新・ユートピア数歩手前からの便り -62ページ目

目に見えるものと見えないもの(3)

「裸の王様」の教訓とは何だろうか。多くの大人たちは目に見えない王様の新衣装を称賛した。それに対して純真な子供は王様の新衣装など見えないと言った。その一言で「王様は裸だ」という真実が明らかになる。それは「目に見えないものは存在しない」という真実でもある。そして、その真実から「目に見えないものを見えると言う(言わざるを得ない)大人の自己欺瞞」が糾弾される。鄙見によれば、その糾弾が一つの教訓を生み出す。「目に見えないものは見えないと正直に言うべきだ」という教訓だ。これは一見すると自明な教訓だが、それを現実社会で貫くことは容易ではない。共同体の組織の中では、往々にして「目に見えないものを見えると言わざるを得ない」状況もしくは「白を黒と言わざるを得ない」状況に直面させられるからだ。そのような状況で、「裸の王様」の教訓を貫いて生きることは並大抵のことではない。殆どの人が「見える」と口裏を合わせる場面で一人「見えない!」と真実を主張する力。あるいは殆どの人が「黒だ」という言う中で一人「白だ!」と叫ぶ勇気。私もそうした力と勇気を持ちたいと常々心掛けているが、それにもかかわらず、「裸の王様」の教訓には疑念も感じている。それは煎じ詰めれば「目に見えないものは存在しない」という真実に対する疑念でもある。王様は確かに裸だ。新衣装は身につけていない。しかし、豪華な新衣装を身につけていれば、王様は王様足り得るのか。言い換えれば、王様の本質は目に見える豪華な新衣装にあるのか。やや論点すり替えの気味がなきにしもあらずだが、「裸の王様」の教訓が「目に見えないものは存在しない」という真実に立脚しているとすれば、王様の本質(王様を王様足らしめるもの)もまた目に見えるものでなければならない。果たして本当にそうか。むしろ、王様の本質は目に見えないものではないか。ここに「目に見えないものは存在しない」という真実と「目に見えないものこそ存在すべきだ」という真理の根源的対立がある。

目に見えるものと見えないもの(2)

垂直的リアリティは目に見えない。それ故、我々は往々にして目に見える水平的リアリティによって判断し、それだけで問題を処理しようとする。例えば、教育の問題。私も遥か昔に教師だったことがある。学習塾や予備校も含めれば、小学生から大学生まで教えたことになる。言うまでもなく、私は良い教師ではなく、殊に生徒の評価にはいつも途方に暮れていた。それぞれの生徒をどう評価すればいいのか、そもそもそんなことが可能なのか、私は思い悩んだ。しかし、いくら思い悩んだところで、教師として生徒に成績をつけざるを得ず、結局テストによって数値化された目に見える部分だけで評価をすることになる。それはあくまでも生徒の部分評価であって、決して総合評価ではない。おそらく、良い教師というものは、生徒の数値化されない目に見えない美質、すなわち垂直的リアリティを見抜く力を持っているだろう。私はそういう教師になりたかった。しかし、垂直的リアリティを見抜く力を身につけるのは容易なことではない。殆どの教師は目に見える生徒の水平的リアリティによる評価に依存することを余儀なくされる。それは数値化されて偏差値となる。それが全てではないことは誰もが知っている。それにもかかわらず、垂直的リアリティは未だ目に見える現実をラディカルに変革する力になり得ていない。それがどうにも歯痒くてたまらない。

目に見えるものと見えないもの

「大切なものは目に見えない」という星の王子様の言葉は真理だと思っている。しかし同時に、「美しい花がある。花の美しさというものはない」という或る高名な批評家の言葉も真実だと思っている。真理と真実、その差異を私は垂直的リアリティと水平的リアリティとして理解している。それは決して優劣の問題ではない。両者共に人生には不可欠のリアリティだ。ただし、次元の違いに伴う問題はある。端的に言えば、私がこれまで問題にしてきたことは主に近代以降における垂直的リアリティの劣化に他ならない。それは世俗化であり、神の死でもあるが、そんな大きな問題ではなくても、日常生活の様々な場面で人間の生き方が問われている。それについて思耕を試みたい。

さて、相変わらずのドラマ中毒に悩まされる毎日だが、あまり得意ではない恋愛ドラマも頑張って観続けている。その大半がドラマ以前の恋愛ごっこにすぎないが、それでもドラマにまで昇華した恋愛の根柢には常に「美の葛藤」、すなわち見た目の美しさと目に見えない美しさの相剋がある。一般的に言えば、性別を問わず、人は見た目の美しさで相手に惚れる。その美しさには数値化できる価値(例えば、資産)も含まれるが、そうした目に見える美に目に見えない美が如何に対抗できるかにドラマの成否がかかっている。問題を単純化すれば、(男性の視点から)「心の貧しい美女か心の豊かな醜女か」というテーマだ(「心の豊かな美女」もしくは「心の貧しい醜女」もいないわけではないが、ここでは無視する)。ドラマの常道からすれば、目に見えない心の美しさよりも目に見える容姿の美しさに魅了され、翻弄されるのが男の性(さが)だが、その価値観のどんでん返しにドラマの真骨頂がある。つまり、心の貧しい美女よりも心の豊かな醜女が最終的には幸福になるという結末だ。しかし、そこに垂直的リアリティが生まれるのは極めて稀だ。率直に言って、凡百のドラマにおける目に見えない美しさが勝利するハッピーエンドに説得力はない。「そんなキレイゴトはドラマの中だけのことだ。現実にはやはり…」というのが本音だろう。こうした本音(自然の情)を粉砕する垂直的リアリティは如何にして生まれるのか。

垂直図書館(10)

垂直図書館とは何か。私の念頭にあるのは、プラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオン、ゲーテの教育州並びにヘッセのカスターリエン、そしてボルヘスのバベルの図書館だ。アカデメイアとリュケイオン以外は全て架空の理想だが、さりとて単なる空想ではない。私はこれまで理想の三態を問題にしてきた。アルカディア、パラダイス、ユートピアだ。アルカディアとパラダイスはこの世界のどこかに実在する(した)理想の「場」であるのに対し、ユートピアはどこにもない理想の「場」だ。その意味ではユートピアが「空想」と訳されても仕方がない。しかし、ユートピアもまたリアルな理想の「場」なのだ。勿論、ユートピアのリアリティはアルカディアやパラダイスのリアリティとは質的に異なっている。後者を水平的リアリティ、前者を垂直的リアリティ、と一応区別することができる。もし水平的リアリティのみをリアリティと認識し、ユートピアに単なる空想しか見ないならば、人生は深みのない、どれもこれも同じような平板なものになってしまうだろう。それが現実の人生だとしても、星の王子様も言うように、大切なものは目に見えないものだ。確かに、目に見えるリアリティには平穏無事な幸福があるかもしれない。反復するパターンに裏打ちされた既製品のような安定があるからだ。たとい浅薄な理想であろうと、いや浅薄な理想であるからこそ、大衆の人生は満たされる。しかし、そんな大衆の幸福を侵食するものが一つだけある。それは倦怠だ。言うまでもなく、日々の生活に追われている不幸な大衆は退屈している暇などないが、だからこそ切実に心身共にのんびりできる時間と空間に飢えている。それがアルカディアでありパラダイスであるが、その幸福を手に入れた喜びも束の間、やがて倦怠の魔が忍び寄ってくる。忙しい平日の不幸はのんびりとできる休日の幸福を求めるが、毎日が休日になったらどうだろう。苦しい平日からの解放としての休日は幸福だが、毎日続く休日は新たな苦しみとなるのではないか。その苦しみを解消させるものが「娯楽の快楽」に他ならない。キルケゴールの言葉を借りれば、大衆は人生を「娯楽の快楽」によって輪作する。実際、「娯楽の快楽」あるが故に、大衆は平凡な日常を幸福に過ごすことができるようになる。アルカディアやパラダイスの理想の根柢には常に「娯楽の快楽」があると言ってもいいだろう。こうした水平的リアリティに基づく大衆の幸福を私は無下に否定するつもりはない。ただ、人間にはそうした大衆の幸福とは次元を異にする生の充実があると思うだけだ。それが垂直的リアリティであり、垂直図書館はその探究の拠点となる。

何れにせよ、人は生きていく。ケダモノのように生きる人もいれば、あくまでも人間らしく生きようとする人もいる。生き方は様々なれど、幸福になりたいという思いに違いはない。結果的に不幸な人生を余儀なくされることはあっても、幸福への意志が失われることはないだろう。問題は「何が人間の幸福か」ということだが、先述したように、殆どの人は水平的リアリティに基づく大衆の幸福を求めていると思われる。すなわち、食うに困らぬ安定した生活を維持して、独身もしくは家族で「娯楽の快楽」を享受することだ。それは基本的に私的な幸福であり、公的なものが求められるとしても、その目的は大衆の私的領域の安定に限られる。例えば、公共図書館は公的なものに違いないが、多くの場合、その目的は今のところ市民に読書その他の私的な「娯楽の快楽」を与えることに尽きてしまっている。そのような図書館を私は「水平図書館」と称しているが、図書館の本来の機能は決して所謂「無料貸本屋」に尽きるものではない。柳与志夫氏は次にように述べている。

「公共図書館の社会的位置づけの変化とは、情報消費の場から知識創造の場への転換を意味している。つまり、一九六〇年代以降の消費社会の成立という大きな社会的文脈に情報や知識の世界も取り込まれる中で、日本の公共図書館も、資料の館外貸出というサービスを「主力製品として販路を拡大する」戦略をとった。これは高度経済成長と自治体予算の拡大を背景に、図書館資料費の大幅な増額や新図書館建設の増加が支えとなった図書館成長戦略として、かなりの成功を収めたと言ってよいだろう。しかし実際には、図書館サービスと言いながらも、本や雑誌、CDというモノを、利用者という消費者に提供してきたのだ。二〇〇〇年代に入って、市場ではモノがあまり売れず、まさにサービスが注目される時代になってきた。情報・知識の世界でも、モノの消費からサービスの創造への転換が強く求められており、知的サービスの創造こそ、公共図書館の新しい役割なのである。」(柳与志夫『知識の経営と図書館』)

鄙見によれば、柳氏の言われる「公共図書館の新しい役割」を更にラディカルに担うものこそ「垂直図書館」に他ならない。私は自分もその一人である大衆の幸福の一部を担う「水平図書館」を否定するつもりはないが、何とかして「垂直図書館」を実現したいと思っている。それがユートピアへの確かな一歩になることを信じて。

間奏曲:大衆の幸福

野暮を承知で書こうと思う。日本国民の大半が野球ファンというわけではないだろうが、今回のWBCでの日本優勝には多くの人が歓喜した。私も最初は全く興味がなかったが、準決勝でメキシコに逆転サヨナラ勝ちしたあたりから気になり始めた。とは言え、かつての野球少年の血はすでに殆ど涸渇しており、決勝のアメリカ戦に熱狂するまでには至らなかった。勿論、勝敗の行方はそれなりに気になり、折に触れて試合の途中経過を確認していたが、そこに熱狂はなかった。本当は熱狂したかったが、私にはもはや水平的な情熱はなかった。それでも最終回の勝利の瞬間には感動した。それは日本人が一体となる瞬間であった。おそらく野球ファンならずとも、多くの日本人が侍ジャパンの選手たちと共に戦っていただろう。その一体感は試合終了後も続く。選手たちの礼儀正しい振る舞いが世界中から称賛されれば、皆我が事のように嬉しく思う。これは何も野球に限ったことではない。オリンピックでも、ラグビーやサッカーのワールドカップにおいても同じような現象はあった。日本中が日本人選手の活躍に熱狂し、そこに日本人としての一体感が生まれる。それは自然発生的なものであり、「統合の象徴」などは必要ない。人々は日本人であることに誇りを感じ、それは味気ない日常を生きる快楽となる。ただ惜しむらくは永続きしないことだ。巷ではすでにWBCロスが囁かれているが、日本人としての一体感ほどの快楽ではなくても、それに準じる快楽はいくらでもある。もうすぐプロ野球が開幕するが、やがて中日ファンの一体感や巨人ファンの一体感という快楽が求められるに違いない。またプロ野球やJリーグなどのスポーツでなくても、推しのアイドルを中心とした一体感の快楽もあるだろう。他にも飲み友達の一体感とか旅仲間の一体感というものもあるだろうが、やはり国民としての一体感という強烈な快楽には敵わない。殆どの人の日常生活は平凡で、ファーストプレイスとセカンドプレイスの往還に終始するものだが、WBCのような時々やって来る大きな快楽があるからこそ、その退屈さに耐えて生きていけると思われる。そこに大衆の幸福の典型がある。そして、幸福な大衆は垂直図書館になど見向きもしない。

さて、私はここで分不相応な上から目線で大衆の幸福を非難するつもりはない。実際、「ウクライナを始めとする世界中には悲惨なことがたくさん起こっているのに、WBCごときのお遊びに熱狂している場合か!」などという非難にどんな意味があるのか。少なくとも私にそんな非難をする資格はない。私もできればWBCに熱狂したいと願った大衆の一人に他ならない。だから、非難はできない。しかし、疑問は常に感じている。確かに、国民としての一体感には強烈な快楽がある。その快楽ゆえに、大衆が無意味な日常に耐えて生きていけるのも事実だ。しかし、その快楽は生に真の充実をもたらすだろうか。WBCのような国際大会での強烈な快楽とは言え、所詮「娯楽の快楽」にすぎない。野暮を承知で言えば、「日本人としての一体感」は「世界全体の一体感」へと発展していかねばならない。無論、そこには常にファシズムの危険性がある。しかし、その危険性を乗り越えて、単なる「娯楽の快楽」以上の「生の充実」を探究していくことに垂直図書館の使命がある。それは決して大衆の幸福を蔑ろにするようなものではない。

垂直図書館(9)

人にはそれぞれの器量に応じて居場所がある。居場所がなければ人は生きていけない。通常、自分に世界を与えてくれた両親の家庭が最初の居場所となる。ファーストプレイスだ。しかし、成長するにつれて自宅だけを居場所としているわけにはいかなくなる。学校に行かねばならないし、卒業すれば職場を持たざるを得ない。それがセカンドプレイスであり、それぞれに自分の居場所を見出していく。やがて結婚し、自分の家庭を持てば、そこが新たなファーストプレイスとなる。人生の基本はファーストプレイスとセカンドプレイスの往還と考えることもできるが、更に「自己を活かす場」としてサードプレイスを求めることもある。しかし、「自己を活かす場」とは何か。ファーストプレイスやセカンドプレイスの生活、すなわち家族との団欒や職場での仕事に「自己を活かす場」を見出す人も少なくないだろう。マイホーム主義者や職人および熱血ビジネスマンだ。その場合には、積極的にサードプレイスを求める必要性が希薄になる。生き甲斐はファーストプレイスとセカンドプレイスだけで事足りるからだ。とは言え、最近は家庭と職場の往還を繰り返すだけの人生に満たされぬ思いを抱いている人も多くなってきた。そうした人たちは家庭や職場とは別の場所、すなわちサードプレイスに「自己を活かす場」を求め始める。しかし、それが単なるカフェとか居酒屋であるならば、家庭や職場を離れて「自分一人で寛げる場所」を求めているにすぎない。尤も、そのような言わば「大人の隠れ家」的な趣味や娯楽の場を「自己を活かす場」とする人もいるだろうが、そのような場所なら何もサードプレイスでなくてもいいだろう。ファーストプレイスの書斎で十分だ。もし人が本当に心からサードプレイスを必要とするならば、つまりファーストプレイスやセカンドプレイス以外に「自己を活かす場」を求めるならば、それは公的領域でなければならない。言い換えれば、「自己を活かす場」が私的領域に見出せるならば、別にわざわざサードプレイスを要請する必要などないのだ。サードプレイスはあくまでも「我」が私的領域を超えて「我である我々・我々である我」として活動する公的領域を切り拓く場であるべきだ。そうした公的領域としてのサードプレイスの一つが図書館に他ならない。

しかし、先述したように、一般的な公共図書館は水平図書館だ。勿論、水平だから駄目だと言いたいのではない。むしろ、水平図書館の充実・普及は当面の課題であり、多くの人がそのサードプレイスを通じて「自己を真に生かす場」を求めてくれることを願っている。しかし、そこは未だ「居場所のない人の居場所」ではない。そもそも「居場所のない人」はファーストプレイスにもセカンドプレイスにも絶望しているのであり、その人がサードプレイスに希望を見出すとすれば、そこは「逃げ場所」になってしまう。人には「逃げ場所」も必要だとは言え、私がここで問題にしたい「場」はそのような場所ではない。それはファーストプレイスにもセカンドプレイスにも居場所を失って絶望している人が「それでも生きてゆく」場だ。

親に見棄てられた。それでも生きてゆく。

親友に裏切られた。それでも生きてゆく。

失恋した。それでも生きてゆく。

失業した。それでも生きてゆく。

事故で障害者になった。それでも生きてゆく。

人生に絶望した。それでも生きてゆく。

「それでも生きてゆく」ためには「次元の転換」が不可欠だ。「居場所のない人の居場所」はサードプレイスをも超えていく。「第四次元の藝術」として垂直図書館はある。

垂直図書館(8)

人は永久に生きるわけではない。せいぜい生き永らえて百年。心身ともに健康な人生となると当然更に短くなる。これを儚いと考えるかどうか。病気や事故で夭折を余儀なくされる人もいれば、重い障害を背負って生きざるを得ぬ人もいる。死産や流産、あるいは人工中絶でこの世界に生まれ出ることさえできなかった場合に比べれば、とにかくこの世界に投げ出されたことを喜ぶべきかもしれない。たとい悲惨な人生であったとしても。果たして本当にそうか。そう言い切れるのか。坂元裕二に「それでも、生きてゆく」と題するドラマがあるが、「それでも、生きてゆく」という思いの奥底には常に「それなら、死んだ方がいい」という思いが渦を巻いている。勿論、こうした思いは誰もが羨む順風満帆な人生には無縁のものだ。揺り籠から墓場まで「素晴らしき哉人生!」という思いで生きられる人も皆無ではないだろう。私はその僥倖を祝福する。皮肉ではない。幸福に生きられるなら、それに越したことはないと心から思う。しかし、人生は流転する。何が起きるかわからない。美しい顔に生まれてきたのに、何らかの理由で醜い傷が刻み込まれてしまうことがある。その時、「それでも、生きてゆく」と思えるかどうか。その問いから本当の人生が始まる。それも事実だ。美しい顔のままの「幸福な人生」と醜い顔から始まる「本当の人生」。どちらを望むかは人それぞれだが、少なくとも私は「人間として本当に生きる道」を極めてみたいと思っている。トルストイの言うように、幸福な人生はどれも似通っていて、わざわざ私が生きてみる必要はないと思うからだ。尤も、幸福な人生を望んだところで、私には最初から順風満帆な人生など無縁であるが…。

さて、「居場所のない人の居場所」とは「それでも、生きてゆく」覚悟を決めた人の「場」だ。美しい顔が自らの存在理由であった人がそれを失う。もはや「美しい顔の人」ではない。むしろ、「醜い顔の人」に成り果てた。「かつて美しい顔だった人」には居場所がなくなる。スクール・カーストで言えば、一軍に君臨していた人が三軍に突き落とされるようなものだ。三軍を自らの新たな居場所とできるか。無理だ。「醜い顔なら、死んだ方がいい」と思うのが自然だろう。それにもかかわらず、その人が「それでも(醜い顔でも)、生きてゆく」と思えるとしたら、そこにはどんな居場所が開けるのか。三軍でないことは明らかだ。一軍から転落した人は、論理的には二軍か三軍に行くしかないが、それは死ぬよりつらいことだ。「それでも、生きてゆく」とは決して「死ぬよりつらいことに耐えて生きてゆく」ということではない。いや、そういう面も否定できないが、私はあくまでもスクール・カーストのある悲惨な現実そのものの超克を求めたい。そこにこそ「それでも、生きてゆく」居場所があると信じたい。とは言え、それは宗教などへの現実逃避と紙一重の居場所だ。実際、一軍でも二軍でも三軍でもない居場所は超越的な神を要請する磁場に等しいものとなる。気取って「絶対無」の場だと言ってもいいだろう。しかし、そのような場は居場所を失った人が「それでも、生きてゆく」場とは違う。そこには根源的な差異がある。私はその差異を何とかして垂直図書館に結晶させたいと思っている。

垂直図書館(7)

ユートピア=どこにもない「場」の実現とは何か。実現とはどこかに「場」をつくることだとすれば、「ユートピアの実現」は明らかに背理を孕んでいる。常識的な論理に従えば、人は水平の次元における最適社会としてのパラダイスに自分の居場所を求めるに違いない。事実、人は各自それなりの努力をしてこの社会に居場所を見出している。周囲の空気を読み、自分に相応しい居場所を探し出している。上流の居場所でなくてもいい。中流でも下流でも、とにかく居場所さえあれば生きていける。無理にユートピアなど求めなくても、それでいいのかもしれない。しかし、私の耳の奥底では依然として酔いどれマルメラアドフの言葉が響いている。「わかりますか、あなた、わかりますか、このもうどこへも行き場がないということが?」

結局、この世界に居場所のない人の絶望は自己責任であろうか。確かに、世界は理不尽なことで満ちている。突然、大国が侵攻してきて、平和に暮らしていた人たちの居場所を奪っていく。しかし、実に悲惨なことではあるけれども、それで行き場がなくなるわけではない。或る人は戦場に行き場を見出し、また或る人は他国の地に行き場を求める。言うまでもなく、それは仮初めの行き場にすぎず、自分が心から寛げる居場所ではない。戦争や災害でそれまでの居場所を奪われた者の絶望は当事者ではない者の想像を絶するだろう。しかし、その絶望はマルメラアドフの絶望とは質的に異なっている。私はここで吞気に二つの絶望の比較をするつもりはない。ただ、軽々に語ることは憚れるが、どんなに悲惨な戦争や災害もやがて終わりを迎える。そして、多大な忍耐と努力を要するけれども、人は平和な日常を必ず取り戻し、そこに以前と同様の居場所を新たに築いていくに違いない。これに対してマルメラアドフの絶望は、正に平和な日常に「行き場がない」という苦しみなのだ。少し以前に「希望は戦争」という発言が話題になったが、それはマルメラアドフの絶望と短絡している。どうしてマルメラアドフは「もうどこへも行き場がない」のか。単に貧困だけの問題なのか。私は違うと思う。貧困の解消はパラダイスの問題だが、マルメラアドフはパラダイスでは救われない。殆どの人はパラダイスに居場所を見出せても、マルメラアドフはできない。パラダイスは「居場所のない人の居場所」になり得ないからだ。それは一体何故か。

垂直図書館(6)

「いま、多くの人が、もちろん会社の仕事に一生懸命に打ち込む半面、「自分の場」をつくることを実践しています。少し情緒的な言い方をすると、社会に自分の居場所をつくるためのアクティビティを盛んに行っているということです。

それを代表する言葉が「サードプレイス」でした。第一の場所「ファーストプレイス」が自宅。第二の場所「セカンドプレイス」が学校や会社などの職場。そしてその二つの場所の中間地点にある第三の場所が「サードプレイス」と呼ばれています。サードプレイスには、馴染みが集うカフェ、シェアオフィスなどが含まれる、社会における自分の第三の居場所です。

こうした表現が一定の支持を集めた社会背景を考えた時、これからの市民活動が行われる場所はまさにサードプレイスであることがわかります。そして、そこには公共施設の図書館も含まれてしかりです。この「場所」という表現は「コミュニティー」とも言い換えられます。ファーストプレイスの自宅には、家族のコミュニティーが、セカンドプレイスには学校や会社のコミュニティーが、そしてサードプレイスにはカフェ、シェアオフィス、そして図書館のコミュニティーがあるのです。

また、これからは働き盛り世代を市民活動にどのように取り入れていくのかも課題として大きくなりつつあります。まさに図書館が主体性をもってソーシャルデザインやコミュニティーデザインを考えていくべきときなのです。」

(岡本真・森旭彦『未来の図書館、はじめませんか?』)

サードプレイスとしての図書館は明らかに水平図書館だ。そもそもサードプレイスはファーストプレイスやセカンドプレイスに居場所のない人が集まる場所ではない。上記の引用では「ファーストプレイスとセカンドプレイスの中間地点にサードプレイスがある」とされているが、三つの場所は同心円上に位置していると考えるべきではないか。すなわち、「自分の場」は自宅(更に言えば、自宅内の鍵のかかる自分の部屋)を中心に、学校や職場を経て、サードプレイスへと波紋のように広がっていく、ということだ。言わば私的領域から公的領域への発展であり、そこにラディカルな次元の違いはない。これは実に健全な社会の在り方だと思われる。幸福な家族のコミュニティーを中心に、学校や職場のコミュニティーも良好で、時にカフェや図書館のコミュニティーを楽しむことができる。三つの場所が有機的に噛み合うバランスの良い社会はパラダイスと言ってもいいだろう。しかし問題は、自宅にも学校や職場にも居場所のない人の場合だ。むしろ、そうした人たちが切実に求める場所こそがサードプレイスではないか。実際、学校や職場に居場所を失った人は自宅に引きこもることになる。とは言え、引きこもる自宅に自分の居場所があるわけではない。自宅にさえ居場所がなくなれば、ネットカフェなどを彷徨うしかなくなるが、そこがサードプレイスとなる。水平図書館はネットカフェよりもマシなサードプレイスだが、更に理想的なサードプレイスを新しき村に求めることもできるだろう。率直に言って、私はこれまで「サードプレイスとしての新しき村」を構想していた。しかし最近、私が求めているユートピアはどうも違うような気がしている。勿論、「サードプレイスとしての新しき村」も重要であり、私は毛呂山の村が多くの人たちの「新しき居場所」になることを願っている。しかし、それはユートピアではない。「居場所のない人の居場所」の実現という使命は微動だにしないが、それは究極的にはサードプレイスを超えていくことになるだろう。ユートピアとしての垂直図書館は第四の「場」に他ならない。そして、それはどこにもない。

垂直図書館(5)

「居場所のない人の居場所」をつくる――これが「新生・新しき村」の根源的な使命だ。ただし、一口に「居場所のない人」と言っても様々な場合がある。先月のETV「100分de名著」は北条民雄の「いのちの初夜」だったが、かつてのハンセン氏病患者は一般社会に居場所がなかった。「居場所がなかった」と言うよりも、完全隔離によって「居場所を奪われていた」と言うべきだろう。その状況は今ではかなり改善されているとは言え、同様の苦しみは他の病気や障碍、あるいは部落のような社会的差別においてもある。それは明らかに人間の理想に反している。感染症などの正当な隔離を除いて、人間の理想は可能な限り包括的であるべきだと私は思う。すなわち、「居場所のない人」が一人もいない社会の実現に他ならない。しかし、それはキレイゴトではないか。そもそも「居場所のない人」はどうして生まれるのか。

先日、私は「ルポ死亡退院:精神医療・闇の実態」というドキュメンタリーを観た。八王子の或る精神病院の実にひどい患者虐待の実態だ。日常的に虐待を繰り返す看護師たちとそれを指示する院長の悪が糾弾されるべきは当然だが、そうした非人道的な場所に患者を隔離した家族と行政の悪を見逃してはならない。むしろ、我々の問題にとっては後者の悪、実質的に患者を一般社会から見棄てた悪にこそ注目しなければならない。とは言え、我々は本当にその悪を非難できるのか。「必要悪」という言葉が何度も繰り返し発せられた。家族や行政とて人非人ではない。精神を病んだ人の居場所を何とか見つけたいと努力したに違いない。できれば家庭に居場所をつくりたいと思ったが、やがて手に負えなくなる。精魂尽き果てて、やむなく行政に頼る。行政は適当な病院を探すが、普通の病院では盥回しにされる。結果、八王子の病院のような劣悪な場所にしか行き場がなくなり、そこが患者にとっての終の棲家になる。もし八王子の最悪病院が受け入れてくれなければ、患者はこの世界のどこにも居場所がなくなるだろう。「家に帰りたい…」と患者が泣いて訴えても、家族は引き取りを拒否する現実。この現実に直面して、人々は「必要悪」という言葉を繰り返すしかない。この「必要悪」を如何にして超克すべきか。この問題と格闘するために要請される場所が垂直図書館だ。