ユートピアへの絶望
理論的世界ではなくて、道徳世界がはじめて「共同の」世界と呼ばれ得るのである。ヘラクレイトスが、目覚めている者は共同の世界を持っているが、眠っている時は誰も自分だけの世界しか持っていないと言っているが、我々はそれに加えて、共同して理論を追求する者はまだ目覚めていず、他者の要求によって目覚めさせられて初めて目覚めた者となると言わねばならない。この目覚めた人々とは反対に、「純粋な理論家」は眠っている者、自己自身とその客観化された世界の中に沈潜している者でしかない。(ティリッヒ「宗教と世界政治」)
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ユートピアの具体相としての新しき村に私が関心を抱いたのは「研究よりも実践」という決意によるものだ。それがこの拙い便りの出発点でもある。もとより「研究よりも実践」などと言えるほどの研究をしていたわけではないが、私は「純粋な理論家」にはなりたくないと思っていた。理論は実践に結実して初めて意味を成す。私は単独者として「人間が人間として本当に生きること」を求めているが、個の次元に徹すれば徹するほど共の次元が開けてくる。この逆説は端的に私的領域から公的領域への突破と言ってもいいだろう。勿論、それは単独者であることをやめることではない。むしろ、単独者こそが公的領域における真の連帯を実現する。少なくとも私はそう信じて「他者の要求に目覚めた者」になることを願った。それが「純粋な理論家」の対極に生きる人間に他ならない。しかし今、私は絶望している。私は「他者の要求」を完全に見失ってしまった。この便りも徒に空転するばかりで少しも前に進めない。結局、私の思耕は「他者の要求」から遊離したものでしかないのか。単独者の原点に戻って、一から出直そうと思う。
メタヴァースとユートピア
率直に言って、私は未だこのテーマで便りを認める準備ができていない。ここでは来るべきその日のために、現時点における問題整理だけをしておきたいと思う。結論を先取りすれば、メタヴァースはユートピアではない。両者は質的に全く異なる試みだ。私はそのことを徹底的に論じたいと思うが、それは一般的な見解に反するかもしれない。と言うのも、一般的にユートピアと言えば「どこにもない空想の場所」であり、仮想空間としてのメタヴァースとは類縁性があるからだ。実際、理想的なアバターを駆使して理想社会をメタヴァースに構築することは可能だろう。私にその知識と技術があれば、メタヴァースとしての新しき村を実現してみたいとも思っている。しかし、それはユートピアではない。私はメタヴァースとユートピアの質的(絶対的)差異を明確にしたいと思うが、先述の通り未だ準備不足だ。例えば「メタヴァースは現実逃避にすぎない」と言ってみる。しかし、この世界に現実逃避でないものがあるだろうか。ちなみに、私はかつて「ディズニーランドよりも楽しい新しき村」について論じたことがある。ディズニーランドは夢の国だが、所詮その楽しさは娯楽にすぎない。勿論、娯楽が悪いわけではない。平日の過酷な労働も休日の娯楽があるからこそ耐えることができる。皆、そうやって日々を生きている。日常の労働と非日常の娯楽の循環において、後者の比重を少しでも増していく先にパラダイスがある。日常の労働を現実だとすれば非日常の娯楽は非現実だが、そこに敢えて人工的な現実を見出していくことにパラダイスの魔力がある。その魔力が生み出すものこそVR(仮想現実)に他ならない。ディズニーランドも「現実にはあり得ない夢の空間」という意味でVRの一つだと考えることもできるが、メタヴァースはその最たるものだと言える。それを現実逃避だと批判するならば、私がユートピアのドラマの源泉と見做している神話やメルヒェン、延いては文学・演劇・音楽・美術といった藝術全般もそうではないか。果たして、藝術もVRにすぎないのか。確かに、ユートピアのドラマにもVRの相がある。それを否定することはできない。しかし、それはあくまでもユートピアの往相にすぎない。ユートピアの運動には日常の現実への還相がある。そこにユートピアとメタヴァースとの決定的な差異がある――そう主張したいのだが、メタヴァースにもAR(拡張現実)・MR(複合現実)・SR(代替現実)・XR(クロス現実)などというものがあるとなると一概に明言することは憚られる。何れにせよ、私がユートピアのドラマに求めているのは「日常の現実の変革」、更に言えば「新しき現実の創造」に他ならない。これはメタヴァースには原理的にあり得ないフェーズだと思われるが、どうだろうか。メタヴァースに物理的現実を変革する力があるのだろうか。ユートピアの実現にメタヴァースを活用したいという願望はあるのだが…。
暗殺と死刑
ボンヘッファーは私にとってユートピアの希望に他ならない。彼のような人間が歴史にいてくれたからこそ、殆どの人がユートピアの理想など狂人の戯言としか見做していない現代社会でもかろうじて生きていられる。彼は我らの狂気を生き延びる道を教えてくれる。それは如何なる道か。
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ボンヘッファーはヒトラー暗殺を企てた罪で死刑に処された。暗殺も死刑も人を殺すことにおいて変わりはない。しかし、前者は非合法の殺人であり、後者は合法的な殺人だという差異がある。法律とは何か。法律が定めれば、本来悪である殺人も許される。しかし、法律が許しても、神は赦しはしない。法律は善悪を区別する。その区別に基づいてパラダイスが構築される。それに対してユートピアは善悪の彼岸に求められる。そのような場所はどこにもないが、だからこそ人間の究極的な理想となり得る。それは神の死を要請する。そこに人間の絶対的な自由がある。ドストエフスキイの生み出した悪霊の一人であるキリーロフは「全てが許される絶対的な自由」を生きようとした。しかし、耐えきれなかった。それはラスコオリニコフの罪が受けた罰と通底している。法律上の犯罪とは質的に全く異なる罪があることを自覚しなければならない。その自覚がユートピアへの道を切り拓く。ボンヘッファーはその道半ばで倒れた。
暗殺とトロッコ問題
トム・クルーズ主演の「ワルキューレ」という映画を観た。シュタウフェンベルクというドイツ将校によるヒトラー暗殺計画を描いたドラマだ。これはかなり大掛かりな、しかし結果的には極めて杜撰なクーデタ計画だったが、そこには「独裁者暗殺」に対する一片の躊躇もない。あるのは「悪の排除」に対する鉄の信念だけだ。その信念に関しては、ゲオルク・エルザ―のような個人的試みにおいても変わらない。しかし、信念は暗殺を正当化し得るのか。例えば、エルザ―の時限爆弾はヒトラーを殺すに至らず、不運にもその場に居合わせた八名の生命を奪う結果に終わった。他にも多くの重軽傷者を出したが、これはエルザ―にとっても不運なことであっただろう。しかし、たといヒトラー暗殺が成就していたとしても、それに伴う周囲の人々の犠牲は不可避であった。そのことについてエルザ―はどう考えていたのか。やはり「悪の排除」のためにはやむを得ない犠牲と考えていたのか。
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ところで、倫理学にトロッコ問題というものがある。暴走するトロッコ(トロリー)の先では五人が作業している。このままでは五人を轢き殺してしまう。しかし、自分は分岐器の傍にいて、トロッコの進路を変えることができる。ただし、別の進路の先にも一人が作業中だ。自分は進路を変えるべきか否か、という問題だ。五人と一人。数だけを考えれば、五人の生命を救うために一人の生命を犠牲にすることは正当なことだ。疑問の余地はない。少なくとも一人を救うために五人を犠牲にすることよりも妥当だと判断される。しかし、それで本当にいいのか。言うまでもなく、これは単純に答えが出せるような問題ではないが、その一人がヒトラーだったらどうか。人は躊躇なくトロッコの進路を変えるだろうか。あるいは逆に、その一人が自分の最も愛する人だったらどうか。現実には様々な場合があり、数だけの問題で判断することはできない。重要なことは、たとい最終的には数の問題に行き着くとしても、その判断には死ぬほど苦悩すべきだ、ということだ。ユートピアとは、正解などどこにもない問題に死ぬほど苦悩する場所に他ならない。
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おそらく、世間一般の常識からすれば、正解などどこにもない問題に死ぬほど苦悩することは時間の無駄でしかないだろう。実際、トロッコ問題に直面すれば、死ぬほど苦悩している時間的余裕などはない。それよりも事前に「人間の生命には価値の格差などあり得ないので、トロッコ問題に際しては端的に数の問題で判断すべし。その結果、一人の生命が失われても、その判断をした者に罪はない」と明文化する法律を制定しておいた方が良い。そうすれば、人はどんな場合でもその法律に従って判断・行動すればいいのであって、そこには如何なる苦悩も罪の意識も生じないだろう。実に理想的な解決だと言える。しかしながら、こうした他律的な解決はパラダイスの理想ではあっても、断じてユートピアの理想ではない。パラダイスではあらゆることがマニュアル化され、人はそれに従っていれば快適な生活が約束される。ユートピアは違う。根源的に違う。ユートピアではあらゆることを主体的に考えなければならず、正解のない問題にも死ぬほど苦悩することが要請される。果たして、こんな面倒くさいユートピアには魅力がないだろうか。やはり快適で便利なパラダイスの方が好ましいのだろうか。
薄毛のアンの英雄観
先日、皆から薄毛のアンと揶揄され始めた友人が突然「ヤマガミ君はヒーローだ!」と叫んだ。ヤマガミ君とは言わずと知れた安倍元首相を撃った男。酒の席の戯言と聞き流していたが、アンはどうも本気のようだった。アンはまくし立てた。
「ヤマガミ君が意を決して行動してくれたからこそ、多くの人が統一教会を真剣に問題にし始めたのだ。そりゃあ安倍さんは気の毒だった。元首相であろうがなかろうが、人の命に変わりはない。しかし、何かを変えようとすれば犠牲が出るのは仕方がない。犠牲が出るのを恐れて何もしないよりはマシだ。そうじゃないか。そうやって人間の歴史は発展していく。進歩していく。しかし、そうは言っても、オレは犠牲を出すことを正当化するつもりはない。人間の歴史の進歩・発展のためには犠牲は赦されるなどとは思っていない。それは罪だ。神は決して赦さないだろう。それにもかかわらず、それはやらねばならなかったのだ。ヤマガミ君はそのことを重々承知の上で決行したに違いない。彼は天国なんか望んじゃいない。むしろ、地獄に堕ちることを覚悟して一歩前に踏み出したのだ。だからヤマガミ君はヒーローなんだ!」
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アンの言いたいことはよく理解できた。アンは正しいのだろうか。私はカミュの「正義の人々」を思い出していた。テロリストの正義。それに対して「暗殺によって実現する民主主義などあり得ない」という正論がある。アンの英雄観に反論するのは容易ではない。
暴動と革命
今では何かと批判されがちだが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものだ」とするアブラハム・マズローの欲求段階論はいつの間にか私の血肉となっている。それは次のような五段階だ。
1.生理的欲求(生きていくために必要不可欠な基本的・本能的欲求)
2.安全欲求(安心・安全な生活への欲求)
3.社会的欲求(友人・家庭・会社といった社会に受容されたいという欲求)
4.承認もしくは尊厳欲求(他者から尊敬されたい、認められたいという欲求)
5.自己実現欲求(自分の世界観・人生観に基づいて、「あるべき自己」になりたいという欲求)
鄙見によれば、1と2はゾーエーの欲求であり、3から5はビオスの欲求だと言える。そして、ゾーエーの欲求が満たされない状態が限界に達すると暴動が起きる。百姓一揆とか米騒動がその典型だ。これに対してビオスの欲求が抑圧されると人は革命を求める。一応、理屈ではそうした区別が可能だが、現実は理屈通りにはいかない。例えば、香港の反乱は暴動なのか革命なのか。理屈では革命だと思われる。香港の人々は取り敢えず食うに困らぬ生活をしているからだ。むしろ、北京の支配を素直に受け入れた方が経済的に豊かになれるかもしれない。殊に富裕層はそう考えているだろう。しかし、それにもかかわらず、香港の一般市民の多くは北京に反抗した。何故か。ゾーエーの欲求が満たされるだけでは人間として本当に生きることにはならないからだ。しかし、ビオスの欲求は北京の支配下でも満たされるのではないか。中国共産党に受容され、習近平に承認・評価される自己の実現だ。つまり、独裁政権の大審問官的支配の下でもビオスの欲求は満たされる可能性がある、ということだ。勿論、そのような欲求の充足が革命である道理がない。革命には単なるビオスの欲求充足以上の何かが不可欠だ。その何かが垂直の次元を切り拓く。言い換えれば、人間の欲求が水平の次元にとどまる限り、その充足を求める反乱は暴動の閾を超えることはない。暴動は社会運動だが、革命は否応なく宗教運動にまで発展せざるを得ない。そこに決定的な違いがある。
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さて、香港の閉塞状況もさることながら、我が日本はどうか。取り敢えず暴動が起きる可能性はないように見える。様々な欲求不満が渦を巻き、安倍元首相銃撃事件のようなことが時々起きるが、それは所詮突発的な個人の暴発にすぎない。他の無差別殺人事件にしても同様だろう。それが社会運動にまで発展する可能性は、皆無とは言えないが極めて小さい。一億総中流意識は崩壊したものの、かろうじてゾーエーの欲求は曲がりなりにも満たされているということか。では、革命はどうか。今の日本に革命を求めている人間はいるか。暴動の可能性さえないのに、革命を求める人間などいる筈がない――それが一般的な見解であろう。しかし、本当にそうか。少なくとも私は、今こそ革命について真剣に思耕すべき秋だと信じている。
二重運動の必要性
「新生・新しき村綱要」において、私は「新しき村(の往相)はあくまでも社会運動ではあるが、単なる社会運動に尽きるものではない。新しき村は一般的な意味における宗教ではないが、その本質は深く宗教運動に切り込んでいく。それが新しき村の運動の還相に他ならない。そうした往相と還相の二重運動、すなわち水平の次元における社会運動と垂直の次元における宗教運動の螺旋的統合にこそ新しき村の独自性(世界史的意味)があり、我々がその実現を目指す根源的理由もある」と述べた。私個人としては後者の運動、すなわち宗教運動に究極的関心がある。マルクスと共に「宗教の批判はあらゆる批判の前提だ」と考えているからだ。その意味において、今カルトに救いを求めている多くの人々が新しき村に関心を抱いてくれることを私は切に望んでいる。実際、未だ画餅にすぎないものの、様々な問題に苦悩する人間が結集・連帯する「新生・新しき村」が実現すれば、それは一種のカルト集団と見做されるだろう。少なくとも世間はそう判断する。確かに、新しき村に限らず、そもそもあらゆるコミューン運動は世間一般にとって胡散臭いものであり、そこには常にカルトへの危険性がある。しかし、新しき村はその危険性を深く自覚し、それを超克していく場所だと私は信じている。その根拠となるものこそ、新しき村における二重運動、すなわち社会運動と宗教運動の螺旋的統合に他ならない。それは「天国の批判は地上の批判と化し、宗教の批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する」というマルクスの認識と通底している。言うまでもなく、救いはお金では買えない。多額の献金をしても、高価な壺を購入しても、そんなところに真の救いはない。そのような大審問官的手法によって人間を救おうとするカルトを新しき村は断じて容認しない。かくして宗教のラディカルな批判は社会変革と相即することになるが、そこに新たな危険性があることを我々は決して見逃すべきではないだろう。
伝統と正統
伝統的なユダヤ教にとってイエスの教団はカルトのように見えたのではないか。そのイエスの教団も発展して伝統的な宗教、すなわちキリスト教として実定化されると、そこから宗教の堕落が始まる。すると、その堕落した宗教性に対してプロテストするルターのような人間が現れるが、彼もまた伝統的なキリスト教からはカルトと見做されたのではないか。これはキリスト教に限らない。ブッダの教団においても同様だろう。伝統が悪いわけではない。また、カルトを擁護するつもりもない。しかし、一つの疑問を抑えることができない。立派な伝統的な宗教が数多あるにもかかわらず、どうしてかくも多くの人々(特に若者)がカルトに走るのか。伝統的な宗教ではすでに失われた何かがカルトにはあるに違いない。それは一体何か。カルトの魅力とは何か。しかし厳密に言えば、一般社会からカルトと認定された時点で、すでに宗教の堕落は始まっている。ちなみに、今イランの女性たちが求めているものがイスラームの伝統に対するプロテストだとすれば、それが正統に達するためには何が必要なのか。確かに、カルトには伝統的な宗教の堕落を批判す る力があるかもしれない。しかし重要なことは、そうした「伝統を批判する力」を「正統を生み出す力」へと転化させていくことではないか。その意味において、カルトにおける宗教性は中途半端なものだと言わざるを得ない。
ユートピアの筋書(10)
おかしな夢をみた。私は新しき村の会合にいた。二十名ほどいただろうか。廃墟に等しいビルの殺風景な一室。それは会合と言うよりも、誰かを糾弾する除名裁判のようであった。「あいつは我々を裏切った!」と私の隣にいた男が叫んだ。一体、誰のことを言っているのか。私は周囲を見廻した。知っている顔があるようなないような、皆ぼんやりとしたペルソナで座っていた。すると、そのぼんやりとしたペルソナの一つが「私は裏切者ではない」と静かに言った。その後、「新しき村の精神を忘れるな!」とか「実篤先生は許さない!」という声が次々と一人の男に浴びせ掛けられたが、何分夢のことなのではっきりと覚えていない。ただ何となく、矢継ぎ早の糾弾に対して男はその都度「いや、違う」と力なく繰り返していたような気がする。「君はどう思うか」――私も意見を求められたに違いないが、私は何と答えたのか。これもよく覚えていないが、「排除の論理」に対する嫌悪だけが心に深く沈殿している。こんなものは新しき村じゃない! そんな絶望的な思いが胸に溢れる息苦しさで私は目を醒ました。実に嫌な夢であった。しかし、その夢の中の光景はユートピアの筋書には不可避だと思った。ユートピアを求めていけば、必ずあのような光景に直面せざるを得ない。そこにユートピアの運命がある。
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さて、最近世間の耳目を集めている統一教会にしても、かつてのオーム真理教にしても、その熱心な信者たちもユートピアを求めていたに違いない。言い換えれば、一般社会の論理(それは往々にして競争を促すものだ)に絶望した人々はそれとは別の論理(それは往々にして共生を謳うものだ)を宗教に求めた。これは非難されるべきことだろうか。確かに、高額の献金や霊感商法などは常軌を逸している。とても正気の沙汰とは思えない。しかし、そうした狂気をカルトと称して宗教と区別しても何も解決しないだろう。健全な宗教と危険なカルトという区別をしたところで、宗教は常にカルトと化す危険性を胚胎しているし、カルトにおける宗教性を否定することもできないからだ。重要なことは、世間の常識では狂気としか思えないカルトにかくも多くの人々が救いを求めている現実に他ならない。少なくともユートピアの筋書にカルトの狂気は不可避だ。とは言え、私はそれを単純に肯定するつもりはない。あくまでもカルトの狂気を超克する筋書を摸索している。そのためにもやはり、カルトにしか救いを見出せない人間の心の闇を更に深く凝視しなければならない。そうした凝視なくして、ユートピアの筋書の新たな展開など到底望めないだろう。
ユートピアの筋書(9)
「共産主義は単に生産と分配を自覚的に制御し、人間の自由を実現するだけでなく、「アソシエイトした人間たちが…この物質代謝を合理的に規制し…自分たちの人間性に最も相応しく最も適合した諸条件のもとでこの物質代謝をおこなう」社会でもなければならない(『資本論』第三部主要草稿)。晩年のマルクスは、正に以上のような物質代謝の合理的制御の可能性を展望するために、経済学研究をこえ、農芸化学、生理学、地質学、鉱物学、植物学、有機化学などの自然科学をも徹底的に研究した。……剰余価値の最大化を目的とする資本主義的生産様式は、人民大衆と対立しているばかりでなく、人間と自然との間の物質代謝を持続可能な仕方で制御するための科学とも対立しており、この意味で、合理的な生産力の発展に対立している。このような認識のもとに、マルクスは農耕共同体を「ロシアにおける社会的再生の拠点」として位置付けたのである。晩期のマルクスは、かつての近代化論を撤回したというだけでなく、むしろ前近代的共同体の生命力と連携しつつ、資本の力を封じ込めていくという戦略に転換したとさえ言えるだろう。」(佐々木隆治「マルクスの資本主義批判」)
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こうした晩期マルクスの読解に即して言えば、マルクスは資本主義に基づくパラダイスをラディカルに批判することによってアルカディアを前向きに反復するという筋書を抱いていたことになる。つまり、来るべきコミューンは新しきアルカディアなのだ。しかし、新しきアルカディア、すなわちパラダイスを超克するアルカディアはパラダイス以前の古きアルカディアとどう違うのか。これが筋書の焦点になる。先述したように、私はエデンとアルカディアを区別しているが、これは妥当なことか。エデンは神話にのみ存在する無為自然の楽園であり、その喪失から人間の歴史(ヒストリー=ドラマ)は始まる。それが俗に原始共産制と称される段階だ。神話のエデンと歴史のアルカディア。歴史の起点はあくまでもアルカディアと考えたい。そこにユートピアの原点も想定される。しかし、人間の理想はアルカディアからパラダイスへと移行する運命にある。この運命のドラマを書くことが喫緊の課題だが、私は長く足踏みを余儀なくされている。ブルジョアの楽園としてのパラダイスの魔力。それを超克する来るべき新しきアルカディアはプロレタリアートの楽園になると期待されているが、その筋書は階級闘争としてしか描けないのか。もっと別の展開は考えられないのか。私の足踏みはまだ暫く続きそうだ。