ユートピアの「ちむどんどん」
今週末に最終回を迎えるNHKの朝ドラ「ちむどんどん」は何かと批判の多い作品であり、元大臣までが「脚本の論理性が崩壊している」と発言する始末だ。実際、「さあ、これから感動するぞ」と気持が高まる場面でことごとく梯子が外される感じで、視聴者の欲求不満(感動の消化不良)が募るのも無理はない。そもそもこの作品は沖縄の祖国復帰五十年を期に制作されたものなのに、沖縄を舞台にしていながら「沖縄」が殆ど描かれていない。沖縄戦の遺骨収集の場面が織り込まれたりもするが、それも単なるエピソードでしかなく、少なくとも主人公の生き方に深い影響を与えることはない。沖縄の美しい自然と美味しそうな料理はふんだんに登場するが、特に沖縄を舞台にしなければならぬ必然性が感じられないのだ。主人公のビルドゥングスロマンにおける沖縄の必然性が欠けていると言ってもいいだろう。沖縄で生まれ育った少女が、やがて東京(横浜)で料理の修業(しかもイタリア料理!)をして、再び沖縄に戻ってくる――そこに如何なる成長があるのか。「やはり故郷はいい」ということを再発見するドラマだったのか。残すところあと数回だが、残念ながら私はそこに「ドラマ」を見出せそうにない。
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しかし、私がこのドラマで問題にしておきたいことは別にある。それは主人公の暢子の「ちむどんどん」が終始彼女の私的領域を超えない点だ。周知のように、「ちむどんどん」とは沖縄のウチナーグチで「胸がワクワクする気持」だが、暢子が何に「ちむどんどん」しようと彼女の勝手ではある。しかし、暢子の場合、どうも移り気というか、その時々の感情で「ちむどんどん」の対象がコロコロ変わっていく。「イタリア料理のシェフになる!」と頑張っていたのに、突然「沖縄料理の店を出す!」と言い出し、最終的には「故郷の沖縄で暮らしたい!」ということになる。一応、そこには「料理」という共通項はあるものの、暢子の生き方には一貫性が感じられない。むしろ、自分勝手で我儘な印象が強い。要するに、暢子は自分自身が「ちむどんどん」することしか念頭にないのだ。自分自身を超える「ちむどんどん」はそこにはない。確かに、歴代の朝ドラのヒロインたちも自分が「ちむどんどん」することに没頭してきたと言える。しかし、そこには私的領域を超える何かがあったように思われる。また、そうした何かなければ感動するドラマは生まれないのではないか。暢子の更なる成長を期待したい。
トラコの錯誤
家庭教師のトラコは「この世界を変える!」と宣言した。父親の死後、母親にも見捨てられたトラコは児童養護施設で育ち、幼い頃からこの世界のお金の流れが不公平であることを痛感して大きくなった。一割の富裕層が世界の富の八割を占める世界の現実。金持はどうでもいい娯楽に大金を費やし、貧乏人は生きるために必要最小限なものを買う僅かなお金さえ不足している――トラコならずとも、この世界は変えなければならぬと思うのは当然だろう。しかし、そのためにトラコは何をしたか。資産家の弱み(スキャンダル)をつかんで、孤児院や障害者施設といった場所に十億円寄付させたにすぎない。これは貧しき者の富める者に対する暴動ではあっても革命ではあり得ない。法的には犯罪ではなかったようだが、こんなことで世界は変わるのだろうか。更に言えば、暴動ではなく、たとい富裕層が自発的に自らの富を貧困層に流したとしても、それで公平な世界は実現するのか。
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遊川和彦という脚本家はそれなりに問題意識のあるドラマを書くが、いつも詰めが甘い。僭越ながら、そう思わずにはいられない。今回の「家庭教師のトラコ」というドラマも、最初から「正しいお金の使い方」がテーマで毎回生徒と共に色々と考えさせられたが、最終回では「サンタクロースこそが正しいお金の使い方をしている!」という結論らしきものが示された。無償の愛、とでも言うのだろうか。自分の所有物を惜しみなく、皆に分け隔てなく贈与し続ける。確かに贈与論は魅力的だが、トラコの贈与論は中途半端だ。私は不意にO・ヘンリーの「賢者の贈り物」を思い出したが、富裕層と貧困層の間に贈与論は成立するのだろうか。それにトラコは「正しいお金の使い方」ばかりに執著しているが、むしろ考えるべきは「如何にしてお金のない世界を実現するか」という問題ではないか。鄙見によれば、慈悲は単なる施しではなく、その本質は「正しいお金の使い方」と言うよりも、むしろ「お金の超克」にこそある。トラコの問題意識には根源的な錯誤があるように思えてならない。
ドラマの痕跡
筋書はドラマではない、と私は書いた。しかし、ドラマにも「ドラマ」はないと思わざるを得ない。ドラマは常にすでに「ドラマ」の痕跡でしかない。あるいは我々が表現できるのは「ドラマ」の痕跡でしかない。例えば、確か小川国夫の作品だったような気がするが、次のような光景が不意に思い出される――
夏祭りを楽しんだ恋人の二人が、その帰路でチンピラたちに絡まれ、近くの廃屋に連れ込まれる。そこで女性はチンピラにレイプされる。男性は助けようとするが、他のチンピラに殴られ、羽交い絞めにされ、結果的に自分の恋人がレイプされる一部始終を目にすることになる。やがてチンピラたちが去った後、廃屋にはレイプされた女性と助けられなかった男性が残される。心身ともに傷だらけの二人はこれからどう生きていくのか。もう二度とかつてのようなバラ色の恋人同士ではいられない。死んだ方がマシだという現実。それでも生き続けていくとしたら――
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さて、この光景からは様々なドラマが想定できる。チンピラたちへの復讐。恋人たちの心中。古い恋の終わりと新しい恋の始まり。文才があれば、そこから興味深いドラマが生み出されるだろう。俳優と演出家に恵まれれば、各方面から高く評価される話題作になるかもしれない。しかし、そこに「ドラマ」はあるか。やはり痕跡しかないのではないか。
若干の訂正:数式を超えるドラマ
「数式では表せないドラマ」という言い方は正確ではなかったと反省している。筋書は数式で表されるかもしれないと思い直したからだ。しかし、筋書はドラマではない。言い換えれば、筋書だけではドラマにならない。例えば、古典落語。誰でもその筋書(オチ)は知っている。なのに何故、人は寄席に何度も足を運ぶのか。ドラマに出会うためだ。誰もが知っている筋書の噺を名人が語る。そこにドラマが生まれる。言うまでもなく、噺家が語ればどれもドラマになるというわけではない。筋書からドラマが生まれるか否か――そこに話芸の妙がある。こうしたことは歌舞伎やシェイクスピア劇でも同様だろう。筋書から如何にしてドラマを生み出すか、to be or not to be, それが問題だ。このような理由から、「数式では表せないドラマ」を「数式を超えるドラマ」に訂正したい。
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さて、私のドラマ中毒は相変わらず快癒の兆しさえ見せないが、そのドラマの殆どを私は1.75倍速で観ている。つまり、厳密に言えば、私はドラマを観ているのではなく、単に筋を追っているにすぎない。特に刑事ドラマでは「犯人捜し」という明確な筋書があるが、それがドラマにまで昇華することはめったにない。古くは「刑事コロンボ」、比較的最近では「古畑任三郎」とか「ガリレオ」といった倒叙ミステリーでも同様だ。総じて言えば、私は毎日多くのドラマを観ているが、「ドラマ」に出会うことは殆どない。それでもノーマルな速度で観たくなる「ドラマ」がないわけではない。一体、何が違うのか。一度筋書を追えばもう二度と観ることはないモノと筋書は知っているのに何度も繰り返し観たくなるドラマ――その間にある何かこそ、数式では表せないコトだと私は思う。
数式では表せないドラマ
素粒子とかダークマターといった話を耳にすると、人生の私的領域とか公的領域とか言って悩んでいるのが阿呆らしくなる。広大な宇宙の中で人間存在など何ほどのものでもない。所詮、人間も土に還るのだ。ジタバタしても始まらない。なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる。縁あってこの世に投げ出されたのだから、そのことを楽しめばいい。基本的には私もそう思う。しかし、人生の楽しみ方には二種類ある。Was-Frage とWie-Frage だ。前者は「この世界は何か」と問い、後者は「この世界で如何に生きるか」と問う。厳密に言えば、両者は相即しているものの、現実にはどちらかに重点を置いて生きることになる。私は文系人間なので理数系の問題がよく理解できないが、理解できないなりに興味はある。殊に数学者が「四色問題」とか「abc予想」といった日常的にはどうでもいいことの証明に血道をあげている姿には「ちむどんどん」する。しかしながら、もっと「ちむどんどん」するのは「哲学者はこの世界を様々に解釈してきた。しかし、重要なことは世界を変革することだ」というマルクスの言葉だ。とは言え、世界の解釈(Was-Frage)と世界の変革(Wie-Frage)はやはり無関係ではあり得ない。そこが頭の痛いところだ。
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さて、ガリレオは「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」と言った。また日本の或る高名な宇宙物理学者は「この世界のあらゆる現象は数式で表現できる」と豪語している。本当だろうか。数式を目にすると眩暈のする私には俄かに信じがたいことだが、熱々のお好み焼きの上にふりかけられた鰹節の動きとか風に舞い散る落葉の動きさえ数式で表わされると言われれば、大したものだと素直に感心するしかない。しかし、それはあくまでもモノの世界の現象に限られるのではないか。風に舞い散る落葉の動きは数式で表わせても、人間のコト、すなわち風に吹かれている「答え」は数式化できないのではないか。いや、たといできたとしても、人間のコトが織り成すドラマは数式を超えた次元に生み出されると私は思う。人生のドラマという書物は数学ではなく、哲学の言葉で書かれているからだ。では、「哲学の言葉で書かれた書物」とは何か。
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ここで、今後の思耕のために、改めてカミュの有名な言葉を再読しておきたい。
「真に重要な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元より成るとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えねばならぬ」(「シーシュポスの神話」)
こうした問題意識から、カミュは更に「ガリレオは重要な科学的真理を強く主張していたが、その真理故に自分の生命が危険に瀕するや、いとも易々とそれを捨ててしまった。或る意味でこれは当を得た振舞だった。その真理には火焙りの刑に処せられるだけの値打ちがなかったのだ」と述べている。ここに「数学の言葉で書かれている書物」と「哲学の言葉で書かれている書物」との絶対的(質的)差異を見出すことができる。私は前者を蔑ろにするつもりはないが、我々の求めるユートピアが後者であることは言うまでもない。
オイコスの充実
私の致命的欠陥、何を言っても説得力がない理由の一つは私が家庭を築いていないことにある。人生を個人幻想・対幻想・共同幻想の三層として理解すれば、私には対幻想がスッポリと抜け落ちている。こんな男が「オイコスの幸福にとどまるな!」と叫んでも、全く説得力がないのは当然だろう。私はそのことを深く自覚している。反省している。けれども、今更どうしようもない。私は私自身の立場で人生の諸問題について思耕していくしかないのだ。そもそも私はオイコスの幸福を軽視しているわけではない。できれば私もそれに浴したいと思っている。ただ、人生の理想はオイコスの幸福に尽きるものではない――そう考えているにすぎない。「考えるな。感じろ!」というのも一つの生き方だが、私は究極的な人生の真理を見極めたい。このように「究極的なもの」を熾烈に求めること自体が一つの病なのかもしれないが、それならそれで仕方がない。私は病みつつ生きていこうと思う。
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さて、愚痴はこれくらいにして本題に戻ることにする。或る武漢の住民はコロナの危機に際して次のように語ったそうだ。「本当に必要なのはどのような政府なのか。それは一人一人の根本的な利益を真に守ることができる政府だということを人々が理解することを期待している。この根本的な利益とは、財産だけにとどまらず、命に関する事でもあるのだ!私はまず何よりも人間、生きた人間でありたいのだ!申し訳ないが、危機の際に我々の自助自滅を強いる政府と国家など、私は愛することなどできないのだ!」ここには民衆の偽らざる本音がある。彼にとって最も重要なのは自らの私的領域であり、そのオイコスの幸福に他ならない。そこでポリスが必要とされるにしても、それはオイコスの幸福を守るためのものでしかない。しかし、ポリスとは果たしてそのようなものなのか。
オイコスとポリス
米騒動がその典型だが、米価の高騰で自分と家族のゾーエーの維持が危機に瀕する時、民衆は怒り、ようやく体制に反抗し始める。「窮鼠猫を嚙む」とも言えるが、大抵の場合、自分たちの平穏な私的領域が侵害されて初めて怒れる民衆はその重い腰を上げる。逆に言えば、私的領域が平穏無事に維持される限り、民衆は体制に反抗することはない。過去の大きな革命も基本的には例外ではない。ただし、厳密に言えば、民衆の反抗は暴動もしくは一揆であって、革命とは区別すべきだろう。鄙見によれば、暴動は私的領域におけるオイコスの危機から始まり、革命は公的領域におけるポリスの理想実現を目指す。暴動と革命は質的に断絶しており、次元が異なる。しかし、暴動が革命へと飛躍的に発展する瞬間がある。例えば、五十年ほど前の全共闘運動を振り返れば、その発端は医学部インターンの不当待遇とか授業料値上げといった学生の私的領域における問題であったが、やがて「大学自治」という公的領域における問題へと発展していった。周知のように、残念ながら全共闘運動もまた革命への瞬間を活かすことができず、ポリスの理想は依然として未完のプロジェクトのままだ。一体、何が敗因だったのか。三島由紀夫などは異なる立場からではあるが全共闘運動に深く共鳴していたものの、東大安田講堂闘争において一人の学生も自らの理想に殉じなかったことを嘆いた。つまり、結局学生たちは自らの私的領域を超えることがなかった、ということだ。闘争終焉後、大半の学生たちは大学に戻り、「もう若くはないさ」と長髪を切って就職し、企業戦士として「経済的繁栄」のために働いて、結果的にマイホームやマイカーのある豊かな人生を享受するに至る。そうした「転向」を潔しとしない学生たちは大学に戻らず、予備校講師になったり、自ら起業したり、世界を放浪する旅に出たりするが、それもまた結局は革命の断念でしかない。ちなみに三島は時の政権がもたらした「経済的繁栄」に疑問を呈し、「生命尊重以上の価値」の所在を示すべく割腹した。しかし、三島の割腹もまた革命への道を切り拓くことはなかった。革命未だならず。新しき道は我々が切り拓くしかない。
私的領域の充実と反体制
日々真面目に労働する。労働後は友人と居酒屋に行ったり、趣味に没頭したりして余暇を楽しむ。そのうちに良き伴侶に恵まれ、やがて子宝にも恵まれて家族ができる。子供たちの成長。それに伴う様々なドラマを経て老後を迎える。特に世間から注目されることのない平凡な一生だが、そこには私的領域の充実がある。穏やかなオイコスの幸福がある。こうした幸福の何が問題なのか。そもそも私的領域の充実に問題などあるのか。
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一昨年(2019)あれほどの盛り上がりを見せた香港の民主化闘争が中国の徹底した締め付けによって今や見る影もない有様だという。国安法導入以後の香港の現状を報じるドキュメンタリィを観て、私は深く考えさせられた。中国政府の香港に対するアメとムチ。その軍事的強大さに対する恐れと経済的豊かさに対する憧れ。若者を中心に次第に中国支配を支持する人たちが増えているという。安全な日本にいて無責任なことは言えないが、今の香港では何かが試されていると思わずにはいられない。それは基本的に台湾でも、ウクライナでも同様だ。試されている何かとは、やはり人間だろう。長い物に巻かれてしまう人間の諦念か、それとも抵抗か。判断は難しいが、一つだけ明白なことがある。私的領域の充実にとどまるならば抵抗はあり得ない、という現実だ。おそらく、中国政府は香港人民に私的領域の充実を与えてくれるだろう。中国政府は大審問官の論理を熟知している。もし香港人民がその論理に屈服するなら、私は自戒を込めて言いたい――「オイコスの幸福は諸悪の本」と。
古き良き村のディレンマ
新しければいいというものではない。「モノが溢れて場所を取り、義理と人情の出番がない」という歌もあるが、私は義理と人情の古い世界が好きだ。新しい倫理か何か知らないが、そんなもので一切が仕切られては堪らない。女房や畳だって古い方が味わい深いこともある。古より生きるために繰り返されてきたゾーエーが積み重なってできたビオスの営み。民藝の方では土徳というそうだが、それは新しい倫理で簡単に壊されるような代物ではない。しかし、それにもかかわらず、「新しきもの」を要請するビオスもあるのではないか。例えば、甚だ唐突ながら、エリザベス女王が逝去されて王室の在り方が改めて問われているが、新しい倫理からすれば、莫大な個人資産を有する王室と巷に溢れる貧困者との格差は無視できない問題だ。「人間は皆平等」という倫理を貫けば、「王室撤廃!」という結論が導き出される。果たして、それが正解なのだろうか。この問題は決して他人事ではない。
自給自足と新しき村
創立百年を過ぎてなお、新しき村は自給自足の村だという誤解が絶えない。実際の村(毛呂山)はその誤解さえ実現していないが、新しき村の理想はそれを超えている。尤も、多数決の論理に従えば、私の方が誤解しているのだろう。しかし、もしそうなら、新しき村は他の凡百の自給自足の村と何ら変わらず、殊更「新しき」と冠する理由はないことになる。苟も「新しき村」と称するからには、何かが新しくなければならない。一体、新しき村の「新しさ」とは何か。私は自給自足の村を批判するつもりなど全くないが、そこに「新しさ」を見出すことができない。自給自足は新しき村の前提ではあっても、その本質はそれに尽きるものではないからだ。皆で自給自足して生活を安定させ、その上で文学でも音楽でも各自の好きなことをして暮らす――そんなものが新しき村の生活である道理がない。その程度の生活なら自給自足などしなくても、村の外の都会人がすでに或る程度実現していることではないか。新しき村はむしろ、そうした余暇を楽しむ生活をラディカルに超克していくものだ。