ヒーローが立ち去った後(4)
人間のための環境保護(Shallow ecology)ではなく、あらゆるイキモノのための環境保護(Deep ecology)は明らかに人間の理想を超えている。すなわち、「人間第一!」ではなく「地球第一!」なのだ。従って、この新たなヒーローの戦う敵は「人間第一!」主義者ということになる。そして、その戦いはしばしばヒューマニズムそのものを侵食していく。周知のように、humanismは「人文主義」とか「人道主義」と和訳されるが、その現代における本質は「人間中心主義」にある。それ故、「人間萬歳」が理想社会のモットーだとしても、それが他のイキモノのイノチを奪う結果をもたらすならば、新しきヒーローは黙っていない。その極端な反応は毛皮を着用した女性や捕鯨船への襲撃に見られる。その意図は理解できる。さりとてそのために毛皮ファッションや捕鯨文化が消滅してしまうことにも違和感がある。動物実験に対する新しきヒーローの戦いも然り。人間中心社会で人間のために殺されるイキモノがいる 限り、新しきヒーローはあらゆる殺生に対して戦いを挑み続けるが、私はそれを無条件に肯定・受容することができない。結局、私も「人間第一!」主義者にすぎないのか。ゴーガルテンは人間を神と世界の間に位置付けた。鄙見によれば、ヒトはイキモノの世界の一部にすぎないが、人間は神によって世界の経営を委託された者に他ならない。問題はその「委託」の意味だが、それは決して「人間第一!」主義に尽きるものではないと私は考えている。
ヒーローが立ち去った後(3)
医学はヒトのゾーエーを救うためにマウスやモルモットなどのイノチを奪い続けている。所謂「動物実験」の問題だ。人間は食べる目的以外でも他のイキモノのイノチを奪う。毛皮などのファッションやスポーツハンティングのような娯楽のために他のイキモノのイノチを奪うこともある。これらは全て人間のビオスにおける「文化」となる。食文化を筆頭に、人間の文化の多くは他のイキモノのイノチを奪うこと、もしくはそれに対する贖罪の念から成り立っている。食用や動物実験はヒトのゾーエーのための必要悪と割り切れても、人間の娯楽のための殺 生は倫理的に許されない。それはすでに法的にも禁じられていることだ。しかし、徹底することはできない。毛皮にしても、防寒の必要とファッションの必要は質的に異なっている。ハンティングにしても然り。ヒトのゾーエーとイキモノのイノチの格差がなくなることはない。そこで新たなヒーローが要請される。それはヒトのゾーエーのためのヒーロー(国民の安全保障のために戦う兵士、市民の安全を守る警察官や消防士、人々の人権を守る法律家、そして人間の健康のために戦う医療関係者など)とは全く異なるヒーロー、すなわちイキモノのイノチのために戦うヒーローだ。具体的には「Deep ecology」や「Earth First!」などのラディカルな環境保護運動者だが、この新しきヒーローは果たして人間の理想とどう向き合うことになるのか。
ヒーローが立ち去った後(2)
厳密に言えば、「ヒトのゾーエーを奪うこと以上の悪はない」という論理の脆弱性を問わねばならない。ヒトのゾーエーは他のイキモノのイノチを奪うことで成立しているからだ。従って、「イキモノのイノチを奪うこと」が根源的悪であるならば、この宇宙に悪でない存在は皆無だということになる。ただ、勉強不足で確言はできないが、殆どの植物(食虫植物などは除いて)は悪を免れていると言えるかもしれない。もしそうなら、「人間の理想は植物状態になることだ」という論理もあり得るが、実質的には不可能な理想でしかない。病気や事故で植物状態を余儀なくされている人たちを貶めるつもりは全くないが、それも「生きている」状態の一つではあっても、やはり「人間として生きている」とは言えないのではないか。ヒトは他のイキモノのイノチを奪うことで生きる。その根源的悪からヒトのゾーエーは逃れられない。人間はその悪を料理と化し、更には美食(グルメ)という快楽にまで高める。そこに人間のビオスの次元が開ける。勿論、人間のビオスにはアイヌのイオマンテのように「イノチを奪ったイキモノを神々に送る」という宗教的儀礼もある。しかし、「イタダキマス」という言葉が残っているものの、そうした垂直の次元が日常的に意識されることは殆どない。その意識が人間の悪を免罪することにはならなくても、私は人間の生活(ビオス)における垂直の次元の立て直しが喫緊の課題だと思っている。それはヒーローが立ち去った後の根源的問題でもある。
ヒーローが立ち去った後
私はヒーローになりたかった。悪人をバッタバッタと成敗する正義のヒーローに。自分にそんな力がないことを悟った今でも、ヒーローに対する憧れは変わらない。自分はヒーローになれなくても、せめて悪に立ち向かう気概だけは失わないようにしたい。しかし、悪とは何か。世の中には目に見える悪と目に見えない悪がある。戦争では悪がよく見える。例えば、ウクライナにロシアが侵攻すれば、ロシアが悪に見える。ウクライナは正義の戦争を余儀なくされる。しかし、ロシアからすれば、ウクライナが悪と見えたから侵攻したのであって、ロシアもまた正義の戦争をしていると言える。戦争には大義が不可欠だ。たとい後に侵略と見做されるとしても、戦争は常に聖戦としてのみ存在する。とすれば、悪はどこにあるのか。互いに正義の戦争をしている中で、よく見えていた筈の悪が雲散霧消する。言うまでもなく、悪が無に帰したわけではない。互いの悪を成敗せんとする双方のヒーローたちが入り乱れて、悪の「かたち」が雲散霧消しているにすぎない。強いて言えば、その雲散霧消こそが戦争における悪の「かたち」なのかもしれない。しかし、互いの正義が互いの悪と化す状況において、少なくとも私は悪の「かたち」がよく見えなくなっている。これは人間の喪失でもあるが、こうした悪の雲散霧消状況において敢えて悪の「かたち」を見極めようとすれば、やはりヒトの現実にまで下降するしかない。すなわち、ヒトのゾーエー(根源的生=イキモノの剝き出しの生)を奪うこと、これこそが、そしてこれのみが無条件の悪だと認識するのだ。沖縄では「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)と言うそうだが、ヒトのゾーエーに敵も味方もない。従って、戦場の本当のヒーローは正義のために戦う兵士ではなく、敵味方の関係を超えて、傷ついたヒトのイノチをひたすら救おうとする赤十字や国境なき医師団ということになる。以前に「正義の戦争で人間が殺し合うよりも、不正義の平和の方がいい」という主張を問題にしたが、その根柢にあるものも「ヒトのゾーエーを奪うこと以上の悪はない」という考えだろう。確かに、医療関係者は言うに及ばず、「ヒトのゾーエー」を日夜守り続けている警察や消防の人たちは大衆のヒーローだ。しかし、果たして「ヒトのゾーエー」だけが守られる社会に我々は耐えられるだろうか。敢えて誤解を招く言い方をすれば、我々は平和に徹して生きられるだろうか。大衆なら生きられるかもしれない。しかし、あくまでも人間の理想を追求する単独者はその限りにあらず。単独者の理想主義は「ヒトのゾーエー」を超えていくに違いない。そして、やがて戦争が繰り返される。実に危険極まりないことだ。根源的問題はヒーローが立ち去った後にやって来る。
補足:理想主義の危険性に関するティリッヒの援用
理想主義はカリカチュアの対象とされると同時に、人類を、いや地球そのものさえ破滅させかねない危険性を孕んでいる。従って、私は理想主義のラディカルな実現を自らのライフワークとしながらも、心の片隅では「人間はなまじ理想など持たぬ方がいい。ヒトの現実だけに即して、ノンビリと、テキトーに、イイカゲンに日々を過ごしていればいい」などと思ってもいる。私は常に理想主義の可能性と危険性の二つに引き裂かれているわけだ。そんな中、偶々ティリッヒの次のような文章に遭遇した。これも何かの縁だと思い、理想主義の危険性に関するティリッヒの援用とする。
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この態度(今ここにおいて神を人間の内に、そして人間を神の内に見る「宗教的ヒューマニズム」)が表現されている芸術様式はふつう理想主義と呼ばれるのであるが、この語は今日もはや使用しがたいほど悪評をこうむっている。今日理想主義であることはまるで犯罪者であるようにみなされる。しかし批判されたのは言葉だけでなく、概念そのものである。ヌウメン的要素、記述的要素、批判的写実的要素が優勢であった時代には、理想主義的伝統は軽蔑され、排斥された。それが無数の宗教的絵画を生み出したにもかかわらず、無制約的なものを媒介することはそれには不可能であるとみなされた。私自身もかつてはこの立場にくみしていたのであるが、理想主義が人間の最高の可能性の先取りであり、それが失われたパラダイスの想起と回復されるべきパラダイスの先取りとを意味することを見抜くにおよんで、ようやく意見を変えた。このように見るならば、理想主義は無制約的なものの経験にとっての明白な媒体である。それは人間とその世界における神的なものをその本質的な、ゆがめられない、創造されたままの完全性において表現する。
しかしながら他の様式要素の場合よりもなお一層力をこめて、われわれは芸術的理想主義を脅かす危険を強調しなければならない。それは理想主義が表面的かつ感傷的に美化する写実主義と取り違えられるという危険である。このことは多くの分野において、とりわけ宗教的芸術において起こっており、そしてこれが理想主義が――言葉についても概念についても――悪評をこうむっている理由である。真正の理想主義は、一つの存在あるいは一つの出来事の深みにある諸可能性を示し、そして芸術においてそれらに形状を与える。美化する写実主義は事実的にそこにある諸対象を示すが、それを不真実な理想化された付加物とともに示す。われわれが今日新しい古典主義を創造しようとするとき、この危険を避けねばならない――今日必須の警告である。」(ティリッヒ「芸術と無制約的に実在的なもの」)
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厳密に言えば、ティリッヒが警告する「理想主義を脅かす危険」と私が問題にしている「理想主義の危険性」はズレている。しかし、根は共通している。私の問題に引き寄せて言えば、それは「失われたアルカディアの想起と回復すべきパラダイスの先取りとしての理想主義」の危険性に他ならない。
補足:ヒトと人間
ヒトと人間の区別はユートピア問題を思耕するに当たっての便宜的なものであり、決して二元論に基づくものではない。ヒトの生はゾーエーであり、人間の生はビオスだと考えるにしても、両者が切り離せないのは明白だ。とは言え、現代に生きる我々がヒトの現実と人間の理想に引き裂かれていることも厳然たる事実だろう。批判されるべきはあくまでも人間の理想追求がヒトの現実から遊離してしまうことにある。実際、ヒトの剥き出しの生を無視した人間の理想などあり得ない。そんなものがあるとすれば、それこそ「理想主義のカリカチュア」でしかない。ところが、一般的に理想主義と言えば、ヒトの現実から目を背けるものだと見做されてしまう。そんなものが真の理想主義であるわけがない。しかしながら、私は未だその真理を説得的に語ることができない。ライフワークが聞いて呆れる。
補足:破格の贅沢
繰り返し偉そうに言うことでもないが、私のライフワークはユートピアの実現だ。それは理想主義をラディカルに実現することでもある。誰もそんなことは望んでいないし、場合によっては極めて危険な試みになるが、私はそれを選んだ。別に誰かに褒めて欲しいわけではない。尤も、本音を言えば「素晴らしいライフワークですね!」と世界中の人たちから共感を得たいが、そんなことはあり得ない。むしろ、現在の世界情勢においてユートピアや理想主義を語れば時代錯誤だと嗤われるだけだ。実際、ホームレスが巷に溢れているのに「人間萬歳!」と叫んだり、かつては一つの共同体を構成していた国民同士が戦争をしている現場で「君は君、我は我也。されど仲良き」などと嘯いているだけでは、悲惨かつ醜悪な現実を変革することなど到底できないだろう。「理想主義のカリカチュア」と嘲笑されても仕方がない。しかし、そんなものは理想主義ではない。ましてや理想主義をラディカルに実現することではあり得ない。確かに、理想主義には或る程度の「生活の余裕」が不可欠だ。しかし、「人間萬歳!」にしても「君は君、我は我也。されど仲良き」にしても、それらは「生活の余裕」からのみ発せられた言葉ではない。そこには深いニヒリズムがある。ただし、ニヒリズムは欠乏によるものだけではない。それも無視できないが、根源的に問題とすべきは過剰のニヒリズムだ。ヒトは欠乏のニヒリズムに抑圧され、人間は過剰のニヒリズムに苦悩する。ヒトにとっては破格の贅沢とも言うべき過剰のニヒリズムこそ理想主義の原点に他ならない。
新しき村は理想主義のカリカチュアか(10)
イキモノは生きている。それだけのことだ。そこに理想は必要ない。それがイキモノの現実であり、ヒトも例外ではない。しかし人間は違う。人間もイキモノでありながら、ヒトとしての現実を超えようとする。「ヒトでなし」になってまで理想を求める。それはやはり、イキモノとしては破格の贅沢だろう。当然、無理がある。だからイキモノの現実を支えている自然を結果的に破壊することになる。人間さえいなければ、ヒトさえ人間にならなければ、地球環境はこれほどまでに衰退することはなかったに違いない。イキモノの現実を狂わせているのは人間だ。人間の理想主義だ。人間が理想を求めれば求めるほど、イキモノの現実は危機に瀕する。イキモノの現実主義と人間の理想主義。我々は今、その二つに引き裂かれている。そこに新しき村の出発点(原点)がある。
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イキモノの現実主義と人間の理想主義、その相克が人間の歴史を形成している。それを歴史の錯誤と見做し、イキモノの現実に徹する選択もある。歴史を否定して自然に回帰する選択だ。人間は人間であることを否定して再びヒトになる。しかし、ヒトとして生きる世界は果たして楽園であるか。確かに神話では楽園として描かれることが多いが、イキモノの現実は明らかに弱肉強食の世界だ。ノンビリと無為自然を享受できる楽園があったとしても、それは人間の理想ではあっても決してヒトの現実ではない。そうした人間の理想としての始源の楽園を私はアルカディアと称しているが、神話が示しているように、それも失われる運命にある。すなわち、イキモノの現実に耐え切れなかったヒトは人間の理想としてのアルカディアを求めるが、それは始源(出発点)にすぎず、更に飛躍的に発展していくことになる。それがパラダイスだ。アルカディアを自然楽園だとすれば、パラダイスは人工楽園と見做される。人間の理想は自然に即すことに自らを抑制する段階に止まり得ず、自然の改作から人間的自然の創造へと、正に歯止めのかからぬ段階に突入している。ここにパラダイスの魔力がある。マネーゲーム(金儲け)に憑かれた人間がマネーの魔に魅せられ続けるように、人間はパラダイスの魔力から逃れることができない。このまま歴史が発展し続ければ、先述したように、人間の理想主義は自らの世界はおろか、地球そのものを破滅させるに至るだろう。では、どうすればいいのか。
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以前にも言及したが、廣松渉氏は「当為たるべき世界変革、それが平等主義的原則の下に資源・環境・人口問題の解決を必須の要件とするものとすれば、所謂先進諸国における大量生産・大量消費の生活体制を止揚し、一時的には先進国での物質的生活水準を切り下げることを余儀なくせしめる」と述べられている。ほぼ同様の問題意識から、齋藤幸平氏も人類が環境危機を乗り切り、「持続可能で公正な社会」を実現するための唯一の選択肢として「脱成長コミュニズム」を主張されている。こうした提言は要するに、パラダイスの魔力に何とか歯止めをかけて、実質的にはアルカディアへの回帰を実現しようとすることに他ならない。果たして、我々の理想主義の生き延びる道はこれしかないのか。たといそうだとしても、それは可能なのか。私は甚だ疑問に思わざるを得ない。絶望的に肥大した人間の欲望をそう簡単には抑制できないからだ。そこで私はユートピアの可能性に注目する。ユートピアこそ人間の理想主義の究極であり、アルカディアとパラダイスの対立を超克する次元を切り拓く。それが理想主義のカリカチュアなどではないことを、私は自らの生ある限り実践していきたいと思っている。
新しき村は理想主義のカリカチュアか(9)
「芸術は潤沢と余裕とを必要とする」とはトロツキーの言葉だが、革命の現実に直面し、その活動に没頭する者に芸術など無縁だろう。確かに、それは一つの真実を物語っている。革命家にとって芸術家は同伴者でしかない。ちなみに、先述の有島武郎はその現実、すなわちプロレタリアートになりきれない自らの階級意識に絶望して自死を余儀なくされたと考えることもできる。しかし、芸術活動は現実主義(社会主義リアリズム)に基づく芸術のみであろうか。私はむしろ、理想主義に基づく芸術こそが真の芸術だと思っている。こんなことを言えば直ちにブルジョア芸術だの何だのと非難されるに違いないが、私は別に生活の現実から遊離した夢物語を求めているわけではない。私にとって理想主義は現実逃避などではなく、あくまでも「未だない現実」(ユートピア)を生み出そうとする意志なのだ。その意味において、革命それ自体が芸術であり、「新しき村」が私の芸術作品に他ならない。ただし、もはや誤解はないと思うが、それは「私だけの芸術作品」ではない。更に言えば、「実篤の芸術作品」に限定されるものでもない。一応「実篤の芸術作品」を核としているように見えるが、「新しき村」には実篤以前の芸術も薫習している。今後も理想を抱く様々な人たちの芸術が薫習していくことだろう。そうして「新しき村」という芸術作品は祝祭共働態としての完成に近づいていく。これは決して理想主義のカリカチュアなどではない。かつてサルトルは「飢えて死んでいく子供たちに芸術は無力だ」という趣旨のことを述べたが、飢えて死んでいく子供たちの現実に立ち向かう芸術もあるのではないか。とは言え、飢えている子供たちが今切実に必要としているのはパンだ。それは重々承知している。しかし、どんなに緊急を要するものであっても、パンに現実を変革する力はない。決してパンの現実を無視することなく、それを変革する力を理想主義に基づく芸術に見出すのは果たして詭弁だろうか。全てはこれからの現実的な展開次第だが、私個人としては今こそ不要不急の理想主義の力が試される秋だと思っている。
新しき村は理想主義のカリカチュアか(8)
事件は現場で起きているので、捜査本部の会議室では把握できないことも生じるだろう。現場と会議室の軋轢は当然であり、かつ不可避だ。会議室で現場を無視してどんなに立派な理想を語っても、現場は聞く耳を持たない。そして「会議室の連中は現実が全く見えていない!」というのが現場の本音となる。現場の現実主義と会議室の理想主義。結局、「理想主義のカリカチュア」という揶揄は両者の軋轢、更に言えば前者の後者に対する不信感から生じてくるものにすぎない。では、会議室は必要ないのか。現場の現実主義だけで問題は解決するのか。
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鄙見によれば、実篤は会議室での空論に絶望して新しき村を創った。つまり、実篤にとっては新しき村こそが理想実現の現場なのだ。従って、「新しき村は理想主義のカリカチュアだ」と嗤われて最も深く傷つき、嘆き悲しむのは実篤自身であろう。しかし、結果的にそのように嗤われるに至ったのは厳然たる事実であり、それを否定することはできない。ただし、ここで注意すべきことは、そのような嗤いは新しき村百年の歴史を経て受けたものではなく、創立当初からあったということだ。すなわち、新しき村は「理想主義のカリカチュア」に堕落したのではなく、理想主義そのものが常にカリカチュアの危険性を孕んでいるのだ。ユートピアの運命もまたそこに胚胎している。「新生・新しき村」は当然その運命の超克を目指すが、具体的には何をすればいいのか。