新・ユートピア数歩手前からの便り -60ページ目

思耕錯誤(9)

垂直的疑念を私は未だ説得的に表現することができない。多くの人にとって、それは不要不急のどうでもいいものだろう。「決してそうではない!」と私は叫びたいのだが、その思いは言葉にならない。それでも敢えて言葉を絞り出そうとすれば、「垂直の次元から差し込んでくる大義」という殆ど死語に近い言葉が喉に絡まってくる。今時、「大義」」なんて陳腐な言葉を口にすれば嗤われるだけだ。殊に若者には唐人の寝言に等しきものでしかない。歌舞伎町一のホストを目指している若者に向かって「ホストになることに大義はあるか」などと言う勇気は私にはない。そこで窮余の一策として長い引用に頼ることにする。それは一七九〇年代ドイツにおける自由主義とロマン主義の関係についての引用だ。その微妙な差異から垂直的疑念の言葉を紡ぎ出したい。

「自由主義とロマン主義は、多くの類似性を基礎に持っているので、一七九〇年代には殆ど区別がつかないように見える。その類似性は、実際、両者に広く浸透しており、研究者たちの中には初期ロマン主義者たちを自由主義者に他ならないと見る者もいる。若きロマン主義者たちは、自由主義者と同様に、古い家父長主義に激しく敵対した。彼らもまた、君主の権力の制限を要求したし、一人ひとりの個人こそ自分たち自身の福祉、宗教、道徳の最良の判定者であると主張した。また若きロマン主義者たちは、出版の自由、人権、宗教的寛容、機会の平等といった自由主義の根本理念の幾つかについては確信に満ちた擁護者であった。更に、初期ロマン主義には強い個人主義の傾向があった。それは、個人には、時代遅れになった慣習や時代の抑圧的な法を無視してでも、自分たちが満足できるように考え行動する絶対的な権利があることを強調するものであった。若きロマン主義者たちが、解放された個人主義者の思想と生活様式に言及するために、自由(リベラル)という言葉を実にしばしば用いている様は、全くもって印象的でさえある。

だが、自由主義者と若きロマン主義者たちとの間には、或る重要な相違があった――その相違は、並大抵のものではなく、ロマン主義者たちを全く別の思想グループに属すると見做すべきだと思えるほどであった。第一に、初期ロマン主義には、その個人主義にもかかわらず、強い共同体主義的要素、すなわち個人は共同体の部分であるべきだという確信があった。若きロマン主義者たちによれば、社会は、それを構成する個人の総計に還元されるべきものではなく、社会それ自体の目的、すなわち全ての個人が貢献すべき共通の目的と理念を持つものであった。彼らは、共同体の理念を古典古代の都市国家や中世のキリスト教社会から引き出した。彼らは、自由主義者とは違って、それらの過去の時代の社会における個人の自由の欠如について危惧の念を抱かなかった。集団に帰属することの心地よさ、連帯の喜び、そして共同体の安全は、個人の孤立、孤独、無力さよりも常に優っていた。ロマン主義のこの共同体主義的側面は実際強固なものであり、ついにはロマン主義者の初期の個人主義を圧倒してしまい、古い家父長主義国家との和解の方向に導いていったほどだ。第二に、初期ロマン主義には、自由主義においては決して見出されないアナーキズムの要素がある。若きロマン主義者の考えによれば、全ての人が全体に対して自発的に奉仕し全体はその全ての成員のために供するという完全な共同体においては、国家が存在する必要はなかった。一七九〇年代の自由主義者たちは、統治権力に対する嫌悪にもかかわらず、誰もそのような極論には向かわなかった。彼らは、国家は自由の固有の領域を守るために必要である、と常に主張していた。」(フレデリック・C・バイザー『啓蒙・革命・ロマン主義:近代ドイツ政治思想の起源 1790-1800』)

思耕錯誤(8)

殆ど誰にも読まれていないので気にすることもないが、若者たちの「自分の好きなこと」がマスコミに操られているとしたのは言い過ぎであった。例えば、大谷翔平選手の大活躍が日々報じられて、一人の少年が「野球好き」になる。自分も将来大谷選手のようになりたいと思う。また、病気などで苦しむ人たちを献身的に救おうとする医師を描いたドラマやドキュメンタリーに感動して、自分も医学の道に進みたいと思う。他にも、社会的弱者のために戦う弁護士、退屈な日常から束の間解放してくれるお笑い芸人など、マスコミは次々とヒーローを生み出している。そうしたマスコミの影響によって自分の「この道」が決まったとしても、それ自体は全く問題ない。大富豪の華麗な生活をマスコミが流して、それに憧れて自分も大金持になりたいと思ってもいい。それぞれの「この道」がどのような影響によって決まろうと、それは別に大した問題ではない。なりたいものになればいいのだ。一人の若者がホストとしてテッペンとることが自分の「この道」だと思うなら、そうすればいい。それを不道徳だとか何とか言っても意味がない。それぞれが好きなように生きればいいのだ。ここに至って前日の振り出しに戻るわけだが、私はそこに水平の次元における幸福主義を見出す。他人の目には下らないものと映っても構わない。自分のなりたいものになる。人生の幸福はそれに尽きる。従って、水平の次元の課題は「自分のなりたいものになる」ことを妨げるものの除去、すなわち身分制などの古き制度の撤廃、ということになる。この四月から始まった朝ドラの中で、女性は穢れた存在だから造り酒屋の蔵元にはなれないという場面があったが、そうした理不尽な因習は改善していくべきだろう。性別を問わず、人種を問わず、全ての人が自分の才能に応じてなりたいものになる――そこに水平の次元の幸福がある。しかしながら、人生の理想はそうした幸福主義に尽きるものであろうか。それを垂直的疑念と称するならば、私の思耕の原点はそこに見出される。

思耕錯誤(7)

「それぞれが好きなように生きればいい」とは私も思っている。しかし、「好きなように生きる」とは何か。最近の若者たちの多くはそれぞれ好きなように生きていると胸を張るかもしれないが、私には奴隷のようにしか見えない。マスコミによって作られる流行に踊らされているだけの奴隷だ。「そうじゃない!全ては自分の意志だ」と一片の迷いもなく反論できる若者がどれだけいるか。勿論、若者たちの「カッコイイ!」という思いに嘘はないだろう。それが好きな生き方であるなら、そうすればいい。他人がとやかく口出しすることではない。かく言う私も若い頃、私の生き方を「ダサイ!」と非難する大人たちに「自分の感性を信じたい」と青臭い反論をしたような記憶がある。しかし、当時の私に「自分の感性」などと誇れるものがあっただろうか。私は所詮「傾向性の奴隷」にすぎなかったのではないか。とは言え、大人たちの感性が絶対的な規範であるわけではない。むしろ、大人が大人として君臨する限り、その感性は必然的に古くなる。そして、それに対する若者たちの反抗から新しき感性は生まれる。ただし、新しき感性を「大人はわかってくれない」としても、それだけで大人の古き感性が死に至ることにはならない。新しき感性もやがて古くなる運命を免れないからだ。さすれば、何が私の「本当の感性」なのか。

大人の古き感性に基づく規範に若者は反抗する。そこに新しき感性があると若者は信じる。しかし、新しき感性は新しき規範を生み出せるのか。それが規範である以上、新しき規範もやがて古くなる。若者もやがて大人になり、大人が築いてきた伝統的な規範に依存するようになる。このディレンマを如何にして超克するか。「大人の全体主義に反抗する若者の個人主義」と問題を単純化すれば、個人主義だけでは全体主義に勝つことはできない。個人の自由主義だけでは明らかに力不足だ。一体、何が足りないのか。

思耕錯誤(6)

「偉そうに言うな。民衆を救う?何様のつもりだ!民衆はお前の下らない思耕など必要としない。そんな思耕などなくても民衆は人間として本当に生きている。むしろ、思耕なんか邪魔なだけだ。お前の好きなアリョーシャも、考える前に先ず生を愛すべきだと言っているじゃないか。人間としてとか、本当にとか、そんな風に考えてばかりいるからおかしくなる。お前の生き方は歪んでいる。不自然だ。民衆を見よ。便利さばかり追い求める大衆の生活は文明に汚染されているかもしれないが、自然に即して生きている民衆は素晴らしい!そもそもどんな生き方をしようと、その人の勝手だ。勝手と自由は違うとお前は難癖をつけるかもしれないが、自分の好きな生き方を選べればそれでいいじゃないか。人生に問題があるとすれば、身分とか貧富の差といった実に下らない理由で人の生き方が制限されることだけだ。勿論、生まれつきの能力の差はある。それはどうしようもない。身体能力に劣る者がオリンピック選手になろうとしても無理だ。残念だが諦めるしかない。しかし、自分に与えられた能力に応じて必要とされる生き方を選択する権利は万人に認められなければならない。その権利を侵害する暴力的な制度があるなら、一刻も早く一掃しなければならない。それだけだ。それだけが問題であって、それ以上の問題はない。全て個人の自由にゆだねればいい。人間として本当に生きるなんてことは関係ない。理想とすべき人生などというものはあり得ない。それぞれが好きなように生きればいいのだ。それのどこが悪いのか!」

思耕錯誤(5)

私は世俗の垢にまみれたゲスな男なので、誰からも称賛されるような生き方がしたいと思ってきた。しかし、これといった才能もない私に国民栄誉賞を拝受するような偉業ができる道理もなく、非凡人を気取ったラスコオリニコフ同様、私も結局は民衆から切り離された絶望を味わうことになる。そもそも国民的ヒーロー、更には世界的ヒーローというものは民衆のために自らの命を懸ける存在であろう。僭越ながら、私も自らの非力をも顧みず民衆のために生きたいと思った。善きサマリア人の如く、私も苦しむ民衆を救いたいと願った。しかし所詮、私には民衆の何たるかが理解できなかった。民俗学の書を繙けば、そこに民衆の姿を垣間見ることができる。しかし、現実の私の目に映るものは民衆の堕落態である大衆ばかりであった。私の「大衆抹殺論」は愛すべき民衆を取り戻すための悪足掻きにすぎないが、未だに回復の兆しは見えない。それでも「人間として本当に生きること」の探究を断念したわけではないが、その思耕を深めれば深めるほど、民衆に感謝される道から遠ざかって行く。私の思耕は根源的に道を踏み外しているのだろうか。民衆は私の思耕など余計なお世話だと歯牙にもかけない。当然のことだと思う。民衆はアルカディアに安らぎを見出し、大衆はパラダイスを求めて血眼になる。私の思耕がアルカディアとパラダイスの間にあるうちは良い。私は大衆を批判して民衆のヒーローになることもできたであろう。しかし、ユートピアを思耕するに至って、「人間として本当に生きること」は民衆を追い越していく。民衆の幸福、そこに人間の究極的な理想はあるのか。このように問う私の思耕を一体誰が理解してくれるのか。神のみぞ知る。

思耕錯誤(4)

最近始まったドラマの舞台は女装カフェ・バーであった。下らないコメディだと思いながら観ていたが、それなりに色々と考えさせられた。「どうしてこの店を始めたんですか」と問われたオーナーは「みんなの居場所をつくりたかったから」と答える。みんなの居場所?「みんな」とは「女装を楽しむ男性みんな」ということだろう。率直に言って、私などにはよくわからぬ世界だが、女装することで「本来の自分」になれるという男性もいるに違いない。これはLGBTQ全般についても言えることだ。以前に比べれば人間の多様性が尊重される社会になりつつあるとは言え、現実はLGBTQの人たちにとってまだまだ生きづらいものだと思われる。「フツーの社会」が未だ君臨しているからだ。「フツーの社会」から見れば、LGBTQは「ヘンタイ」にすぎない。かく言う私も「ヘンタイ」とは思っていないが、LGBTQの存在を完全に理解しているわけではない。BLもののドラマで男性同士がキスするシーンに遭遇すると、たといそれが美少年同士の清らかなキスであっても正視に耐え難い思いがする。「フツーではない」と思うからだ。それは私が未だネアンデルタール人だからだろうか。そもそも「フツー」とは何か。かつて日本では国際結婚は「フツー」ではなかったが、今ではかなり「フツー」になっている。やがてLGBTQも「フツー」になっていくだろうか。少なくともLGBTQの人たちはそう願っているに違いない。かつて「フツー」でなかったものが「フツー」になっていく。これは「人間社会の進化」であろうか。LGBTQに限らず、この世界には様々な「フツー」があっていいと思う。様々な「フツー」があるのが「フツー」になるべきだと言ってもいい。便利な生活だけが「フツー」ではない。敢えて不便な生活を選択することも「フツー」になる。しかし、そのように「フツー」をどんどん拡大させていくと、異常がなくなってしまうのではないか。「ナンデモアリ」の世界。我らの狂気を生き延びる道を教えよ。それぞれの「フツー」にそれぞれの居場所が乱立する世界に「本来の居場所」はあり得るのか。唯一の「フツー」が君臨する社会は明らかに時代遅れだが、それを望む保守的な人たちもいるだろう。確固たる「フツー」の君臨は安心で安全な社会秩序をもたらすからだ。しかし、それは常にLGBTQのような「ヘンタイ」を排除する全体主義への危険性を孕んでいる。では、どうすべきか。唯一の「フツー」が君臨する全体主義社会に抗するために、多様な「フツー」が乱立する個人主義社会を求めるべきか。私はそれもどうも違うような気がしてならない。全体主義を真に超克し得るものは個人主義ではないと思うからだ。人間の「本来の居場所」は決して個人主義に閉塞するようなものではない。

思耕錯誤(3)

「考えるな。感じろ!」とはブルース・リーの言葉だが、目の前で苦しんでいる人の痛みを感じれば、思耕より活動が優先されるべきは当然だ。これは結局、以前に「善きサマリア人への疑念」で問題にしたことの繰り返しになるが、私は善きサマリア人の行為そのものを否定するつもりなどはない。むしろ、私も善きサマリア人のように生きたいと常々思っている。では何故、そこに疑念が生じてくるのか。例えば、学校にも家庭にも居場所のない子供たちが「トー横キッズ」になる。この子たちを救う活動としては然るべき施設に収容させることが考えられる。勿論、施設はあくまでも仮のシェルターであって、子供たちの「本来の居場所」ではない。しかし、「本来の居場所」とは何か。それは「どこにあるか」という問いを拒絶する。どこにもないからだ。いや、そんな筈はない。今ある学校や家庭が「クソみたいな場所」であったとしても、それらを「本来の居場所」にすることが喫緊の課題であり、そこに活動の原点があるのではないか。正論だと思う。何も間違っていない。居場所をなくした「トー横キッズ」たちにも目に見える何らかの居場所が必要だ。それがなければ生きていけない。路上やネットカフェが持続的な居場所にならないのは明らかで、キッズたちは早晩風俗業か反社会的集団に居場所を見出していくだろう。裏社会の方が、クソみたいな表社会に比べればまだ居心地がいいのかもしれない。しかし、裏社会だってやはり「クソみたいな場所」であることに変わりはない。正に八方塞がり。どこにも居場所がない!我々はこの絶望から新しく生き始めるしかないのではないか。新しく?それは現実逃避ではないか。新しき場所の創造――そんなロマン主義が何の役に立つ。結局、目に見える世界は「クソみたいな場所」であっても、そこに居場所を何とかして見出していくしかないのではないか。ある筈のない「本来の居場所」についての思耕など時間の無駄。誰もそんなものは必要としていない。果たして、本当にそうか。

思耕錯誤(2)

優等生と不良を対比したが、殆どの人はその中間を生きている。すなわち、フツーの人生だ。可もなく不可もなし。勉強やスポーツで特に目立つことはなく、それでも彼女や彼氏の一人ぐらいはいて、放課後や休日にそれなりに青春を謳歌する。最近のドラマを観ていると、そういうことを「アオハルする」と称するらしいが、これといった特性のないフツーの人生が一番幸せなのかもしれない。殊にいじめ、貧困、病気などで「アオハル」どころではない若者たちにとって、フツーの人生は輝いているだろう。天才的な才能なんかいらない。富や社会的地位や名声など問題ではない。ただフツーに生きられる居場所さえあればいい。それが生きづらさを抱えて日々を過ごしている人たちの切実な本音ではないか。苟も理想社会を問題にする以上、そうした本音を無視することはできない。少なくとも私は様々な理由で居場所を失って彷徨う若者たち、例えば最近「トー横キッズ」と称されている若者たちを問題にしたい。実におこがましいことながら、若者たちに限らず、居場所をなくした人たち全てを救いたいと思っている。しかし、どうすればいいのか。

言うまでもなく、すでに「トー横キッズ」やホームレスの人たちを何とか救済しようと懸命に活動している人たちがいる。その奮闘ぶりをテレビ番組で垣間見ると、私はいつも頭が下がる思いがする。こういう地道な活動を続けている人たちがいることに勇気が湧いてくる。しかし、誤解を恐れずに言えば、違和感もある。それは決して「そんな活動など意味がない」という非難の違和感ではない。活動はある。居場所をなくした人たちにとって必要不可欠な活動はある。しかし、思耕がない。「新しき場」についての思耕がない。どうも上手く表現できないが、そんな違和感が私の内部で渦を巻いている。

思耕錯誤

人間として本当に生きたい、と私は思った。二十歳頃のことだ。それを人生への目覚めと言うならば、かなり遅い目覚めであった。通常はもっと早く、中学生の頃に「こんなクソみたいな人生がオレの人生であってたまるか!」という思いに駆られるだろう。「クソみたいな人生」とは親や教師や世間が立派だとする価値観に即した人生だ。勉強もスポーツもよくできる優等生の人生。才能と親の経済力に恵まれた人は一流の学校を卒業し、一流の職場で働き、一流の家庭を築いて、一流の墓場に葬られる。そんな優等生の人生を「クソみたいな人生」と断じるのは、大抵そこから落ちこぼれたり、弾き出された不良どもに他ならない。幸か不幸か、私はそうした不良にはなれなかったが、さりとて優等生の人生に対する疑念も根強くあった。そこには多分に優等生になれない自分に対する自己嫌悪もあったと思われるが、決してそれに尽きるものではない。確かに、もし可能なら、多くの人は優等生の人生を送りたいと願うに違いない。しかし、それが人間として本当に生きることだろうか。挫折のない、順風満帆の人生など現実にはあり得ないとしても、そこに我々の目指すべき人生の理想があるのだろうか。たとい優等生になれなかった負け犬の遠吠えだと嗤われても、私は優等生の人生を目指す気にはなれない。とは言え、それに反抗する不良の人生も違う。「クソみたいな人生」に対する不良の深い絶望は人間として本当に生きることへの原点にはなり得るが、問題はその原点からの一歩だ。その一歩が踏み出せなければ、不良たちの人生もまた「クソみたいな人生」に吞み込まれる。

不便であることの理想

有朋自遠方來。不亦樂乎。せっかくの遠方からの来客なので、どこにでもあるチェーン店ではつまらないと思い、古民家風の居酒屋に入った。茶室の躙口(にじりぐち)のように狭い玄関で、友人も私も頭をぶつけた。靴を脱いで、農家の土間のようなカウンター席に座って「さて、何を注文しようか」と辺りを見廻してもメニューがない。壁にもどこにも品書はない。やや途方に暮れながら、カウンターの向う側で忙しく立ち振る舞っているおばさんに声をかけると、「今日は筍がおいしいわよ」というような言葉が返ってくる。「じゃあ」ということで、それを注文する。値段はわからない。そんな調子で酒を呑み、料理を口にした。美味しかった。店内の雰囲気も良かった。予想通り、会計は安くなかった。おそらく、こうした明確なメニューもないような店は、店の人と客とのコミュニケーションを通じて、酒と料理を楽しむのであろう。だから、そこで酒と料理を本当に楽しむためにはそれなりの時間とお金を要する。これを不便と感じるか否か。

一般的に言えば、チェーン店の方がはるかに便利であることは間違いない。最近はタブレットで、従業員をわざわざ呼ばなくても自由に簡単に注文できるし、値段も明記してある。現時点での会計も常時確認できる。そこに店と客のコミュニケーションなど基本的に必要ない。すでに一部では導入されているが、今後ロボットなどが全面的に導入されれば、従業員さえも不要になるかもしれない。世の中はどんどん便利になっていく。文字通りのコンビニでは一言も口をきかなくても買い物ができる。確かに、便利な社会はパラダイスに他ならない。しかし、それが我々の望む真の理想社会なのか。

ところで、NHKに「子供たちのための哲学」という短い番組があって、先日のテーマは「便利っていいことなの?」であった。「色々な新しいモノができて便利になった」という子供に対して、「じゃあ、そういうモノがなかった昔の人たちは不幸だったの?」と問いかける。子供は悩みながらも「便利なモノに溢れている現代に生きる自分たちに比べて、昔の人たちは不幸だった」とは言い切れないことに気づく。昔だって幸福な人はいたに違いない。何故か。番組ではそれ以上深く子供に問い詰めることはなかったが、昔の人はモノのない生活を不便だとは感じていなかったからだろう。新しいモノが出現して、初めてそのモノの欠乏が不便を生み出す。では、新しいモノは出現すべきではなかったのか。いや、そんなことはない。新しいモノの出現が人々の生活を便利にし、便利な生活が人々に幸福をもたらしたのは事実だ。しかしその一方で、便利すぎる生活に対する根強い反感があるのも事実だ。そうした反感を抱く人々は新しいモノを拒絶し、敢えて完全なる自給自足という不便な生活を望む。それはアルカディアへの回帰と言ってもいいだろう。そこには確かに一つの理想がある。不便であることの理想だ。便利なパラダイスの理想と不便なアルカディアの理想。現代はそうした二つの理想に引き裂かれている。