新生・新しき村綱要(8): ラディカルな理想主義者
異郷こそ我々の「新しきふるさと」だとする理想に対して、水平的な現実主義者たちはそもそも「新しきふるさと」などというものは形容矛盾であり、それは単なる画餅、空虚な理想主義の産物にすぎないと批判するかもしれない。果たして、我々は理想主義者なのか。おそらく、「あなたは理想主義者だ」と言われて喜ぶ人はいないだろう。現代社会において「理想主義者」は「観念論者」と共に相手を嘲笑する言葉でしかないからだ。確かに、厳しい現実を無視して甘いキレイゴトばかり語る人間は胡散臭い。しかし、理想は空想のキレイゴトではない。むしろ、真の理想は理不尽な現実の泥沼に根を張って咲く蓮の花の如きものでなければならない。その意味において、我々は常に地に足のついた理想主義者でありたいと思っている。
とまれ、ユートピアを求める運動は単なる空想的夢物語ではない。もし空想なら、それはアルカディアでもパラダイスでもない実に中途半端で醜悪なディストピアと化すに違いない。その最たるものが全体主義という悪夢の再来だ。老化したアルカディアでは共生が全体主義化し、それを批判して成立したパラダイスでは個人の幸福を保証するために全体主義的な権力の集中が求められた。しかし、ユートピアの危険性はそうした二つの危険性とは質的に全く異なるものだ。勿論、ユートピアの本質は個人を抑圧する全体主義とは正反対の理想だが、それが「新しき共生」を目指していることは間違いなく、そこには常に全体主義への危険性がある。加えて、それはパラダイスにおける悪しき個人主義(エゴイズムと化した個人主義)を超克する理想でもあるので、より強く、より根源的に「新しき共生」を追求することになる。しかし、ユートピアが求める「新しき共生」は断じて全体主義ではあり得ない。それは悪しき個人主義を超克した「新しき個人」と相即すべきものであり、個人が真に幸福になることができる「世界全体の幸福」なのだ。
かくして理想は常に「それにもかかわらず」を孕んだ逆説としてのみ表現される。その逆説において、我々は矜持をもって敢えて「自分たちはラディカルな理想主義者だ」と宣言したい。我々は究極的な理想主義者として、その危険性を絶えず意識しながら「新しきふるさと」、祝祭共働態というユートピアの実現を求め続ける。
新生・新しき村綱要(7): 故郷喪失の現実と異郷としてのユートピア
祝祭共働態の実現が切実に要請される現実的な問題の一つに故郷喪失がある。単純にホームレスの問題だと言ってもいい。ただし、これは貧しい失業者だけの問題ではない。立派な建物としてのハウスはあっても、そこはもはや魂の安らぎが得られるホームではなくなっている人たちも少なくない。極端な話、豪邸に住む大金持でもホームレスであることに苦しんでいる場合だってあり得る。行き場がなくてゲームセンターなどを彷徨っている中高生から帰宅恐怖症で盛り場を飲み歩いている中高年のサラリーマンまで、現代人は潜在的にホームを求めていると言える。では、ホームとは何か。それは「魂のふるさと」に他ならない。しかし、この世俗化された世界のどこに「魂のふるさと」があるのか。日本の高度経済成長が正に始まろうとしていた時、或る詩人が「東京へゆくな ふるさとを創れ」と歌って多くの人の熱い共感を得た。東京とはお金さえあれば殆ど何でも手に入る近代都市の象徴であり、様々な快楽装置に満ちたパラダイスだ。我々はそうした東京を一概に否定するつもりはないが、人間の理想はそれに尽きるものではないと確信している。とは言え、アルカディアの如きふるさと、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」の古きよきふるさとは近代化の大波に呑み込まれてしまった。とすれば、我々は自身の理想とする「魂のふるさと」(祝祭共働態)を新たに創るしかないだろう。その新しきふるさとこそ「新しき村」に他ならない。新生・新しき村はこの荒廃した世界を我々にとっての新しきふるさととして甦らせる。
しかし、「新しきふるさと」とは何か。殊に「古きよきふるさと」と一体何が違うのか。この問いについて思耕するに当たって、有名な聖ヴィクトルのフーゴ―の言葉に改めて注目したい。彼は次のように言っている。
「故郷を甘美に思う人はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなり力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ完璧な人間である。」
この言葉を英語帝国主義批判で著名な大石俊一氏は、柄谷行人氏の「無・故郷」の思念の文脈で解釈している。大石氏によれば、柄谷氏は聖ヴィクトルのフーゴ―の言葉を次のように分析している。
⒜「故郷を甘美に思う人」=「共同体の思考」=「必ず内部と外部の分割・区分を前提としてしまう思考」
⒝「あらゆる場所を故郷と感じられる者」=「コスモポリタンの思考」=「共同体・身分の制約を超えられるかのような、また共同体を超えた普遍的な理性とか真理とかがあるかのような考え方」
⒞「全世界を異郷と思う者」=スピノザの境位=「あらゆる共同体の自明性を認めないということ。しかし、それは共同体を超えるわけではなく、その自明性につねに違和を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプ」
柄谷氏は⒞の立場にスピノザの「無限」を見出しているが、それは⒜の場合の内側と外側の分割・区別を徹底的に無化・無効にしてしまうという意味で「無限」であり、また⒝の場合のような普遍的なものに飛躍してしまうことがないという意味でも「無限」だと言われる。すなわち、「無限」とは自分が有限であることを意識させる他者という前提の否定、更には「全体」を知ることも何かを「中心」とすることも不可能だということであり、また普遍的なものも夢・想像にすぎないことを深く認識することに他ならない。言うまでもなく、これはフーコーの「外部の思考」に通じるものであり、場所(共同体)ではない場所、立場ではない立場(ヘテロトピア)に立つことの可能性が問われている。私がユートピア活動の一環として求めている「新しきふるさと」もまた、こうした「無・故郷」に収斂していくものだと思われる。それは⒜の立場のナショナリズムを超えていくと同時に、⒝の立場のような「全ての牛を暗くしてしまう同一性」をも超えていく。異郷こそ「新しきふるさと」であり、そこでは「古きよきふるさと」も祝祭共働態として逆説的に反復(逆対応)される。
間奏曲:二つの危険性
ナチス政権下、多くの知識人がアメリカへの亡命を余儀なくされた。言葉の問題を別にすれば、総じて自然科学者たちはアメリカの地に違和感を覚えなかっただろう。しかし、精神科学者たち、殊に神学者や哲学者は違った。その中の一人であるティリッヒは次のように述べている。
「アメリカの歴史全体がアメリカの精神を水平的な方向に駆り立てた。非常に広い、一見際限なき土地の征服、自然および自分自身との関係における人間の無限の可能性の進歩発展、カルヴァン主義と前期資本主義の動態、拘束的な伝統とヨーロッパ史の誤謬とからの自由――これらすべてはヨーロッパにおけるきわめて垂直的な思考から完全に区別された思考方法を顕著に示している。各人にあらかじめ定められた場を指定する封建制においては、水平的な進歩の可能性はきわめてわずかしか存在しない。生は垂直的な、神の力と悪魔の力の闘争であって、人間の可能性の進歩発展のための闘争ではない。もちろん、この種の対比はけっして絶対的なものでないことはいう必要もないことであるが、それらから生じる顕著な態度は神学的に深い意味をもっている。」(「神学における地域主義の克服」)
★
こうした対比からティリッヒは端的に「ヨーロッパには水平的な発展に欠けるという危険性があり、アメリカには垂直的な深みに欠けるという危険性がある。それは、たとえば教会の進路や、人びとの神学理解の方法に示されている」と明言している。すなわち、ヨーロッパにおける教会はその究極の基礎を問題にして、神学はその基礎をそれ自体において完結した体系を構築することを課題とするのに対し、アメリカの教会は一つの社会団体であり、プラグマティックな要求を核とした人々の社会的救済を課題とする、ということだ。言うまでもなく、こうした二つの課題は絶対的に対立するものではなく、我々には両方が必要だ。しかし現実には、どちらかが欠けるという危険性に常にさらされている。実際、ヨーロッパの神学は究極的真理の追究に専心し、アメリカの神学は社会貢献できる教会の指導者育成に重きを置くという差異は厳然として存在する。研究と実践。マリアとマルタ。ここに新生・新しき村の根源的な課題がある。
新生・新しき村綱要(6):祝祭共働態としてのユートピア
ユートピア活動、殊にその事業は新しき経済によるものでなければならない。資本主義経済を超克する、真に新しき経済だ。それは一体何か。私はその可能性の一つを次のような「協同労働の協同組合の原則」の宣言に見出す。
「私たちは発見した。雇われるのではなく、主体者として、協同・連帯して働く「協同労働」という世界。一人ひとりが主人公となる事業体をつくり、生活と地域の必要・困難を、働くことにつなげ、みんなで出資し、民主的に経営し、責任を分かち合う。そんな新しい働き方だ。」
実際、まもなく「労働者協同組合法」も施行されるとのことで、世の中は確実に前進しているように思われる。しかし、現実にはまだまだ前途多難であろう。大半の人はやはり協同労働よりも今まで通りの雇用労働を好むからだ。主体者として皆で経営するなんて面倒くさい。ブラック企業は御免だが、良い雇用者の下で課せられた任務をこなして給料を貰っている方が気楽でいい。それが本音ではないか。この本音を如何にして覆すことができるのか。そこには一切の根源的な価値の転換が不可欠だが、その前に我々は取り敢えず協同労働が雇用労働よりも格段に楽しいことを実践的に証明しなければならない。その実践的証明が祝祭共働態として結実する。
★
祝祭共働態としてのユートピア
これまでの新しき村はその生ぬるい反歴史性を幾度となく嘲笑されてきた。しかし、ただ一点、新しき村を曲がりなりにも百年存続させてきた美点がある。それは「何としてでも個々人の自己を生かす」という垂直性だ。逆に言えば、これまでの社会運動には垂直性が欠けていたのであり、そこにパラダイスの限界があると考えられる。そして、パラダイスの限界において、我々は肉体の糧を満たす「食うための労働」と魂の糧を求める「自己を生かす仕事」の二つに引き裂かれざるを得ない。社会運動はこれまで専ら前者をめぐる運動に終始したが、新しき村は両者を調和させる運動、更には「食うための労働」と「自己を生かす仕事」という二元論のディコンストラクションを目指す運動であるべきだ。それは賢治の言う灰色の労働を燃やす運動でもあり、究極的には「雇用—被雇用」の関係を超越していく。我々はワーカーズコープと称される協同労働の試みにその可能性を見出すが、単なる営利目的のマネーゲームとしての労働はやがて陳腐なものとなるに違いない。その表層的な快楽(かいらく)など祝祭共働の深層的な快楽(けらく)の足元にも及ばないからだ。
そもそも人間の幸福は水平の次元における私的領域の充足に極まるものなのか。労働してお金をたくさん稼ぎ、それによって生存の必要以上に欲望の赴くまま消費できる快楽を得る。例えば、豪邸を建てて家族と住み、休暇には海外旅行を楽しめるような幸福生活を夢見る。労働意欲は消費の欲望に裏打ちされ、「余暇の充実」に人生の生甲斐を見出していく。このように「労働―消費」の循環によって拡大再生産される世俗的な幸福は確かに多くの人々にとって生きる原動力になっている。たとい公的領域が必要になるとしても、それは個人の私的領域における幸福をあらゆる面で盤石なものにすることだけが目的とされるに違いない。パラダイスにおいて、社会の中心はあくまでも個人の私的領域にある。しかし、公的領域の本質は私的領域を補完することにあるのだろうか。むしろ、個人の自由が真に開花・結実する可能性にこそ公的領域の本質は見出されるべきではないか。私的領域に閉じ込められた個人主義はエゴイズムに転化する他はなく、本当に自由な個人主義は公的領域においてこそ、その運命を全うできると我々は考える。言うまでもなく、それは滅私奉公などという老化したアルカディアの古ぼけた理想ではなく、全く新しい理想、すなわちポストモダンのユートピアを目指すものだ。正にこの点に、人間の究極的な決断を要請する問題がある。もし私的領域における個人の幸福を至上のものとするパラダイスを人間の究極的な理想社会だと決断するならば、我々は個人主義の限界内に留まることになる。しかし、もしその限界を超えて、個人の幸福以上の幸福(世界全体の幸福)を求める決断をするならば、我々はユートピアの次元、すなわち垂直の次元を切り拓くことになる。我々はどちらの決断を為すべきか。答えは自ずと明白だろう。
ちなみにアーレントは端的に「人間は本質的に複数性において存在している」と言っているが、労働と仕事が「我の営み」だとすれば、活動は「我々の営み」だと言える。ただし、活動における我々は単なる我々、すなわち同調圧力を余儀なくされる群れとしての我々ではない。敢えて言えば、ヘーゲルの「我である我々・我々である我」と理解することも可能だろう。あるいは、「水平の次元における我々」と「垂直の次元における我々」という区別をすれば、後者こそが活動における我々だが、その核はあくまでも単独者でなければならない。決して群れることのない単独者のみが公的領域における活動=連帯を可能にする。そうした連帯の輪(広がり)こそが我々の理想とする祝祭共働態に他ならない。
また、先述のように新しき村はもはや農村共同体にとどまることなどできないが、さりとて我々は農業を蔑ろにするつもりなど全くない。むしろ、祝祭共働においても農業は生産労働の核として新しき村の基礎となるべきものだと思っている。ただ、それは加工の場、更には消費の場としての街と祝祭的に交通すべきであり、その祝祭的交通は当然農業に限定されるものではなく、全ての産業に広がっていくべきだろう。新生・新しき村はあらゆる産業、殊に福祉、芸術、教育などの祝祭的交通によって実現していくものと思われる。
新生・新しき村綱要(5): 新生・新しき村はユートピアの実現を目指す
「新しき村の仲間になる資格」を問われて、実篤は「簡単に云へば、たえざる熱心さへあればいい。熱心な人には規則はいらない」と答えている。実に楽天家の実篤らしい考え方だ。しかし、現実にはそうはいかない。一口に熱心と言っても様々だ。「理想社会の実現に熱心」と限定しても、更に「如何なる理想社会の実現を求めているのか」と問わざるを得ない。私はアルカディア・パラダイス・ユートピアに「理想社会の三態」を見出しているが、新しき村の仲間は当然「ユートピアの実現」に熱心であるべきだ。それは如何なる意味か。
★
新生・新しき村はユートピアの実現を目指す
アルカディアは基本的に「古きよき村」の理想であって「新しき村」の理想ではない。勿論、「古きよき村」の理想だからと言って別に悪いわけではなく、むしろ依然として魅力的であり続けている。しかし、たといどんなに魅力的であっても始源の理想に回帰するのは不可能だ。更に言えば、現代社会において「古きよき村」を後向きに望むことは畢竟現実逃避に他ならない。今の新しき村がその典型だが、競争原理が渦巻く現代社会と絶縁して「人間らしい生活」に引きこもろうとしても無意味だ。どんなに遠い山奥や孤島に逃げ込んでも、我々はもはや競争原理と絶縁することなどできない。とは言え、我々は競争原理への屈服を主張したいのではない。逆だ。我々が実現すべきはあくまでも自他共生の理想に他ならない。
ただし、競争原理を否定して共生原理に乗り換えれば薔薇色の未来が訪れるというような単純な問題ではない。多くの人たちが絶望を余儀なくされる腐敗した現代社会を生み出した元兇は競争原理であり、彼らを救うのが共生原理であることは明白だが、競争も共生もアンビヴァレントなものだ。始源のアルカディアが共生の楽園だったとしても、それは堕落する運命にあった。然り、共生原理もまた世界を腐敗させる。そして、「共生の絆」が個人の自由を束縛する「強制の鎖」に堕落した時、その閉塞状況を打開するものとして求められたのが個人の自由を至上とするパラダイスだった。言うまでもなく、パラダイスの核は競争原理であり、それは世界を飛躍的に豊かにする一方で、格差地獄とも言うべき腐敗をもたらした。人間の理想がアルカディアからパラダイスへと移行する歴史は不可避であったが、そのパラダイスも今や限界に直面している。
それ故にこそ、パラダイスの限界を突破するユートピアが求められるのだが、一般的にその理想は競争原理によって孤立化(アトム化)した現代社会にもう一度共生原理によって社会全体の有機的な結びつき(絆)を取り戻すことだと思われている。それは一概に間違いだとは言えないが、ユートピアの根源的本質を突いていない。単に社会に絆を取り戻すだけなら、それはアルカディアの再生に他ならず、わざわざユートピアを求める意味はない。繰り返し述べているように、我々はアルカディアへの後向きの回帰を望むべきではない。そもそも失われた楽園への回帰は不可能な試みでしかなく、また我々はすでにアルカディアにおける水平的な共生が悪しき平等(強制された平等)に堕落する歴史を知っている。従って、重要なことはアルカディアをそのまま取り戻そうするのではなく、あくまでも前向きに「アルカディアにおける始源の共生の理想」と「パラダイスにおける競争の理想」の対立の一致を実現することだ。その逆説がポストモダンのユートピアであり、そこでは単なる共生原理と同時に競争原理をも止揚する垂直的な理想が求められている。そのような垂直的理想こそ真の共生に他ならない。それは競争から逃げることではなく、むしろ競争の中から競争を超えていくことを通じて生まれてくるものだと我々は考えている。「古きよき村」に共生の理想が望まれたとしても、それは競争以前の共生にすぎず、「新しき村」の求める競争以後の共生(競争を止揚した共生)とは質的に全く異なるのだ。
新生・新しき村綱要(4):新生・新しき村はアルカディアとパラダイスの相克を超えていく
「人間として本当に生きる。ただボーッと生きているだけでは本当に生きることにはならない」と私は書いた。しかし多くの人は、たといチコちゃんに𠮟られても、ボーッと生きていたいと思うだろう。かく言う私も一日の大半はボーッとしている。四六時中「人間として本当に生きる」ことばかり考えているわけではない。睡眠も含めて、ボーッとしていることは人生に不可欠だ。とは言え、それはあくまでも息抜きにすぎない。息抜きは必要だが、人生の目的にはならない。すると、「人生に目的など必要ですか」という反論が予想される。「人間として本当に生きるなんて面倒くさい。ボーッと生きていければ、それに越したことはない」という無為の人を私は非難するつもりはない。無為に幸福を見出すのはその人の自由だ。しかし、人間は無為に耐えられるだろうか。少なくとも、ユートピア活動は無為における人間の絶望(倦怠)を前提にしている。そこから綱要の第四項が導き出される。
★
新生・新しき村はアルカディアとパラダイスの相克を超えていく
遠い昔に無為自然の楽園が現実にあったとしても、人間の歴史はその喪失から始まったと考えられる。始源の楽園は成長を必要とせぬ世界であり、その無為に人間は耐えられなかったからだ。尤も、無為の状態に至上の幸福を見出す人も無きにしも非ずだが、一般的には現状よりも更に良い状態へと日々成長することに人間の生きる喜びはあるだろう。自然にあるものだけに満足せず、自然を改作して生産性を飛躍的に高めていく。昨日よりも今日、今日よりも明日――少なくともそうした不断に成長せんとする主体的意志によって人間の歴史は着実に発展してきた。始源の無為自然の楽園をアルカディア、それに対して歴史の中で人間が主体的に求めてきた人工楽園をパラダイスと称して区別すれば、人間の歴史はアルカディアの喪失を起点にしてパラダイスの実現という終点に向かうドラマとして理解することができる。
しかし、そのドラマは近代以降大きな岐路に立たされている。パラダイスの限界、すなわち競争原理に基づく成長神話の限界に直面しているからだ。それはパラダイスの本質である個人主義に基づく自由競争の致命的な限界でもある。悪化する地球環境、格差を広げ続けるグローバル経済、過熱するナショナリズム――いくらパラダイスにしがみつこうとしても、それはもはや不可能だ。「共生=全体主義」という意識がアルカディアの理想としての破綻の兆候(末期的症状)だったとすれば、パラダイスのそれは「自由競争=エゴイズム」という意識に他ならない。おそらく、これまで通りの成長神話を享受することはもはやできないだろう。無理を通せば、人間どころか地球そのものが破滅することになる。では、どうするか。成長を断念して共生原理に基づく分配を核としたコミューンを目指すか。それもドラマの一つの展開であることは間違いない。しかし、それは実質的に失われたアルカディアに後向きに回帰することに等しく、それだけではパラダイスの魔力を到底封じ込めることなどできない。新生・新しき村は「近代の超克」を目指すものの、それはアルカディアへの回帰によっては実現されないと思われる。そこにはジョセフ・ヒースの言う狂った現代社会に正気を取り戻す「啓蒙思想2.0」、すなわち十八世紀の啓蒙思想の核であった理性を根源的に問い直し、更には「理性と直感」を統合して「個人と社会」「自と他」「公と私」といった対立を克服していく試みと通底する課題がある。
間奏曲:設計家と大工
冨山房百科文庫の武者小路実篤「新しき村の創造」(大津山国男編)を一気に再読した。図らずも百年前の実篤の情熱が私の内部で甦り、こうした人間の究極的関心を断じて消滅させてはならぬという思いを新たにした。とは言え、それは一般的には空想家の戯言と一笑に付されるものかもしれない。実篤自身、そのことはよく自覚していて、「新しき村に就いての対話」の第一において「どんな事を考へてゐるのか」と問われて次のように答えている。
「いろいろの事だ。しかし一言で云へば、この世がどうなれば一番合理的であるか、そして世の中がさうなるにはどうしたらいいかと云ふ事を考へてゐる。しかし自分は実際家ではない。唯考へてゐるだけだ。先づ僕は一つの家を建てる設計家だ。大工ではない。自分はある理想的な家の計画だけを生きてゐる間に、はつきり作つて置きたく思つてゐる。」
★
自分は実際家ではない。理想的な家について唯考えているだけの設計家であって大工ではない――こうした及び腰の態度は対話が進むにつれて徐々に変化していく。そして、「第三の対話」において「村はできるかもしれないが、それを世界的な仕事にするのは不可能ではないか」と言われて、ついに次のような告白をするに至る。
「さう云ふ問題になると、もう信仰の問題になる。人類にたいする信仰と云つてもいい。人間にたいする信仰と云つてもいい。或は人間をつくつたものにたいする信仰と云つてもいい。或は世界をつらぬゐて働いてゐる正義の力、理性の力、真理にたいする信仰と云つてもいい。その信仰の強弱で問題がきまるので、理屈で問題がきまるのではない。又もつと恐ろしいことを云へばそれは自分達の生活の仕方が何処まで人類の思召しに叶へるかどうかと云ふ問題になる。人間にとつて之より正しい生活はないと云ふ生活を本当につかみ、そして窮苦な思ひをせずに、喜びをもつてその生活をすることが出来れば、その生活が世界的になるのは必然であつて、ならない方が不自然である。それは自分の信仰だ。」
★
僭越ながら、こうした実篤の信仰告白に私は全く共鳴する。ユートピアは理屈ではなく、信仰の問題なのだ。尤も、信仰などと言えば、また新たな誤解を招くかもしれない。しかし当然、それは通常の意味での信仰ではない。ティリッヒの文脈で言えば、究極的関心だ。人間として本当に生きる。ただボーッと生きているだけでは本当に生きることにはならない。俗なるものを突き抜けて、聖なるものに到達する。ただし、それは俗なるものの否定ではなく、むしろ俗なるものへの受肉による聖化に他ならない。人間の究極的関心としてのユートピアはそうした聖化に極まるのではないか。そこに信仰の恐れと戦きがある。だから実篤も対話の最後で次のように述べている。「僕は恐ろしくもある。殊に平凡に終はりさうな気もしないことはない。しかしそれが為に手を引つ込めようとは思はない。なほやる処までやつて見ようと思ふ。」それにしても実篤に大工への意志はあったのだろうか。設計家と大工、その間にある深淵を超克するためにも、取り敢えず私は設計家としての実篤の仕事を徹底させておきたいと思う。それが新生・新しき村綱要に他ならない。
新生・新しき村綱要(3):新生・新しき村は農村共同体を超えていく
新しき村と言えば、多くの人は農村を思い浮かべる。新しき村=農村が一般的なイメージだ。しかし、農村の何が新しいのか。最先端の機械を駆使し、効率的なシステムによって統制された農業か。それもあるだろう。今の毛呂山には皆無だが、新生・新しき村には新しい農業の導入も要請されるに違いない。とは言え、新しき村の新しさはそうした水平的な新しさ(日進月歩の技術的革新)に尽きるものではない。農村も不断に生まれ変わらなければならないが、伝統的な農村が近代農業、更には現代農業を導入するだけでは新生を果たせない。新しい技術の導入は確かに村を新しくするが、それだけでは伝統的な古き良き村の美しさを破壊してしまうからだ。さりとて古き良き村がその美しさに閉塞しているだけでは新しき村は生まれない。むしろ、そのような閉塞は古き良き村を因循姑息な村に堕落させるだけだろう。古き良き村の美しさを維持するためにも新生は不可欠だ。では、村の新生とは如何なるものか。
★
新生・新しき村は農村共同体を超えていく
百年前の新しき村はその理想を農村共同体という形態に見出した。そこにはその当時の時代状況、すなわち食うための労働に追いまくられる閉塞状況が大きく反映していたと思われる。そうした過酷な日々の中で自他共生を理想とする新しき村に接すれば、それは大きな救いになったに違いない。その理想には食うための労働を超える「人間らしい生活」が垣間見えたからだ。具体的には自然に即した農業を皆で営みながら各人がそれぞれ自己を生かす仕事をする生活だが、良かれ悪しかれ時代状況は一変した。今でも過労死をもたらす過酷な労働状況はあるものの、それでも百年前と比べれば世の中は飛躍的に豊かになり、労働条件も総じて改善されてきた。少なくとも今や新しき村などにわざわざ来なくても、多くの人々は「人間らしい生活」を十分堪能できているように見受けられる。むしろ、個人の自由が束縛される農村共同体はただ息苦しいばかりで、凡そ「人間らしい生活」には程遠いものだというのが大方の見解だろう。事実、その文脈において「新しき村の使命はもう終わった」と考えている人も少なくない。すなわち、百年前に新しき村が掲げた理想の殆どは村の外の社会で或る程度すでに実現している、というわけだ。しかし、本当にそうか。人々は本当に「人間らしい生活」を実現しているのだろうか。
確かに高度経済成長によって世の中が相対的に豊かになったことは事実だ。しかし、資本主義に基づく豊かさの追求が自然環境と社会環境を破壊してきたのも事実であり、資本主義の限界が改めて問われている。すでに資本主義は死んでいる(ゾンビ資本主義)という見解がある一方、それでもなお最近は成長と分配の「新しい資本主義」が標榜されている。果たして来るべき理想社会は資本主義の内部で実現するのだろうか。もしその本質が結局は姑息なトリクルダウン効果にすぎないのなら、我々は何らかのコミューン運動に希望を見出すしかないと思われる。問題はその内実だが、来るべきコミューンはもはや農村共同体に閉塞するようなものではあり得ない。百年前に農村共同体として誕生した新しき村は今や「農村と都市との往還」を核とする祝祭共働態へと新生するカイロス(時熟)を迎えている。
新生・新しき村綱要(2):新しき村の精神
新生・新しき村の根幹は百年経っても変わらない。それは新しき村の精神だ。我々が今の村を批判するのは、それが新しき村の精神を忘却しているからに他ならない。毛呂山に村の精神を甦らせること、それが新生の第一歩となる。では、新しき村の精神とは何か。
★
新しき村の精神
新しき村の独自性は「新しき村の精神」に如実に示されている。それは凡そ百年前に武者小路実篤によって書かれたものではあるが、古代から近代を貫いて現代に至る究極的な理想を求める人類の意志が込められている。その第一は次のように記されている。
一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事を理想とする。
我々はこの精神を「天命の全う」と「自我の完全なる生長」が相即する理想として理解する。取り敢えず、前者を垂直の次元、後者を水平の次元に属するものと図式的に区別して考えることもできるが、実際に「自我の完全なる生長」をラディカルに求めれば否応なく「天命の全う」という問題に突入せざるを得ないだろう。ここにも夢と理想の質的差異が見出される。それは私的領域と公的領域の質的差異にも通じるものだ。「なりたい者になる」とか「やりたいことをする」という個人の夢が私的領域にとどまるのに対し、「あるべき自己になる」とか「為すべきことを為す」という理想は私的領域を突き抜けていく。「自我の完全なる生長」は水平的な個人主義では決して充たされない。どうしても「天命の全う」という垂直の次元を要請する。ただし、天命は実定化され、個人の自由を抑圧する危険性を常に孕んでいる。それは全体主義の危険性でもある。実際、「天命の全う」が滅私奉公をもたらす歴史は幾度となく繰り返されている。その場合、他律的な「天命の全う」と自律的な「自我の完全なる生長」は真向から対立することになる。それが歴史の現実であるが、新しき村の精神はその運命を超克していかねばならない。「天命の全う」は断じて他律的なものであってはならず、その本質はあくまでも「自我の完全なる生長」の自律を生かす神律的なものになると我々は信じている。
新生・新しき村綱要
ユートピア活動の拠点を新しき村に見出したい。しかし、現実に毛呂山にある村は瀕死の状態で、数年前の創立百年を機に燃え上がり始めた再生の炎も様々な妨害によって今まさに消えようとしている。このまま消滅するのが新しき村の運命なのかもしれないが、それでは余りにも寂しすぎる。少なくとも私は、新しき村は本当に生きようとしている人間にとってなくてはならぬ場所だと確信している。そこは取り敢えず通俗的な絶望者にとっての逃げ場であってもいいが、決してそれに尽きるものではない。では、新しき村は一体如何なる場所なのか。その問いをめぐって、未だない新しき村の理想のかたちをこれから十回に亘って述べていく。今回はそのプロロオグだ。
★
はじめに:夢と理想
我々は「新しき村の実現」に究極的関心を抱いている。そこに人間の理想が収斂されているからだ。古来、人は理想を求め続けてきた。今生きている現実に完全に充足している人は皆無に等しい。何かしら不満がある。「このままでは駄目だ」という疎外感がある。それがあるべき現実、すなわち理想を求めさせる。しかし、それは往々にして夢でしかない。夢と理想は質的に異なる。確かに、現実に対する不満は人々に様々な夢を抱かせる。例えば、貧しき者は金持になる夢を抱く。その夢が叶って貧しき現実が金持の現実に転化すれば、その人の現実は一応充足するかもしれない。しかし、完全なる充足とは言えないだろう。少なくとも我々にとって個人の夢が叶うことによる現実充足は完全なるものではない。尤も「現実の完全なる充足などあり得ない。どんなにささやかな夢でも、それが叶う人生は幸福だ。それで充分ではないか」というのが一般的な見解だと思われる。実際、多くの人にとって夢と理想は同じであり、個々それぞれの夢が叶う社会こそが理想であろう。大それた夢である必要はない。天才には凡人の想像を絶する夢があるだろうが、凡人には凡人に相応しい夢がある。天才にせよ凡人にせよ、我々としても様々な個人の夢が叶う社会の実現を無視するつもりは全くない。むしろ、経済格差などによって夢の断念を余儀なくされるような今の社会は根源的に変革されるべきだと思っている。人間の能力に格差があるのは当然だが、各自の能力に応じて夢を抱くのは自由だ。この自由の実現を我々もまた全力で目指す。しかし、それは新しき村の運動の言わば往相にすぎない。個人の夢の自由な追求は大切だが、人間の理想はそうした私的領域を超越していく。夢が水平的次元における世俗的幸福の追求だとすれば、理想は垂直的次元における聖なるものの追求だと言えよう。おそらく、殆どの社会運動は前者を目的とするものであり、後者は宗教運動の目的とされるだろう。新しき村はあくまでも社会運動ではあるが、単なる社会運動に尽きるものではない。新しき村は一般的な意味における宗教ではないが、その本質は深く宗教運動に切り込んでいく。それが新しき村の運動の還相に他ならない。そうした往相と還相の二重運動、すなわち水平の次元における社会運動と垂直の次元における宗教運動の螺旋的循環にこそ新しき村の独自性(世界史的意味)があり、我々がその実現を目指す根源的理由もある。