間奏曲:人生の図式的理解
人生は二層構造になっている。ギリシア語で言えば、ゾーエーとビオスだ。それらは次のように説明される。
ゾーエー:およそ生あるもの全て(動物、人間、神)に共通する「生きている」という一般的事実の表現。
ビオス:人間(個体であれ、集団であれ)に固有の「生の形式」
こうした二層は古来、様々に問題にされてきた。例えば、「人はパンのみにて生くるにあらず、神の口からでる一つ一つの言葉による」という聖書の一文。これを私なりに解釈すれば、「パンによる生」(ゾーエー)と「神の言葉による生」(ビオス)という二層が見えてくる。人はパンがあれば取り敢えず生きられる。しかし、それだけでは本当に生きていることにはならない。人間が人間として本当に生きるためには、どうしても神の言葉が必要になる。さりとて人はパンなしでは生きられないというのも厳然たる事実だ。有り難い神の言葉もパンなしでは画餅にすぎない。実際、神の言葉は不要不急であり、人が切実に必要とするのはパンの方であろう。「パンによる生」が満たされて初めて「神の言葉の生」は意味を成す。一般的にはそう考えられる。しかし、果たして本当にそうか。たとい飢え死にしても、人間として本当に生きる道を貫く――実篤なら「殺されても死なない」と言うような現実があるのではないか。これはキレイゴトかもしれない。しかし、単なるキレイゴトで済ませてはならない。少なくとも私はそこに人間の理想を見出したい。とは言え、私は理想を貫けるほど強くはない。むしろ、弱い人間だ。かつてのインパールの如き地獄を余儀なくされれば、私は生きるために戦友の人肉さえ喰らうだろう。しかし、そうした畜生道に堕ちても、依然として神の言葉はある。そこに、そこにこそ、ゾーエーとビオスの交差点に生きる人間の究極的な理想があると私は信じたい。