補足:パラダイスの格差
才能と幸運に恵まれた人は自力で自分の世界をパラダイスにすることができる。すなわち、自分の思い通りに欲望を実現していくことができる。このような天才がヒーローと見做されることも多いが、私が問題にしたいヒーローは違う。これといった特性のない凡人の日常生活をパラダイスにしてくれる奇特な人をこそヒーローと称したい。大衆が憧れるヒーローではなく、大衆を救済してくれるヒーロー。言うまでもなく、天才が獲得するパラダイスと大衆の享受するパラダイスは質的に異なる。前者を上流のパラダイスとすれば、後者は中流以下のパラダイスということになる。ただし、流れの位置は異なっていても、同じ一つの流れであることに変わりはない。つまり、高低差は次元の違いではなく、天才も大衆も水平の次元に生きている。とは言うものの、天才の見ている景色を大衆が見られる道理がない。そこには厳然たる格差がある。しかし、大衆はその格差を当然のこととして平然と受容する。その上で、格差は次第に有名無実化していく。例えば、かつては上流でしか乗れなかった自動車に今では中流以下でも乗れるようになる。たとい乗れる自動車に格差があっても、「ドライブを楽しむ」ということにおいて実質的な格差はなくなる。同様に、銀座の高級鮨店と回転寿司チェーン店の間には厳然たる格差があっても、「鮨を楽しむ」という現実に格差はなくなる。こうしたパラダイスの「世俗化」が良いことなのか悪いことなのか、俄かに判断することはできないが、全世界の人間が格差を前提にしたパラダイスを曲がりなりにも享受できる現実は多くの人に歓迎されるだろう。事実、かつては一部の人にしかできなかった自己表現が今ではYouTubeやSNSを通じて誰でも簡単にできるようになった。尤も、下流のパラダイスさえ享受できぬ貧困のドン底生活を余儀なくされている人は未だたくさんいるに違いない。では、そうした落ちこぼれの、負け組のドン底生活者に最低限のパラダイスを与えるヒーローこそが待ち望まれているのか。新生・新しき村の活動はそのようなヒーローになることをこそ目的とすべきか。私は根本的に違うと思っている。