補足:交差点の必要性
過酷な競争社会から遠く離れて、限界集落とか消滅集落とか言われる場所に一人移り住んで、一から自給自足の生活を始める人がいる。そのドキュメンタリィを目にすると、羨ましいような鼓舞されるような、それでいてやはり何かが違うというような、実に複雑な思いに私は駆られる。その人の生き方に共鳴する女性が現れ、やがて共に暮らすようになって子ができ家族となる。その家族に共鳴する別の家族がやって来て、次第に死んでいた村が生き返っていく。それが新しき村なのか。それが我々の実現すべきユートピアなのか。
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自給自足の生活は純粋なゾーエーの営みだ。生きるための基本的な衣食住の営み。それはそのままビオスだと言ってもいい。経済的には貧しいかもしれないが、精神的には豊かな生活。そこには肉体の糧もあれば魂の糧もある。競争社会の価値観からすれば、所詮負け犬の幸福だと嗤われるかもしれないが、そこからドロップアウトしてしまえばもはや勝ちも負けもない。日々淡々と生きていけばいいのだ。そうしたゾーエーの営みそれ自体が一つの祝祭だと言えなくもない。そこに一つの理想の生活があることは間違いない。
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しかしながら、ゾーエーの営みを核とする自給自足の生活はやはりユートピアの原点への後向きの回帰にすぎないのではないか。それは一つのビオスだとしても、言わばユートピアの芽の如きものであり、究極的なユートピアの開花もしくは結実とは到底言えないだろう。何故か。その生活はついに私的領域を超えるものではないからだ。たとい自給自足の生活を営む複数の家族が互いに助け合って祝祭的な村を形成するとしても、それはそれぞれの私的領域の寄せ集めにすぎず、そこには真の公的領域は未だない。勿論、私は私的領域だから駄目だと言いたいのではない。私的領域は人間に必要不可欠なものであり、そこにはそれなりに祝祭もあれば共働もある。しかし、それは祝祭共働態ではない。私的領域の充実が人間に幸福をもたらすのは事実だが、それはパラダイスの幸福ではあってもユートピアの幸福ではない。私的領域だけではユートピアは実現しない。どうしても公的領域との交差点が必要になる。祝祭共働態は人間の私的領域と公的領域との交差点からしか生まれない。
ユートピアの交差点(10)
「おしん」の人生は災害ユートピアに似ている。そこでは誰もがゾーエーの過酷な現実に直面することを余儀なくされ、一所懸命に生き永らえようとしている。今を生きる。それ以外のことは全て余計なことであり、人々は何故か互いに助け合って共に生きようとする。災害前の日常では自分が生き残るためには他人のことなんか関係ないというエゴイズムが人間の現実だったのに、災害の非日常ではその現実が一変する。一個のおにぎりを奪い合う現実がそれを分け合う現実と化す。悲惨な現実にもかかわらず、そこには共生のユートピアが芽生えている。「おしん」というドラマに対する感動もまた、そうした災害時のようなゾーエーの維持にのみ集中せざるを得ない限界状況から生まれてくる。苦しい日々を誰かに助けられながら、同時に誰かを助けていく生活。尤も、それは「おしん」に限らない。懸命に「今を生きる」人間のドラマはどれもこれも感動的だ。戦争も災害の一つに数えれば、終戦直後の闇市的状況もまた剥き出しのゾーエーを核とするドラマの舞台になるだろう。そこは生き馬の目を抜くエゴイズムの世界でありながら、同時に相互扶助の世界でもある。弱肉強食の自然と共生の自然は表裏一体だ。「戦争の破壊の巨大な愛情」とは安吾の言葉だが、ゾーエー以外の全てが破壊され尽くした地平、言い換えればゾーエーのみが残された地平はユートピアの原点に他ならない。どんな人にでもその原点への郷愁があると私は思う。
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しかしながら、我々はユートピアの原点にとどまることはできない。災害の非日常はやがて復興の日常になる。すると、ゾーエーの維持という現実以外に思いを馳せる余裕が出てくる。その余裕がビオスの次元を切り拓く。アーレントに即して、ゾーエーの維持を労働(labor)と称するならば、ビオスは仕事(work)、更には活動(action)へと展開していく。幼い頃から労働に追いまくられてきた「おしん」にも次第にビオスの次元が開けてくる。それは端的にその日暮らしの貧困から余裕のある豊かさへの発展と言ってもいい。人はその発展にパラダイスを見出すこともできる。しかし、果たしてパラダイスは人間に真の幸福をもたらすだろうか。確かに、余裕のある豊かさは人間に必要不可欠だが、同時に競争による格差を生じさせる。ユートピアの原点では全ての人間が平等に貧しかったが、パラダイスでは貧富の差がどんどん拡がっていく。それでも平等な貧困よりも相対的な豊かさの方がマシだと言えるだろうか。その判断は人それぞれの人生観によるだろうが、少なくとも私はパラダイスを超えていく理想を求めたい。さりとてユートピアの原点に後向きに戻ろうとするわけではない。逆だ。ユートピアの原点への郷愁もさることながら、我々はあくまでもパラダイスを前向きに超えていかねばならない。それは何を意味するか。
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何れにせよ、ゾーエーからビオスへの主体的関心の移行は避けられない。勿論、ゾーエーなくしてビオスなし、ゾーエーの根源的意味を否定することはできない。しかし、それにもかかわらず、我々の関心はイキモノの基本であるゾーエーの維持から人間固有のビオスの充実へと移っていく。言い換えれば、ゾーエーの労働を前提としながらも、ビオスの仕事および活動に人生の重点を置いていく。特に活動。問題は、労働が私的領域にあるのは明白だが、多くの場合、ビオスが未だ公的領域にまで達していないことにある。私的領域のパラダイスの超克は、公的領域との交差点から始まるビオスの活動にかかっている。
ユートピアの交差点(9)
美的にせよ倫理的にせよ、およそ「自分探し」というものは所詮ノンキな戯言にすぎない――そういう意見もあるだろう。例えば、「おしん」は幼い頃から食うための労働に追いまくられ、「自分探し」などしている余裕はなかった。しかし、「おしん」に「自分」がなかったとは言えない。むしろ、「自分探し」をしているノンキな連中よりも確固とした「自分」がある。つまり、「おしん」はわざわざ「自分探し」をしなくても、その過酷な人生を通じて自然に「自分」を形成してきたのだ。それは如何なる「自分」なのか。言うまでもなく、ゾーエーという剥き出しの生を維持することに一所懸命の「自分」に他ならない。そこにはなりたい「自分」になるという余裕はない。だからこそ、多くの人は人為性のないギリギリの「おしん」の人生に感動する。そうした感動的な「おしん」の人生に比べれば、「自分探し」というノンキな問題に苦悩している人生はひどく色褪せたものに見えてくる。確かに、人間に限らず、生きとし生ける全てのものにとってゾーエーほど切実なものはなく、人間に特有の「自分探し」はその切実なゾーエーを超越する次元、すなわちビオスにおいて初めて問題になる。ビオスに至る余裕を得て「自分探し」は人間にとって問題になる、と言ってもいい。従って、「自分探し」の人生が「おしん」の人生に比べて切実でないと思えるのは極めて自然(当然)なのだ。しかし、だからと言って、「ゾーエーが現実で、ビオスが虚構」ということにはならない。いや、たといビオスがイキモノにとっては虚構でも、人間にとってはやはり切実な現実なのだ。ゾーエーの現実を生き抜いた「おしん」の人生は実に感動的だが、我々は更にその先を行く。人生の本当の感動はゾーエーとビオスの交差点にある。「おしん」は未だそれを知らない。
ユートピアの交差点(8)
なりたい「自分」になるのは水平の次元における至福、すなわちパラダイスだ。問題は、なりたい「自分」がどのようにして形成されるか、ということにある。例えば、医師がなりたい「自分」である場合。古くは山本周五郎の「赤ひげ」(黒澤明による三船敏郎のイメージが強いが)、最近では「ドクターX」などのドラマを観て医師という職業に憧れる人もいるだろう。あるいは、もっと現実的にペシャワールおよびアフガニスタンでの中村哲氏の活動に感動して医師を志す人もいるに違いない。要するに、俗に言えば「医師はカッコイイ!」と思わせる影響だ。これには医師である親が立派だとか、実際に重病の自分を救ってくれた医師に対する感謝の念も含まれる。私はこうした諸々の影響を、なりたい「自分」の美的段階と理解している。言うまでもなく、この段階は医師以外の場合にも共通する。弁護士になりたい、プロ野球選手になりたい、アイドルになりたい――なりたい「自分」は無数に考えられるが、どれもこれも「カッコイイ!」という自分の感性が核となっている。この感性のまま憧れの「自分」になれる人は幸福だ。しかし、現実にはそうはいかない。必ず壁が立ちはだかる。そもそも医師になりたいと思っても自分に医師になれるだけの能力があるとは限らない。これは他の場合でも同様だ。なりたい「自分」は否応なく現実の自分に直面せざるを得ない。その時、なりたい「自分」となるべき「自分」との葛藤が始まる。この葛藤を私は、なるべき「自分」の倫理的段階と称したい。なりたい「自分」の美的段階となるべき「自分」の倫理的段階。前者は水平の次元だが、後者はすでに垂直の次元に切り込んでいる。医師免許を取得したという現実は同じでも、美的段階のまま医師になった人と倫理的段階にまで踏み込んで医師になった人とでは全く違う。なりたい「自分」となるべき「自分」との間には質的断絶がある。確かに、美的段階でなりたい「自分」になれる人は幸福だ。私はそのパラダイスを否定しようとは思わない。しかし、私は敢えてその先の倫理的段階への移行を望みたい。本当の人生行路、すなわち人間が人間として本当に生きる道は美的段階と倫理的段階の交差点から始まると信じているからだ。
ユートピアの交差点(7)
よく「自分探し」ということが言われる。ずっとサラリーマンとして人生を馬車馬のように駆け抜けてきて、定年後にようやく「自分探し」を始める場合もあるが、本来はやはり若者に特有の問題だろう。自分とは何か。自分は何を為すべきか。自分は何をするためにこの世に生まれてきたのか。こうした問題に悩まない若者はいない。勿論、客観的に為すべきことの基本はすでに決められている。義務教育の勉強だ。子供の本分は遊ぶことだとされたのも束の間、或る年齢に達すると学校に行って勉強することが基本となる。しかし、多くの子供は学校に行って勉強する「自分」に疑問を抱かず、更にはそれを親や教師に褒められる「自分」に発展させようと努めるものの、中には社会による既定の「自分」に躓く子供も少なくない。何のために勉強するのか。勉強せずに遊んでいてはいけないのか。散々考え抜いて、たとい勉強すべき本当の意味に目覚めても、今度は「本当の勉強」と学校の受験勉強とのズレに悩まずにはいられない。それでも両者は全く無関係ではないし、試験で高得点を獲得すればそれなりに充実感はあるし、東大生にでもなれば世間から一目置かれる「自分」になれる。学歴は高いに越したことはない。その調子で社会的に評価の高い職に就くことができれば、そうした順風満帆の「自分」に一生満足して生きることができる。しかし、果たして本当にそれでいいのだろうか。順風満帆の「自分」とは無縁の私の疑問など誰も歯牙にもかけないだろうが、それは単に社会の一般的価値観に支配された「自分」にすぎないのではないか。高学歴の「自分」、高収入の「自分」、社会的地位の高い「自分」――確かに、そんな「自分」を世間は高く評価してくれる。羨まれる。しかし、それが本当の「自分」なのか。少なくとも私は順風満帆の「自分」でさえ「自分探し」を余儀なくされることになると思う。言うまでもなく、順風満帆の「自分」に辿り着けるのはごく少数であり、殆どの人は親や教師の推奨する優等生になれない「自分」に直面し、その絶望から早々に「自分探し」を始めることになる。しかし、その場合でも、優等生からの落ちこぼれが探し当てる「自分」はプロのスポーツ選手やミュージシャン、あるいはお笑い芸人やアイドルといったマスコミによってつくられた価値観に大きく影響されたものでしかない。つまり、優等生の価値観からドロップアウトした者もまた世間一般の価値観から自由になることは容易ではないのだ。とすれば、本当の「自分」は如何にして見出されるのか。見出されるのではない。それは新しく創るしかないものだ。「実存は本質に先立つ」とはサルトルの言葉だが、本当の「自分」などというものはどこにもない。事ここに至って、「自分探し」は「個人の自我の完全なる生長」という新しき村の第二の課題と接続する。「自分探し」は専ら水平の次元においてなされるが、「個人の自我の完全なる生長」は垂直の次元を要請する。本当の「自分」はそうした二つの次元の交差点から生まれる。
ユートピアの交差点(6)
私のこれまでの文脈で言えば、ゾーエーとビオスという人生の二層構造で問題になるのは肉体の糧(パン)と魂の糧(神の言葉)だ。新しき村の運動もそうした二つの糧を満たすものとして理解される。更に、「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事を理想とする」新しき村の精神に即して言えば、「天命の全う」と「個人の自我の完全なる生長」という二重の運動になる。すなわち、全世界の人間に肉体の糧が平等に配分され、突発的な自然災害や不治の病で命を落とすのは仕方ないとしても、少なくとも戦争や環境破壊、貧困・不当な過労・いじめといった人為的な要因で天から与えられた寿命を縮めることのない社会の実現――これが新しき村の第一の課題となる。勿論、これは新しき村の専売特許ではなく、従来の社会運動は全てこの課題に取り組んできたと言える。具体的には資本主義を超克せんとするマルクス主義の運動だ。ただし、「マルクスはマルクス主義者ではない」と言われるように、その本質を見極めるのは容易なことではない。そもそも肉体の糧と言っても、それはもはや単なる食物(農産物)に尽きるものではあり得ず、実質的には貨幣を意味する。実際、殆どの人は自分たちの肉体の糧を大地を耕すことによってではなく、スーパーマーケットでお金を支払うことによって得ている。こうした商品経済もしくは貨幣経済の超克こそが資本主義超克の本質だと思われるが、それは如何にして実現されるのか。これはここで簡単に答えられるような問題ではないが、人々の「天命の全う」を阻んでいる戦争などの要因が資本主義にあるのなら、我々はその超克に全力を尽くさねばならない。それが当面求められる世界の革命、第一の課題としての革命に他ならない。しかしながら、鄙見によれば、この革命はこれだけでは成就できないだろう。どうしても「個人の自我の完全なる生長」という第二の課題が要請される。第一の課題で要請されるのが「水平の次元における革命」(便宜上、以下水平革命と略称する)だとすれば、第二の課題で要請されるのは「垂直の次元における革命」(便宜上、以下垂直革命)だが、こうした二つの革命は相即しなければならない。我々の究極的な課題は水平革命と垂直革命の交差点から始まる。
間奏曲:人生の図式的理解
人生は二層構造になっている。ギリシア語で言えば、ゾーエーとビオスだ。それらは次のように説明される。
ゾーエー:およそ生あるもの全て(動物、人間、神)に共通する「生きている」という一般的事実の表現。
ビオス:人間(個体であれ、集団であれ)に固有の「生の形式」
こうした二層は古来、様々に問題にされてきた。例えば、「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口からでる一つ一つの言葉による」という聖書の一文。これを私なりに解釈すれば、「パンによる生」(ゾーエー)と「神の言葉による生」(ビオス)という二層が見えてくる。人はパンがあれば取り敢えず生きられる。しかし、それだけでは本当に生きていることにはならない。人間が人間として本当に生きるためには、どうしても神の言葉が必要になる。さりとて人はパンなしでは生きられないというのも厳然たる事実だ。有り難い神の言葉もパンなしでは画餅にすぎない。実際、神の言葉は不要不急であり、人が切実に必要とするのはパンの方であろう。「パンによる生」が満たされて初めて「神の言葉の生」は意味を成す。一般的にはそう考えられる。しかし、果たして本当にそうか。たとい飢え死にしても、人間として本当に生きる道を貫く――実篤なら「殺されても死なない」と言うような現実があるのではないか。これはキレイゴトかもしれない。しかし、単なるキレイゴトで済ませてはならない。少なくとも私はそこに人間の理想を見出したい。とは言え、私は理想を貫けるほど強くはない。むしろ、弱い人間だ。かつてのインパールの如き地獄を余儀なくされれば、私は生きるために戦友の人肉さえ喰らうだろう。しかし、そうした畜生道に堕ちても、依然として神の言葉はある。そこに、そこにこそ、ゾーエーとビオスの交差点に生きる人間の究極的な理想があると私は信じたい。
ユートピアの交差点(5)
生きていることが楽しくてたまらないという人はそれでいい。順風満帆の人生。金持の家に生まれ、何不自由なく育ち、それなりの努力もして良い学校を出て良い職場に入る。更には、良い伴侶・良い子息にも恵まれ、経済的に豊かな良い家庭を築く。これといった大きな病気にも罹らず、大きな災害や事故に遭うこともなく、神様から授かった天寿を全うして死に至る。おそらく、そこには「死にたい気持ち」など生じないだろう。死が訪れるまで楽しく生きる。ただそれだけのことだ。一般的には、これ以上に幸福な人生はないと思われるが、果たして人間はこうした生き方を望むだろうか。殆どの人にとって、これは疑問の余地のない愚問かもしれない。それならそれでいいが、誰もが羨む幸福な人生は水平の次元を一ミリも超えることがない(その必要性に出会わない)という現実を少なくとも私は疑問に思う。それは「順風満帆の人生など現実にはあり得ない画餅にすぎない」という疑問ではない。たとい画餅だとしても、多くの人が順風満帆の人生を求めること自体に疑問はあり得ない。順風満帆の人生は水平の次元 におけるパラダイスだ。パラダイスの魅力(魔力)に疑問はないが、我々はそこに安住できるのか。安住すべきなのか。そこに私の疑問がある。そこで詭弁だと思われるかもしれないが、一つのテーゼを提示したい。それは「私はパラダイスを求めても、我々はパラダイスを超えていかねばならない」というテーゼだ。私と我々の交差点からユートピアへの道が現れてくる。
ユートピアの交差点(4)
我々が現実に生きている世界は水平の次元だ。そこは神様が創造した世界であり、本来は全ての生きとし生けるものは平等であるべきだとされている。しかし、自然界は水平でありながらも平等ではあり得ない。否応なく、食うものと食われるものに分かれる。幸か不幸か、人間は食物連鎖の頂点に君臨して、万物の霊長などと威張っていられるが、その偉大なる人間様の世界も決して平等ではない。やはり、食うものと食われるものに分かれる弱肉強食の世界だ。それぞれの人間の能力に差がある以上、それは極めて自然なことだろう。そこに求められるのは、せいぜい「平等な競争」でしかない。すなわち、能力のない者が親の七光りで成功したり、逆に能力のある者が親の貧しさのせいで成功できないというような不当の解消だ。例えば、能力のある大谷選手のMLBでの成功を誰も不当だなどとは思わない。むしろ、その能力を羨むことはあっても、大谷選手がその才能を正当に開花させていることは実に喜ばしいことだ。問題は、大谷選手に匹敵する才能がありながら、経済的な理由その他で野球部に入ることができず、結果的にその才能を活かせなかった人がいることだ。そうした不当の解消が水平の次元を理想社会に近づけることは間違いない。ただし、諄いようだが、不当の解消は平等をもたらさない。能力のない人が死ぬほどの努力を積み重ねても、努力しない能力のある人に及ばないということはあり得る。所詮、亀は兎に勝てないという現実。亀と兎の走力の不平等は決して不当なことではない。しかし、その根源的な不平等において、亀は死にたい気持ちになるだろうか。もし亀に競争の意志があるならば、絶対に兎に勝てない現実は亀を死にたい気持ちにさせるに違いない。では、競争の意志を棄て去ったらどうか。それは競争の次元からのドロップアウトであり、不平等な現実における「死ぬ以外の選択」とも言える。確かに、そこには生き続ける可能性がある。それは競争から共生への可能性だと理解することもできる。しかし、私は敢えて「それは違う」と言いたい。競争の次元からのドロップアウトは真の共生への道を切り拓かない。それは水平の次元と垂直の次元の交差点からのみ始まる。
ユートピアの交差点(3)
一般的に言えば、「死ぬ以外の選択」とは生きづらい場である学校とか会社をやめて、家に引きこもったり、家がハウスではあってももはやホームではない場合には、ホームレスになって放浪の旅に出たりすることだろう。家でも路上でも、取り敢えず居場所になれば結構。無理に生きづらい場所にとどまる必要はない。それに今は猫も杓子も多様性を口にできる時代、「死ぬ以外の選択」は案外たくさんあるような気がする。しかし、それでも死にたい気持ちは変わらない。何故か。「死にたい気持ち」と真正面から向き合うことをせず、単にそこから遠ざかっているにすぎないからだ。それこそがパパゲーノが真っ先に取り組むべき問題ではないか。確かに、パパゲーノ効果は無視できない。それによって実際に救われている人もいるに違いない。しかし、それにもかかわらず、「死ぬ以外の選択」はやはり問題の回避ではないか。水平の次元における過酷な情況からドロップアウトするのは正しい。問題は、そのドロップアウトの場からどう生き始めるか、ということだ。なかなか上手く言えないが、「死ぬ以外の選択」も さることながら、むしろ水平の次元にラディカルに死ぬべきではないか。そうしたラディカルな死においてこそパパゲーノは真の一歩を踏み出せると私は思うが、これも所詮死にたい気持ちが分からぬ戯言なのかもしれない。