新・ユートピア数歩手前からの便り -80ページ目

ユートピア活動(7)

未だ始まってもいないドラマについて語るなど、「ドラマ中毒もここに極まれり」だが、繰り返し流される番組宣伝で目にし耳にするキャッチコピーが私の究極的関心に突き刺さる。ドラマのタイトルは「オールドルーキー」、そのキャッチコピーは「夢が終わった。人生が始まった」というものだ。番宣だけの情報によれば、かつてサッカーの全日本代表にもなったJリーガーが怪我か病気によって引退を余儀なくされ、その絶望から立ち上がって「第二の人生」に向けて奮闘するというのがドラマのテーマらしい。主演の綾野剛は以前に「空飛ぶ広報室」というドラマで、ブルーインパルスのメンバーになるという夢に挫折したものの自衛隊広報室での新たな仕事に生き甲斐を見出していくという男を好演したが、今度のドラマでも同じような役回りだと思われる。そこには確かな感動がある。夢を追い続け、血の滲むような努力の末に夢を実現させていく所謂立身出世のドラマも感動的だが、私は夢の挫折から始まる人生にこそ人間の本当のドラマがあると信じている。更に言えば、夢を失わない人生は幸福かもしれないが、人間は「夢見る無垢」の時代を経て、幸福以上の生の充実を求めていくべきではないか。少なくとも私は、夢が終わらなければ決して見えてこない人生の輝きがあると思っている。それは理想に他ならない。夢から理想へ、そうした人生の次元的移行にユートピア活動の根幹がある。

しかしながら、問題は夢さえ抱けぬ現代の閉塞状況だ。特に若者たちの閉塞状況。私は昨夜、NHKスペシャル「なぜ一線を越えるのか:無差別巻き込み事件の深層」という番組を観たが、繰り返される理不尽な事件の深層に若者たちの深い絶望が渦巻いていることを改めて痛感した。犯罪の動機を問われて、「死刑になりたかった」とか「世間に注目されて、少しでも自分がこの世界に生きた証を残したかった」という言葉が返ってきたが、彼らの人生は「夢が始まる以前にすでに終わっていた」という感じがした。犯罪でしか自己表現できない若者たち。犯罪者になれば、とにかく刑務所という「行き場」ができる。事実、刑期を終えて出所した男は再び刑務所に戻りたいがために罪を犯す。若者たちが切実に求めているのは「行き場」なのだ。もし日本が今のウクライナのような悲惨な状況に陥れば、「全ては終わって欲しい」と絶望している若者たちはむしろ喜ぶのではないか。祖国防衛という「行き場」が与えられるからだ。戦争は犯罪と並ぶ、いやそれ自体一つの大きな「行き場」になる。ラスコオリニコフも確か「行き場」がないこと以上の絶望はないと言っていた。高校球児の甲子園に象徴されるような夢の「行き場」がある人は幸福だが、それも永遠には続かない。では、人間が究極的に求めるべき永遠の「行き場」とは何か。この問いと共にユートピア活動は始まる。夢は終わった。理想を求める人生が始まる。

ユートピア活動(6)

故郷喪失という現代社会の運命を克服する方策として、私は「新しきふるさと」の実現を考えている。それがユートピア活動の重要な柱の一つであるが、果たして「新しきふるさと」とは何か。殊に「古きよきふるさと」と何が違うのか。この問いについて思耕するに当たって、有名な聖ヴィクトルのフーゴ―の言葉に改めて注目したい。彼は次のように言っている。

「故郷を甘美に思う人はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなり力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ完璧な人間である。」

この言葉を英語帝国主義批判で著名な大石俊一氏は、柄谷行人氏の「無・故郷」の思念の文脈で解釈している。大石氏によれば、柄谷氏は聖ヴィクトルのフーゴ―の言葉を次のように分析している。

(a)   「故郷を甘美に思う人」=「共同体の思考」=「必ず内部と外部の分割・区分を前提としてしまう思考」

(b)   「あらゆる場所を故郷と感じられる者」=「コスモポリタンの思考」=「共同体・身分の制約を超えられるかのような、また共同体を超えた普遍的な理性とか真理とかがあるかのような考え方」

(c)   「全世界を異郷と思う者」=スピノザの境位=「あらゆる共同体の自明性を認めないということ。しかし、それは共同体を超えるわけではなく、その自明性につねに違和を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプ」

柄谷氏は(c)の立場にスピノザの「無限」を見出しているが、それは(a)の場合の内側と外側の分割・区別を徹底的に無化・無効にしてしまうという意味で「無限」であり、また(b)の場合のような普遍的なものに飛躍してしまうことがないという意味でも「無限」だと言われる。すなわち、「無限」とは自分が有限であることを意識させる他者というものを前提していること、「全体」を知ることも何かを「中心」とすることも不可能だということであり、また普遍的なものも夢・想像にすぎないことを深く認識することに他ならない。言うまでもなく、これはフーコーの「外部の思考」に通じるものであり、場所(共同体)ではない場所、立場ではない立場(ヘテロトピア)に立つことの可能性が問われているのだ。私がユートピア活動の一環として求めている「新しきふるさと」もまた、こうした「無・故郷」に収斂していくものだと思われる。それは(a)の立場のナショナリズムを超えていくと同時に、(b)の立場のような「全ての牛を暗くしてしまう同一性」をも超えていく。異郷こそ「新しきふるさと」であり、そこでは「古きよきふるさと」も祝祭共働態として逆説的に反復(逆対応)される。

ユートピア活動(5)

「アスハルトの道は安全だから誰だって歩きます。危険がないから誰だって歩きます。でもうしろを振り返ってみれば、その安全な道には自分の足あとなんか一つだって残っていやしない。海の砂浜は歩きにくい。歩きにくいけれども、うしろを振り返れば自分の足あとが一つ一つ残っている。そんな人生を母さんはえらびました。あなたも決してアスハルトの道など歩くようなつまらない人生を送らないで下さい。」(遠藤周作「影に対して」)

これは砂浜の道を歩くことを選んだ母とアスハルトの道を選んだ父との間で葛藤する幼き日々の自分の思いを綴った遠藤周作の未発表作品だ。すでに以前にも問題にしたことがあるが、こうした葛藤は誰の人生にもある。そして殆どの場合、人はアスハルトの道を選ぶ。アスハルトの道は言わば近代化の象徴であり、ぐちゃぐちゃで歩きにくい危険な道を清潔で歩きやすい安全な道に舗装することは人間社会の進化に他ならない。アスハルトの道はパラダイスだと言ってもいい。しかし、遠藤の母が言うように、それが「つまらない人生」であることも事実だ。それ故、人は日常生活ではアスハルトの道を選ぶものの、時に登山とかロッククライミングのような危険な道も敢えて選んだりする。ただし、本当に危険な道を選ぶ人は極めて稀であり、大抵は適度なスリルが味わえる安全な「危険な道」が好まれる。つまり、現代社会において、「危険な道」は退屈な日常生活に刺激を与える娯楽にすぎない、ということだ。そもそも生存の危機にさらされる「危険な道」をこの世界からなくすこと、それが一般的な理想社会のヴィジョンだろう。戦争や貧困といった人為的な危険もさることながら、人喰い熊や毒蛇といった自然の危険が徹底的に排除された世界、すなわち安全に舗装されたアスハルトの道以上の理想はない。おそらく、それ以上の理想を求めることは贅沢で余分な「大きなお世話」だと見做されるに違いない。しかし、ユートピア活動は正にその「大きなお世話」なのだ。決してアスハルトの道を否定するわけではないが、ユートピア活動の本質は「危険な道」にこそある。娯楽としての安全な「危険な道」などではなく、理想として本当に危険な「危険な道」だ。こうした理想の危険性が一般的に理解されないのも無理はない。しかし、私は諦めきれない。ユートピア活動への関心が高まることを願わずにはいられない。

ユートピア活動(4)

理屈だけを剝き出して言えば、ユートピア活動とは絶対者の絶えざるディコンストラクションを通じて真に絶対的なるものとの関係を構築(コンストラクト)していくことに他ならない。ちなみに、神の死の神学の真髄もそこにある。すなわち、神の死において真の神と関係していくという絶対的な逆説だ。この理屈は政治・経済・教育などのあらゆる分野に受肉していかねばならないが、早急な対応を迫られているのはやはり労働の現場だろう。このことを、昨夜「ちょっと今から仕事やめてくる」という映画(監督:成島出、原作:北川恵海)を観て改めて痛感した。

単なるコメディだと思って気楽に観始めたが、それがどうしてかなりシリアスな問題を孕んだドラマであった。ストーリーの流れをかいつまんで言えば、ブラック企業でノルマに追われ、加えて上司からのパワハラで身も心もボロボロになった若者が自殺しかないという苦境に追い込まれていくが、不思議な青年との出会いで本来の自分を再び見出していくというドラマだ。私は素直に感動した。しかし、その結末には疑問が残る。野暮を承知で言えば、絶望した若者は競争原理が渦巻くブラック企業から共生のバヌアツに移行することで救われる。確かに、競争社会に必死にしがみついている自分から解放されていく過程には感動がある。実際、過労死に追い込まれていくしかない労働の現場からは一刻も早く解放されるべきだろう。しかし、問題はその解放の後だ。何故、バヌアツなのか。バヌアツは共生の楽園の象徴として描かれているが、それは至る所に求められるだろう。南の島だけではなく、日本の山奥にだって、それは見出される。新しき村にそれを求める人もいるだろう。過酷な競争から長閑な共生へ――それは正しい第一歩だ。それは間違いない。しかし、あくまでも第一歩にすぎない。その先に長い道が続いている。その道を歩むのがユートピア活動なのだ。

ユートピア活動(3)

身捨つるほどの祖国はありや。御国のために敵艦に突っ込んでいった特攻隊の若者たちの若さは明らかに狂気の若さであった。私はその復活を望んでいるのか。ユートピアとは狂気の若さが原動力となって実現されるような理想であるならば、ユートピアはファシズムの理想だと考える人が出てきてもおかしくない。残念ながら、私はその危険性を否定することができない。常にその危険性はあるからだ。しかし、ユートピアはファシズムの理想などではない。現象的には紙一重の違いだが、本質的には全く次元を異にしている。そのことだけは明言しておきたい。未だ誰もが納得できるような表現には至っていないが、ユートピアの理想はファシズムを超えていく。そこでは「などてすめろぎはひととなりたまひし」という特攻隊の若者たちの悲憤慷慨は二度と繰り返されない。ファシズムは往々にして在る筈のない絶対者の傀儡に堕していくが、ユートピアは違う。むしろ、ユートピアは絶対者の死から始まる。絶対者をディコンストラクトしていく絶対的な運動こそ、ユートピア活動の本質に他ならない。

ユートピア活動(2)

イマドキの若者たちを目にすると無性に苛立つことが多くなった。これは明らかに私が紛れもない老人になった証だが、この苛立ちは一体何か。失われた若さへの羨望の裏返しか。確かに、それもあるだろう。しかし、それだけではない。むしろ、イマドキの若者たちが本当の意味で若くないこと、あるいは若さを主体的かつ情熱的に使用していないことに私の苛立ちの根があるように思われる。勿論、全ての若者たちを「イマドキの若者たち」という言葉で一括りにすることは乱暴すぎる。事実、「イマドキの若者たち」ではない若者たちもたくさんいるだろう。陽キャラもいれば陰キャラもいる。甲子園を目指す高校球児のような青春の王道を往く者もいれば、帰宅部のような青春の裏道を彷徨う者もいる。しかし、前者の元気ハツラツの若者たちでさえ、かつての若者たちほどの若さは感じられない。ワカモノはバカモノに通じるとよく言われるが、理に反する無鉄砲なことをするのが若さの特権ではあるものの、本当の若さには別の次元が必要になると私は思う。それは、三島の言葉を借りて言えば、「生命尊重以上の価値」が問われる次元だ。しかし、それは今や「失われた次元」でしかない。至る所で健康第一が叫ばれ、それが常識となっている。若さの象徴である甲子園でも投手の球数制限が常識となり、選手の健康を害するようなことは極力排される。こうした風潮が悪いわけではない。むしろ、正しい。母校のため、郷土のため、肩を壊すまで連投に連投を重ねることが美談とされるようなかつての風潮の方が狂っている。しかし、若さには一種の狂気も必要ではないか。正気の人にとって、野球などに「生命尊重以上の価値」がないことは明らかだ。いや、この世界の如何なるものにも「生命尊重以上の価値」など認めないことが正気の証、すなわち健全な人間の常識なのだろう。しかし、それにもかかわらず、そうした常識に私はどうしようもない苛立ちを覚えてしまう。そして、この世界に「生命尊重以上の価値」を認めようとする狂気を求める。そうした狂気にこそ真の若さがあると信じているからだ。当然、狂気は正気の世界を破壊する凶器となる危険性を常に孕んでいる。しかし、その現実と対峙し続けることに若さの意義もあるのではないか。健康第一の正気の若さはやがて老いていくが、「生命尊重以上の価値」を求める狂気の若さは決して老いることがない。その若さがユートピア活動の原動力となっていく。

ユートピア活動

「活動とは、物あるいは物質の介入なしに、直接、人々の間で行われる唯一の営みであり、複数性という人間の条件、すなわち地球上に生き、世界に住むのが〈人間というもの〉でなく、複数の人々であるという事実に対応している」(アーレント「人間の条件」)

 

アーレントは端的に「人間は本質的に複数性において存在している」と言っているが、労働と仕事が「我の営み」だとすれば、活動は「我々の営み」だと言える。ただし、活動における我々は単なる我々、すなわち同調圧力を余儀なくされる群れとしての我々ではない。敢えて言えば、ヘーゲルの「我である我々・我々である我」と理解することも可能だろう。あるいは、「水平の次元における我々」と「垂直の次元における我々」という区別をすれば、後者こそが活動における我々だが、その核はあくまでも単独者でなければならない。決して群れることのない単独者のみが公的領域における活動=連帯を可能にする。そうした連帯の輪(広がり)こそが我々の理想とする祝祭共働態に他ならない。

ユートピアの実現は大きなお世話か(10)

臆面もなく言えば、私はユートピアの実現を目指す同志との共働態を求めている。そのためにこの拙い便りを細々と書き続けているのだが、最近はどうも悲観的になりがちだ。殆ど誰もユートピアの実現など望んでいないのではないか。そう思わざるを得ないからだ。勿論、世界の現状にウンザリしている人は巷に溢れ、「この世界は変わらねばならない」という思いが渦を巻いている。実際、その思いは理想社会を実現する運動を形成しており、すでに「世界の変革」は始動していると考えることもできる。しかし、その多くはこの世界をパラダイスにする運動に他ならない。もはや誤解はないと思うが、私はパラダイスを一概に否定するつもりはない。パラダイスが理想社会の一形態であることは間違いなく、人々がパラダイスに憧れるのは当然だ。とは言え、パラダイスが人間にとって究極的な理想社会ではないことも厳然たる事実だ。そこには様々な問題がある。その問題性故にアルカディアへ回帰しようと望む人も少なくない。鄙見によれば、現代社会はあくまでもパラダイスの追求に固執する人たちとその危険性を憂慮してアルカディアへの回帰を主張する人たちに二分されている。前者は人間の可能性を信じて無限の発展を推進せんとするのに対し、後者はそうした人為的な発展に絶望して自然に即した生活に活路を見出そうとする。人工楽園と自然楽園の対立と言ってもいい。しかし、古代のアルカディアから近代のパラダイスへと発展してきた人間の歴史を振り返れば、現代におけるアルカディアへの回帰が問題の根源的な解決になるとは到底考えられない。たといパラダイスの追求に疲れた人がアルカディアに癒しを感じることがあったとしても、それは束の間の安らぎにすぎない。パラダイスの魔力がアルカディアの水平性で抑制できないのは明らかだ。では、どうするか。繰り返し述べているように、アルカディアとパラダイスの対立関係を切り裂く(止揚する)のはユートピアの垂直性しかない。それ故、ユートピアの実現が要請される契機を明確にするために、私は様々な具体的な場面を想定してきた。それが連合赤軍に代表される過激派の「革命への意志」であり、野球からベースボールへの「進化」であった。しかし率直に言って、私は未だそうした場面におけるユートピアの契機をうまく表現できないでいる。むしろ、それを表現しようとすればするほど、人々の「ユートピアの実現など大きなお世話だ」という声が聞こえてくる。そして、その声は大きくなるばかりだ。やはり、人々が求めている理想社会はパラダイスかアルカディアでしかないのだろうか。今や革命に人生を賭ける過激派はテロリストとしか見做されず、一般大衆に支持されることは皆無となった。一般大衆の関心はスポーツとして「進化」したベースボールに象徴される娯楽に集中している。これが現実だ。しかし、本当にユートピアの実現は大きなお世話か。決してそうではないことを、私は引き続き悪戦苦闘しながら表現していきたいと思う。

ユートピアの実現は大きなお世話か(9)

当然のことながら、技術的には高校野球のレヴェルなどプロ野球の比ではない。しかし、それにもかかわらず、これまで多くの人がプロ野球にはない魅力を求めて甲子園に足を運んできた。そこにはプロ野球が失った感動があったからだ。それはベースボールに「進化」する以前の野球の感動だと言ってもいい。しかし、それも今や昔日の夢。投手の球数制限など、高校野球もまたベースボールに「進化」してしまった。率直に言って、私はそうした「進化」を深く嘆いているが、その嘆きには実に複雑な問題が絡んでいる。それは「近代化」をめぐる問題と通底しているものだ。実際、一般的に「近代化」は歓迎されるべきものだろう。不便な生活が便利になる。理不尽なことが社会的に許されなくなる。野球からベースボールへの「進化」もまた「近代化」の一つと理解することができる。非合理的な精神主義による猛練習から合理的な科学に基づくトレーニングへ――何よりも選手の健康第一をモットーとする管理体制が悪い道理がない。むしろ、酷暑の中で一人の投手が連投に連投を重ねたり、延長二十五回を投げ抜いたりすることを美談とすることの方が間違っているのかもしれない。確かに、そうした美談の主人公の多くは肩を壊してプロでは使い物にならず、結果的に短い選手生命の憂き目を見る場合が多い。野球が才能ある高校球児の人生を台無しにしてきたことは事実だ。選手の徹底した健康管理を旨とするベースボールではそんなことは起こらない。決して起こしてはならないのだ。もはや「チームのために肩が壊れるまで投げ切るぞ!」という決意は許されない。そうした悲壮な決意が美談とされる時代は過ぎ去ったのだ。チームの勝利よりも個々の選手の健康が大事。所詮、ベースボールはスポーツにすぎず、身を捨つるほどのものではない。しかし、かつての野球はそうではなかった。身を捨つるほどの情熱が懸けられるものであった。たとい将来の選手生命に支障があっても、今目の前にある試合に全力を尽くす。チームのため、母校のため、郷土のために燃え尽くすという勝負に感動があった。果たして、そうした感動はアナクロニズムであろうか。もしそうなら、ユートピアを求めることもまたアナクロニズムということになる。本当にそうか。それでいいのか。

ユートピアの実現は大きなお世話か(8)

かつて野球少年であった私はプロの野球選手になる夢を抱いていた。それは明らかに当時の人気マンガなどに影響された単純な夢だったが、野球選手ほどカッコイイ存在はないと思っていた。しかし、あれほど熱中して観ていたテレビの野球中継も、今では殆ど興味がない。何故か。自分には残念ながらカッコイイ野球選手になるだけの才能がないという自覚、すなわち夢の挫折もさることながら、プロ・アマを問わず、今の野球はもはやかつて私が熱中した「野球」ではないからだ。勿論、大リーグで活躍している大谷選手にせよ、先日最年少で完全試合を達成した佐々木選手にせよ、カッコイイ選手はたくさんいる。彼らの才能はかつて私が憧れた野球選手以上のものかもしれない。しかし、その輝かしい才能を羨ましく思うものの、そこに私の感動はない。どんなに技術的に卓越していても、彼らの素晴らしいプレイは今やベースボールであって、もはや野球ではないからだ。一体、何が変わったのか。おそらく、その変化を「進化」と理解する人も少なくないだろう。いや、その方が大半かもしれない。そうした理解からすれば、柔道もオリンピック種目としてのジュード―に「進化」したことになる。果たして本当にそうか。確かに、そこにはスポーツとしての「進化」はある。しかし、ユートピアの精神はない。血沸き肉躍る祝祭の感動はない。スポーツにもそれなりの感動はあるが、その水平的な感動はユートピアに遠く及ばない。垂直性が欠けているからだ。