新・ユートピア数歩手前からの便り -75ページ目

純白の超克(8): 欠乏と過剰

労働者のニヒリズムは一般的に「時間がない、金がない、自由がない」といった欠乏によるものだ。従って、そうした欠乏を反転させて「時間がある、金がある、自由がある」という状態にすれば、労働者のニヒリズムは解消することになる。論理的にはそうなる。実際、労働者はそれを望んでいるだろう。しかし、それは実質的に労働者から高等遊民への転向を意味する。つまり、「時間がある、金がある、自由がある」という状態になれば、もはや労働の必要はなくなるのだ。尤も、厳密に言えば、その状態を維持するために更なる労働が必要になる。また、どれだけの時間・金・自由を得たら欠乏の充足になるのか、それは人それぞれ違ってくる。おそらく、「単に基本的な衣食住で満足する人」と「より豊かな衣食住を求めていく人」との格差は無限に開いていくだろう。そうした格差の発生そのものは極めて自然であり、何ら咎められるべきものではない。しかし、そこには否応なく人生における価値観の対立が生じてくる。「贅沢は敵だ」と「贅沢は素敵だ」の対立。それは現在では「寝そべり族」と「ワーカホリック」の対立に発展している。一体、労働者の解放とは何か。

さて、私は先に「食うための労働の廃絶がユートピアの喫緊の課題だ」と明言したが、これまでの社会運動は総じて「労働条件の改善」を要求してきたにすぎない。そして、それは「労働基準法」に見られるように一定の成果を上げてきた。言うまでもなく、私はその成果を軽視するつもりはない。むしろ、先人たちの血と汗と涙の結晶だと思っている。しかし、その結晶はあくまでもパラダイスの実現にとどまる。ユートピアはそうした水平的な社会運動を垂直に突き抜けていかねばならない。ただし、労働者がそこまで望んでいるかどうかは定かではない。率直に言って、ユートピアの理想は未だよく理解されておらず、それは多くの労働者にとって余計なお世話でしかないだろう。確かに、パラダイスにおいて欠乏のニヒリズムは或る程度解消されるに違いない。しかし、正にその解消から新たなニヒリズムが生まれてくる。それは過剰のニヒリズムだ。純白の超克も、そのニヒリズムに至ってこそ問題となる。

純白の超克(7):月曜の朝のブルー

月曜の朝、労働者は皆一様にブルーになる。過敏な人はその前夜から。サザエさん症候群というヤツだ。それでも土日に楽しければそれでいい。灰色の労働に耐えれば、またバラ色の週末がやって来る。月曜の朝のブルーから灰色の労働を経てバラ色の週末に辿り着く――労働者はそうした色彩の循環を生きている。それが労働者の現実の生活だ。これに対して、言わば毎日が日曜日の高等遊民の生活はずっと白いままだ。月曜の朝のブルーも灰色の労働もない代わりにバラ色の週末もない。果たして、どちらが幸せなのか。

ユートピアの理想から言えば、どちらも本当の意味で幸せではない。「食うために労働する人が一人でもいるうちは、その社会は理想ではない」とは実篤の言葉だが、食うための労働の廃絶がユートピアの喫緊の課題であることは間違いない。その意味では、食うための労働から解放されている高等遊民の生活はユートピアの条件を満たしているように見える。しかし、本当にそうか。高等遊民に対する拭い難い疑念は、それが一部の特権階級に限られる点に見出される。では、全世界の人間が等しく高等遊民になれば、そこはユートピアになるのか。勿論、そんなことは原理的に不可能だ。高等遊民だって食わずにはいられないわけで、誰かが食うための労働をしなければならない。古代ギリシアでは奴隷がそれを担っていたと言われるが、ユートピアに奴隷制などあり得ない。それは人間ではなく機械を奴隷にする場合でも同様だ。例えば、食うための労働の一切をロボットがしてくれるSFのような世界が実現したとしても、それはユートピアではない。何故か。ユートピアには食うための労働からの解放以上の何かが要請されるからだ。その何かを取り敢えず「生の充実」と称するならば、それは高等遊民の白い生活ではなく、むしろ労働者の色彩豊かな生活に見出されるのではないか。実際、定年退職して高等遊民になった人の多くは月曜の朝のブルーを懐かしむのではないか。とは言え、灰色の労働に追いまくられる労働者が高等遊民の生活を羨むのも事実だ。労働者の多忙と高等遊民の倦怠。そこには二種類のニヒリズムがある。

純白の超克(6):高等遊民

実に下らないラヴコメディの愚作を観ていたら、思いがけず「高等遊民」という言葉に出くわした。今や漱石の作品に垣間見られる程度の殆ど死語に等しき言葉だが、現代なら差し詰め「高学歴ニート」とでも言うのだろう。要するに、食うための労働をしないでも遊んで暮らせる人間のことだ。ただし、曲がりなりにも「高等」なので、下等遊民のように単に「飲む打つ買う」の道楽に現を抜かしているわけではない。むしろ、高等遊民はそうした俗物の道楽を軽蔑している。高等遊民にとっての「遊び」とは、あくまでも「人生にとって意味あること」の享受なのだ。そして、「人生にとって意味あること」とは、取り敢えず読書とか音楽鑑賞で教養を高めることになる。実に俗物的な発想(志向)だと思うが、今は批判を差し控えておこう。

さて、この下らないドラマの主人公も一応大学の文学部を卒業し、在学中は文芸サークルなどを主宰していた文学青年だ。しかし、就職試験の面接で酷い仕打ちを受け、それ以来「我は高等遊民也」と自室に貼って引きこもってしまう。「あんな俗物たちの世界にオレは生きたくない!」というのが男の主張だが、それから二十年、男が何をしてきたかと言えば文学もさることながら専ら映画やアニメといったサブカルチャーに没頭してきたにすぎない。従って、厳密に言えば、この男は高等遊民と言うよりも単なるオタクにすぎないのだが、それは重要な問題ではない。私がここで問題にしたいのは、たといこの男が真の高等遊民だったとして、そのような人格(ペルソナ)がドラマの主人公足り得るか、ということだ。

実際、この「我は高等遊民也」と宣言して自室に引きこもっている男に如何なる魅力があるのか。尤も、これは一応ラヴコメディであり、男が高等遊民である現実は喜劇的にしか描かれていない。もっと露骨に言えば、このドラマの作者も観客も高等遊民のリアリティを全く信じていないのであり、「現実にはこんな人間などあり得ない」というお笑いの対象でしかない。つまり、この喜劇的人物が如何にして恋に落ち、スッタモンダの末に幸せな結婚に辿り着くか、ということがドラマの核心なのだ。もとより私はこの愚作を批評するつもりなど全くないので、そうした喜劇的粉飾は一切無視して、クソ真面目に高等遊民の存在性のみを端的に問いたい。高等遊民という存在は魅力的か否か。

鄙見によれば、高等遊民は或る程度「純白の生」の体現者だと言える。彼の生活は俗物どもの汚い色に染められることもなく、白いままに保たれている。勿論、純白のままというわけにはいかない。むしろ、彼の現実の生には就職試験での侮辱という汚い色がべっとりと塗り付けられている。しかし、彼はそれを認めない。認めたくない。だから、認めることを拒絶するために、自室に引きこもって「自分の生は白いままだ」と思い込もうとしている。言うまでもなく、これは現実逃避でしかないが、現実逃避できる境遇にあるのなら、映画やアニメの世界に引きこもるのも理想的な生活の一つだろう。羨ましく思う人も少なくないに違いない。と言うより、たとい高等遊民になれなくても、食うための労働を極小にして、自分のプライヴェイトな生活は極力白いままにしておきたいというのが一般大衆の願いだと思われる。高等遊民はそうした願いの純粋結晶に他ならない。

しかしながら、高等遊民は大衆の夢ではあっても、人間の理想にはなり得ない。高等遊民が結局は金持の親のパラサイトにすぎぬという現実はさておき、その生が色を拒否して白いままでいようとしていることにこそ問題があるからだ。色は言わば俗なるものであり、それを拒否すれば白いままでいるしかない。確かに、高等遊民は夥しい読書や音楽鑑賞、更には映画やアニメの鑑賞を通じて様々な色を見ることができる。しかし、それは高等遊民の生活をただ通り過ぎるだけで、その生そのものの色にはならない。マルクスの有名な言葉をもじって言えば、「高等遊民は世界の様々な色を見てきた。しかし、重要なことはその色を自らのものとして生き、それによって世界を変革することだ」ということになる。高等遊民はその「純白の生」を超克しなければならない。

純白の超克(5):泥まみれの理想

「アンタの言うことはいつもキレイゴトばかりで信じられないんだよ」と鼻で笑う若者を「汚ければ信じるのか!」と吉岡は一喝する。変わらぬ友情、永遠の愛。そんなキレイゴトを殆どの現代人は信じちゃいない。事実、友情は裏切られるし、不倫も珍しくない。無償の善意で何かをしようとすると、そんなことはあり得ない、何か裏があるに違いないと勘繰られる。損得抜きの行為は疑われ、損得勘定の行為は信用される。現代人は皆ディオニス王ばかりで、メロスやセリヌンティウスはドラマの中だけに存在する。しかし、それにもかかわらず、現代人の心の奥底には未だメロスのような人間への憧憬がある。その藁一筋の憧憬のみが人間の理想を存続させる。「人間萬歳」と終生人間を信じ続けた実篤も然り。その言葉は今やボケ老人の戯言としか思われていないが、本気で耳を傾けているのは決して私一人ではない筈だ。確かに、吉岡もメロスも実篤も、現代では時代遅れの人間でしかない。しかし、彼らを時代遅れにさせているのはその垂直性によるものだ。言い換えれば、彼らの垂直性が水平の次元の価値観に流されることに強く抵抗しているからだ。その意味において、「時代遅れ結構!」と私は敢えて言いたい。垂直の理想は水平の次元において時代遅れとなり、泥まみれにならざるを得ない。しかし、我々はその理想を信じる。愚直に信じ続ける。キレイゴトは泥まみれになっても、その美を失うことはないからだ。

純白の超克(4):色即是空 空即是色

純白のキャンヴァスに色を重ねていく。次第に白の部分がなくなっていく。それが悲しくて、できるだけ白の部分を残そうとするならば、色を拒否しなければならない。当然、その拒否には自然による着色も含まれるが、経年に伴う白の変色はどうしようもないだろう。純白のキャンヴァスが純白のままであることなどあり得ない。しかし、可能な限り白を維持しようとすることはできる。そこに人生の理想を見出すこともできる。身心脱落の無の境地だ。こうした悟りの境地からすれば、色は白を汚すものでしかない。しかし、果たしてそうだろうか。繰り返し白で塗り潰しても、純白に戻れるわけではない。そもそも純白は色(存在者)ではなく、白は純白の痕跡でしかない。従って、厳密に言えば、色としての白もまた汚れということになる。つまり、繰り返し白で塗り潰すことも色を重ねていくことなのだ。人生は色を重ねていくこと。我々は色から逃れることができない。繰り返し白で塗り潰す人生を選んだところで、それは純白へのノスタルジアでしかなく、そのような後向きの運動に我々が生きるべき真の理想があるとは思えない。少なくとも私は様々な色を重ねていく人生を選ぶ。白という色も拒否しない。私の好きな色、あなたの好きな色、彼の、彼女の、見知らぬ誰かの好きな色。人生というキャンヴァスは百花繚乱を経て、次第に黒に近づいていく。いっそ黒で塗り潰すことも可能だが、そんな短絡的なことをしても純黒には辿り着けない。純白から純黒へ――とは言え、純黒がユートピア活動の目的地ではない。純白の超克を求める色彩の運動は生そのものだが、純黒は絶えず色彩をディコンストラクトしていく魔力として機能する。それは一種のウロボロスに他ならない。

純白の超克(3):黒との対比

これはもとより光学とか色彩論を無視した私の勝手な感覚にすぎないのだが、白の対極にあるのは黒だ。純黒という言葉が適切かどうかわからないが、それもまた色の領域を超えている。ただし、純白とは正反対の意味で。純白がそこから色が生まれてくる始源だとすれば、純黒は色の終末に他ならない。あるいは、純白が絶対無だとすれば、純黒は絶対有だ。私は両者に聖なるものを感じる。周知のように、ルドルフ・オットーは聖なるものをヌミノーゼと称しているが、それは戦慄的な神秘(Mysterium tremendum)と魅惑する神秘(Mysterium fascinans)の二面から成っている。この文脈において、純白に感じられる聖なるものは魅惑する神秘であり、純黒のそれは戦慄的な神秘だと言えよう。私の聖なるものの追求はこうした二つの神秘の間の運動であり、ユートピア活動もまたその運動を核としている。

純白の超克(2):キレイゴト

実におこがましい言い方になるが、私は或る使命感を以てこの便りを書いている。殆ど誰にも読まれない便りではあるけれども、いつか誰かが共鳴してくれるものと信じて発信し続けている。しかし、その一方で、キレイゴトばかり書いているという忸怩たる思いもある。「人生の理想? こんな腐敗した世界のどこに理想があるのか!」――そう言われれば、私には返す言葉がない。いや、必死に反論は試みるが、結局それはキレイゴトの繰り返しでしかなく、私の言葉は虚しく中空を彷徨うだけだ。誰の心にも響かない。どうしてなのか。キレイゴトではいけないのか。

ところで、私は山田太一の書くドラマが好きで、中でも「男たちの旅路」は何度も繰り返し観ている。図らずも今再放送されていて、今日も第一部を締め括る第三話「猟銃」を観た。このドラマの舞台はガードマンの世界で、特攻隊の生き残りである中年の吉岡と部下の若者たちとの軋轢が核となっている。総じて言えば、鶴田浩二演じる吉岡は事あるごとにキレイゴトを言い、それを若者たちは胡散臭く思っている。吉岡の言っていることはいつも正論だ。一本筋が通っている。それに対して若者たちは、内心羨ましく思いながらも、やはり時代遅れの古ぼけたキレイゴトだとしか受け取れない。今回の第三話でも、猟銃をもった強盗が吉岡たちガードマンに宝石売り場のセキュリティを解くように要求しても、吉岡だけはあくまでもキレイゴトで対抗する。「お前たちは自分の命を犠牲にするほどの給料をもらっていないだろう。素直にオレの要求通りにした方が身のためだぜ」と強盗に言われても、吉岡は「私は金のためだけに働いているのではない。人間を見くびるな。人間には誇りがある。銃を突き付ければ人は何でもすると思うな!」と毅然とした態度で立ち向かう。周囲の若者たちはハラハラして「そんなキレイゴトを言うなよ。撃たれたらオシマイじゃないか」と吉岡をたしなめるが、吉岡はひるまない。そして、吉岡は撃たれる。ただし、それは致命傷ではなく、ドラマは吉岡の態度に内心感動していた若者たちが勇を鼓して強盗を取り押さえて結末を迎える。吉岡はキレイゴトを貫いたのだ。

しかし、どうだろうか。ドラマでは幸い致命傷ではなかったが、現実には本当に撃ち殺されることだって十分あり得る。若者たちが言うように、キレイゴトを貫いても、殺されたらオシマイではないか。実際、今の教育では、誰かがいじめられていても、見て見ぬふりをするのが得策とされている。下手に関われば、今度は自分がいじめの対象になるだろう。触らぬ神に祟りなし。かくしてキレイゴトはドラマの中だけの話になる。現実にキレイゴトを貫く吉岡のような人間はいないし、そんなことをすれば馬鹿にされるだけだ。しかし、それにもかかわらず、私は吉岡のような人間になりたい。なれるかどうかはわからない。実際に銃を突き付けられれば、命が惜しくて、怖くて、ブルブル震えて強盗の言いなりになるしかないかもしれない。しかし、それでもキレイゴトを貫きたいという思いはある。純白の超克とはキレイゴトを放棄することではない。むしろ、キレイゴトを現実に貫くことにこそ、純白の美を超える美しさがある。

純白の超克

純白ほど美しいものはない。白無垢の花嫁。見渡す限りの雪景色。純白は色でさえないのかもしれない。白は色の一つであっても、純白は色の領域を超えている。厳密に言えば、白は目に見えるが、純白は目に見えない。それは様々な色が自らを表現する場とでも言おうか。色が存在者であるならば、純白はそれぞれの色を存在者足らしめる存在の根柢、すなわち絶対無に他ならない。従って、白無垢の花嫁や一面の雪景色を目にする時、我々が見ているのは白という色だけれども、そこにある美は未だ主もなく客もない純粋経験の地平から訪れる。純白ほど美しいものはない。

さて、我々が人生の理想について考える時、純白が絶対的な意味をもつ。生きるとは言わば純白のキャンヴァスに様々な色彩で絵を描いていくことに等しいが、如何なる色彩も純白にはかなわない。所詮、次元が違うのだ。結果、殆どの人生は純白のキャンヴァスを汚すことでしかなく、人生の汚れっちまった悲しみはかつて自分も純真無垢な存在であったことを懐かしむことしかできない。また、純粋精神に殉じた詩人の生き方(死に方)に憧れることもあるだろう。そこには確かに人生の理想がある。純白の美しい理想だ。しかし、私はそうした純白の理想に反抗したい。徹底的に力の限り反抗したい。かつて或る哲学者は、純粋精神に殉じた詩人よりも娼婦に身を落としても生き続けることを決意したソオニャの方が美しいと言った。ドブネズミの美しさだ。純白の美に反抗する、この美しさこそがユートピアの核となる。

新しき村の組織

新しき村の組織もしくはその入村規定について考える時、私はいつも次のようなティリッヒの言葉を思い出す。

「教会は新しい存在の共同体である。私はよく人が「私は組織された宗教を好まない」と言うのを耳にする。組織された宗教が教会ではない。教職階層制的な権威が教会ではない。社会的な組織体が教会ではない。確かに教会はこれら全てではあるが、第一義的には、新しい現実に捉えられ、その表現を与えられた人間の共同体である。教会とはそれのみを意味する。」

イエスとその弟子たちとの一次的な関係態は正に理想の共同体であった。しかし、イエスがキリストとされ、その信仰をケリュグマとする教会が組織され、その教会がやがて普遍的(カトリック)に発展するにつれて、共同体としての堕落が始まっていく。その堕落に対する抗議(プロテスト)の運動もまた、それが組織化されて発展していくと、結局は同じ堕落の轍を踏むことになる。どんなに立派な共同体も組織化されると堕落が始まる――ここに共同体の運命がある。世界的な大宗教からオウム真理教のような邪宗まで、新旧を問わず、その運命を避け得た共同体はない。それは宗教教団に限らず、政治結社や経済団体についても同様だろう。共同体は組織化と共に必ず堕落する。例外はない。しかし、組織化しなければ共同体の現実的な発展はあり得ない。これまた例外はない。では、どうするか。

新しき村百年の歴史を振り返ってみれば、実篤は当初からこうした共同体の運命についてかなり自覚的であったと思われる。少なくとも、実篤は村のカリスマ的存在になろうとはしなかったし、むしろそう見做されることを嫌い、あくまでも村の平等主義を貫こうとした。とは言え、実篤は否応なく村の中心的存在であらざるを得なかったし、それとは別に実務的能力に優れた人が中心となって村の経済を自立させてきたことも厳然たる事実だ。村に中心がなかったわけではない。しかし、それでも村に上下関係はなく、従って誰かが誰かに何かを命令するということは忌避され、経験や能力に大きな差がある熟練者と新人であっても労働の報酬は全く同じなど、村の平等主義という原則が曲がりなりにも堅持されてきたこともやはり事実なのだ。その意味において、村には中心的人物はいたが、彼らを中心に村が完璧に組織化されることはなかったと言えよう。果たして、こうした平等主義は村にとって良かったのか悪かったのか。

鄙見によれば、実篤にせよ、他の有能な誰かにせよ、或る特定の人間が積極的に村の組織化を推進していれば、村は経済的に豊かで活気のある生活を実現できていただろう。しかし、それは村の外の資本主義的企業の発展と同じであり、効率的に組織化されて発展した村はもはや新しき村とは言えない。結果、そのような村は一時的に活況を呈しても、百年存続することはなかったに違いない。ならば、組織化を嫌って経済的発展に背を向けた平等主義が村を百年存続させたと言えるのか。否!その場合には、村はもっと早く消滅していただろう。新しき村の百年は実篤の経済的援助と或る実務能力者によって導入された養鶏事業の経済的成功によるものに他ならない。更に言えば、後者によって村の経済的自立は成し遂げられたのであり、それは村の或る程度の組織化によって実現したものだと言えよう。確かに、その時、村の人口は若者を中心に増加し、最も活気のある時期を迎えていた。しかし、その反面、養鶏事業を中心に組織化された村は如何に経済的に発展しても本来の村の在り方とは違うという疑念も増大し、心ある若者たちの離村が相次ぐことになる。その養鶏事業も今は見る影もなく、ただ経済的発展に取り残されて形骸化した平等主義にしがみつく醜悪な村だけが残されている。結局、今の村は過去の養鶏事業の成功によって築いた財産を食い潰しているだけであり、早晩消滅することは目に見えている。これが新しき村の偽らざる現実なのだ。我々はこの現実を直視することから始めなければならない。

何れにせよ、このままでは新しき村の将来がないことは明白だ。それ故にこそ、我々は新生・新しき村の実現を熾烈に求めているわけだが、それがもはや組織化による経済的再建ではあり得ないことは言うまでもない。むしろ、共同体の運命の徹底した超克こそが望まれている。これまでの村はただ単に組織化を回避してきたにすぎない。私は先述の綱要の最後において、我々の新しき組織は「組織として不断に自らを解体していく組織」でなければならないと明言した。それは一体、如何なる組織か。容易に答えが出る問題ではないが、新生・新しき村はそうした「組織ならぬ組織」、すなわち祝祭共働態を摸索していく場にしたいと考えている。一人でも多くの共鳴者の出現を願って已まない。

新生・新しき村綱要(10)

おわりに:新生・新しき村はユートピア実現の前衛たるべきか

「この道より我を生かす道なし、この道を歩く」とは実篤の言葉だが、「新しき村の実現」こそ「この道」に他ならない。はじめに明言したように、その情熱を継承する我々がそこに究極的関心を抱くのは当然だろう。しかし、我々にとっての当然は果たして普遍的であり得るか。言うまでもなく、これまで縷々述べてきた「新しき村の理想」の普遍性を我々は信じている。夢は人それぞれ個別的なものだが、理想は普遍的でなければならない。誤解を恐れずに、敢えて「理想は絶対だ」と言ってもいい。ただし、それは「理想は一枚岩だ」ということではない。排他的な一枚岩の絶対など絶対性の戯画にすぎない。真の絶対性は自他を含む全てを巻き込んでいく極めてダイナミックなものだ。それ故にこそ同時に極めて危険なものでもあるが、人間にとって絶対的な理想の追求は不可避だと思われる。人間として本当に生きることと理想は密接に関係しているからだ。

尤も、厳密に言えば「人間として」という条件から問わなければならないが、この綱要では究極的な人生行路に問題を限定した。少なくとも我々は人間として本当に生きることを熾烈に願い、そこに至る「この道」を提示してきたつもりだ。それは祝祭共働態としてのユートピアに至る道に他ならない。我々は「この道」を究極的かつ絶対的だと確信しているが、それを客観的に証明する術はない。また絶対的な理想だからと言って、独善的に他に強制するつもりもない。おそらく、ここで示された「新しき村の理想」に対しては未だ様々な疑問・反論があることだろう。我々はそれを拒絶しない。むしろ、歓迎する。理想には「アルカディア・パラダイス・ユートピア」という三態があり、アルカディアとパラダイスの相克をユートピアが超克するという理路が簡単に承認されないのは当然だからだ。それぞれの理想の本質は現実に生きることでしか理解されない。例えば、「雇用―被雇用」の関係を超越する祝祭共働の理想を重荷に感じる人も少なくないだろう。それは実質的に自立した経営者として働くことに等しいからだ。そんな面倒な理想よりも、誰かに雇用されて課せられた労働だけを適当にこなしている方が気楽だという思い、その現実性を否定することはできない。また、「テッペンに上り詰めるか、ドン底に転落するか」というヒリヒリとしたマネーゲームの緊張に生き甲斐を感じるような現実性もある。どちらも没理想的な生き方だが、他に害を及ぼさぬ限り、どんな生き方をしようと個人の自由だ。たとい我々の求める生き方とは無縁であっても、個人の生き方の自由を我々は基本的に尊重する。

しかしながら、我々はあくまでも人間として本当に生きる究極的な理想を訴え続ける。それは、この世界と人生に垂直性を導入する(取り戻す)ことを意味する。では、この世界と人生に水平的な意味しか見出さない人間との関係はどうなるのか。先述のように、我々は理想なき水平的人間の自由を尊重する。少なくとも絶対的な垂直性の立場から水平的人間を糾弾するようなことはしない。そんな魔女狩りのようなことをしても意味がないからだ。そもそも聖なる垂直的理想は俗なる水平的な価値を包摂するものであって、無碍に否定するものではない。水平の次元に見出される幸福それ自体に問題はない。問題はその幸福に安住して、それを超える人生の価値に目を閉ざしてしまうことから生じる。そこには太宰治が「家庭の幸福は諸悪の本」と書かざるを得なかった魂の現実がある。諄いようだが、我々は「水平的な幸福など捨てて、垂直的な理想に生きろ!」などと主張したいのではない。それは我々の求める理想の本意ではない。我々の本意はあくまでも「人間として本当に生きることの究極まで走り抜け!」ということに尽きる。

何れにせよ、我々は新生・新しき村を「人間が究極的な理想を追求する場」にしたいと思っている。その意味において、新生・新しき村は人間の理想追求の前衛たるべきだ。人生に究極的かつ絶対的なものを求めることが果たして幸福かどうか、それは定かではない。おそらく、大審問官の言うように、人間は自ら理想を求める自由を放棄して、絶対的権威の下で家畜のように暮らす方が幸福なのかもしれない。しかし、我々は人間を信じている。人間は必ずや水平的な幸福に安住することを超えて究極的な理想を求め始めるに違いない。その垂直性は歴史的必然だ。従って理想を強要する必要など全くない。理想は自ずと輝く。我々としてはその輝きに磨きをかけ、実際に生きてみるだけでよい。理想の絶対性は理論的に証明できるものではなく、ただ実践あるのみ。それが理想追求の前衛たるべきことの意味に他ならない。ただし、断じて前衛党を組織してはならぬ。かつてのコミンテルンのように、無知蒙昧な水平的大衆を垂直的理想へと指導するなどという中央集権的体制は新生・新しき村の最も嫌悪するものだ。先に述べたように、我々の新しき組織は「組織として不断に自らを解体していく組織」でなければならない。そうした融通無碍な運動にこそ、ユートピアという理想の本質も見出される。