ユートピアの実現は大きなお世話か(7)
原爆の悲惨さを描いた名作「黒い雨」の中に、朝鮮戦争でアメリカが再び核兵器を使用するかもしれないという報道に接した被爆者の一人が「正義の戦争よりも不正義の平和の方が大事だということをまだ悟らないのか!」と吐き捨てるように叫ぶ場面がある。原作にこうした場面があるかどうかは確認していないが、今村昌平の映画におけるこの場面は今でも私の「肉中の棘」となっている。正義の戦争よりも不正義の平和の方が大事――本当にそうか。
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確かに、戦争は正義によって引き起こされる。この場合の正義は大義名分と言ってもいいだろう。大義名分のない戦争はあり得ない。今回のロシアによるウクライナ侵攻でも、総じてロシアは掛け値なしの悪として報じられているが、ロシアにはロシアの正義があるに違いない。当然、ウクライナにはウクライナの正義があるわけで、戦争は両者の正義の衝突だと解することができる。通常は「勝てば官軍負ければ賊軍」、強者の正義が弱者の正義を淘汰していくのが自然の理だろう。実際、ウクライナの正義はロシアの正義には勝てない。原理的に言えば、ロシアの正義に勝つためにはロシア以上に強大な力が必要になるが、例えばアメリカにそうした力を結集するだけの覚悟があるか。それは極めて危険な覚悟、核兵器の使用も含めたロシアとの全面戦争への覚悟でもある。そんな恐ろしい覚悟などできる道理がない。それ故、世界はロシアを非難しながらも、結局は不正義の平和を選択することになる。一応、それは賢明な判断だと言える。しかし、果たしてそれでいいのか。問題をウクライナの正義に限定すれば、それを捨ててロシアの正義の支配下に入れば平和な日常が回復されるだろう。「平凡な万人の平凡な生」に優るものはないとすれば、それを与えてくれる支配者は誰でもいいのだ。ウクライナの独立、ウクライナ人としての矜持など余計なお世話であり、それを死守するための正義の戦争など迷惑千万――それが弱者である一般庶民の本音だということになる。本当にそれでいいのか。「よくない!」と叫ぶなら、それは戦争を覚悟することになる。「平穏無事な生よりも名誉の戦死!」というわけだ。それもまた、何だかおかしな覚悟ではないか。おそらく、この二律背反を超克するためには「力としての正義」について改めて根源的に思耕する必要があるだろう。それは「平凡な万人の平凡な生」の幸福に差し込む垂直性を見出す思耕でもある。
ユートピアの実現は大きなお世話か(6)
吉野氏の「革命への意志」に亀裂を生じさせたのは石丸俊彦元裁判長の言葉だった。石丸氏は吉野氏への手紙の中で「革命はいかなるイデオロギー、哲学でもってしても弱者には無用である」と明言されている。石丸氏は戦争体験者であり、実際に戦場で目にした悲惨な現実と革命を重ね合わせているようだ。確かに、革命であれ、戦争であれ、それを引き起こすイデオロギーや哲学は一般庶民には無縁であることが多い。今回のロシアによるウクライナ侵攻に際しても、避難民となったウクライナ人の一人は「俺たちはただ平凡に暮らしていたいだけなのに…」と嘆いていた。そこには庶民の切実な願望がある。それは石丸氏が自らの戦争体験から学ばれた人間の真実でもある。石丸氏はその真実に基づいて「社会を変え得るのは怒りの行動や少数者の突出した行動ではなく、声を発し得ない民の願いであり祈りである」とされ、「平凡な万人の平凡な生」こそが最も重要であることを吉野氏に説かれたに違いない。そして、吉野氏はそうした石丸氏の真摯な言葉に心を動かされ、かつての情熱の 核であった「革命への意志」の愚かさに気づかされた――というのが今回のクローズアップ現代プラス「50年目の“独白”あさま山荘事件・元連合赤軍幹部の償い」という番組の解釈だったと思われる。おそらく、その解釈は間違っていないだろう。しかし、瀬古凛々子の口癖を真似て言えば、私は何だかザワザワする。革命は本当に幸福な日常を求める一般人には大きなお世話なのだろうか。
ユートピアの実現は大きなお世話か(5)
小市民の幸福ほど醜悪なものはない。このままでは駄目だ。世界は根源的に変革されねばならぬ。そう思った吉野氏は学生運動に参加し、やがて過激派にまで昇りつめた。言うまでもなく、全ての学生運動家が過激派になるわけではない。むしろ、日々の欲求不満の単なる捌け口か興味本位からデモや抗議集会などに参加した学生が大半だったのではないか。実際、路上で大暴れすることは退屈な日常を吹き飛ばすほどに痛快なものであっただろう。そこには確かな青春の手応えがあった。しかし、恰も潮が引くように学生運動の「流行」が過ぎ去ると、多くの学生たちは長髪を切ってリクルートスーツに身を固めた企業戦士へと転身していった。それが自然の流れ、「もう若くはないさ」と言い訳する大人への成長だったと思われる。そうした「自然の成長」(やや挑発的に言えば、それまで戦っていた相手への屈服=転向)を拒絶する者は、世界放浪の旅に出たり、山奥で自給自足の生活を試みたり、大学でも一般企業でもない予備校や塾の先生として自らの信念を貫くという一種の自己正当化に閉じこもった。それが本当に転向の拒絶足り得たかどうか、私にはわからない。人の生き方は様々だ。長髪を切って常識的な社会人になろうが、長髪のままヒッピーのように暮らそうが、それはその人の自由だ。しかし、私は過激派にまで昇り詰めた吉野氏のような生き方に注目したい。そこには「社会変革」への一貫した意志が見出されるからだ。それを「革命への意志」と称するならば、吉野氏はあさま山荘で逮捕されても「革命への意志」を曲げることはなかった。ただ、「その崇高な意志がどうして自らの恋人を含む同志のリンチ殺人などという醜悪な結果をもたらしたのか」という自問はあっただろう。しかし、「革命への意志」そのものに対する疑念はなかった。むしろ、吉野氏は革命の十字架を一生背負っていく覚悟を固めていたのではないか。それでこそ過激派の名に値する。ところが、その吉野氏も結局は次のような見解を表明するに至る。「とくに痛感したのは、私たちが革命を目指したことの愚かさです。人々に幸せをもたらす、言わば打ち出の小槌のようなものと捉えていました。」一体、吉野氏に何が生じたのか。何故、吉野氏も革命は人々にとって大きなお世話だと思うに至ったのか。
ユートピアの実現は大きなお世話か(4)
吉野氏は比較的裕福な家庭に育った。東大受験には失敗したものの、幼い頃から常に優等生であり、一流国立大学でのキャンパスライフもそれなりに楽しいものであったに違いない。実際、彼は大学の混声合唱団に入り、そこで出会った女性と恋に落ちてもいる。凡百のチャラい大学生のようにコンパやサークル活動で青春を謳歌することもできたし、そんな軽薄な輩とは一線を画して真面目に勉学に勤しむこともできたであろう。しかし、彼はそのどちらの道も選ばなかった。「この道しか我を生かす道なし。この道を歩く」とは実篤の言葉だが、彼の「この道」は学生運動であった。一体何故、彼はそうした決断をしたのか。そこには彼の個人的事情が様々に渦を巻いていると思われるが、私としては唯一点、「幸せであることの居心地の悪さ」という彼の一言に注目したい。
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周知のように、彼が大学生であった頃は社会的に激動の時代であり、ベトナム戦争や公民権運動などによって浮き彫りにされたプロテスト、すなわち貧しき人々や虐げられた人々の抵抗の声が世界を席巻していた。しかし一般的に言えば、ベトナム人でも黒人でもないフツーの日本人にとって、それらは言わば対岸の火事でしかなかったと思われる。勿論、根源的にはベトナムで起こっていることも、アメリカで起こっていることも、そしてフランスのパリで起こっていることも、この世界に生きている人間に無縁である道理はない。しかし、高度経済成長の波に乗りかけていた殆どの日本人は当面そうした根源的な問題を等閑視できる幸福を享受していた。所謂「昭和元禄」と称される幸福だ。吉野氏もまた例外ではない。特に貧しくもなく、虐げられてもいない彼は一応幸福であった。ただし、彼にはそうした自らの幸福に居心地の悪さを感じる良心があった。その「居心地の悪さ」は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の思いと通底していると思われるが、何も吉野氏だけに限られた思いではない。「お茶碗一杯のメシ。お茶碗一杯のメシを俺は食えなかったことがない。だから俺は、俺が腹一杯食えたメシの分だけいつもひもじいのだ」という詩もあるが、あの当時の学生運動家の情念にはそうした負のインセンティヴがあったのではないか。少なくとも「幸せであることの居心地の悪さ」がある以上、その幸せに基づく社会に安住することなどできない。できるとすれば、それは自己欺瞞だ。おそらく、そうした情念に右も左もない。例えば三島氏なども、戦後社会で小説家として成功するという幸福が増せば増すほど、「幸せであることの居心地の悪さ」が募っていっただろう。そこには左右の別を超える「社会変革の意志」が醸成されていたに違いない。誤解を恐れずに言えば、「遅れてきた青年」に更に遅れてきた世代の私にとって、あの時代の熱気は正に羨望の的だ。コロナ禍で多くの人が不幸を感じている現代社会では「幸せであることの居心地の悪さ」に共感は得られないかもしれない。しかし、それは当時の社会でも同様だったのではないか。圧倒的多数は「昭和元禄」の幸福に酔い痴れていたのであり、圧倒的少数の過激派が求める「社会変革」など大きなお世話だったのだ。結局また、同じことが繰り返されるだけなのか。
ユートピアの実現は大きなお世話か(3)
もし私が容姿端麗で頭もよく、しかも裕福な家庭に生まれて何不自由なく育ち、一流の大学を卒業して一流の職に就き、美しい女性と結婚して自ら家庭的にも経済的にも安定した生活を築くことができたとしたら、私は間違いなく幸福だろう。その時、幸福な私の脳裡に「ユートピアの実現」という理想が芽生えるだろうか。あるいは、不幸な誰かが幸福な私に「ユートピアの実現」という運動への参加を呼び掛ける時、私の脳裡によぎるのは何か。共感か、それとも大きなお世話だという嫌悪感か。そんなことを考えていた時、偶然、NHKのクローズアップ現代プラス「50年目の“独白”あさま山荘事件・元連合赤軍幹部の償い」という番組を観た。
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そこでクローズアップされた元連合赤軍幹部とは吉野雅邦氏(現在73歳)であった。彼は死刑を求刑されたものの無期懲役の判決が確定して今は千葉刑務所で服役中とのことだが、その判決を最初に下した石丸俊彦元裁判長との交流、そしてそれに大きく影響されて最近書かれた86枚にも及ぶ手記が紹介された。そもそも何故吉野氏は連合赤軍の革命戦士になったのか。凄惨なリンチ殺人事件の現実を目の当たりにすれば、連合赤軍は悪魔の如き異常者の集団でしかないように思われる。しかし、革命を「ユートピアの実現」と解するならば、連合赤軍もまた元は理想主義者たちの連帯の場であったに違いない。それがどうしてかくも悲惨な結果をもたらしたのか。これは理想主義そのものの危険性によるものなのか。この根源的な問題については改めて深く思耕することにして、ここでは吉野氏の個人的な事情にのみ注目したい。一般的に言えば、人は不幸な境遇の中で革命家へと成長する。しかし、番組によれば吉野氏は決して不幸ではなかった。むしろ、幸福だった。それにもかかわらず、彼は連合赤軍の同志になった。何故か。そこには「幸せであることの居心地の悪さ」があったからだ。
ユートピアの実現は大きなお世話か(2):天皇陛下万歳!
本日は天皇誕生日であり、コロナ禍で皇居での一般参賀は三年連続の中止になったものの、日本各地では呑気に「天皇陛下万歳!」の唱和がなされたことだろう。私はそうした祝意の唱和に接するたび、ほぼ反射的に「Heil Hitler!」という唱和を思い出す。周知のように、今のドイツで「Heil Hitler!」などと叫べば、たとい冗談のつもりであっても逮捕・処罰の対象になる。この違いは一体何か。単に日本は戦争責任に鈍感であり、ドイツは敏感だということにすぎないのか。確かに日本に比べれば、ドイツはナチスの罪について徹底的に考え尽くしたと言える。それはかのハイデガーをも魅了した罪だ。尤も、それにもかかわらず、未だにネオ・ナチのような運動があり、その罪の深さには暗澹たる気分にさせられる。実際、ナチズムの思想的源流を遡ればルター、ヘーゲル、ニーチェの名が挙げられ、そこに渦巻く問題の深さが身に染みる。おそらく、いくらナチズムやヒトラーを法的・政治的に一掃しようとしても、そこに込められた人間のエートスは決して消去できないだろう。それは言わば血と大地に象徴される「人間の絆」へのエートスに他ならない。そもそもナチズムの正式名称はNationalsozialisumus、すなわち国民社会主義であり、国民を軸とした共同体主義の一種と理解することができる。先に述べた通り、「人間の絆」には肯定面と否定面があり、そのバランスが崩れれば、如何なる共同体主義もナチズムの罪を繰り返すことになる。そこには戦争責任の徹底追及とは次元を異にする極めて重要な問題がある。
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さて、ドイツのことはさておき、日本の場合はどうだろうか。幸か不幸か、天皇の戦争責任は徹底的に追及されなかった。もしフランス革命のように、敗戦時に天皇が処刑され、天皇制というアンシャンレジームが一掃されていたら、今の日本はどうなっていただろうか。左右両翼から様々な意見が乱れ飛ぶと思われるが、我々は天皇の問題を改めて真剣かつ徹底的に議論すべきだ。天皇は我々にとって必要な存在か否か。端的にそう言ってもいいだろう。たといその発想そのものが不敬だとしても、それは我々の理想社会の実現にとって不可欠な問いであると私は信じる。尤も、天皇の存在はヒトラーのように単純ではない。ヒトラーの存在は水平の次元だけで論じることが可能だが、天皇は本来垂直の次元で論じられるべき存在だからだ。勿論、天皇の戦争責任はあくまでも水平の次元で追及されねばならないが、その根源的罪は三島の言うように「などてすめろぎはひととなりたひし」という点に見出される。何れにせよ、日本国憲法の第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と明記されている。果たして、「日本国民の総意」は今でも天皇を必要としているか。この問いはタブーかもしれないが、ユートピアの実現にはやはり不可避だと思われる。
ユートピアの実現は大きなお世話か
阪神淡路大震災や東日本大震災などの惨事を(たとい直接的ではなくとも)経験すると、人は社会の絆の大切さを痛感し、併せて共同体の必要性を実感する。そこには限られた物資を皆で平等に分かち合う所謂「災害ユートピア」が自然発生的に実現する。しかし残念ながら、そのユートピアは災害からの復興と共に消えてなくなる運命にある。何故か。人間の絆には肯定的な働きばかりではなく、否定的な作用もあるからだ。例えば「人間の絆」と言えばサマセット・モームの名作が思い出されるが、その原題はOf Human Bondageだ。そしてBondageは絆というよりも束縛を意味する言葉であり、「人間の絆」はむしろ「人間関係のしがらみ」と和訳すべきだと思われる。勿論、「人間の絆」が誤訳だと言いたいのではない。重要なことは、切っても切れない地縁血縁の絆は常に温かいものとは限らず、往々にして個人を束縛する冷たいものにも転化するという現実だ。その現実において、災害時にはあれほど必要とされた共同体も、やがて取り戻された日常においては何だか煩わしいものになってしまう。その結果、殆どの人は共同体の意味などには見向きもしなくなる。
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では、共同体は必要ないのか。一般的には個人の生活が第一であり、その幸福を守護してくれる言わば夜警国家のような機能にしか共同体の必要性は見出されないだろう。その一線を越えて個人が共同体のために生きること(滅私奉公)が要請されるなら、共同体はむしろ極めて危険なものと化す。従って、共同体の必要性が稀薄になればなるほど、その社会は個人にとって好ましいものになると考えられる。しかし、果たして本当にそうか。古き社会の全体主義的な閉塞感から解放された現代人が個人の幸福に至上の価値を見出すのは理解できるが、そうした個人主義はまたニヒリズムも生み出す。実際、ニヒリズムに耐え切れずに自由から逃走してファシズムに辿り着く人間の運命は歴史に繰り返されている。やはり人間の生は「私的領域」だけでは輝かず、否応なく「公的領域」を要請するものではないか。もしそうなら、人間の生を真に輝かせる「公的領域」とは何か。
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確かに、個人の自由を抑圧するような共同体は時代遅れだ。たとい主君のために尽くす滅私奉公的な生き方に充実を感じる奇特な人がいたとしても、その世界観(共同体観)が決定的に時代遅れであるという事実は変わらない。単にそうした滅私奉公への快感も個人の自由な生き方の一つだということにすぎない。しかし、時代遅れの共同体を無視して、自由に個人の幸福だけを追い求める社会も虚しいのではないか。そもそもそれは個人の自由競争社会であり、その無責任な放任が自然環境(自然と人間の関係)と社会環境(人間と人間の関係)を致命的に悪化させているのは周知の事実だ。そこには何らかの「公的領域」の働きが必要になる。そして、その必要は競争社会から共生社会への移行として表現されるだろう。しかし、共生社会とは何か。殊にそれは時代遅れの共同体と一体何が違うのか。この問いと共にユートピアを求める次元が開ける。逆に言えば、自由競争社会でパラダイスの夢を追い続けることに何ら疑問を抱かぬ人、もしくはたといパラダイスの追求に疑問を抱いたとしても、時代遅れの共同体に失われた共生のアルカディアを性懲りもなく見出そうとする人――そういう人たちには永久にユートピアの次元は開かない。ユートピアの実現など、彼らにとっては畢竟大きなお世話に他ならないからだ。
寝そべり族
The Anarchist Libraryに掲載されているziqという方のKill The God of Work & All His Clergyと題する論説を読んだ。そこで言及されている中国の「寝そべり族」は、日本でも話題になった「下流社会」と根は同じだが、そのライフスタイルを積極的に肯定していく点に興味深い問題が見出される。Ziq氏によれば、「寝そべり族」の運動はLuoという失業中の若者が2021年4月に「寝そべっていることは正しい」(lying flat is justice.)とネットに投稿したことから始まった。「齷齪(あくせく)働くことをやめて自由に生きよう」という彼の理想は、コロナ禍で同様に仕事を失った多くの若者たちの共感を得て一大ブームにまで発展したと言う。当然、中国当局はこうした「ナマケモノの理想」を認める道理がなく、そのブームの鎮火に必死だそうだが、事は中国だけの問題ではない。と言うのも、欧米でも「反-仕事」(anti-work)の運動は同時多発的に起きているからだ。勿論、「反-仕事」の理想は今に始まったものではない。マルクスの娘婿ポール・ラファルグの『怠ける権利』(1880)はすでに古典だし、比較的最近ではボブ・ブラックの『労働廃絶論』(1985)という実にラディカルな問題提起もある。しかし、コロナ禍で人間の生き方が根源的に問い直されている今ほど、「反-仕事」の理想について改めて思耕すべきカイロスはないだろう。しかしながら、今の私はそのカイロスに立つことができない。「反-仕事」の理想は雇用-被雇用の関係を超克する「祝祭共働」の理想と密接に関係しているものの、その差異について十分に論じられるだけの準備が未だできていないからだ。それ故、ここでは将来の思耕のための覚書として、単に思いついたことだけを記しておく。
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「寝そべり族」は自由を享受していると言うが、その自由は本当に楽しいものなのか。「反—仕事」の理想は単なる資本主義の下での労働批判とか善き雇用者や高賃金をもたらす労働条件への改善を目指すものではなく、働くことそのものの制度の根こそぎの否定なのだ。大杉栄の言葉を借りれば、働く現場はどんな形であれ「鎖工場」に他ならない。言うまでもなく、これは生産性を重視するプロテスタントの職業倫理に真向から対立するものであり、「働かざる者食うべからず」という我々の常識にも反する。しかし、そうした「勤労の美徳」こそ「反—仕事」の理想が根絶せんとするものなのだ。だからこそ、「仕事の神とその聖職者を殺せ」ということになる。確かに、そこには絶対的な自由、何者にも束縛されない個人の解放がある。しかし、その自由において人は何をするのか。仕事の対極にあるのは遊びしかないが、寝そべることが遊びなのか。たといそうだとしても、実に貧相な遊びだ。そもそも遊びも人間的活動の一つではないか。周知のように、アーレントは人間の活動的生活を活動(action)、仕事(work)、労働(labor)の三つに分けている。これに即して言えば、「反—仕事」(anti-work)はむしろ「反—労働」(anti-labor)と言うべきではないか。少なくとも私にとって、祝祭共働は遊びでもある。そして、祝祭共働はただ寝そべっているだけよりも遥かに楽しいと思う。果たして、これもまた未だ「勤労の美徳」に毒された奴隷根性によるものにすぎないのか。
赤胴鈴之助の憂鬱
テレビ東京の深夜に「まったり!赤胴鈴之助」というドラマがある。赤胴鈴之助が江戸時代から令和の現代にタイムスリップしてくるが、そこは余りにも平和すぎて否応なくまったりせざるを得ないというコメディだ。鬼面党の連中もタイムスリップしてきているので、鈴之助としては江戸時代と同様に得意の十文字真空斬りで悪をバッタバッタと倒したいのだが、その願いは満たされない。あろうことか鬼面党の面々は令和の平和な雰囲気にどっぷり浸かってしまい、もはや悪事を為すインセンティブを失っているからだ。それでも鈴之助は強引に悪人を見つけ出して十文字真空斬りでやっつけるが、そんな無理が長続きするわけがない。結果、鈴之助は悪人のいない平和な社会で自らの活躍の場(自己実現の機会)をなくし、毎日早朝から喫茶店に引きこもって無為に時間を過ごすしかなくなる――というのが凡そのドラマの展開だ。実にくだらない。発想は面白いと思うが、ギャグが余りにも幼稚すぎて笑うに笑えない。と同時に、非常に勿体ない感じがする。赤胴鈴之助に限らず、正義の味方は悪の存在なくして自らの生を輝かせることが できないのか。その憂鬱を核とするドラマには、もっと違う表現形式が要請されると思われる。コメディでもいいが、そこには深みの次元がなければならない。赤胴鈴之助の憂鬱には垂直性が欠けている。
鬼滅のパラダイス
先に「現代社会ではもはや勧善懲悪のドラマは成り立たない」と述べたが、子供たちに大人気の「鬼滅の刃」というアニメは勧善懲悪の典型だと言えそうだ。尤も、私はこのアニメを最初から観ていないので正確なことは言えないが、最近の「無限列車編」と現在放送中の「遊郭編」を観る限りでは、伝統的な鬼退治以上のテーマは見出せないように思われる。どうしてこのドラマに子供たちはかくも熱狂するのか、今一つよく理解できないが、明確な悪を定めて皆で力を合わせてそれをやっつけるというドラマが昔から子供たちを夢中にさせてきたのは明らかだ。かく言う私も子供の頃に、悪をやっつけるヒーローに憧れた記憶がある。しかし、もはや純真な心を失った汚れっちまった大人の私には、鬼退治というテーマは陳腐で退屈なものでしかない。その点、同じ鬼退治のテーマでも、私が面白く思うのは「桃太郎=侵略者」説だ。様々な解釈があるが、結局、鬼は鬼なりに平和に楽しく暮らしていただけなのに桃太郎は一方的に侵略したにすぎない、ということだ。勿論、「鬼滅の刃」の鬼退治が侵略だと言うつもりはない。「鬼殺隊は侵略者だ」などと言おうものなら、子供たちから袋叩きにされるだろう。しかし、現代社会においてはもはや明確な鬼を見定めることができないこと、善良な人間が瞬時に鬼に変貌することもあれば、鬼だと思っていた人間に実は正義があるということ、これだけは子供たちから何と非難されようと明言しておきたい。少なくとも鬼滅のパラダイス、すなわち悪の権化とされる鬼を一掃して成立するパラダイスは往々にしてディストピアに堕することを思い知るべきだ。「悪人は徹底的に排除しました。ここには善人しかいません」などと宣言するパラダイスほど醜悪なものはない。