生きる意味(9)
プレッシャーのない、ストレスのない平穏無事な人生。それを理想とする人がいる。本当にそうだろうか。それは現実の人生がプレッシャーとストレスに満ちていることへの束の間の反動にすぎないのではないか。確かに、今ウクライナで戦禍の真只中にいる人たちや毎日陰湿ないじめにあっている子供たちのプレッシャーやストレスは私などの想像を絶するものだろう。そのような悲惨な現実から一刻も早く解放されたいと願うのは当然であり、それは人間の条件でもある。しかし、そのこととプレッシャーもストレスもない平穏無事な人生を理想とすることとは別問題だ。こんなことを言えば、「所詮お前には、今プレッシャーとストレスと必死に戦っている人の苦しみがわからないのだ」と非難されるに違いない。私とて戦争やいじめがこの世界からなくなることを心から願っている。単に願うだけではなく、現実にそれを実現する運動にも参加したいと思っている。ただ、戦争やいじめが一掃されても、それだけでは未だ「理想社会」は実現しない。むしろ、プレッシャーのない、ストレスのない平穏無事な社会は人間にとって新たな脅威になる。これは理不尽なことだろうか。戦争は悲惨だ。その悲惨な現実には一刻も早く終止符を打たねばならない。しかし、本当に恐ろしい問題はその後にやって来る。戦争には「生きる意味」があった。たとい虚妄であっても、曲がりなりにも「生きる意味」があった。やがて戦争は終わり、平和が訪れる。焼け野原に新たな家が再建され始める。その「トカトントン」という平和の響きに戦時中の爆撃音以上のニヒリズムを感じ取るのは果たして太宰治だけであろうか。
生きる意味(8)
人の共感・共通感覚を超えているということは、一般庶民の常識を超えているということになる。確かに、私が問題にしている人間はニーチェの超人に等しいと言えるかもしれない。しかし、周知のように、超人は超能力者とは違う。能力の点では、超人と一般庶民は何ら変わるところはない。違いは「生きる意味」においてのみ生じるのであり、超人は末人としての一般庶民を否定するが、究極的には受け取り直す(反復する)。超人と一般庶民は逆対応する。人から人間への超越は、あくまでも「生きる意味」への超越に他ならない。
★
さて、命をゾーエーだとすれば、「生きる意味」はビオスでつくられる。命の価値は絶対的であり、それなくして何も始まらない。命は「生きる意味」を織り出す緯糸と考えられる。言うまでもなく、緯糸だけでは「生きる意味」にはならない。そこには経糸が不可欠だ。実際、どんなに世俗的な人間でも、何らかの経糸を持っている。さもなければ他のイキモノと同じになってしまう。緯糸だけの人間などという存在はあり得ない。人はビオスの経糸を紡いでゾーエーの緯糸と共に「生きる意味」を織り出していく人間となる。尤も、それが根源的な過誤だったと考えることもできる。人が人間に超越することなく、他のイキモノと同等の存在として只管ゾーエーの維持だけに集中するならば、地球環境をこれほどまでに破壊することもなかっただろう。ガイアにとっては人間の誕生は元凶でしかないのかもしれない。しかし、たといそうであったとしても、人間のドラマはこのままでは終わらない。これまでの過誤の歴史を一大転換することができる。人間は過誤の歴史を超克する「生きる意味」を書き出さねばならぬ。
生きる意味(7)
書けば書くほど共感が遠のいていく。多くの人が求めているのは幸福な人生であって「生きる意味」ではない。従って、ユートピアとしての新しき村は人間が「生きる意味」を織り出していく「場」だと言っても、誰もそんなところに魅力を感じないだろう。皆、幸福になれる「場」をこそ求めているからだ。当然だと思う。幸福な人生に「生きる意味」など必要ない。むしろ、邪魔だ。「生きる意味」は一部のインテリだけが必要とする虚妄であって、一般庶民には関係がない。それが共通感覚(common sense = 常識)と化している。腹が減ったら食う。できれば美味しいものを食いたい。眠くなったら眠る。できればふかふかの蒲団にくるまって眠りたい。丈夫な身体を持ち、欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている人生。大半の人はそのような幸福を実現する「場」が新しき村だと思っている。いや、それが悪いと言いたいのではない。例えば、それは私的幸福にすぎないと批判したところで何になろう。新しき村は公的幸福を実現する「場」などと主張すれば、ますます共感が遠のいていくに違いない。人間の「生きる意味」は人の 共感・共通感覚を超えていく。
生きる意味(6)
どんなに切実な理由があろうと、自殺者は贅沢だ。甘えている。生来の障害や難病、不慮の事故や病気で生きたくても生きられない人にとって、自ら命を絶つことほど無意味なことはない。それは二重に意味がない。生は明らかに「生きる意味」を超越している。されど「生きる意味」はなくとも自殺する意味はあるということか。一般的に言えば、「生きる意味」を失って人は自殺する。しかし、自殺者は何を殺したのか。「自分自身を殺した」と言うならば、自分自身の何を殺したのか。生ではない。人は命を絶つことができても生を否定するはできない。そこに自殺者の致命的な誤算がある。いや、誤算ではなく、命を絶つことで生を永遠化しようとする自殺もあるだろう。典型的な例を挙げれば、自らの無実を証明するための自殺だ。すなわち、自らの命を絶つことで無実の自分を永遠に生きさせるのだ。言うまでもなく、「自らの命を絶つ」ことと「無実の自分を永遠に生きさせる」こととの間には何ら因果関係はない。酷な言い方かもしれないが、自殺が自らの無実の証明になるというのは自殺 者の勝手な思い込みであり、畢竟甘えにすぎない。失恋して自殺する人、受験に失敗して自殺する人、リストラされて自殺する人、他にも様々な理由で自殺する人がいるが、命を絶っても生からは逃れられない。いじめ自殺は実質的には他殺なので少し事情が異なるが、命を絶って生から逃れようとしても無駄だ。無駄を承知でそうせざるを得ない苦しみの深さがあるにしても。
生きる意味(5)
人生のドラマの先にある、人間のドラマを織り出す意味は「生命(ゾーエー)尊重の価値」以上のものだ。人はそんなものがあるとは信じない。だから、或る人間が「生命尊重の価値」以上の生きる意味のために割腹したりすると、そこに精神の倒錯しか見ない。もっと露骨に言えば、狂気しか見ない。実に寂しい、と言うより殺伐とした現実だ。鬼束ちひろならずとも、「こんな腐敗した世界のために生まれてきたんじゃない!」と叫び出したくなる。しかし、世界の腐敗を本当に自覚している人間がどれほどいるだろうか。勿論、貧困、戦争、環境破壊といった世界の危機的状況に対して鋭い問題意識を以て戦っている人は大勢いる。私もそうした人々の戦いに何らかの形で加わりたいと思っている。ただ、決してその戦いに難癖をつけるつもりはないが、そこには何かが欠けているような気がしてならない。それは「次元の転換」だ。例えば、ウクライナに代表されるような世界中の戦闘地域に平和な日常を取り戻すことが喫緊の課題であることは誰の目にも明らかだ。「戦争はもうウンザリだ」――年端もいかない幼児だって身に染みてそう感じているのに、何故この世界から戦争はなくならないのか。そこには複雑に絡み合った様々な問題があるだろう。ナショナリズムの問題だけではない。では、究極的な問題は何か。ここで私は「垂直の次元の欠如」を問題にしたいのだが、きっと多くの人は誤解するに違いない。率直に言って、今の私にその誤解を解く自信はないが、垂直の次元は「デウス・エクス・マキナ」でもなければ「アリアドネの糸」でもない。取り敢えず、それだけは明言しておく。
生きる意味(4)
人は水平の次元に生き、人間は垂直の次元に生きる。そんなことを言えば、殆ど誰も人間として生きようとは思わないだろう。奇特な人間がいるとすれば、それは俗世間での幸福追求に疲れ果て、その虚しさに絶望した出家者だけだ。出家者は幸福の絶頂で、もしくは不幸のどん底で、その生き方を逆転させる。私はその生き方を否定するつもりはない。少なくとも電車に跳び込むよりはマシだ。けれども、私の求める人間はそれに尽きるものではない。誤解を恐れずに言えば、出家者は半人前、中途半端な人間にすぎない。人間は垂直の次元に生きるが、さりとて水平の次元を捨て去るわけではない。むしろ、前向きに受け取り直す。垂直の次元への往相と水平の次元への還相が人を人間にすると言ってもいいだろう。その二重運動が生きる意味を生み出す。勿論、玉虫のように、水平の次元においても人は生きる意味を見出し、それは幸福として結晶する。多くの人はそのような幸福を求め、そこに人生のドラマがあると思っている。実際、感動的なドラマの大半は、人が不幸のどん底から如何にして幸福を掴むかというテーマに沿って展開する。例えば、貧しき者、虐げられし者が艱難辛苦の末に幸福になっていく立身出世物語だ。それは水平的ドラマの典型であるが、私は決して嫌いではない。それなりのカタルシスを味わっている。しかし、本当のドラマはその先にあるのではないか。それは人間のドラマだ。水平の次元の人生のドラマにも生きる意味は見出されるが、人間のドラマを織り出す意味こそ私が求めているものに他ならない。
生きる意味(3)
一般的には、幸福が生きる意味になる。玉虫の生きる意味は弁慶と小玉虫と親子三人水入らずで平穏無事に暮らす「家庭の幸福」にある。玉虫に限らず、殆どの人は幸福になるために生きている。私とてそれを否定するつもりはない。むしろ、私もまた幸福になりたいと願っている。しかし、幸福は人間の生きる意味にはなり得ない。これは一般的な理解を超える非常識であろうか。人が幸福を求めるのは常識だが、人間は違う。時に幸福を犠牲にしてまで生きる意味を求めることがある。愚かなことだと人は言う。とても正気の沙汰とは思えない。人間は狂っているのか。「家庭の幸福は諸悪の本」とは太宰治の言葉だが、これなども常識人には狂人の戯言でしかないだろう。しかし人間にとっては、家庭の幸福のために生きる意味を求めないことこそが悪なのだ。ここには明らかに「次元の転換」がある。幸福を求める「人の次元」と生きる意味を求める「人間の次元」は質的に異なっている。これをどのように理解するか。もし前者を俗なる次元、後者を聖なる次元などと二元論的に理解するならば、全ては台無しになる。「次元の転換」は 出家のみを要請するものではない。
生きる意味(2)
自然楽園のアルカディアでは生きる意味を問う必要はない。ゾーエーは常に満たされているので、あるがままに生きていればいいからだ。しかし、そのような楽園はやがて失われる運命にあり、人は労働によってゾーエーを満たさねばならなくなる。「あるがまま」の生は終わり、「あるべき」生が始まる。以後「ゾーエーの充足」に人は苦しむことを余儀なくされるが、そこには未だ生きる意味を問う必要は生じない。と言うより、生きるのに忙しくて、その意味を問うている余裕なんかないのだ。私は最近、「ガラパゴス」と題する派遣労働者の過酷な生活をベースにした刑事ドラマを観たが、「ゾーエーの充足」のためにギリギリの絶望的な日々を過ごしている人は少なくないだろう。夜の「おんな道」を辿る人もいれば、極端な場合にはかつての秋葉原事件のような悲惨な結果を招くこともある。そうした過酷な人生を送っている人は「ゾーエーの充足」が日常的に無理なく果たされるパラダイスを夢見るに違いない。僭越ながら私も、全世界の人がもはや「ゾーエーの充足」に苦しむことのな い社会の実現を求めている。しかし、そのようなパラダイスは如何にして実現するのか。「食うために労働する人が一人でもいる限り、それは未だ理想社会ではない」とは実篤の言葉だが、労働の廃棄が問題なのか。たといそうだとしても、そこに生きる意味はない。幸福はあるかもしれない。しかし、生きる意味はない。
玉虫の願い
かなり昔の大河ドラマ「武蔵坊弁慶」(中村吉右衛門主演)の再放送を観ているが、その中で弁慶は折に触れて「仏法の花咲く理想郷、すなわち戦のない世をつくるのが儂の夢であり、それを実現できるのは御曹司(義経)しかいない」と述べている。周知のように、その夢は頼朝に踏みにじられ、義経一行は奥州への逃避行を余儀なくされる。そのために弁慶もまた、愛する妻子(玉虫と小玉虫)と別れねばならないが、いつもは穏やかな玉虫が今回の放送では珍しく感情を剝き出しにした。玉虫は弁慶に涙ながらに訴える――「そんなに判官様が大事かえ。私や小玉虫よりも大事かえ。何が理想郷じゃ。親子三人、どこぞで静かに暮らしたい。それが私の願いじゃ。どうしてそれができぬのか」玉虫の願いは弁慶にもよくわか る。できれば自分もそうしたいと思っている。しかし、そんなことはできない。弁慶は玉虫を振り切って奥州へと向かう。何のために。理想郷実現のためか。しかし、理想郷とは「家庭の幸福」を犠牲にしてまで実現すべきものなのか。むしろ、「家庭の幸福」こそが理想郷ではないのか。我々は如何にして玉虫を納得させることができるのか。
生きる意味
或る思想家の言うように、意味を問うことは病であろうか。特に、生きる意味。アリョーシャ・カラマーゾフも「生の意味を問う前に、生を愛さなくちゃなりません」と言っている。確かに、意味と愛の順序を間違えてはならない。意味を問うことから愛に辿り着こうとすると必ず悲劇を生む。しかし、人は往々にして「意味があるから愛する」という理路を辿ってしまう。それは裏を返せば「意味のないものは愛せない」ということに他ならない。そもそも生きる意味とは何か。一般的には「他人から必要とされること」だろう。その場合、最初の他人は親だ。中島みゆきも「誕生」で歌っているように、誰でも「ウエルカム」と言われて生まれてくる。尤も厳密に言えば、全ての人の誕生がウエルカムとは言い切れない。「おんな道」の女性のように、親に必要とされずに棄てられる子もいるだろう。しかし、殆どの場合、人の最初の「生きる意味」は「親からのウエルカム」、すなわち「親から必要とされること」だと思われる。言うまでもなく、これは相互的であり、親の「生きる意味」も「子から必要とされること」になる。ただし、相互の必要が上手く嚙み合っているうちはいいが、やがて「親が必要とする子」と「子が必要とする親」はズレてくる。そして子の「生きる意味」は親子関係から離れ、友人関係、恋人関係、会社関係、自分が親となっての親子関係、家庭、世間、国家などへと「発展」していく。結局、何でもいい、「自分は必要とされている」という意識さえあれば、それが「生きる意味」になる。極端な話、「自分はペットから必要とされている」だっていい。逆に、「自分は誰からも何からも必要とされていない」となれば、「生きる意味」は失われる。そこにパラダイスの過酷な条件がある。