補足:理想主義の危険性に関するティリッヒの援用 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:理想主義の危険性に関するティリッヒの援用

理想主義はカリカチュアの対象とされると同時に、人類を、いや地球そのものさえ破滅させかねない危険性を孕んでいる。従って、私は理想主義のラディカルな実現を自らのライフワークとしながらも、心の片隅では「人間はなまじ理想など持たぬ方がいい。ヒトの現実だけに即して、ノンビリと、テキトーに、イイカゲンに日々を過ごしていればいい」などと思ってもいる。私は常に理想主義の可能性と危険性の二つに引き裂かれているわけだ。そんな中、偶々ティリッヒの次のような文章に遭遇した。これも何かの縁だと思い、理想主義の危険性に関するティリッヒの援用とする。

この態度(今ここにおいて神を人間の内に、そして人間を神の内に見る「宗教的ヒューマニズム」)が表現されている芸術様式はふつう理想主義と呼ばれるのであるが、この語は今日もはや使用しがたいほど悪評をこうむっている。今日理想主義であることはまるで犯罪者であるようにみなされる。しかし批判されたのは言葉だけでなく、概念そのものである。ヌウメン的要素、記述的要素、批判的写実的要素が優勢であった時代には、理想主義的伝統は軽蔑され、排斥された。それが無数の宗教的絵画を生み出したにもかかわらず、無制約的なものを媒介することはそれには不可能であるとみなされた。私自身もかつてはこの立場にくみしていたのであるが、理想主義が人間の最高の可能性の先取りであり、それが失われたパラダイスの想起と回復されるべきパラダイスの先取りとを意味することを見抜くにおよんで、ようやく意見を変えた。このように見るならば、理想主義は無制約的なものの経験にとっての明白な媒体である。それは人間とその世界における神的なものをその本質的な、ゆがめられない、創造されたままの完全性において表現する。

しかしながら他の様式要素の場合よりもなお一層力をこめて、われわれは芸術的理想主義を脅かす危険を強調しなければならない。それは理想主義が表面的かつ感傷的に美化する写実主義と取り違えられるという危険である。このことは多くの分野において、とりわけ宗教的芸術において起こっており、そしてこれが理想主義が――言葉についても概念についても――悪評をこうむっている理由である。真正の理想主義は、一つの存在あるいは一つの出来事の深みにある諸可能性を示し、そして芸術においてそれらに形状を与える。美化する写実主義は事実的にそこにある諸対象を示すが、それを不真実な理想化された付加物とともに示す。われわれが今日新しい古典主義を創造しようとするとき、この危険を避けねばならない――今日必須の警告である。」(ティリッヒ「芸術と無制約的に実在的なもの」)

厳密に言えば、ティリッヒが警告する「理想主義を脅かす危険」と私が問題にしている「理想主義の危険性」はズレている。しかし、根は共通している。私の問題に引き寄せて言えば、それは「失われたアルカディアの想起と回復すべきパラダイスの先取りとしての理想主義」の危険性に他ならない。