目に見えるものと見えないもの
「大切なものは目に見えない」という星の王子様の言葉は真理だと思っている。しかし同時に、「美しい花がある。花の美しさというものはない」という或る高名な批評家の言葉も真実だと思っている。真理と真実、その差異を私は垂直的リアリティと水平的リアリティとして理解している。それは決して優劣の問題ではない。両者共に人生には不可欠のリアリティだ。ただし、次元の違いに伴う問題はある。端的に言えば、私がこれまで問題にしてきたことは主に近代以降における垂直的リアリティの劣化に他ならない。それは世俗化であり、神の死でもあるが、そんな大きな問題ではなくても、日常生活の様々な場面で人間の生き方が問われている。それについて思耕を試みたい。
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さて、相変わらずのドラマ中毒に悩まされる毎日だが、あまり得意ではない恋愛ドラマも頑張って観続けている。その大半がドラマ以前の恋愛ごっこにすぎないが、それでもドラマにまで昇華した恋愛の根柢には常に「美の葛藤」、すなわち見た目の美しさと目に見えない美しさの相剋がある。一般的に言えば、性別を問わず、人は見た目の美しさで相手に惚れる。その美しさには数値化できる価値(例えば、資産)も含まれるが、そうした目に見える美に目に見えない美が如何に対抗できるかにドラマの成否がかかっている。問題を単純化すれば、(男性の視点から)「心の貧しい美女か心の豊かな醜女か」というテーマだ(「心の豊かな美女」もしくは「心の貧しい醜女」もいないわけではないが、ここでは無視する)。ドラマの常道からすれば、目に見えない心の美しさよりも目に見える容姿の美しさに魅了され、翻弄されるのが男の性(さが)だが、その価値観のどんでん返しにドラマの真骨頂がある。つまり、心の貧しい美女よりも心の豊かな醜女が最終的には幸福になるという結末だ。しかし、そこに垂直的リアリティが生まれるのは極めて稀だ。率直に言って、凡百のドラマにおける目に見えない美しさが勝利するハッピーエンドに説得力はない。「そんなキレイゴトはドラマの中だけのことだ。現実にはやはり…」というのが本音だろう。こうした本音(自然の情)を粉砕する垂直的リアリティは如何にして生まれるのか。