ふつうの人生(7)
参院選も予想通りの結果に終わったが、政治の目的は一般的に「ふつうの人生」の維持確保にあると言える。あらゆる人が「ふつうの人生」を送ることができるようにすること、煎じ詰めればどの政治家もそれを公約に掲げている。そのための経済政策、治安維持。おそらく、今回の選挙結果は現政権のこのままの方針が「ふつうの人生」の維持確保にとってやはり最善だという大衆の揺るぎない判断を示しているだろう。それはそれで結構なことだが、果たしてあらゆる人が「ふつうの人生」を送ることのできる状態が我々の理想社会だと言えるのか。そもそも「ふつうの人生」とは何か。先述したように、一般的には平均値の人並の生活が「ふつうの人生」だと見做されるが、私は両者を区別したい。私にとって「ふつうの人生」は数量的に平均値が割り出せるような概念ではなく、あくまでも質的概念だからだ。厳密に言えば、人間は「ふつうの人生」を生きることしかできない。人並以上も人並以下もない。確かに試験をすれば点数が出て、否応なく平均点以上と以下が示される。このような数値化は実に便利なもので、我々の社会にとって不可欠なものだ。しかし、本質的なものではない。例えば、学校において数値化なくして生徒の客観的評価ができないのは事実だが、それが生徒の本質的評価とは次元を異にするのは明白だ。生徒の本質は数値化などできない。だからこそ心ある教師は生徒の評価に苦慮しているのであろう。目に見える数値化できる部分だけで生徒を評価するのは愚の骨頂、教師ならずともそれは今や万人の常識と化している。とは言え、人間の本質を正しく評価するのは容易なことではない。現実には殆ど不可能だと言ってもいい。だから、どうしても数値化による客観的評価に依存してしまう。「ふつうの人生」の意味についても然り。誰もが「ふつうの人生」しか生きられないのに、どうしても人並以上と以下を気にしてしまう。そして、その現実において人並以下のルサンチマンが時に暴発することになる。実に醜悪な愚行と言うしかないが、政治はこの繰り返される愚行にどう対処できるのか。もはや「ふつうの人生」の維持確保という理念だけでは駄目だろう。太宰治は「家庭の幸福は諸悪の本」と言ったが、私は「ふつうの人生」こそ諸悪の本だと言いたい。繰り返される愚行の根源には「ふつうの人生」そのものへの絶望が渦を巻いているからだ。
ふつうの人生(6)
ラスコオリニコフも「ふつうの人生」からの逃走を試みた一人であるが、少なくとも短絡的ではなかった。彼は深く悩み、考え抜いた。自分は「ふつうの人生」に束縛されて生きる凡人なのか、それともそれを踏み越えて自由に生きる非凡人なのか。彼はそのことを確かめるために、更に言えば自分は非凡人であることを証明するために、虫けらの如き金貸し老婆の殺害を決行した。しかし、それは決行などと言える代物ではなく、かなり右往左往した挙句の果ての錯乱的犯行でしかなかった。余談ながら、これはキリーロフの哲学的(論理的)自殺も同様だが、「ふつうの人生」を踏み越えるにせよ、「全てはいい」と証明するためにせよ、人間の究極的関心に基づく「行為」(action)には喜劇的なジタバタがつきものだ。しかし、繰り返し流されるニュース映像を見る限り、安倍氏を撃った男は全くジタバタしていない。むしろ、良く言えばゴルゴ13のように冷静沈着に見える。ただし、そこに深みは感じられない。もとより犯行動機の詳細については未だ不明だが、たとい噂される宗教団体との軋轢が絡んでいたとしても、男にラスコオ リニコフやキリーロフほどの苦悩があったとは到底思えない。やはり男の冷静沈着な様子は、その犯行が如何に短絡的であったかの証拠でしかないだろう。それは「行為」に遠く及ばない愚行にすぎない。
ふつうの人生(5)
安倍氏を撃った男の存在は一変した。同時に、撃たれた安倍氏の存在も一変した。厳密に言えば、一変したのは存在ではなく、存在者の相だ。それまで何者でもなかった無名の男はテロリストという存在者になった。安倍氏はすでに著名な功罪相半ばする政治家、どちらかと言えば民主主義の敵であったのに、それが瞬く間に民主主義の象徴的存在者に反転した。しかし、今は安倍氏のことはさて措き、ただそのご冥福を心から祈るにとどめたい。問題は安倍氏を撃った男の一変にある。こうした一変は現代社会の至る所で発生している。頻発する無差別巻き込み事件がそうだ。安倍氏は著名人で特別な存在ではあるが、無差別殺傷事件に巻き込まれた無名な被害者たちと何ら変わるところはない。「ふつうの人生」を生きていた人間の短絡的一変の犠牲になったという現実において。残念ながら、こうした傾向は今後も続くだろ う。巷はテロルに成功した男に対する糾弾で溢れているが、私には聞こえる。その糾弾に倍する羨望の声なき声が。犯罪者であれ何であれ、男は世間に注目される存在者になった。もはや悔いはないに違いない。しかし、そこには極めて大きな錯誤がある。致命的な錯誤だ。今回の「成功」に対する羨望の根を断ち切るためにも、「ふつうの人生」からの短絡的逃走は徹底的に批判されねばならない。かつて金閣寺に放火した者も今回の低劣さを心から軽蔑するだろう。似て非なる幼稚で醜悪な愚行として。
ふつうの人生(4)
「ふつうの人生」とは何か。「ふつうの高校生になって、ふつうのお嫁さんになって、ふつうのお母さんになって、そしてふつうに死にたい」とふつうでは考えられない若さで死を迎えざるを得なかった女子中学生は作文に綴った。しかし、高校生になれない中卒者もいれば、お嫁さんになれない未婚女性もいれば、お母さんになれない不妊女性もいれば、理不尽に殺される者もいる。とすれば、彼女の夢見た「ふつうの人生」はかなり高度の「ふつうの人生」であったと言える。どうやら「ふつうの人生」にも階層があるようだ。しかし、ここではそのような階層は問題にせず、あくまでも「ふつうの人生」を望む人間の心性だけに注目したい。何故、人は「ふつうの人生」を望むのか。「ふつう」に様々なレヴェルがあるにせよ、一般的には平均値の人並の生活が割り出され、それは時代によって変遷する。かつては自家用車の所有はふつうではなかったが、今やふつうになったように。しかし、率直に言って、最初から「ふつうの人生」に安住することを望む人は少ないのではないか。自家用車の所有がふつうになれば、今度はより高級な自動車の所有を求めることになる。そのように人並以上を求め続けることが人間の本性であるならば、その本性に疲れ果てた者のみが人並の「ふつうの人生」に安住しようとする。ただし、そこには常にルサンチマンが潜在しており、「ふつうの人生」は徐々に暴発の危険性を募らせていくことになる。昨日、安倍元首相を射殺した男などはその典型だと言えよう。彼は短絡的に「ふつうの人生」から逃走したにすぎない。
ふつうの人生(3)
私は「世界に一つだけの花」に込められた精神を揶揄するつもりはない。むしろ、その精神が普遍的に機能すれば、ロシアがウクライナに侵攻することもなかったと思っている。問題はその精神の現実性、すなわちナンバーワンとオンリーワンの存在論的差異だ。そもそもナンバーワンという存在者の存在とオンリーワンという存在者の存在は何が違うのか。例えば、金メダリスト、銀メダリスト、銅メダリスト、メダルに手が届かなかった入賞者、それ以外の人たち、更にはオリンピックに出場できなかった人たち、オリンピックはおろか片田舎の競技会にさえ出場できない身体に障害のある人たち――そうした様々な存在者の存在はどう違うのか。あるいは、違わないのか。私の存在は私に固有のものだ。私はある。その存在の現実はあらゆる人間に共通する。しかし、人間はその現実にとどまることができない。「私はある」という存在の相から「私は○○である」という存在者の相に移行せざるを得ない。そして、その存在者の相において「ナンバーワンであるか否か」というような差異が人間にとって問題になる。当然、ナンバーワ ンになれる人もいればなれない人もいる。その差異が人生に苦をもたらすのであれば、オンリーワンの存在の相に引きこもればいい。それは実質的に「無の境地」に等しいが、そうした引きこもりが「ふつうの人生」なのだろうか。むしろ、逆だ。タブラ・ラサは人生ではあり得ない。
ふつうの人生(2)
人はふつう「特別な人生」を求める。他人とは異なる、少しでも優秀な「特別な存在」として注目されたいと思う。最近の言葉では「マウントを取る」ということになろうか。巷はマウントを取りたい輩で溢れている。しかし、人々はその虚しさに気づき始めているのではないか。所詮、ドングリの背比べ、マウンティングで得られる生の充実など高が知れている。とは言え、「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」と開き直られると、それもまた何か違うような気がする。この違和感は何か。おそらく、そこにパラダイスの魔力の萌芽がある。
ふつうの人生
毎週火曜日の夜にはかつての人気番組「プロジェクトX」の再放送があるが、昨夜は日本初の骨髄バンク設立のドラマであった。その発端は白血病のために十五歳の若さで亡くなった或る女子中学生の「将来について」と題する作文であり、そこには次のような文章が綴られていた。「ふつうの高校生になって、ふつうのお嫁さんになって、ふつうのお母さんになって、そしてふつうに死にたい」――ふつうはもっと「特別な人生」を望むと思われるが、この女子中学生は恰も自らの運命を悟っていたかのように「ふつうの人生」を求めていた。それが新鮮な驚きであった。ふつうに生きることは容易なことではない。野暮を承知で言えば、ふつうにボーッと生きているだけではふつうに生きることはできない。そこにはキルケゴールの言うような人生行路の逆説がある。
ユートピア活動(10)
パラダイスの幸福の対極にあるのはアルカディアの清貧の幸福だ。大抵の場合、人は前者を求める。受験戦争で偏差値の高い学校を、更には就職戦争で一流企業を目指すのも、偏にパラダイスの幸福を獲得するために他ならない。勿論、真の意味でのパラダイスを享受し得るのはほんの一握りの勝ち組にすぎない。しかし、パラダイスへの欲望は底なしであり、またそこには幸か不幸か階層がある。実際、たとい1%の超富裕層が世界資産の四割を占めるという富の集中が問題視されても、その1%になりたいという欲望がなくなることはないだろう。そして、その欲望はそれなりの富の階層を築いていく。こうしたパラダイスの魔力は実に恐るべきもので、このままでは人類滅亡の危機に瀕すると警鐘を鳴らす人も少なくない。では、どうすればいいのか。超富裕層を抹殺するテロリズムに走っても無駄だ。今の超富裕層を排除することに成功しても、新たな超富裕層が生まれてくるのを阻止できないからだ。結局、パラダイスを求める欲望を抑制できなければ如何ともしがたいが、そんなことが果たして可能だろうか。おそらく、その可能性は清貧の幸福を核とするアルカディアに見出されるだろうが、私はアルカディアに後向きに回帰することは不可能だと思っている。とは言え、パラダイスの競争地獄に疲れ果てた人たちは世界の片隅に共生の楽園としてのアルカディアを求め、それは実在し始めている。そこには確かに共生(互酬)がある。しかし、その試みに水を差すつもりなど全くないが、後向きに回帰されたアルカディアが再びパラダイスに移行する必然性を抑制することはできないと思われる。ヒッピーにせよ何にせよ、かつてのカウンターカルチャー運動でコミューンに憧れた若者たちも、結局は経済的な発展や豊かさを捨てきることはできなかった。長髪を切って、反体制が体制に戻って行かざるを得ないのは歴史的運命だとさえ言えるだろう。しかし、もうウンザリだ! こうした愚を繰り返さないためには、やはりパラダイスの対極にあるアルカディアに注目する他はない。ただし、後向きに回帰するアルカディアではなく、あくまでも前向きに反復されるべきアルカディアだ。その実現こそがユートピア活動なのだが、マルクス的にアソシエーションと言ってもいいだろう。柄谷行人氏はアソシエーショニズムを「原始的共同体にあった互酬性を高次元で取り返そうとする運動」と理解されているが、僭越ながら私も「高次元」に注目したい。すなわち、パラダイスもアルカディアも水平の次元の運動であるが、重要なことはそれらを垂直の次元において反復することなのだ。それが階級格差や富の格差をもたらすシステムそのものの超克を目指す活動であることは言うまでもない。
ユートピア活動(9)
「などてすめろぎはひととなりたまひし」という英霊の声も今や陳腐なものとなり果ててしまった。すめろぎが神であろうが人であろうが、もはや殆ど誰も気にしやしない。それが平和ということなのだろう。それはそれで結構なことだと思うが、ならば平和な日常で人々が気にするものは何だろう。国政選挙が近づいているが、何故か或る政党のテレビCMだけが目につき、その代表が「給料が上がる経済の実現」を連呼しているのが耳障りだ。何故か。勿論、サラリーマンの給料のみならず、皆の所得が上がることは歓迎されるべきことだろう。しかし、かつての所得倍増の夢が繰り返されたとしても、人々は本当に幸福になれるだろうか。いや、幸福は確かにそこにある。所得が増えれば生活は楽になるし、加えて贅沢な生活も夢ではなくなる。それはパラダイスだ。人々が幸福に暮らせるパラダイスだ。しかし、人間の関心はパラダイスを超えることはないのだろうか。経済的な豊かさによってもたらされる幸福以上の何かを求めることはないのか。ユートピア活動はパラダイスの幸福を超えていく次元を切り拓くことを根幹として いるが、そんなことに関心を抱く人は皆無であろう。すめろぎがひととなって久しいが、かつてすめろぎが神であることを求められた意味を問う次元もまた、このまま風化していくのであろうか。
ユートピア活動(8)
アルカディアでもパラダイスでもない、真の理想としてのユートピアを求める私の問題意識は致命的にズレているのかもしれない。「夢とか理想とか訳の分からない理屈ばかり捏ねていないで、もっと現実を直視しろ! 目の前で苦しんでいる人たちを皆で協力して何とかして助けようとするのが先決問題ではないか」――全くおっしゃる通り。目の前で苦しんでいる人を助けるのに理屈など要らない。かつてサルトルも悩んだように、飢えて死んでいく子供たちに『嘔吐』は無力だ。私にも常に善きサマリア人のように生きたいという思いはある。実際、テレビのドキュメンタリー番組でホームレスや引きこもりなど、社会に「行き場」を失った人たちを献身的に支援する善きサマリア人の活動に接すると、「それ以上の活動はない」という思いに駆られる。しかし、それにもかかわらず、私は善きサマリア人に徹しきれない自分も 見出す。善きサマリア人の活動は無限に尊い。それを無視することなど到底できない。その現実に理屈は不要だ。なのに私は「善きサマリア人の活動だけでは人間の問題を究極的に解決することはできない」という思いを捨てきれない。その結果、善きサマリア人の活動に接続すべきユートピア活動を求めざるを得ない。当然、そこには次元の超越がある。こうした私の問題意識はやはり根源的にズレているのだろうか。