新・ユートピア数歩手前からの便り -66ページ目

パラダイスの批判

大衆はパラダイスを求めている。自力では不可能なら、それを実現してくれるヒーローを待ち望んでいる。私は私もその一員である大衆のそうした姿勢を徹底的に批判したいと思う。それは大衆の批判である以前に、パラダイスそのもののラディカルな批判でなければならない。大衆はパラダイスを求め続けるべきではない。しかし、先述したように、パラダイスへの憧れは人間の本能(自然の情)だ。やめろと言われても「ハイ、そうですか」と簡単に諦められるようなものではない。実際、あらゆる欲望を滅却して無の境地に悟達することが人間の完成だとしても、どれだけの人がそのような完成を望むだろうか。むしろ、殆どの人は未完成のままパラダイスを求め続けるに違いない。それに、パラダイスを求め続けてきたからこそ、人間の歴史はこれほどまでに発展してきたと言える。そこにすでにあるものに満足せず、未だどこにもないより良いものを求める欲望――これが人間に特有の生の原動力となる。けれども、その結果、人間は自分もその一部である自然環境を破壊し続けている。人間の果てしなき欲望は自然に負荷をかけ過ぎているからだ。このまま限りなくパラダイスを求め続けるならば、早晩人間は自分で自分の首を絞めることになるだろう。それ故、心ある人たちはパラダイスに何らかの歯止めが必要だと警鐘を鳴らしている。それは往々にしてアルカディアへの回帰を促すことになる。知恵の木の実を食べる以前のエデンに戻ることは不可能かもしれないが、できるだけ自然と調和した生活を望むアルカディアなら何とかなりそうだ。人工楽園のパラダイスか自然楽園のアルカディアか――これが当面の課題に他ならない。

補足:パラダイスの格差

才能と幸運に恵まれた人は自力で自分の世界をパラダイスにすることができる。すなわち、自分の思い通りに欲望を実現していくことができる。このような天才がヒーローと見做されることも多いが、私が問題にしたいヒーローは違う。これといった特性のない凡人の日常生活をパラダイスにしてくれる奇特な人をこそヒーローと称したい。大衆が憧れるヒーローではなく、大衆を救済してくれるヒーロー。言うまでもなく、天才が獲得するパラダイスと大衆の享受するパラダイスは質的に異なる。前者を上流のパラダイスとすれば、後者は中流以下のパラダイスということになる。ただし、流れの位置は異なっていても、同じ一つの流れであることに変わりはない。つまり、高低差は次元の違いではなく、天才も大衆も水平の次元に生きている。とは言うものの、天才の見ている景色を大衆が見られる道理がない。そこには厳然たる格差がある。しかし、大衆はその格差を当然のこととして平然と受容する。その上で、格差は次第に有名無実化していく。例えば、かつては上流でしか乗れなかった自動車に今では中流以下でも乗れるようになる。たとい乗れる自動車に格差があっても、「ドライブを楽しむ」ということにおいて実質的な格差はなくなる。同様に、銀座の高級鮨店と回転寿司チェーン店の間には厳然たる格差があっても、「鮨を楽しむ」という現実に格差はなくなる。こうしたパラダイスの「世俗化」が良いことなのか悪いことなのか、俄かに判断することはできないが、全世界の人間が格差を前提にしたパラダイスを曲がりなりにも享受できる現実は多くの人に歓迎されるだろう。事実、かつては一部の人にしかできなかった自己表現が今ではYouTubeやSNSを通じて誰でも簡単にできるようになった。尤も、下流のパラダイスさえ享受できぬ貧困のドン底生活を余儀なくされている人は未だたくさんいるに違いない。では、そうした落ちこぼれの、負け組のドン底生活者に最低限のパラダイスを与えるヒーローこそが待ち望まれているのか。新生・新しき村の活動はそのようなヒーローになることをこそ目的とすべきか。私は根本的に違うと思っている。

補足:パラダイスの理想

良い商品は売れ、悪い商品は売れない。これは正当なことだ。逆に、悪い商品なのに、良い商品より売れるとすれば、それは不当、と言うよりも不自然で現実にはあり得ないことだ。それが現実にあるとすれば、そこには何らかの不正(悪い商品を良い商品だとごまかす)があるに違いない。しかし、そんな姑息な不正が長続きする道理がない。誇大広告などの不正は必ず見破られる。結局、より多く売るためにはより良い商品をつくるしかない。より良い商品は人間生活の役に立つ。だから、その良さを広く伝え、その商品を普及させることで人間生活の改善に貢献することができる。その信念が生き甲斐になる。その結果、より良い商品を売る人に富が集中するとしても、おそらく誰も文句を言わないだろう。むしろ、より良い商品を買う人はその恩恵に感謝さえするに違いない。言うまでもなく、より良い商品の生産者(販売者)とより良い商品の消費者の関係は循環する。例えば、より良いお米の生産者はより良い自動車の消費者として生活を楽しむ。生産と消費は循環し、それが人間にとってパラダイスとなる。これのどこがいけないのか。

補足:パラダイスの実現

未だパラダイスが実現していないのに、その限界を憂慮するなど愚の骨頂――そういう思いもある。我々が今、全力を尽くして為すべきことはパラダイスの実現なのかもしれない。そもそも「パラダイスの理想は人間にとって究極的なものではない」と繰り返し主張したところで、大衆をパラダイスへと駆り立てる衝動を断ち切ることなど不可能だ。ここでパラダイスの定義を私なりに簡単にしておけば、それは「人間の欲望の全面的な解放」ということになる。人間には様々な欲望があり、しかも際限がない。勿論、自分の生来の限られた条件によって全ての欲望が満たされるわけではないが、欲望はかたちを変えて増殖していくだろう。当然それは水平の次元で展開するが、少しでも豊かになろうとする欲望は常に水平の均衡を乱していく。すなわち、「正当な競争」による格差の発生だ。この格差がパラダイスの駆動力だと言ってもいい。実際、格差そのものは極めて自然なものだ。体格の大きいもの、小さいもの。強いもの、弱いもの。「人間は皆同じ」ということの方が不自然ではないか。人間はそれぞれ違う。違うことに自らの存在意義を見出していく。学歴、社会的地位、名声。誰しも「世界のテッペン」に立ちたいと願う。皆、それぞれのパラダイスを求める。問題は、そうしたパラダイスの追求が必ずしも「正当な競争」によって為されていないという現実に見出される。そこでヒーローは「不当な競争」で獲得したパラダイスを享受している悪者を糾弾する。しかし、「正当な競争」とは何か。

ヒーローが立ち去った後(10)

戦争、貧困(経済格差)、環境破壊――我々は重大な問題に直面している。これは人間の問題(人間が引き起こしたが故に人間が解決せねばならない問題)であり、誰も無関係ではあり得ない。しかし、それぞれの関係の仕方は様々であり、重大な問題であっても切実な問題ではないと感じる人もいるに違いない。無関心も一つの関係だと言えるが、ここでは積極的に問題に関わろうとする人間について考えたい。前提となるのは、以前にも言及した二人のシモーヌ(ヴェイユとボーヴォワール)の次のような対立だ。

「突き刺すような調子で、今重要なのはたった一つ、と彼女(ヴェイユ)は言った。地球上のすべての飢える人に食べ物を与える革命だけ。私(ボーヴォワール)は負けずに強い調子で答えた。肝要なのは人間を幸福にすることではなく、人が自らの存在に意義を見出せるよう手助けすることだ、と。彼女は私を睨みつけて、「あなた、一度もお腹をすかせたことがないのね」と言い、私たちはそれきりになった。きっと彼女は私を理想ばかり高いプチブルに分類しただろうと思い、私は一人で憤慨していた」

言葉の表面だけで判断すれば、ヴェイユは肉体の糧を、ボーヴォワールは魂の糧を、それぞれ問題にしていると言える。しかし、おそらくそうした二元論的な分割は互いを誤解させるだけだろう。ただし、その誤解は大衆のヒーローに対する関係に大きく影響する。そもそも「地球上のすべての飢える人に食べ物を与える革命」とは何か。ヴェイユはそれだけが今重要なたった一つの革命だと述べているが、例えば大金持のノブレス・オブリージュによる飢餓の救済はどうか。飢餓は切実な問題であり、それ以上に重大な問題などないとすれば、大金持による救済であっても一向構わないだろう。むしろ、その救済は歓迎され、大金持は貧乏人のヒーローとなる。それがヴェイユの望んだ革命だとは到底思えないが、飢餓だけが人間の切実な問題だとするならば、そうした誤解も成立する。そして、その核に見出されるものこそ大審問官の論理に他ならない。誤解を恐れずに言えば、戦争、貧困、環境破壊といった重大な問題も大審問官の論理によって解決することは可能だろう。大審問官は大衆が待ち望むヒーローにさえなる。しかし、たといそれで飢える人がいなくなる幸福が実現するとしても、大審問官の論理をラディカルに否定することこそ革命ではないのか。「地球上のすべての飢える人に食べ物を与える革命」は飢餓を水平の次元だけで解決するヒーローが立ち去った後にしか実現しない。これも所詮、一度もお腹をすかせたことがない人間の戯言なのだろうか。

結局、私は何を主張したいのか。どうもうまく表現できないが、私はヒーローを否定するつもりはない。世の中には様々なヒーローが悪と戦っている。反戦活動を地道に続けているヒーロー、貧困をなくそうと日々貧しき人々に寄り添っているヒーロー、環境破壊と戦っているヒーロー。派手な活躍が目立つヒーローばかりではない。誰にも注目されることのない隠れたヒーローも無数にいるに違いない。私はそうしたヒーローに心から敬意を表したい。しかし、それにもかかわらず、私はヒーローの限界といったものを意識せざるを得ない。ヒーローは水平の次元でのみ活躍できる。それは現実に必要とされるものであり、実に感動的なドラマを生み出す。けれども、ヒーローが実現するのはパラダイスにとどまる。戦争がなくなり、貧困に苦しむ人もいなくなり、自然環境も回復するパラダイス。それのどこがいけないのか。パラダイスを人間の究極的な理想とすればいいではないか。今の私の力ではうまく反論できないが、私はパラダイスにとどまるべきではないと考えている。パラダイスに安住しようとすれば、どうしても大審問官の論理に依存することになるからだ。ヒーローの限界はパラダイスの限界でもある。否応なくパラダイスを超えていかねばならぬ瞬間が必ずやって来る。それは垂直の次元が要請される瞬間でもある。ただし、垂直の次元では人はもはやヒーロー足り得ず、アンチ・ヒーローとして殉教者になるしかない。ユートピアにヒーローは存在し得ない。

ヒーローが立ち去った後(9)

野暮を承知で「勝利者の敗北感」を論理的に解釈すれば、それは水平の次元の限界ということになる。一般大衆は水平の次元に生きる。世俗的な人間にとって、それ以外に現実生活はない。極めて当然のことであり、私はそのこと自体を批判するつもりはない。むしろ、水平の次元を蔑視して垂直の次元のみを尊重する聖人がいるとすれば、私はその欺瞞性をこそ批判したい。たとい垂直の次元がどんなに純粋かつ崇高な生を可能にしたとしても、水平の次元から遊離した垂直の次元に意味はない。人の生きる現実は水平の次元にある。そこで人は一喜一憂して日々を過ごす。平穏無事な日常が続けばいいが、人生は波瀾万丈、自然の災いもあれば人為的な悪事に苦しめられることもある。そこにヒーローが颯爽と登場する。ヒーローはあらゆる悪と戦い、この世界(水平の次元)をパラダイスにするべく活躍する。私はそうしたヒーローに憧れ、できれば自分もヒーローの一人になりたいと思った。しかし、ヒーローは虚しい。悪者を退治すればするほどニヒリズムに陥らざるを得ない。それが敗北感ともなる。例えば、貧困という悪を退治する大金持ちのヒーローは大衆から歓迎され、感謝もされるが、そこに貧困に対する真の勝利はない。確かに、大衆はヒーローによって救われる。しかし、貧しき大衆を救えば救うほど、ヒーローはパラダイスの限界を意識せざるを得ない。かくしてヒーローはパラダイスから立ち去ることになる。その後に現れるものこそ真の垂直の次元に他ならない。

ヒーローが立ち去った後(8)

ヒーローの運命について考える時、私はいつも黒澤明の「七人の侍」のラストシーンを思い浮かべる。志村喬演じる勘兵衛は「勝ったのは百姓たちだ、わしたちではない」と呟くが、ヒーローは常に負け戦を余儀なくされる。とは言え、勘兵衛たちは決して負けたわけではない。むしろ、百姓たちを苦しめる野武士軍団を壊滅させたのは七人の侍であり、彼らは掛け値なしのヒーローに他ならない。しかし、勝利者ではない。野武士軍団には勝利したが、それは人間としての本当の勝利ではない。余談ながら、それは小次郎に勝利した武蔵の敗北感に通じるものがある。「勝利者の敗北感」とは奇妙な言葉だが、そのような逆説でしかヒーローの運命を表現することはできない。ヒーローは悪を退治するのが使命だが、その勝利には否応なく敗北感が付き纏う。言い換えれば、勝利の美酒に酔い痴れている者は本当のヒーローではない。連戦連勝、勝てば勝つほど敗北感が募っていく。だから、ヒーローは静かに立ち去るしかないのだ。その後に何が残されるか。平穏無事な日常を取り戻した百姓たちだ。勘兵衛によれば、そうした百姓たちこそ本当の勝利者だということになるが、私には異論がある。百姓たちが本当の勝利者になるためには、ヒーローが立ち去った後の世界の在り方について更に深く思耕する必要があるのではないか。

ヒーローが立ち去った後(7)

臆面もなく言えば、私はヒーローになりたいと思っている。それは幼い頃からの夢であり、未熟な大人のまま老人になりかけている今でも変わらない。正義の味方。どんなに些細な悪をも見逃さず、ありとあらゆるこの世の不正を根源から絶つヒーローだ。しかし、それは依然として夢にとどまり、ついに理想には達し得ない。理想はやはりヒーローが立ち去った後にのみ人間の切実な問題として生じてくる。この現実は私をひどく混乱させ、ユートピア問題そのものも実質的に大衆には理解不能なものと化している。実際、ユートピアは大衆から遊離した問題だと見做されても仕方がない。大衆が求めているのはあくまでもパラダイスであってユートピアではないからだ。それ故、私は苦し紛れに「大衆抹殺論」などという乱暴なことを考えて顰蹙を買う結果になるわけだが、「大衆抹殺論」は決して「大衆蔑視論」ではない。むしろ、私もその一人である大衆の在り方をラディカルに思耕すればするほど蔑視などという中途半端な処理では済まなくなる。大衆はパラダイスを求め、それを実現してくれるヒーローを待ち望む。私は今、そうした大衆を徹底的に批判する必要に駆られている。ヒーローになりたいという昔日の夢は夢のまま心に沈殿していき、アンチ・ヒーローにならねばならぬという覚悟だけが私の胸底から渦を巻いて湧き上がってくる。

ヒーローが立ち去った後(6)

私は先日、「お前は所詮、高等遊民にすぎない」という批判を受けた。私は金持でも特権階級でもないが、日々の生活に困ることはない。それは私が幸か不幸か未だ独身で、すでに父母共に鬼籍に入り、養うべき家族がないことによるものだ。気楽と言えば気楽な身分だが、この気楽さは実に寂しいものでもある。今は亡き両親にその寂しさについて散々警告されたにもかかわらず、老境に入ってやっと身に染みている。事すでに遅し。今更嘆いてみても仕方がない。しかし、私のことはともかくとして、世の中には家族のためにやりたくない会社の命令に従い、下げたくもない頭を下げている人は大勢いる。それが一般大衆の生活に他ならない。そして、そのような理不尽な社会からの脱却を実現してくれる者こそ大衆が求めているヒーローだろう。すなわち、やりたくないことは一切やらなくてもいい社会、裏を返して言えば嫌な労働などしないでやりたいことだけを日々やって暮らせる社会を実現してくれる人物だ。そこに大衆の求めているパラダイスがある。尤も、例えば宝くじに当選してもパラダイスは実現するかもしれない。しかし、そのパラダイスに普遍性はない。また金儲けに秀でた富裕層はすでにパラダイスに生きていると思われるが、そこにも普遍性は認められない。これに対して新しきヒーローはあくまでも「普遍的なパラダイス」の実現を目指す。それが如何にして成るかということも重要な問題だが、私はどうしてもヒーローのその後を考えざるを得ない。大衆の生活を第一のものとして考えられぬ私はやはり高等遊民にすぎないのか。

ヒーローが立ち去った後(5)

あらゆるイキモノ(象徴的には石や金属なども含む)のイノチを尊重する新しきヒーローはパラダイスを実現せんとする。言い換えれば、パラダイスの実現が一介の人間をヒーローにする。パラダイスではイノチの尊重が第一であり、イノチの危機に瀕している人間の救済が喫緊の課題となる。典型的なのは医療関係者だ。中でも医師はあらゆるイノチを救おうと懸命に努力する。悪人であろうと何であろうと関係ない。災害現場や戦場での医療行為は実に素晴らしく、多くのドラマで感動的に描かれている。勿論、それは人間のイノチに限らない。犬や猫のイノチを救おうとする人々の感動的なドラマもある。しかし、他者のイノチに直接関わるのは医師たちだが、イノチの危機をもたらすのは怪我や病気といった直接的な要因だけではない。むしろ日常的には人を理不尽にも怪我や病気に追い込んでいく間接的な要因の方が重要な場合もある。それは社会的要因であり、その最たるものは貧困に他ならない。もしこの世界から貧困を完全になくすことができれば、それは間違いなくパラダイスであり、それを実現する者はヒーローとなる。しかし、パラダイスの実現はヒーロー誕生の瞬間であると同時に、ヒーローの存在が無用へと転じる瞬間でもある。一般大衆はヒーローの銅像でも建てて永く感謝の意を表すかもしれないが、パラダイスにもはやヒーローの実質的な働き場所はない。ヒーローは言わば高所に上るために必要な梯子のようなもので、高所に上がってしまえば無用となる。それがヒーローの宿命だ。パラダイスの実現にヒーローは不可欠だが、パラダイスにヒーローの居場所はない。それでも未練がましくパラダイスに居座れば、ヒーローは堕落するだけだ。そんな醜態をさらす前に、ヒーローはパラダイスから立ち去るしかない。そしてユートピアの問題は、正にヒーローが立ち去った後に生じてくる。恰もミネルヴァの梟のように。