パラダイスの批判(10)
この世界から犯罪者がいなくなれば警察は不要となる。裁判所も刑務所も要らなくなる。病気がなくなれば病院も無用となる。論理的にはそうなる。しかし、現実にはそうならない。むしろ、逆だ。一般大衆は犯罪者を徹底的に取り締まる強力な警察を求めている。病院も似たようなものだ。犯罪者や異常者を力で排除する。そこに安心安全なパラダイスが実現する。パラダイスとは個人としての私の生存・生活を脅かすあらゆる危険性が完全に排除された世界に他ならない。確かに、この世界には反社会的な悪人や病的な狂人が存在し、そうした「異常者」の排除が求められていることは事実だ。それが多くの人々に幸福な日常をもたらすことも間違いない。しかし、何が正常と異常を分けるのか。明らかに法的な区別には限界がある。そもそも否定的な何かを排除することでしか成立しない理想社会は原理的におかしいのではないか。その意味において、たといパラダイスが現実的な一つの幸福を実現するものだとしても、人間はそこに安んじるべきではないと私は思う。ただし、その先へと進むためには「次元の転換」が不可欠だ。言い換えれば、水平の次元に固執する限り、パラダイスを批判する論点には永久に出会えないだろう。では、「次元の転換」は如何にして生じるのか。これを今後の課題としたい。
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さて最後に、唐突ながら、「次元の転換」への序奏として私の愛唱歌の一つを引用したいと思う。それは浜真二(浜圭介)の「おんな道」だ。
「おんな道」
生まれた時から みなし子で
親の顔さえわからずに
夜に生まれて 夜に育った 女の姿
嫌なお客にせがまれて
男の枕にされながら
つくる笑顔も 生きるため
顔もわからぬ親ならば
いっそ生まずにいてくれりゃ
夜に生まれて 夜に育った 女じゃないさ
強く生きても逆戻り
誰が私をこうさせた
飲めぬお酒も 心のささえ
いっそこのまま 地の底で
そっと静かに眠りたい
夜に生まれて 夜に疲れた 女の姿
夢に見ました しあわせを
夢がさめれば むなしさが
強く生きよう 女の道を
率直に言って、私はこの「おんな道」がパラダイスに通じることを願っている。パラダイスでは嫌なお客にせがまれることはないし、男の枕にされることも、無理に笑顔をつくることもなくなる。地の底から這い上がり、朝に生まれ、昼に生き、夜に眠ることができる。そうした健康なパラダイスの実現を願うことは理の当然であり、私はパラダイスの幸福を否定するつもりはない。しかし、それにもかかわらず、私はパラダイスを批判しなければならない。何故か。「おんな道」はパラダイスの先へ、人間の理想を求める「この道」へと通じているからだ。私はそう信じる。
パラダイスの批判(9)
ヒトはアルカディアに楽園を見出すことができる。ただし、現実に「見出す」のはその自然楽園を失った後であり、それは常に失楽園としてしか意識されない。そして、アルカディアに生きていた夢見る無垢のヒトは楽園喪失を意識する人となり、人工楽園としてのパラダイスを求め始める。しかし、人はパラダイスに満足することができても、人間は違う。パラダイスは基本的に個人主義の理想だが、複数性を本質とする人間の理想は個人主義にとどまり得ないからだ。端的に言えば、人間は個人主義を超えていく。ここには明らかに理解の壁があり、多くの人は首を傾げるに違いない。どうして個人主義を超えていくのか。それは全体主義への傾斜ではないのか。もしそうなら、個人主義にとどまり、家庭の幸福に集約される個人の理想が叶うパラダイスを至上のものとすべきだろう。しかし、「複数性を本質とする人間」とは断じて全体主義的人間ではない。アーレント曰く、「人間的複数性とは、唯一的な存在者の逆説的な複数性である。」私はこれを「単独者の連帯性」と理解しているが、そこにこそパラダイスを批判せねばならぬ問題点がある。例えば、この便りで何度も言及している宮澤賢治の有名な言葉「世界がぜんたい幸福にならなければ個人の幸福はあり得ない」も常に滅私奉公的誤解の危険性に晒されている。「世界全体の幸福が第一で、個人の幸福など二の次だ」という考えは個人の幸福を核とするパラダイス以下のディストピアと見做すべきだろう。ヒトから人、そして人間へと理想は発展していく。パラダイスの批判はあくまでも人間の理想によるものに他ならない。
パラダイスの批判(8)
現実認識の甘さを非難されるのは承知の上で、私は無駄な抵抗の積み重ねが無駄でなくなる瞬間を信じている。ただし、それは過酷な瞬間だ。最初の人間が抵抗の言葉を発して戦車に踏み潰される。二番目の人間も踏み潰される。三番目の人間も踏み潰される。しかし、そうした救われない現実の続いた後に必ず踏み潰されない人間が現れる。それは言葉が戦車に勝つ瞬間であり、理想が現実になる瞬間でもある。その瞬間に辿り着くまでに何人が踏み潰されるか定かではないが、その人たちは永久に救われないのだろうか。いや、そんな筈はない。そんなことはあってはならない。何番目かの人間の踏み潰されずに救われる理想は、踏み潰されたそれまでの人たちの救われない現実なくして断じて到来しない。その意味において、理想が現実になる瞬間は、救われない現実が理想として復活する瞬間だと言えよう。たといそう考えたとしても、それが過酷な瞬間であることに変わりはない。実際、戦車に踏み潰される最初の人間に一体誰がなるのか。私はなれるのか。甚だ心許ないが、常々その覚悟だけはしているつもりだ。誰かが 最初の人間にならなければならぬ。そして二番目の人間が続かねばならぬ。救われぬ現実に生きる覚悟を決めなければ、究極的な理想を求め続けることはできない。偉そうなことを言う資格はないが、目先のパラダイスを批判するとすれば、その覚悟においてしかない。
パラダイスの批判(7)
戦車はウクライナだけに侵攻してくるのではない。日常生活の至る所で我々の前に立ちはだかる。例えば、学校でのいじめの現場。見知らぬ誰かが屈強な不良どもにいじめられている時、そこに戦車が立ちはだかる。私はどうすべきか。見て見ぬふりをして戦車を避け、安全な場所に逃げ込むか。あるいは「戦車には戦車を」と考え、不良ども以上に屈強なヒーローを呼んでくるか。私自身がヒーローになれたらカッコイイけれど、臆病者の私はコソコソその場を離れる公算が大きい。しかし、それにもかかわらず、理想としては「やめろ!」の一言を何とか発して踏みとどまりたい。少なくともヒーローにはなれないし、なるべきではないと思う。これは決して臆病者の自己正当化ではない。戦車には戦車ではなく、あくまでも言葉で対抗したいからだ。 おそらく、私は不良どもにボコボコにされるだろう。所詮、言葉は戦車に勝てない。それが現実だ。しかし、負けない。たとい殺されても、理想は決して死なないと信じたい。言うまでもなく、これはキレイゴトだ。キレイゴトを貫いて理想に殉じても、殆どの人はそこに無駄死にしか見ないだろう。現実は一ミリも変わらない。しかし、たといそうだとしても、現実の究極的な変革は無駄を積み重ねていくことでしか成らないのではないか。とは言え、「究極的な理想の実現なんかどうでもいい。目の前の快適なパラダイスで十分だ」と考えるなら、どんなに無駄を積み重ねても結局は無駄な抵抗でしかないけれども。
パラダイスの批判(6)
この腐敗した世の中を何とか良くしようと頑張っている人はたくさんいる。貧しき人々を豊かにし、虐げられた人々を自由にするヒーローたちだ。貧困のない、犯罪のない、戦争のない世界の実現。ヒーローたちはパラダイスを目指す。ただし、それは未だない普遍的なパラダイス、誰もが等しく享受できるパラダイスでなければならない。従って、ヒーローたちはすでにパラダイスを享受している一部の既得権益者を戦いの標的にする結果となり、露骨に言えば金持・犯罪者・独裁者の一掃がヒーローたちの任務となる。当然、その任務を果たすためには金と力が必要になる。金と力がなければパラダイスは実現しない――それが水平の次元の鉄則だ。しかし、何かおかしくはないか。金と力はパラダイスを実現すると同時に腐敗もさせる。貧しき人々と虐げられた人々が金と力を得てパラダイスを享受できても、それは新たな貧しき人々と虐げられた人々を生むことになりはしないか。確かに、金と力がなければ如何なる運動も始まらない。それが運動の現実だ。しかし、そのような運動ではついに人間の究極的な理想にまで辿り着けないだろう。そこには金と力とは次元を異にする何かが不可欠だ。その何かを取り敢えず垂直性と称するならば、それは水平の次元では徹底的に無力でしかない。かつて「戦車と言葉」という対比について語った思想家がいたが、垂直性は戦車に対する言葉のようなものだ。「敵の戦車に勝つためにはそれ以上に強力な戦車を持つしかない」と考えるのが水平の次元の論理だとすれば、垂直性はあくまでも言葉による徹底抗戦を求める。果たして言葉は戦車に勝てるだろうか。
パラダイスの批判(5)
「神が存在しなければ全ては許される」とはドストエフスキイの言葉だが、無神論者のキリーロフも「この世界の全てはいい」と語っている。「純真な少女を凌辱しても、無邪気に微笑む赤ん坊の頭を面白半分にピストルで吹っ飛ばしても、それでもいいのか」とスタヴローギンに問われても、キリーロフは「全てはいい」と繰り返すが、その後に「この世界の全てがいいと悟った者はそんなことはしない」と付け加える。この箇所は私にはずっと謎であり、実は今でも謎のままだ。論理的には明らかに矛盾している。理性では到底理解できない。学生の頃に偉い先生に質問すると、「それが理解できれば信仰を持てますよ」などと上から目線で答えられ、「ケッ!」という思いでますます理解から遠ざかることになった。しかし、「てめぇの御立派な信仰なんぞに用はない」と思いながら、キリーロフの謎には極めて重要な何かが秘められていることは間違いない。私はそう確信し、以来ずっと自問し続けている。「この世界の全てはいい」という全肯定から「そんなことはしない」という否定が如何にして生まれてくるのか。その反転、その逆説にこそ宗教のmysteryがある。ちなみに、キルケゴールが「恐れと戦き」で問題にしている「倫理的なものの目的論的停止」にも同様のmysteryがある。すなわち、アブラハムがしようとしたことは最愛の我が子を殺すという倫理的には許されざることだが、宗教的にはこの上もなく崇高なことであり、この二律背反の「恐れと戦き」にこそ宗教のmysteryがある、ということだ。言うまでもなく、今の私にこのmysteryを解明する力などないが、少なくともそれは欲望の抑制とは全く違うと思っている。「この世界の全てはいい」とは人間の欲望の全面的な解放に等しい。全ては肯定される。金儲けがしたければ何をしてもいい。地球をぶっ壊すことになっても、弱者を踏み倒したっていい。しかし、そうした水平の次元における欲望の暴走に「そんなことはしない」という不思議な力が働いてくる。それは垂直の次元からやって来る力であり、それがパラダイスをラディカルに批判する突破口を開くことになる。
パラダイスの批判(4)
やりたいことをやる。なりたいものになる。欲望の全面的解放。そこにパラダイスが現出する。御蔭でかつてはできなかったことができるようになり、人間生活は飛躍的に便利で快適なものになった。しかし、このまま人間の欲望が増殖し続ければどうなるか。心ある人たちは地球環境の破壊や経済格差の危機的状況に警鐘を鳴らしている。それは欲望を抑制して、便利で快適な生活を或る程度断念することへの促しであり、実質的には自然に即した素朴な欲望で満足していたアルカディアへの回帰を目指すことに他ならない。人工楽園としてのパラダイスの限界が、かつての自然楽園としてのアルカディアの復権に向かうのは理の当然とも言えるだろう。しかし、アルカディアへの回帰で事は収まるのか。そもそもアルカディアに満足できなかったから人間はパラダイスに向かったのではなかったか。ここでアルカディアに回帰しても、早晩パラダイスへの欲望が抑えきれなくなるに違いない。では、どうすべきか。率直に言って、人間は欲望を抑制などできないし、するべきではないと私は考えている。人間はあくまでも欲望の全 面的解放を目指すべきだ。しかし、そんなことを許せば人類は滅亡してしまうだろう。それ故、パラダイスは徹底的に批判されなければならない。ただし、それはアルカディアへと後向きに戻るような批判ではなく、ユートピアを前向きに実現するような批判なのだ。その違いは何か。
間奏曲:汗顔の至り
昨日は前田速夫さんの最新刊『未完のユートピア』の出版を記念する集まりが東京は東中野であり、私も前田さんとの対談という形で参加させて戴いた。もとより対談などおこがましい限りで、生来口下手な私としては前田さんのお話を適宜補足することができれば幸いと思っていた。それでも唯一つだけ、「ユートピア」という一般的には余り評判の良くない言葉、すなわち「理想主義」同様、現実の諸問題から遊離したキレイゴトとしか見做されない言葉の復権、というと大袈裟だが、今「ユートピア」を問題にすることの意味を改めて考える必要性を訴えたいと念じていた。そのためには当然、アルカディアとパラダイスとの関係を明らかにしなければならないが、自分の内部ではすでに明確であることも、いざ他人様(ひとさま)の前で話そうとすると実は未だ多くが曖昧なままであることに気づかされる。結果、しどろもどろになる。これは何も今回ばかりではなく、私はいつも同じことを繰り返している。余談ながら、エドガー・アラン・ポーに「Mystification」という作品があるが、これは通常「煙に巻く」と和訳されている。私にとって「ユートピア」は本来「語り得ぬもの」であり、一種のmysteryに他ならない。ヴィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と明言しているが、語り得ぬものこそ最も語りたいもの、語らねばならぬものだろう。沈黙は決して言葉の放棄ではない。「沈黙の言葉」と言うと、すでに新たなmysteryだが、語り得ぬものを如何にして語るのか。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」と或る人は詩っているが容易なことではない。少なくとも今の私にとって、「ユートピア」という世界(場)は「絶対矛盾的自己同一」や「coincidentia oppositorum」という言葉同様、依然としてmysteryの閾にとどまる。そして、自分自身を「煙に巻く」ことができても、他人様を「煙に巻く」ことはできない。そもそもリアリティのmystificationは現実逃避でしかないだろう。私は「ユートピア」の究極的リアリティ(現代社会に不可欠の意味)を確信しているが、やはりそのmystificationという安易な道に逃れてきたような気がする。正に汗顔の至りだ。今後はユートピアのリアリティを「煙に巻く」ことなく、どうしたら他人様に伝えることができるか、そのことを中心にこの拙い「ユートピア便り」を続けていきたいと思っている。
パラダイスの批判(3)
有名な笑い話がある。終日ノンビリと釣りをしている怠け者が友人から「いつまでも遊んでいないで働いたらどうだ」と非難される。怠け者は言う、「何のために働くのか」「裕福になるためだ」と友人。「裕福になるとどうなる」「一日中ノンビリと釣りをして暮らせる」「それなら俺はもう今しているじゃないか」という話だ。勿論、野暮を承知で言えば、怠け者のノンビリとした生活はこのままでは持続しない。親が大金持だとか宝くじに当選するなどの幸運でもない限り、人間はずっと怠け者でいることは許されない。働かざる者食うべからず。これは人間生活の基本原則だ。しかし、ノンビリとした無為の生活が人生の目的なら、一刻も早く労働から解放されることが理想とされるだろう。例えば、マルクスの娘婿であるポール・ラファルグには『怠ける権利』という名著があるし、ボブ・ブラックというアナキストは「労働廃絶論」を世に問うている。最近では中国に「寝そべり族」なるものが登場しているし、日本でもギリギリFIRE(経済的自立の早期退職)の生活態度が話題になっている。こうした傾向はパラダイスにも言えることだ。すなわち、かつてはモーレツに労働することでしかパラダイスは手に入らないと信じられていたが、今やパラダイスも大きく変質している。大豪邸に住むパラダイスは時代遅れとなり、たとい狭いアパートの一室であっても、自分の好きなことをしていられるなら、そこがパラダイスとなる。実際、マンガやゲームに没頭して終日遊んで暮らしている引きこもりの子供を我々は如何にして批判できるのか。そもそも批判することが正しいのか否か。「遊んでばかりいるな!」と批判する勤勉な大人たちも、内心は羨ましく思っているのではないか。嫌々労働している大人たちと好きなことをして遊んでいる子供たち。どちらがパラダイスに生きているのかは明白だ。しかしながら、後者もそんなに幸福そうに見えないのは何故か。パラダイスには生の充実に必要な決定的な何かが欠けている――私はそう思わずにはいられない。
パラダイスの批判(2)
「それ、意味あんの?」ドラマを観ていると、最近の若者はよくそんなセリフを口にする。いや、最近の若者ばかりではない。私自身、若い頃はそんなことを口走っていたような気がする。意味のないことはしたくない。当然のことだ。意味のあることだけをしていくのが充実した人生を意味する。しかし、意味があることとは何か。それは通常、自分の役に立つことだ。他者の役に立つことをしても、それで他者に感謝されて自分がいい気持ちになるなら、それは結局自分の役に立つことと同じで意味がある。もし他者から無視されるなら、それは意味のないことであり、もう二度と他者の役に立つことなどしなくなるだろう。これが現代のエゴイズムの倫理に他ならない。実に嘆かわしいと思う反面、エゴイズムという自己主張を貫いて生きられるなら、それはそれで立派なことだとも思う。例えば学生の場合、マンガやゲームばかりに没頭して一日を過ごすのが楽しければ、それは意味のあることだが、親や教師はその意味を認めない。学生にとって、意味のあることは勉強だからだ。そのことは学生自身も或る程度は認めざるを得ないので、マンガやゲームに没頭したいというエゴイズムは抑制して、親や教師が意味のあることだと定める勉強に向かうことになる。ただし、勉強と言っても、それは受験勉強に限られるのであって、受験とは関係のない勉強は意味のないことだとされる。かくして意味のあることは個人のエゴイズムから離れて社会的に規定されることになる。そして、社会的に規定された意味のあることとは競争だ。振り返ってみれば、人は物心がつく頃から(場合によっては、それ以前から)競争に駆り立てられている。尤も、親や教師も別に意地悪で競争に駆り立てているわけではない。それは全て、より良い生活というパラダイスのためだ。人はパラダイスを獲得するために競争に駆り立てられると言ってもいいだろう。より良い学校を卒業して、より良い会社に入る。その果てにパラダイスがある。勿論、学歴など無視してパラダイスを獲得する人もたくさんいる。しかし、その人たちは学歴の競争以上の競争を勝ち抜いてきたに違いない。パラダイスに競争は不可避だ。競争こそが人生を充実させ、この世界をパラダイスにする。言うまでもなく、こうした人生観は曲がりなりにも競争に勝ち残ってきた人たちのものだ。早々に競争に嫌気がさしてドロップアウトした者は呟くだろう。「それ、意味あんの?」