祝祭共働態の二律背反(6)
祝祭は基本的に「開かれた空間」に成る。従って、祝祭を享受できるか否かは自らが「開かれた空間」に身を置くことができるかどうかにかかっている。子供の「無垢」は未だ主もなく客もない純粋経験として「開かれた空間」に身を置くことに他ならない。そこに始源の楽園としての純粋な祝祭がある。しかし、それはあくまでも理念であって、現実にはそれを経験することはできない。「無垢」を失い、純粋に「開かれた空間」に身を置けなくなって初めて、過ぎ去りし時間と空間が祝祭であったことに気づく。楽園は失楽園としてのみ経験されるのであって、実際に楽園に生きている充実は決して意識されない。生の充実はいつでも無我夢中、そこに少しでも意識が介在すれば、その瞬間から祝祭は崩れ始める。それ故、「無垢」を意識的に取り戻そうとしても無駄だ。それは光のないところでモノを見ようとするに等しく、原理的に不可能だからだ。尤も、「春琴抄」の佐助のように両眼を潰して何かを見よ うとすることは可能だろう。ただし、その何かが「無垢」かどうかはわからない。失明の世界は一般的には「閉じられた空間」ではあるが、春琴と佐助にのみ「開かれた空間」と考えることもできる。そこにもまた、祝祭はあるのだろうか。
祝祭共働態の二律背反(5)
赤ん坊は言うに及ばず、幼い子供に「鍵のかかる部屋」は必要ない。子供にとって家は一つの開かれた空間であって、たとい様々な部屋があっても、そこは自由に出入りすることのできる場だ。従って、部屋に鍵をかける必要はなく、鍵そのものの存在理由が失われる。勿論、こんなことが可能になるのは、子供の心が世界に完全に開かれていて、そこに鍵の必要など全くないからだ。これが「無垢」(innocence / Unshuld)に他ならない。子供は無邪気に「無垢の歌」だけを楽しんでいればいい。しかし、現実には当然そういうわけにはいかない。やがて自由に出入りしていい部屋といけない部屋の区別を教え込まれ、自身もまた他者に自由に出入りして欲しくない部屋、すなわち「鍵のかかる部屋」を必要とするようになる。つまり、「無垢の歌」は失われ、「経験の歌」を余儀なくされる。そして、子供は大人になる。
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さて、「ピーターパン・シンドローム」だと嗤われるかもしれないが、私は大人になりたくなかった。先述したように、父が頑張って建ててくれた家の二階に兄と私の部屋があったが、兄の部屋には鍵があったが私の部屋にはなかった。どうしてそんな設計にしたのか今でも分からないが、私の部屋は鍵がないどころか半透明のガラス戸だった。すでに大学生であった兄には「鍵のかかる部屋」が必要だが、未だ小学生の私にはガラス戸で十分と判断されたのだろうか。しかし、私に不満は全くなかった。むしろ、ガラス戸さえ私には邪魔で、いつも開けっ放しにしていた。今から思えば、無意識の裡に私は必死に「開かれた空間」を維持しようとしていたのであろう。それが大人になることへの無益な抵抗であると気づくことなく、私は区別(仕切り)のない「開かれた空間」を求め続けていた。しかしながら、そんな私もいつの間にか否応なく「閉じられた空間」を必要とするようになっていた。そのような必要に対する嫌悪感からガラス戸を全て取り外したこともあったが、一切は無駄だった。私はその時、「開かれた空間」と「閉じられた空間」の二律背反に引き裂かれていたに違いない。「無垢の歌」と「経験の歌」の狭間で、大人になった私はやがて「天国と地獄の婚姻」を求め始める。
祝祭共働態の二律背反(4)
プライヴァシーのない狭いながらも楽しい我が家が祝祭空間であったとしても、そこは未だ自意識に目覚めぬ幼い子供(夢見る無垢)だけが享受できるものだ。厳密に言えば、子供にそこが祝祭空間であるという意識はない。それは失われて初めて祝祭空間として意識される。楽園が常に失楽園としてのみ存在するように。かくして子供は大人になり、失われた祝祭空間へのノスタルジアが残される。どうして人間は純真無垢な子供のままでいられないのか。子供のままで生きることができれば、世界はずっと祝祭空間のままだろう。しかし、子供は大人になる。否応なく大人にならねばならない。「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることだ」とはカントの言葉だが、子供のままでいたいと願うことは怠惰と臆病でしかない。そして、啓蒙の拒否は世界の近代化を拒絶して未開状態にとどまることを意味する。言うまでもなく、「未開」とは啓蒙=近代化の視点からの概念にすぎない。実際、テレビのドキュメンタリー番組などで垣間見る近代化に取り残された「未開」社会には今でも祝祭空間が見出される 。しかし、大人になった我々はもはやそうした近代以前の祝祭空間に後向きに戻ることなどできない。絶対にできない。では、どうするか。前向きに祝祭空間を反復すること、すなわち祝祭共働態を実現していくしかないと思われるが、そこに立ちはだかるのが祝祭共働態の二律背反なのだ。
祝祭共働態の二律背反(3)
私の理想感覚からすれば、昨日述べたようなパーティーなどは娯楽であって、祝祭ではない。夢と理想がそうであるように、娯楽と祝祭も厳密に区別しなければならない。しかし、祝祭も進化する。祝祭にも原始的形態というものがあって、それが元型(archetype)として私の胸に焼き付いている。例えば、幼い頃によく観た青春ドラマの影響で、私は合宿生活というものに憧れていた。部員一同、一つ屋根の下で寝食を共にし、野球とかサッカーとかラグビーの大会で優勝することを目指す。そこには当然様々な軋轢・葛藤が生じるが、最終的にはチームワークで乗り越えて感動的な結末を迎えるというドラマだ。幼い私は素直にそうした青春ドラマに熱中していたが、やがてそこにはプライヴァシーというものがないことに気づき始める。同時に、合宿生活に対する私の憧れにも影が差し始めた。これは私の家庭生活(環境)についても言えることだ。私の家は貧しく、幼い頃は狭い長屋で暮らしていた。自分の部屋などある筈もなく、家族全員(両親と兄と私の四人)、常に否応なく一堂に会しているような環境であった。私は居間の片隅で勉強していたことを今でも覚えている。そうした環境が幼い私には別に苦ではなかったが、すでに思春期を迎えていた九つ年上の兄にはそうではなかった。兄は執拗に自分の部屋を要求した。当然のことだと思う。私もあのまま成長していたら、兄と全く同じ要求をしたに違いない。しかし、私が長屋の生活環境に耐えられなくなる前に、父は頑張って郊外に一戸建の住宅を建てた。それは二階建の小さな家であったが、そこには自分の部屋があった。すでに小学五年生になっていた私は素直に喜んだ。しかし、やがて不思議な寂しさを感じるようになった。奇妙な喪失感とでも言おうか。プライヴァシーのない長屋からプライヴァシーのある家に移って、私は確かに何かを失ったのだ。幼い私はその何かが祝祭であることに未だ気づいてはいなかった。
祝祭共働態の二律背反(2)
ホームパーティーは楽しい、と思う。私は独身なので、多くの親しい友人・知人が集うホームパーティーに憧れる。そこには確かに祝祭がある。しかし、それは一時的な祝祭にすぎない。一時的だからこそパーティーは祝祭足り得る、とも言える。延々と続くパーティーは苦痛でしかない。いくら親しい友人・知人とは言え、いつまでも家に居座られたら迷惑だ。家は基本的に家族だけのものであり、それ以外の他者に居住する権利はない。客として一時的に滞在するのは歓迎されても、共に住むことは許されない。逆に言えば、共に住むためには家族にならねばならない。ただし、厳密に言えば、家族だって他者だ。家族だからと言って、誰かの部屋に勝手に入ることは許されない。とすれば、家の中にも公的領域と私的領域のような区別があることになる。差し詰め居間が公的領域で、それぞれの自室が私的領域ということになろうか。言うまでもなく、パーティーは居間で行われる。居間が祝祭空間となる。家族にせよ、招待客にせよ、そこで一時的な祝祭を楽しみ、それが終わればそれぞれの私的領域(家族は自室、 招待客は自宅)に返っていく。このように祝祭は常に私的領域とは別の場所で行われる。ディズニーランドのような遊園地や劇場・キャバレーといった娯楽施設も然り。人々はそうした祝祭空間で一時の楽しい時間を過ごし、そしてそれぞれの私的領域に戻っていく。これが祝祭の一般的イメージであろう。しかし、祝祭共働態は全く異なる「祝祭」を目指している。
祝祭共働態の二律背反
私はユートピアの具体相を祝祭共働態と称している。「共働態」と書いているのは、それがアーレントの言う「行為」(action)の人間的条件である「複数性」(plurality)を核とするものであり、「同一性」によって何かと強制されがちな「共同体」と区別するためだ。すなわち、祝祭共働態は様々な人間がそれぞれの個性の花を咲かせる共生の場に他ならない。私はその実現を心から求めているが、現実にはどうか。本当に望んでいると言えるのか。私は昨日、「エスペラントには合理性を徹底させて欲しいと思うが、母語である日本語には余り合理的になって欲しくない」という本音を漏らした。その「悲しき合理性」に即して言えば、日本の社会の「同一性」が世界中の人間の「複数性」によって乱されるのは嫌だということになるだろう。率直に言って、私は日本が人種の坩堝と言われるニューヨークのようになるのを望まない。すでに東京はニューヨーク化しているのかもしれないが、それは本当に望ましいことなのか。最近はLGBTなど多様性の重視が至る所で謳われているが、私の本音はそうした時代の流れに逆行するものなのか。もしそうなら、私には祝祭共働態について語る資格はないということになる。
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さて、唐突ながら、ここで京都という街について考えてみたい。京都は多くの観光客を魅了するが、住民としてそこで生活しようとなると敷居の高い街だ。その意味において、排他的な街だと言える。伝統の「同一性」を守り、変化を嫌う。少なくとも、高層ビルがどんどん建設されて街の景観が一変するような都市開発など京都では起こり得ない。その結果、京都は近代的な発展から取り残されていると言えるが、そのことを嘆く人は殆どいないだろう。むしろ、京都に東京のような発展を望むことは、「生活の必要」を第一とする安吾のような人以外にはあり得ない。たとい京都が歴史的には停滞を余儀なくされているとしても、京都は今のままでいい――そう考えている人が大半だと思われる。とすれば、京都と祝祭共働態との関係はどうなるのか。京都は祝祭共働態からも取り残されることになるのか。
間奏曲:悲しき合理性
廣松渉氏ほどではないが、私も漢字を多用する方だと自覚している。別に「儂はこんなにも難しい漢字を沢山知っておるぞ」と自慢したいからではない。そもそも今やパソコンで変換すれば、どんなに難しい漢字だって瞬時に書けるわけで、漢字の多用など自慢にならないだろう。私としても漢字の使用は必要最小限に抑えるべきだと思っている。問題は「何を基準に必要最小限と考えるか」ということだ。例えば、「ちがにじむ」という一文の場合、次のような表記が想定される。
1,「ちがにじむ」
2,「血がにじむ」
3,「血が滲む」
(厳密に言えば、分ち書きとかローマ字表記もあるが、ここでは割愛する。)
おそらく、2の表記が一般的であろう。1のように平仮名ばかりだと読みにくいし、3のように「滲」などという一般的には読むことも書くこともできない漢字を用いる必要はないからだ。正論だと思う。しかし、私は敢えて3の表記を選ぶ。理由は極めて主観的なものにすぎない。「血」は「地」や「知」などの同音の言葉と区別するため、「滲」は「にじむ」という意味を明確にするためだ。勿論、平仮名だけでも意味は明確だが、表意文字である漢字はその意味を引き締めてくれるような気がする。また、漢字は文字数の節約にもなる。極端な話、「血」と「滲」の二字だけでも何となく意味は通じるだろう。しかし、そうなると日本文は限りなく漢文に近づいていってしまうわけで、そうした漢字への依存には疑問もある。従って、漢字は極力排し、日本文はできるだけ「やまとことば」で書くべしという見解にも道理がある。しかし、私もその見解に深く共感するものの、やはり漢字による意味の区別も捨てがたい。例えば、「かく」にしても漢字を用いれば、「書く」「描く」「掻く」などと区別することができる。「やまとことば」に漢字を当てるのは無意味で邪道かもしれないが、私は表現の自由と考えたい。調子に乗って言えば、「しこう」も通常は「思考」だが、私は「思耕」と書く。「さまよう」も「彷徨う」と書きたい。ただし、こうしたことはあくまでも私個人の主観的な好みによるものであり、純粋にコミュニケーションだけを考えれば余計なことでしかない。殊に外国人にとっては、徒に日本語を複雑化する迷惑行為としか思われないだろう。日本語に限らず、言語の複雑化は時代に逆行する非合理的錯誤に他ならない。
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しかしながら、言語の単純化=合理化は当然の流れだと思うものの、私はそこに一抹の不安を覚える。何だか悲しいのだ。おそらく、合理的な言語の最たるものは人工語であるエスペラントであろう。エスペラントは極めて規則的で例外がない。だから、エスペラントには血が通っていないと言われたりするが決してそんなことはない。百年も経てば、立派に生きた言語になっている。しかし、様々な民族語間の「橋渡し言語」であるエスペラントには合理性を徹底させて欲しいと思うが、母語である日本語には余り合理的になって欲しくないのだ。これは勝手な我儘だろうか。少し客観的な立場で英語について考えてみれば、catch-caught-caughtという不規則変化がcatch-catched-catchedという規則変化に合理化されるのはどうだろう。田中克彦氏によれば、英語話者の子供は不規則変化を教えなければ自然に規則変化させてしまうとのことであり、不規則変化に意味がないのは明白だ。しかし、全てが規則的になるのはどうか。確かに、不規則変化を覚える手間が省けるのは結構なことだ。日本語にしても、漢字廃止は大きな解放であるかもしれない。しかし、何だか悲しくないか。これはユートピアについても言えることだ。私はドストエフスキイの地下生活者と共に言いたい――「二二が四、それはもう生はでなくて死の始まりだ」と。
ふつうの人生(10)
ユートピア活動は「ふつうの人生」の超克を求める。このテーゼをより深く理解するために、私はこれまで「ふつうの人生」を問題にしてきた。実際、「ふつうの人生」の超克などといきなり言われても、何のことかさっぱりわからないだろう。そもそも「ふつうの人生」の対極に想定される「特別な人生」とは何か。そんなものがあるのか。先述したように、「ふつうの人生」を人並の平均値と考えれば、人並以下と人並以上にそれぞれ「特別な人生」が割り出される。それが一般的な見解だ。そして、人は人並以上の卓越した才能に恵まれた天才の人生に憧れる。たとい自分自身は凡人であっても、天才たちの非凡な活躍に一喜一憂する。しかし、天才が必ずしも幸福な人生を送るわけではない。天才には天才にしか味わえない苦悩があるからだ。知的な天才にせよ、身体的な天才にせよ、その苦悩は凡人の想像を絶する。とは言え、天才が凡才には見えない景色を見ようとしていることは事実であり、その意味では「特別な人生」には違いない。しかし、そうした天才の「特別な人生」を求めることが「ふつうの人生」の超克なのではない。むしろ、それは人並以下の「特別な人生」に逆対応するものだ。
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言うまでもなく、人並以下の「特別な人生」に憧れる人など皆無だろう。それは単に特別に貧しい人生でしかない。一般的に言えば、人は特別な豊かさと特別な貧しさの狭間に自らの「ふつうの人生」を見出し、前者への憧れと後者への転落の不安に引き裂かれて生きている。そこにあるのは言わば「自分は富裕層ではないが、さりとてホームレスでもない。その幸いを日々かみしめて、少しでも豊かな生活を送りたい」という意識だ。ユートピア活動はこうした一般的な意識の粉砕を目指す。当然、一般的には「大きなお世話」としか見做されないだろう。ユートピア活動が求める「ふつうの人生」の超克とは、「ふつうの人生」に安息しようとする人たちの意識をラディカルに粉砕することになるからだ。イエスは「地上に火を投ずるために、平和ではなく剣をもたらすためにやって来た」と語っているが、この一般的には最も理解しがたい分裂志向こそユートピア活動に通底する精神に他ならない。
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さて、このように書いてくると、安倍氏を撃って平和な日常に亀裂を生じさせた男などは差し詰めイエスの精神に忠実であったと思われても仕方がない。彼はユートピア活動の先駆者であったのか。無論、違う。正反対だ。しかし、正反対は表裏一体でもあり、常に反転の危険性を胚胎している。重要なことは紙一重の、しかし質的に全く次元を異にする「行為」のリアリティだ。一体、ユートピア活動は安倍氏を撃った男の愚行とどう違うのか。それを明確にすることがユートピア活動の喫緊の課題であるが、取り敢えず「凡百のテロリストはイエスではなくバラバの末裔にすぎない」とだけ言っておこう。
ふつうの人生(9)
wagagotoki
yonotsunebitowa modaesezu
metorite, umite, oite, shinubeshi!
土岐哀果はこのように歌った(私の記憶から発掘したもので、正確な引用ではない)が、私にもこの「悶え」はある。しかし、やはり一般的なものではないのかもしれない。生まれて、成長して、学校で勉強して、就職して、結婚して、子供ができて、老いて、死んでいく。それだけのことだ。それだけのことだけれど、そこには喜怒哀楽がある。病気や事故で成長に障害を負うこともあれば、学校・就職・結婚が思い通りにいかず、たとい幸福な結婚をしても子供ができないこともある。順風満帆の人生など極めて稀であり、イキモノとして共通するのは「生まれて、老いて、死んでいく」ことだけだと言わざるを得ない。それがイキモノの核だとすれば、その核から如何にして人生のエネルギーを生み出すか。そこに「単なるイキモノではない人間」が生きていくことの「悶え」がある。それは順風満帆に恵まれない不幸による「悶え」ではなく、あくまでもイキモノの核からなかなか人生の理想が生み出せないことへの「悶え」に他ならない。前者の「悶え」は一般的であっても、後者の「悶え」はそうではない。むしろ、人生の理想は今や時代遅れの歴史的遺物でしかない。実際、「人生には理想が不可欠だ」などと主張したところで、「必要ないよ。大きなお世話だ」と無視されるのがオチだ。しかし、果たして本当に「大きなお世話」なのか。人生に理想など必要ないとすれば、ユートピアもまた必要ないということになる。本当にそれでいいのか。
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何れにせよ、私自身は「単なるイキモノではない人間」が生きていくことの「悶え」を問題にせざるを得ない。おそらく、この問題に首を傾げる人は次のように反論するだろう。すなわち、「人間も単なるイキモノとして生きれば悶えることもなくなる筈だ。すなわち、他のイキモノと同様に自然に即して生きればいいのだ。それ以上の生を望むから、悶えが生じてくるにすぎない」と。尤もな反論だと思う。しかし、人間は単なるイキモノとして生きられるのか。自然に即して生きるとは如何なることか。それは人間の自然(本性)に反することではないのか。唐突ながら、こうした問題はアーレントが「イェルサレムのアイヒマン」に見出した問題と通底する。極悪人アイヒマンは単に自然に即して生きたにすぎない。彼の陳腐な悪はその「無思考性」に起因するものであり、それは単なるイキモノに固有のものだ。アイヒマンに「人間」は未だ存在していない。
ふつうの人生(8)
「横へ自己を生かすな。真直ぐ生かせ」とは私の好きな実篤の言葉だが、これは「ふつうの人生」にも当てはまる。すなわち、横へ生かす「ふつうの人生」ではなく、真直ぐ生かす「ふつうの人生」を、ということだ。更に私なりに整理して言い換えれば、水平の次元の「ふつうの人生」は垂直の次元において受け取り直さねばならない、ということになる。ただし、繰り返しのくどい強調になるが、我々が現実に生活しているのは水平の次元であって、それとは別に垂直の次元という聖域があるのではない。勿論、僧堂とか修道院といった聖域の存在意義はある。そこで己事究明に集中する時間も必要だろう。しかし十牛図が示しているように、究極的に問題とされるのは入鄽垂手(にってんすいしゅ)、すなわち聖域で見極めた自己を俗域で生かすことに他ならない。その意味において、水平の次元から遊離した聖域は未だ真の聖域に非ず、それは「聖域の俗域への受肉」を要請することになる。その見えざる受肉こそが垂直の次元を形成する。
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さて、こんな理屈ばかり繰り返していても埒が明かないことは重々承知している。殆どの人々はこんな理屈とは無縁にふつうに生活しているに違いない。あるいは、ふつうに生活したくてもできずに苦しんでいる。しかし、「ふつうの人生」を横へ生かそうとすると、どうしてもパラダイスの魔力に囚われることになる。そこに人間の運命がある。その運命を超克するために理屈を捏ねてジタバタしているのだが、問題の焦点はやはり「垂直の次元の導入」に絞られるだろう。実際、「ふつうの人生」に垂直の次元は必要なのか。逆に問えば、垂直の次元を欠いた「ふつうの人生」にどんな意味があるのか。そうした問いに改めて理屈抜きで取り組みたい。