兄嫁の育て方が良かったんでしょう。

 

かれらにとっちゃあ、こんな写真の加工なんて片手間でシャシャっと出来てしまうんでしょうが機械音痴叔父さんの私にとっては感動モノでした。

 

私も6年ぶりくらいに合う甥っ子に嬉しくてたまらず、そんな表情がこの写真からも見て取れました。

 

ここの料亭で口コミで一番評判に上がっていたのが、のどぐろ料理でした。

これが本当においしかったです。

しかもこれがあるのかないのかでコース料理の値段が5千円違ってきます。

焼きでは塩味は程よい加減の薄味に仕立ててくれていましたが、煮魚ではかなり濃い目の味付けにしてありました。

身の味自体は淡白でした。

骨は非常にとりやすく身はほぐしやすかったですね。

 

コース料理の写真をここに並べて置いておきます。

こういうコース料理だと美味しいものもあれば、そうでないものもあるのが一般的なのですが、流石に1万7千円もするコース料理だから、はずれがひとつもありませんでした。

これが何と言っても素晴らしかったですね。

 

写真の向きが調整できなくてすみません。

全部でこれだけ出ました。

今度また東京で暮らすようなことになったらその時に両親が元気だったら両親を呼んで食わせてやりたいなあと思いましたね。


ちなみにこの料亭での食事の前、昼食はネパール料理の店で食べました。

ネパール料理の話についてはまた後日書くこともあるかもしれません。

 

 

先日、久しぶりに甥っ子夫婦と会いました。
甥っ子夫婦に家を貸していて、この3月で新居といっても甥っ子のお嫁さんのお兄さんのおうちに引っ越すことになります。
子どもを作る気が無ければ通勤するには私の家が最強最適な立地なんですが、子作りするとなると家が手狭なのでそれで海外で事業をされていて空き家にして遊ばせている甥っ子のお嫁さんのお兄さんのおうちに引っ越すことになりました。
私は家のローンが残っていたんでしっかり家賃を頂いてましたが、お兄さんの方は家のローンは完済済みなのでどうやらただで家を貸してくれるようなのです。
 
港区高輪(泉岳寺駅、高輪ゲートウェイ駅直近)で2K家賃10万水道光熱費込みから
今度は杉並区浜田山(浜田山駅もしくは西永福駅)で家賃ただで光熱費だけ払えばいい状態に変わります。
甥っ子はある意味家に恵まれています(笑)
 
浜田山は閑静な住宅街ですし、お兄さんのおうちも5LDKでお庭もついているから、まあ子育てには最高な立地と言えるでしょうね。ただ通勤はハードになるでしょうけど(笑)
 
甥っ子たちは私の貸している家の近所にある料亭でご飯を食べたことがないと言っていたので、私も奮発して1万7千円のコース料理を2人に振舞い、結婚3周年のお祝いと今迄住んでくれたことへの感謝を込めて接待をしました。
 
ちなみに私の高輪の家の近所は実はけっこうグルメなんです。
 
このお話は別の機会でまた詳細を述べます。
 
今回はその料亭に行った時に高級料亭に来るには似つかわしくない恰好で集団で来客していたお客さんと私と甥がたまたますれ違った事をきっかけとした話です。
 
集団のお客さんは作業着姿で料亭で食事をされ、お会計をされていました。
私と甥は丁度そこに来店して係の人から案内を受けるところでした。
店内が薄暗かったのもあるんですが、会計された職人さんたちは話に夢中で私達に気付かないでぶつかってしまったんですが、話に夢中だったから謝りもしないでそのまま店を後にしました。
 
甥っ子はこんなお店なのにあんな格好のお客さんも来るんだねと言ってましたが、今時ドレスコードがあるような店の方が珍しいんじゃないかなあ。まあ夜にあんなタイプのお客さんが集団で来店されるのは珍しいとは思うけど、時期が時期だから歓送迎会だったかもねと話したんです。
 
お酒も入っていたからほんとに気づかなかったんでしょう。
 
甥っ子も私もびっくりはしましたが、こういう格好の人達も入れるほどに敷居が低くて利用しやすいお店なんだなと思っただけでした。

ただ私たちの後に遅れて入ってきた別の予約客は
場違いなところに下品な人達ね。
ぶつかっておいて謝りもしないなんて
やっぱりあんな格好だからかしら
と私たちの代わりに立腹されていました。
 
私の親は団体職員の事務をしていたけど、その団体が特殊な仕事だったので、親の職場見学を幼稚園や小学生中学生の時にやった時にいろんなものが見れて楽しかったです。
幼稚園の時が特に強烈で、その時父は屠場に団体の出先機関がありそこで事務をしていました。
だから屠殺する現場を屠場の職員にお願いして見学させてもらえました。
手際よく屠殺される家畜、そして殺されて直ぐに解体され血抜きされブロックに代わる家畜を見ていて、人間の職人芸を見た感じです。
それと同時にこれだけ人の手間がかかって肉が作られているのを見て食べ物を粗末にしたり残したりしたら駄目だなというのが子供心に痛切に感じました。
勿体ないという意味やご馳走様の意味を5歳の時に見る体験でわかったような気がしましたね。
それからは多分外食で給食も含めてですがお残しをしたことはないはずです。
お残ししそうになったら紙のナプキンにくるんで持ち帰れるものだけお残ししてそれ以外のものは意地になって完食していましたからね。

 小学生と中学生の時に父の勤め先がかなり広い敷地を有していて大勢の人を集める施設も有していたことから、父の側から学校や子供会に社会科見学や職場見学を申し入れ学校側や子供会も快諾して代用魚の養殖(鯛とよく味が似ているティラピアの養殖)やハト麦、桃、品種改良した鶏、品種改良中のコメの生産などを見せて回ってくれたり、収穫時期に合わせて収穫体験などをさせてもらいました。私は父の実家の手伝いなどをしていたから収穫体験ですら農業は嫌でやりたくなかったんですが、そんな経験をほとんどしていてない大半の子供たちはみんな喜んで体験していました。ティラピアの摑み取り体験は今も語り草になっていて、そのイベントを計画して子供たちと一緒になってティラピアの捕まえ方のコツを教えて回った父は知り合いたちの記憶の片鱗に残っています。何かあればその時の話が持ち上がり、父の名前が出てくるほどですからね。
 
それと工作機械や農業機械などに同乗させて工作機械や農業機械を運転して載せてあげたことなどもかなり強烈に記憶として残っているようです。この時の体験や経験がきっかけで工作車両メーカーに就職したという友人もいて私だけじゃなく多くの子供に強い影響を与えてくれました。
 
父は事務屋だからそっち関係の事務仕事はしてるんだろうけど、研究開発の事は技術職の人がしているのに結構子供達にもわかりやすいように色々と説明質問も全部受けて丁寧によどみなく答えていたから、技術職でもないのに凄いなあと感じました。また工作機械や農業機械をとっかえひっかえ運転して子供たちを接待する父にも驚きました。父は職人じゃないのに何でこんなもんまで乗れるんだとホントに驚きました。
 
そして父の勤め先では技術職の人を教育訓練する施設もあったので、訓練生の中から父が引き抜いて学校見学の際の案内役に連れて回り彼らも父同様によどみなく答えてくれました。
子ども相手でも子供に対してではなく大人同様に丁寧にかといって難しい言葉ではなく子供でも分かるような言葉でいろんなことをこまごまと説明してくれわからないところはビデオ映像なども多分あの訓練生の人達が自作したんでしょうけど、お手製のビデオ映像で説明してくれました。
 
親や祖父は農家じゃないのに耕作放棄地を買って農業をやり始めた同級生がいたんですが、そのきっかけはこの時の社会見学だったというのを聞いてすごいなあたった一日の体験が人生を変えてしまうとはと驚いたものでした。
 
だから作業服着ている人への抵抗感は全くなかったですね。
それより格好いいなあと思ったくらいでした。
ちなみに屠場でも講習所でも父はスーツ姿じゃなく作業着で事務仕事していたので父に対しては事務屋のイメージよりも職人のイメージの方が子供の頃は強かったですね。
 
 
 スーツ姿で勤務していた父が職場で大げんかして帰ってきたことがありました。
スーツも破けていて片方袖が安全ピンでとめられている状態になっていたし、相当にやりあったのは傍目に見ても感じました。
 
労働組合の組合事業ばかりをする同僚がいて本業の方をおろそかにするばかりか、お前たちの代わりに俺が組合事業をやってやってるんだから、本業で俺の分の仕事を肩代わりするのがお前たちの仕事だろうみたいなことをいってそれが父の逆鱗にふれて喧嘩になったそうです。
 
組合の仕事は勤務時間前に早出してやるなり、昼休みにやるなり、勤務時間後に夜残ってやればいいだろうというのが父の考えでした。
職場には仕事をしに来ているんだ。
組合の仕事は付属品あるいはボランティアだろ。
仕事優先するのが筋じゃないかという父の話は子供ながらに尤もな事だと思いました。
 
こんな事を目にしてスーツ着てやる仕事の方がなんだかしょうもないなと子供心に感じ、だから社会人になった後で障害者に転落するまではずっと私もブルーワーカーな仕事ばかりしていました。
 
極力事務仕事をしないように逃げ回っていましたから、子供の頃のこの一件がかなり根深く私の心に突き刺さっていたのかもしれません。
 
だから福祉施設で採用人事や就労斡旋などの業務を任されるようになった時、本気で抵抗しましたが、結局は押し付けられてやる羽目になりました。まあ最初は嫌でしたがやっているうちに楽しくなって夢中にはなったんですけどね。

その後障害者に転落して立ち仕事が出来なくなってしまったために止む無くホワイトカラーの仕事をせざるを得なくなり、慌てて数年使ってホワイトカラーでやって行くために必要な最低限の資格やスキルを各種学校に通って手に入れそれで再就職しました。

なので今でも本音は事務職は嫌い。ブルーワーカーの方が好きですね。
ただ肉体労働が障害者に転落して出来なくなってしまったんで、事務職するしかなくなったという感じです。
 
 

 

 

不法滞在者が100万円を埼玉県に寄付して知事は不法滞在者に感謝状を贈りました。

 

難民申請中らしいけど今現在は不法滞在者が日本で事業を起こし、それで得た金かどうかは分からないけど100万の金を捻出して寄付金送って感謝状を知事が渡すってそれって入管の仕事を否定していることにならないんかな。

 

自分の身分が不安定な人が100万もの大金をまともな金で捻出したのかどうかも気になるところ。

 

 

クルド人に対する日本人の目が警戒しているまさにその渦中にタイミングよく露骨に寄付をするというあたりも実に気持ちが悪いです。

 

個人的には寄付金の受け取りを拒否し、寄付した人間の身分が確定するまでは保留にしておくべきだったんじゃないかと思うんですけどね。

 

それと解体業を行っているとあったけど、解体業って確か許認可があったはず。

死角も必須要件だし、誰でもできる商売じゃない。

にも拘わらず不法滞在者が解体業を運営で来ていたというのはどうしてなんだろうかという疑問も感じました。

 

 

昨今の移民の増長目に余るものがあります。少額の寄付をすることで何を要求してくるのかわかりません。

薄気味悪くて仕方ないですね。

 

まあ、私が移民、特に発展途上国と新興国の移民を忌み嫌うのは私の経験からくるもので、多分他の人でも私のような経験をしていたら発展途上国や新興国の移民に対して穿ってみるようになるでしょう。

 

ファーストコンタクトは幼稚園の頃、当時は東京都江東区大島というところに暮らしていました。

そこの在日朝鮮人の不良グループに乗っていた自転車を奪われ、ごみ箱に捨てられてしまいました。

私は当時幼稚園児でしたが、成長が早かったので小学校中学年くらいの身長がありました。

なので小学校3~4年生くらいに見えるのにコロ付き自転車に乗っていてこいつどんくせえ、馬鹿じゃねえのと勝手に因縁吹っかけられてゴミ捨て場に捨てられました。

彼らがこの辺界隈で評判の不良グループの名称を名乗っていました。

日本人の不良グループは自分達より年齢が幼いものを相手に意地悪やカツアゲなんてことはしませんでしたが、在日支那朝鮮人の子弟はその辺の抵抗はないので、平気で自分達よりも弱い相手を虐めたりカツアゲしたりしていました。

私も金銭を要求されたのですがほんとに金なんてもってなかったので、ないといったのに、あちこちまさぐられて、ほんとに金がない事を確認した後で嫌がらせに自転車をゴミ捨て場の中に投げ込まれてしまったのでした。

ごゴミ捨て場にはカギがかかっているから中に入れないし、高いフェンスが障壁になっていてよじ登るのも幼稚園の私では無理でした。

 

この後幼稚園を卒園し小学校入学と同時に大阪に引越ししました。

 

大阪では標準語しかしゃべれなかったために言葉遣いが生意気だと在日朝鮮人が主導して女の子ばかりで2~30人くらい集めて私を集団暴行し、文字通り身ぐるみはがしてスッポンポンにされ、ポケットの中身やランドセルの中身をぶちまけられました。家の鍵も財布も持っていなかったから金銭的な被害は蒙りませんでしたが、何もない事が彼女たちをより逆上させ、夕方6時くらいまで自宅前に待ち伏せされて家に帰りたくても変えれませんでした。

 

 

同じ小学校1年生の時に朝鮮人の子供と喧嘩をして私がその場は勝ちましたが、翌日私が学校から帰ろうとすると「滝山はお前か」と言われ、そうだというと路地裏に連れ込まれて老若男女20人以上くらいからまた集団暴行を受けポケットに手を突っ込まれて中身を確認するためにまさぐられ、ランドセルは取り上げられて中身を全部ぶちまけられて金目のものがないか確認していました。

 

子供の喧嘩に親が出るというのは日本人の子供同士の喧嘩では恥ですから、絶対にしませんが、朝鮮人や支那人にそんな習慣はありませんから子供の喧嘩に一族郎党が参加して子ども相手にも容赦なく暴力を集団でふるい略奪をしようとしましたが、略奪できる物品を持ち合わせていなかったために物は取り上げられませんでした。

 

大岡山に引っ越した時にはフィリピーナの母親を持ち、母子家庭で暮らす友人がいました。

このフィリピーナの母親が育児放棄をしていただけじゃなく、自分の生活費を稼ぐため自宅で売春をしていました。

自分の息子が友達を家に誘っているその横で壁一枚隔てた向こう側で平気で売春をしているフィリピーナの母親。

子供ながらになんて母親だと思いましたね。

しかも子供の方はその生活に慣れているから、睦言が途絶えて間が出来たそのタイミングで氷や水やウイスキーを準備し、母親と客の下へおつまみもって接待しに行ってました。

 

ほんと絶句しましたね。

 

私が東南アジアの事を盗難アジアと書いて侮蔑するのはこの時の子供の時の体験からも来ています。

 

このフィリピーナには5人の子供がいて全員父親が違います。

そして5人の息子の長男がクラスメイトで弟妹を食わせるために仕方なく万引きや畑泥棒をして暮らしていたのでした。

 

農業祭というお祭りがあり、それに彼と一緒に出掛けた時、オスの鶏のひなを無料で配っていました。

 

私は一羽もらって家に連れて帰りましたが、彼は大量にもらって帰っていました。

オスだから卵産まないよ。

と伝えたら、

知ってるよ。1カ月経つか経たないかで結構大きく育つからそしたら弟妹に潰して食わせてやるんだと言って、余っている鶏全部もらって帰っていきました。

 

1980年代の日本で小学生が生活のために鶏をもらって自分で屠殺して食べる・・・・

まず、そんな子供いませんよ。

でも、クラスメイトはそんな異状な子供だったのです。

 

それから時は過ぎて大学生時代、いろんなアルバイトでラテン、中東、盗難アジア、支那朝鮮の外国人と仕事で組むことがありましたが、彼らの適当さはすさまじく、これなら仕事させないで、まずは日本語教育から進めて行かないとどうにもならないゴミ集めになってしまうと感じました。

 

社会人になって警備員と福祉業界を掛け持ちしていた時、ラテンアメリカの万引き少女を捕まえました。

ところが彼女は抵抗して手にしたサバイバルナイフを腰に当てて突進してきたのです。

警備員として後にも先にもこの時だけでしたが、初めて職場で護身棒を使って応戦し、ナイフを叩き落とした後、首に手をかけてねじ回しの要領で相手の首に全体重をかけてねじり倒しました。

捕まえた後は正直に話してくれて、親の命令で万引きをしていた。親は不法滞在なので捕まったら強制送還されるから子供の私が万引きをしたものを親が仲間内に売って生計を立てていた。親から万引きの仕方、ナイフの使い方も教わった。

子供なら捕まってもお目こぼししてもらえるから自分が万引きするように親から命令されたと。

発展途上国の屑っぷりが露わにされ、怒りを通り越して呆れましたね。

この事件が原因で完全にラテンを見る目が変わりました。

 

このほぼ同時期に警備員として現場仕事をしていた時に現場で発展途上国の作業員が出鱈目な仕事を繰り返して現場でトラブルを多発させるだけじゃなく、手癖の悪さを発揮して現場から銅線やグレッジングを盗んでいくなど結構悪い部分ばかりを目にする機会が日常的になり、益々発展途上国の移民に対する警戒と偏見が固まって定着していきました。

 

全部が全部ゴミだとはいいません。

 

まともな人間もいるんでしょう。

 

だけど目にする人間がほぼゴミばかりだったら・・・

 

10人発展途上国の移民街て、1~2人だけがまともで後は劣りまくっていたら、私は1~2人に残りの人間を導くよりも、1~2人諸共切り捨てる道を選択します。

ゴミのリサイクルに手間やコストかけるよりもゴミの処分の方が手間やコストがかからないなら私は間違いなくそちらの道を選択します。

 

いい加減、移民の受け入れは考えた方がいい様に思います。

二流の国から二流の移民を受け入れて労働力不足に当てるより、自分の国から三流の人間や一度リタイヤした人間を使う方がまだマシです。

例えば前科者や高齢者、障害者を活用して需要が旺盛な労働市場に再教育して(資格が必須の仕事なら資格取得の助成や取得まで時間がかかるようならそれまでの生活費の保証を含めて)彼らを積極的に利用した方がいい様に思います。

 

 

 

まあ咄嗟な感じで割り込んでウインカー出せなくて悪いことしたなあというのはままある話といえばある話なんですが、そういう状況じゃなくても車線変更で割り込んで、はいるときにウインカー出さない人って結構香川県では多いんですよ。

香川県では車線変更でウインカーを出してくるドライバーは自分が運転している感覚だと3分の1程度しかいません。

 

だからウインカー出して割り込まれた場合は珍しい事もあいまって、かなり強引な割込みでもかっとなることは少ないです。

余裕があって割り込まれてもウインカー出さないで割り込まれたら結構むかっとくることがしょっちゅうあります。

香川県の人がオカシイのは住宅街道路のような狭い通りで追い越しをかけてくるところ。

 

朝や夕方の通勤通学ラッシュで慌てていきたいかえりたい気持ちはわからんでもないけど、そんなところでウインカー無しで強引に追い越されたら相手にキレてくれと言ってるのと一緒ですよね。

私はだから香川県に戻ってから前見て運転するよりミラー見て後ろの車の動きに重きを置くように運転スタイルが変わりました。

そんなにガンガンスピード出して走ってるわけじゃなく自分のリズムで走れないから強引に抜きまくってるそんな感じの運転するのが香川県には多いです。

だから抜いた後で結局そんなに飛ばしていないどころか抜いた私に追いつかれているんです。

信号待ちとか交差点で確認のために停車していてとかじゃなくてですよ。

何がしたかったん?こいつ?
みたいなのがほんと多いです。

 

まあ、四国で香川県は特に何でしょうけど、気候が温暖で快適に過ごせる場所が多いですから、水不足なのを除けばほんと過ごしやすい場所なんですよ。そういう気候や環境が影響しているのか恐るべきマイペースな人が多いのも事実。

今はほとんどの人が鬼籍に入ったからかけるけど、実家の周辺を流れる用水路の掃除を何十年か前に朝の6時からするという事になったんです。6時の10分前に準備して出かけたら掃除終わってました。

そして

「なんで掃除しに来なかったん」

って怒られてしまいました。

 

いやいやちゃうでしょ?

 

「なんでこんな時間にもう掃除終わってんの?」

でしょ?

 

自分らで次巻決めておきながら年寄りでせっかちなのが多いから勝手にみんな時間前に集まって始めてしまい、そして集合時間には掃除が終わっていたというお話。

じゃあ集合時間なんか決めずに早起きして勝手に集まって掃除しましょでよかったんじゃないのと思いました。

 

まあ、一事が万事、こんな感じでマイペースな人が多いから車運転してるとカリカリする事はしょっちゅうですね。

 

だから、ドライブに出かけようという気分になかなかなれないんですよ。

まあちょっとした山の中に入ればもう車を見かけることも極端に減るんで、そうなれば好きに運転できますからやっとドライブを楽しめるっちゃあ楽しめるんですけどね。

そこまで行くまでの数十分がゲンナリするんで、それでどうしてもドライブが遠のいてしまうんですよね(笑)

 

今は糞寒いのでバイクでお出かけしたくないというのが一番の原因ですけど(笑)

 

1月に入ってからは特にこの週は非常に寒い日が続き、通勤するのもおっくうで有給つかってさぼりたいなという誘惑に駆られてしまいます(笑)

寒いからさぼりたいって雨が降ったらお休みでの南の島のハメハメハ大王かよ(笑)(ネタが古くてすみません)

2024年1月20日、いつものリハビリプールに通った後、毎年見学している年初の恒例行事と化した伝統工芸展見物に出かけました。リハビリプールから伝統工芸展に向かっている最中から雨が降り出しましたが、分厚い防寒着を着ていたので土砂降りの雨でない限りはカッパを着る必要がないんで、カッパ着ないで伝統工芸展まで出かけました。

 

 

公営の博物館や美術館に障害者手帳もっていって提示すると概ね半額なり無料なり、お安く入館して見物できるのですが、香川県と高松市が運営しているようなところだと、基本、障害者手帳を提示すると無料になります。県営プールは何故か半額の料金を払わされますが、それでもただ障害者というだけで別格な扱いです。

 

有難い限りですけどね。

 

会場に入ると毎年この展示会はそうなんですが、写真の通りで撮影がほぼほぼOKなんです。

撮影しちゃダメよという作品もありますが全体の1割あるかないか程度でした。

そんでもって好きなだけ写真撮ってきました。

こんな感じで漆芸ありの着物ありのガラス細工ありの人形ありの陶芸ありのなんでもござれな感じでしたが、展示作品の中で一番多く展示されていたのは多分漆芸作品だったと思います。

次に多かったのは陶芸作品だと思います。

とにかくいい目の保養になりました。

 

帰りに写真のパンフレットよりも詳しい有料のパンプレットでも買おうかなと思ったら、こんな面白い本がありました。

子供向けに書かれていている伝統工芸についての解説ブックでした。

これ見て、見物前にこの本買って読んでおけば下知識がついて余計に面白かったのになあとちょっと後悔しました。