新・ユートピア数歩手前からの便り -69ページ目

補足:大衆抹殺論に向けての引用

「大きな盛り上がりを見せた一九六〇年の日米安全保障条約改定阻止の運動の挫折は、思想状況の面でも大きな変化を生んだ。平和と民主主義をめぐって発せられてきた知識人の発言がその力を失い、政治から遠ざかる人々が多く出てきた。いわゆる高度経済成長の時代に突入し、日本の社会が大きく変化しつつあったことがその背景にある。人々の関心は、社会や政治よりも私生活に、理念としての未来よりも現在の心地よさに、生産よりも消費に向けられるようになった。生活の質が、義務感に基づいた生から欲望に立脚した生へと変化したと言ってもよい。そのような意識をもった人々が社会の中心を占めるようになったのである。」(藤田正勝『日本哲学史』)

藤田氏は更に「大衆化の時代は、知識人が発信する思想を受けとめる存在の不在を意味した」と続けているが、この不在こそがユートピアへの絶望の一因であると言える。しかし、私は知識人ではない。藤田氏は知識人の代表として丸山真男に言及し、その見解を次のように紹介している。

「戦後は「臣」から「民」への還流として始まったが、その還流は「「民」の「私」化」という方向と、「アクティヴな革新運動」という二つの方向に分岐した。つまり多くの「民」は「経済的な利益関心の増大」と「私生活享受」へと動いたのである。…「独自の個性と人格的統一性を喪失して、生活も判断も趣味、嗜好も画一的類型的となりつつある夥しい砂のような大衆」が次々に生まれてこようとしていた。」

今や現代社会は「砂のような大衆」によって埋め尽くされている。皆、「経済的な利益関心の増大」と「私生活享受」にしか興味がない。かつて三島由紀夫はかかる時代の醜悪なる大衆化に抗して立ち上がったが、結局誰も後に続かなかった。僭越ながら、三島の絶望は私の絶望でもある。しかしながら、もはや「大衆—知識人」という対立構図では埒が明かないような気がしてならない。大衆抹殺論の暗中模索は当分続きそうだ。

ユートピアへの絶望(10)

大衆は常民の一部だが、私は厳密に区別したい。大衆は水平の次元を決して超えようとはしない。超える必要がないからだ。目に見える直接的な幸福にしか関心がなく、それは概ね水平の次元において満たされる。ただし、人には挫折がつきものだ。病気や老いで自らの死を先駆的に意識せざるを得ないこともある。その時、大衆と雖も水平の次元からの超越を願わずにはいられない。しかし、その超越は未だ垂直の次元にまで届かない。大衆はハイデガー流に言えば「世人」(Das Man)だが、金輪際ユートピアなど求めたりはしない。超越は大衆にとって一種の阿片にすぎず、その現実逃避は水平の次元の無限延長と考えるべきだろう。占いやオカルトの類も然り。現世の苦しさ故に来世に救いを求めるのは自然の情だが、ユートピアは断じて「来世への超越」ではなく、あくまでも「現世における超越」でなければならない。それが垂直の次元を切り拓く。しかし大衆はそのことに全く気がつかない。たといユートピアの理想に接する機会があったとしても、大衆はそこに夢の空想世界しか見ない。理想は常に大衆の対極に位置する。

さて、大杉栄は「自発的隷属は人間の本能だ」と述べているが、それは大衆の本質でもある。実際、目先の利益(水平的幸福)のためなら大衆は喜んで御主人様(権力者)に尻尾を振る。例えば、大衆とヒトラーは相互依存関係にある。大衆なくしてヒトラーなし、ヒトラーなくして大衆なし。その関係を成り立たせているのは大審問官の論理だ。大衆の欲するもの、大衆の幸福は全て独裁者が与えてくれる。そこにパラダイスの原理がある。大衆はその原理を信じ込み、一切を独裁者にゆだねてしまう。尤も、最近話題のナントカ教会の信者のように大衆は往々にして裏切られる運命にあるが、その原理そのものの根を断つことは容易なことではない。それほどにパラダイスの魔力の根は深い。大衆が独裁者を信じ続ける限り、パラダイスの魔力は永久に続くだろう。言い換えれば、大衆の人生にユートピアの出る幕は永久にない。ユートピアへの絶望とは大衆への絶望に他ならない。

結局、いきなり物騒なことを言うようだが、大衆の抹殺なくしてユートピアの出る幕はない。しかし、大衆の抹殺とは何か。独裁者を根絶するためには、独裁者の暗殺だけでは不十分だ。どうしても大衆の抹殺が必要になる。では、大衆はどこにいるのか。どこにでもいる。私の中にもいる。私自身の内に住む大衆性の抹殺――それが先決問題だ。ユートピアへの希望はそこからしか生まれない。

ユートピアへの絶望(9)

書けば書くほど自分が本当に書きたいことから遠ざかって行くような気がする。真面目に、地道に、自分と家族の皆が「肉体の糧」に不自由しないように日々生きる。辛い労働にもよく耐えて生きる。その上でアフターファイブや休日を思う存分楽しむ。一家団欒。たとい家族がなくても個人の娯楽はいくらだってある。それが明日を生きる力になる。「魂の糧」になる。それを浅薄な人生と言えるのか。名もなき常民の平穏無事な生活の営み。それ以上の理想があるのか。あるとすればユートピアだが、それは畢竟常民の生活から遊離した虚妄ではないか。常民はユートピアを必要としない。逆に言えば、ユートピアを必要とするのは一部の気取ったインテリにすぎない。おそらく、それが一般的な見解だろう。かくしてユートピアの必要性を訴える私は孤立を余儀なくされる。新しき村でもまともに相手にされず、虚妄の空論を弄ぶだけの地に足のつかぬ怠け者としか見做されない。似非インテリの言葉は虚しく宙に舞うばかりだ。

しかし、果たして常民は本当にユートピアを必要としないのか。常民は本当に充実した日々を過ごしているのか。残念ながら、現状はそうとしか見えないところに私の絶望がある。勿論、充実した人生に恵まれた常民ばかりではない。理不尽な障害を負うこともあれば、いじめなどの人災、大地震などの天災によって不幸のどん底で辛酸を嘗めている常民もいる。しかし一般的に言えば、それは所詮自己責任であり、不幸への転落は個人の問題でしかない。募金活動や寄付で或る程度の救済は試みても、それ以上のものではない。到底「世界の根源的な変革」にまでは至らない。香港、ウクライナ、そしてこれから台湾で何が起きても、深く同情することはあっても、結局は対岸の火事でしかない。こちら岸の充実した常民の生活は微動だにしない。これに対して、新しき村の精神は「全世界の人間の天命」を問題にする。宮澤賢治も「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べている。こうした問題意識は何を意味するか。鄙見によれば、それは水平の次元に安住しようとする常民の人生を垂直に切り裂くものに他ならない。その垂直性に私は最後の希望を賭けたい。垂直性に貫かれた常民こそがユートピア追求の原動力を担うと思うからだ。その思いは今や殆ど信仰に等しい。

ユートピアへの絶望(8)

私はかつて、漱石に学んで「馬鈴薯と金剛石」という対比について思耕したことがある。「肉体の糧と魂の糧」という対比だ。最近の文脈で言えば、「ゾーエーに必要なものとビオスに必要なもの」という対比に相当する。「馬鈴薯と金剛石」はそれぞれの象徴だが、馬鈴薯はともかく、金剛石を「魂の糧」や「ビオスに必要なもの」の象徴とすることには違和感があるかもしれない。それは金剛石という一物質にすぎないものに「魂の糧」を見出すことへの違和感だ。おそらく、「魂の糧」は物質を超越する聖なるものだというのが一般的な見解だろう。金剛石などという俗なるものが「魂の糧」になる道理がない、多くの人はそう思う。しかしながら、聖なるものは俗なるもの(物質)に受肉して初めて現実的な力をもつ。すなわち、美しい金剛石も一つの石(物質)にすぎないが、そこに聖なるものが受肉すれば立派な「魂の糧」になるのだ。勿論、あらゆる物質にはそうした受肉の可能性がある。「肉体の糧」であるお米だって穀霊になる。もっと卑近な例を挙げれば、推し(アイドル)の存在さえ「魂の糧」になる。しかし、それは当の本人にしか理解できぬ逆説であって決して普遍的な意味を有するものではない。或る人にとって金剛石は「魂の糧」になるが、他の人にとっては単に高価で美しい石にすぎない。そんな金剛石ではあるが、日常の基本的な生(剥き出しの生)には全く必要ないものという意味では「魂の糧」に相応しい象徴だと言うこともできる。「肉体の糧」の必要性は誰にとっても自明で普遍的なものだが、「魂の糧」の必要性は人それぞれ異なる個別的なものだ。こうした必要性の質的差異は理想社会の追求を極めて複雑なものにする。そもそも人間の不幸は「肉体の糧」の欠如に由来する。「食うものがない」ということ以上に切実な問題はない。従って、誰もが「食うに困らぬ生活」の実現、戦争のない、貧困のない、平穏無事な生活の実現が理想社会の第一歩となる。しかし、それはあらゆるイキモノに共通する問題であって、どんなに切実であっても、やはり人間に固有な根源的問題とは言い難い。人は馬鈴薯のみにて生くるにあらず。それぞれの「魂の糧」が満たされて初めて理想社会は究極的に実現する。少なくとも私の求めるユートピア活動は「肉体の糧」の充足に尽きるものではない。それは「魂の糧」の次元をこそ切り拓くものでなければならない。とは言え、それは多くの人々にとって「大きなお世話」ではないか。全世界の人間の「肉体の糧」の充足までが普遍的かつ公的な問題であって、それ以後の「魂の糧」の充足は個別的かつ私的な問題に他ならない。すなわち、「肉体の糧」の充足までは共働するが、各自の「魂の糧」の充足にまで踏み込んでくれるな、それは甚だ迷惑だ、ということだ。その場合、「魂の糧」とは畢竟、個人の趣味の問題でしかない。果たして、本当にそうだろうか。「魂の糧」とは、「肉体の糧」の充足後の余暇に個人の趣味を楽しむような、そんな浅薄なものでしかないのか。僭越ながら、薄っぺらな現代社会の有様に私は深く絶望せざるを得ない。

ユートピアへの絶望(7)

私の好きなドラマの一つに寺内小春の「イキのいい奴」がある。終戦から十年ほど経った東京の下町(柳橋)を舞台にした鮨屋の親方と弟子の人情ドラマだ。最初にNHKで放映されたのは昭和六十二年だが、それからも再放送の折に繰り返し何度も観ている。思うにドラマには一度観ればそれで充分というものと繰り返し何度も観たくなるものがある。言うまでもなく、「イキのいい奴」は後者だが、それは一体何故だろう。その鍵となるものを私は寺内小春の次のような言葉に見出す。

「戦前の日本人は、今より経済的にははるかに貧しくはあったが、それぞれに、人間としての矜持と、いかに生くべきかの美学を持っていたような気がする。己に恥じるような生き方はすまいという、ささやかな覚悟を持って、皆生きていたような気がする。“足るを知る”心を持っていたような気がする。戦前がすべてよかったと言うつもりは、さらさらない。しかし、あのころの日本人の心は、今よりはるかに美しかった。敗戦で、戦前の悪しきものを捨てるついでに、捨ててはいけないものまでわれわれは捨ててしまった……経済大国となった日本のなかで、豊かになった生活を享受しながら、われわれは今やっと、物質だけでは人間はほんとうに幸せになれないことを思い知りはじめている。」

「経済的に豊かになった生活」とは、お金さえあれば生活に必要なものが全て買える生活だ。ゾーエーが必要とするものは言うに及ばず、ビオスの次元における欲望もお金は殆ど満たしてくれる。食うに困らぬ生活から贅沢が楽しめる生活へ――そこにパラダイスがある。それはお金で買える楽園だと言ってもいい。皆、それに憧れ、それを手に入れるために苦しい労働にも日々耐えている。しかし、それだけだろうか。パラダイスの魔力は絶大で、現代社会を席巻しているのは事実だ。私とて例外ではない。パラダイスには憧れる。けれども、その一方で、お金では売買できないもの、すなわち非商品にも憧れている。その憧れが「イキのいい奴」のようなドラマに垣間見ることができる。寺内小春の言葉を借りれば、「物質だけではない人間のほんとうの幸せ」への憧れだ。しかし、そんなものがこの腐敗した世界にあるだろうか。今の私は殆ど絶望している。ただ、絶望しているのは私だけではないと信じたい。そこに一縷の希望がある。

ユートピアへの絶望(6)

他者が必要とするものを売り、自分が必要とするものを買う。ゾーエーの次元においては原理的に「セールス」は意味を成さない。「セールス」などしなくても、そこで売買される必要なものは自明だからだ。従って、「アルカディアのセールスマン」というものも原理的にはあり得ない。と言うより、アルカディアは売買などの商業活動が全く不要となる理想社会だと訂正すべきかもしれない。そこではゾーエーに必要なものが分配もしくは交換されるのであって売買されるのではない。端的に、アルカディアに商品は存在しない、と言ってもいい。売買される商品は人間の生の次元がゾーエーからビオスへと移行して初めて存在し始める。例えば、ゾーエーの維持に必要な空気も水も大地もお米も本来商品ではあり得ない。しかし、ビオスの次元でよりきれいな空気や水、美しい大地や美味しいお米が求められると、それらはたちまち商品に転化する。殊に環境破壊が進行した現代社会では、それらの商品価値は益々高まるばかりだ。従って、昨日「ゾーエー充足の商品とビオス充足の商品との間には質的な差異がある」と述べたが、それは「非商品と商品の差異」と訂正したい。ただし、現実にはゾーエー維持に必要なものも商品として扱われる。アルカディアにおける商業の無化はあくまでも原理的なものであって、現実的な人生をゾーエーとビオスという二つの次元に分離することには無理があるからだ。それは取りも直さず、アルカディアという理想の不可能性を意味する。その結果、人生は商業活動となり、一切は商品と化す。実際、この世界において商品でないものがあるだろうか。私は悲観的にならざるを得ない。それがユートピアへの絶望につながる。しかし、私はその絶望において敢えてユートピアを逆説的な商品として「セールス」したいと思う。依然として暗中模索ではあるけれども。

ユートピアへの絶望(5)

俗な表現を用いれば、私はユートピアという商品のセールスマンになろうとしている。人生は商業活動だ。誰しも何かを売り、それによって得たお金で何かを買って生活を営んでいる。当然、売る何かも買う何かも生活に必要なものでなければならない。厳密には、そうした売買を否定した生活、すなわち生活に必要なもの全てを独力で充足できる自給自足の可能性についても思耕しなければならないが、ここでは商業活動を前提としたい。と言うのも、「生活の必要」は商業活動によって飛躍的に拡大していくからだ。それは自給自足によって満たされる「生活の必要」を遥かに超えていく。例えば、自分ではつくれないものを他者がつくれるのなら、それを買うことで「生活の必要」は拡大する。尤も、そのような拡大が人間にとって幸いなことかどうかは意見の分かれるところだろう。人間は自給自足で得られる程度の「生活の必要」で満足すべきなのかもしれない。実際、人間の基本的生活にテレビも自動車もスマホも必要ないだろう。しかし、人間の基本的生活とは何か。それがゾーエーの営みだとすれば、それを超えるビオスの次元にこそ真の生の充実があるのではないか。少なくともユートピアという商品はビオスの次元における「生活の必要」に他ならない。

さて、大災害やコロナ禍に直面して、我々は改めて「生活の必要」について根源的に考えることを余儀なくされた。その際、逆に浮き彫りにされたのは「不要不急」であり、あらゆる娯楽施設が「不要不急」の名の下に軒並み閉鎖された。確かに、ゾーエーの安全・維持こそ人間が根源的かつ切実に必要とするものであり、それなくしてビオスの次元も意味を成さないだろう。従って、ゾーエーが危殆に瀕すれば、それ以外のことが「不要不急」と見做されるのはやむを得ない。しかしながら、人間がゾーエーの安全・維持だけでは満足できないのも厳然たる事実だ。むしろゾーエーが危機を脱すれば、それ以降はビオスの次元における「生活の必要」が優先されることになる。そして、おにぎりと水で満たされていた「生活の必要」がやがて高級レストランの料理でしか満たされない「生活の必要」へと拡大していく。それはそれだけ生活に余裕ができたということであり、「生活の必要」の拡大自体は喜ぶべきことだ。少しでも高級な「生活の必要」の拡大が人にパラダイスをもたらすと言ってもいい。消費の快楽にこそパラダイスにおける商品の本質がある。

何れにせよ、人は必要なものを売り、必要なものを買う。ゾーエーの次元における「生活の必要」については疑問の余地はない。それを必要としない人などあり得ないからだ。そして、その根源的必要の充足だけで幸福になれる人生にアルカディアの理想がある。アルカディアにおける商品は全てゾーエーに関するものであり、その典型は農産物だ。ただし、その農産物にしても、少しでもより美味しいもの、高級なものを求めると、それはパラダイスにおける商品に転化する。ゾーエーからビオスへと次元が移行するからだ。そもそもゾーエー充足の商品とビオス充足の商品との間には質的な差異がある。前者を売ろうとするのがアルカディアのセールスマンだとすれば、後者のそれはパラダイスのセールスマンだ。どちらの商品価値も明確であり、それぞれのセールスマンとしての存在理由もしっかりしている。では、私がなろうとしているユートピアのセールスマンはどうか。先述したように、ユートピアもビオス充足の商品であり、その意味ではパラダイスのセールスマンに似ている。しかし、全く違う。私はパラダイスのセールスマンとは全く異なる商品を売りたいと思っている。ただ、売り方がわからない。と同時に、人々のユートピアという商品に対する関心についても悲観的になりがちだ。ユートピアのセールスマンとして途方に暮れるばかりだが、何かが根源的に間違っていると思わずにはいられない。それは一体何か。

ユートピアへの絶望(4)

「帰らないおじさん」と題する最近始まった深夜ドラマがある。自宅に「帰れない」のではなく「帰らない」三人のおじさんが夕方に集まって、かつて子供の頃にやったような遊び――例えば、枝切れを放り投げてその先端の方向に歩く「無目的散歩」、野球盤、自転車で競走する「ツール・ド・ご近所」、そして定番の秘密基地作りなど――に興ずるだけの他愛もないドラマだ。夕方に集まるということは、この三人は無職ではなく、一人は信用金庫の支店長、それからスーパーマーケットの経営者、もう一人はかなりの恐妻家というだけで職業は明かされていない(見逃しただけかもしれない)が、要するに三人とも経済的には安定しているようだ。この三人の対極に、いつも営業で忙しく走り回っている若い女性が配置されている。彼女は折に触れて楽しく遊ぶ三人の姿を垣間見て、その無邪気さに呆れながらも同時に羨ましくも思っている。他にも塾通いに忙しい子供たちから「大人は暇でいいよなぁ」などと呟かれたりもするが、夕方限定とは言え、仲良く遊びに興ずるおじさんを羨ましく思う人は少なくないだろう。かく言う私もこうした脱力系ドラマが嫌いではない。「遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ」と梁塵秘抄にあるが、そこには確かに一つの理想がある。homo ludens としての人間の理想がある。しかし、「帰らないおじさん」の遊びには何かが決定的に欠如しているような気がしてならない。その世界はやはりパラダイスではあってもユートピアではない。FIRE同様、三人のおじさんもまたユートピアを必要とはしないだろう。

ユートピアへの絶望(3)

ユートピアへの道には絶望しているが、ユートピアの実現を自らのライフワークとする思いは微動だにしていない。キルケゴールの言葉を借りれば、ユートピアの理想は私にとって「自分がそのために生きかつ死ぬことができる実存的真理」だからだ。それは私の主体的真理であると同時に普遍的真理に他ならない。すなわち、人間が人間として本当に生きようとするならば、人はユートピアの理想に究極的な関心を抱かざるを得ない。私はそう確信してきた。しかし今、その確信が崩れようとしている。一般大衆はユートピアになど関心はない。貧困、抑圧、孤独――世界には様々な問題が渦を巻き、一般大衆もそれなりに理想社会について考えることを余儀なくされている。しかし、それはユートピアにまで至らない。一般大衆が求めているのはパラダイスであってユートピアではない。そうした一般大衆の大勢に反撥する者がいても、それはアルカディアへの回帰へと流れていくにすぎない。それまでだ。誰もユートピアを必要とはしていない。やはりユートピアは単独者の主体的真理にはなり得ても普遍的真理にはなり得ないのか。

ところで、「一般大衆」という言葉の多用は、自分は末人たる「一般大衆」とは区別された特別な存在、すなわち超人であるという意識が潜在しているのかもしれない。それは「一般大衆」を民衆・庶民・常民などと言い換えても基本的に変わらない。かつて私は大衆抹殺論などという不穏なことを考えたが、人間は大衆もしくは世人といった存在形態を打破しなければ「真の人間」になれないと思っていた。それが単独者であり超人に他ならない。ただし、大衆抹殺論はそれだけでは完結しない。単独者も超人も「真の人間」に至る往相にすぎず、それは大衆の反復(受け取り直し)という還相を要請する。言うまでもなく、反復された大衆はもはやかつての末人ではあり得ない。それは言わば「連帯する単独者」であり、そこに祝祭共働態としてのユートピアの理想が実現する。私はそうした二重運動を求めてきたが、それは未だ殆ど機能していない。「絶対矛盾的自己同一」は絶対矛盾したままだ。一切は画餅にすぎないのか。

ユートピアへの絶望(2)

ETVに「ねほりんぱほりん」という人気番組がある。様々な興味深い体験者(女子刑務所の服役者、ギャンブル依存症の人など)の裏事情をブタの人形劇仕立てで聞き出すもので、私も毎回楽しく観ている。その中で、先日はFIREを取り上げていた。FIREとは、

Financial

Independence

Retire

Early

すなわち「経済的に自立して早期に退職した人」のことらしい。番組には二十代と三十代の男性が呼ばれていた。ただし、一口に「経済的に自立」と言ってもピンからキリまであり、本当の意味で悠々自適な生活をしている富裕なFIREはほんの一握りであるようだ。今回のゲストは最低限の経済的自立を果たしているギリギリFIREと称される人たちだった。つまり、ギリギリに節約して食うに困らぬだけの資産を確保している、ということだ。その意味では中国の「寝そべり族」と通じる面もあるが、ギリギリFIREには単なる生存以上に自分の好きなことをして過ごす経済的余裕がある点に違いがある。尤も、「寝そべり族」は何もせずにただボーっとしていることが自分の好きなことだと言うかもしれないが…。

何れにせよ、「嫌な労働をしないで、自分の好きなことだけに没頭できる生活」に幸福が見出されていることは間違いない。これは一見したところ、新しき村が求めている生活と変わらないように思われる。すなわち、「労働を最小限(将来的にはゼロ)に、自分の好きなことを最大限にする生活」だ。しかし、「自分の好きなこと」とは何か。FIREの人たちは好きなアイドルの動画を観たりゲームをしたり、あるいはお気に入りのレストランで食事をしたり旅行をしたりして日々楽しく過ごしていると語っていた。新しき村の人たちなら、それよりはやや高尚な藝術活動への没頭を説くかもしれない。しかし、両者に本質的な差異はない。どちらも私的領域における趣味の閾を超えることはなく、そこにユートピアへの道を切り拓く契機は見当たらない。実際、世の多くの人たちはFIREの「幸福な生活」を羨ましく思うだろう。それに根源的な異議を唱えるユートピアの出る幕はない。