カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア(2)
ユートピアは水平的には「どこにもない場所」だが、垂直的にはいつどこでも我々の生きる水平的現実を雷光のように切り裂く。それは我々の水平的な日常生活に聖なる垂直の次元が受肉する瞬間だと言ってもいい。こんな理屈っぽい言い方をすると何か特別な人にのみ生じる瞬間のように思われるかもしれないが、それは全くの誤解だ。もとよりカイロスは水平的に流れるクロノスとは質的に異なるが、例えば学校で誰かがいじめられている現場に遭遇する時、あるいは会社で理不尽な業務を余儀なくされる時、その瞬間は誰にでも訪れる。そこでなにを為すべきか、自ずと良心の呼び声が聞こえてくる。触らぬ神に祟りなし。いじめも不正も見て見ぬふりをすることもできる。その方が個人的には水平的なクロノスが平穏無事な時を刻んでいくだろう。しかし、たとい災いが必至だとしても、それを承知で敢えて平穏無事な時を切り裂く決断をするならば、その瞬間が カイロスとなる。そして、そうしたカイロスの時熟と共にユートピアが現実の場所となっていく。勿論、それは目に見えない「どこにもない場所」であることに変わりはない。しかし、垂直的にはある。不可視の現実として確かにそこにある。
カイロス(垂直的瞬間)としてのユートピア
目に見える現実の理想、時間と空間を有する理想としてはアルカディアとパラダイスしかない。従って、理想社会を実現せんとする運動はアルカディアとパラダイスのどちらかを求めることになる。実際、理想社会のヴィジョンはアルカディアとパラダイスの相克に他ならない。歴史的に言えば、無為自然の楽園であるアルカディアを始源とし、その喪失から人工楽園であるパラダイスを求めるという方向性が認められる。勿論、無為自然の楽園などという純粋アルカディアはもはやこの世界にはあり得ず、失楽園として神話に見出されるだけだ。従って、無為自然の神話的楽園をエデンとして区別すれば、歴史に見出される古代ギリシアのアルカディアもまた人工楽園の一つということになる。しかし、古代を超える近代の理想をパラダイスに求めるならば、自然との調和に安住するアルカディアと人間の主体的意志によるパラダイスという対立軸は依然として有効だろう。具体的には、伝統的な古き良き村と先進的な近代都市の対立だ。我々はどちらの理想を求めるべきか。
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言うまでもなく、新しき村の運動はアルカディア(古き良き村)とパラダイス(近代都市)の対立を止揚するユートピアの理想実現を目指すものだ。しかし、ユートピアは「どこにもない場所」であり、実体としては存在しない。それは水平的に時熟するアルカディアとパラダイスのそれぞれの危機的時間を垂直的に切り裂く瞬間の運動に他ならない。ユートピアはカイロスとしてのみ実現する。例えば、古き良き村であったアルカディアがやがて因循姑息な村と化して人間を束縛する時、その危機にユートピアが求められる。同様に様々な欲望を充足させるパラダイスがやがて人間精神に荒廃をもたらす時、その危機にもユートピアが垂直的に機能する。すなわち、その時々の水平的状況に応じて、ユートピアは新しきアルカディアとして実現することもあれば、新しきパラダイスとして実現することもある、ということだ。しかし、論理的な帰結としてはそうなるが、最終的には新しきアルカディアと新しきパラダイスは相即するに違いない。と言うのも、アルカディアを超える理想社会をパラダイスに求めてきた現代人が絶望するとすれば、その新たな希望は再び理想化されたアルカディアに見出されるしかないからだ。繰り返しになるが、アルカディアとパラダイスの対立を弁証法的に止揚する第三のユートピアは実体としては存在しない。不可視のユートピアは絶望的なパラダイスのラディカルなディコンストラクションによってもたらされる新しき理想の力としてのみ機能する。
補足 memento mori:不老不死にあらず
すでにかなり昔のことになるが、日本に留学していた或る韓国人の若者が電車のホームから線路に転落した酔っ払いを助けたものの、自らは電車にはねられて死亡するという痛ましい事故があった。私は大きな衝撃を受けた。私がその現場に居合わせたらどうするだろう。咄嗟に体が動くだろうか。考えている暇はない。おそらく、考えれば体は動かない。自分の愛する人ならまだしも、くだらない見知らぬ酔っ払いに助けるだけの価値はない。電車に轢かれて死んでも自業自得ではないか。しかし若者の体は動いた。そこに垂直の次元が差し込む。聖なる瞬間が水平的に流れる時間を切り裂く。若者には夢があったに違いない。日本に何を学びに来たのか知らないが、やりたいこと、なりたいものがたくさんあっただろう。端的に言えば、若者には様々な欲望の花を咲かせるパラダイスへの無限の可能性が開かれていた。それにもかかわらず、若者はその可能性を犠牲にして目の前の現実に飛び込んだ。いや、犠牲という意識さえなかったに違いない。若者は線路に転落した酔っ払いを助けるために飛び込んだ。 ただそれだけのことだ。それだけの現実が血まみれの線路に残された。その現実に求められたのは不老不死にあらず。瞬間の生の輝きだ。ここにパラダイスとユートピアの分岐点がある。
補足 memento mori:禁欲にあらず
「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」――人間は「聖への存在」だなどと説けば、多くの人は与謝野晶子のこの有名な歌を以て反論するかもしれない。しかし、明らかな誤解だ。私は「やは肌のあつき血汐」の快楽を否定するつもりはない。確かに、それは俗なる欲望の充足であり、多彩な快楽の花園であるパラダイスに属する。しかし、そもそも私はパラダイスそのものの根絶を求めるものではない。あくまでも「パラダイスを至上のものとする生き方」を批判しているにすぎない。その生き方はパラダイスの理想を歪め、むしろ結果的にパラダイスを持続不可能なものにしてしまう。ちなみに、アルカディアについても同様だ。俗なる欲望の暴走を抑制し、平穏無事な清貧の幸福に生きるアルカディアがあってもいい。ただし、それを至上のものとして閉鎖的になるならば、アルカディアの理想も歪み、人は息が詰まり、やがてそこから逃げ出したくなるだろう。アルカディアもパラダイスも、共にユートピアの相の下に反復(wiederholen = 受け取り直す)されねばならない。
補足 memento mori:聖への存在
ハイデガーは人間存在を「死への存在」(Sein zum Tode)と称したが、私は「聖への存在」と理解したい。死の本質は聖にあるからだ。ただし、これは単に「生は俗で、死は聖だ」ということではない。確かに、生きることは世俗の穢れにまみれることであり、純粋に清く正しく生きんと望む若者は往々にして夭折に憧れたりする。しかし、俗なるものとの関係を拒絶して得られるような純潔は真に聖なるものではない。極端な話、レイプされて身を汚された不幸な乙女は死にたいと願うだろう。当然の願いではあるが、そのような死に聖はない。さりとて身を汚されることなく幸福に育った純潔の乙女にも聖はない。真の聖への可能性は身を汚してでも生き続ける娼婦ソオニャのような存在にこそ見出される。人間は「聖への存在」であり、それは不断に死を意識して生きることを意味する。死を忘却した世人(das Man)の俗なる生の充実は、たと いどんなに大きな快楽をもたらしても、所詮人間存在としては頽落態にすぎない。
memento mori(10)
私は意図的に「母の死亡」とか「母の死去」という言葉を避け、「母の他界」という言葉を選んできた。「母は死んだが、無に帰したわけではない。この世からいなくなっただけで、あの世にはいる」――そう思いたかったからだ。これは私の感傷にすぎないのだろうか。
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二十数年前に父が逝った時にも思ったことだが、亡くなった人間は一体何処へ行くのか。所謂「死後の世界」はあるのか。もしあるとすれば、そこで生き続けるのは霊魂ということになる。つまり、死とは肉体という物質の分解にすぎず、それ以後も霊魂は永遠に生き続ける、ということだ。デカルト的に言えば、霊魂は思考実体であり、肉体は延長実体ということになる。しかし、こうした霊肉二元論は本当だろうか。言うまでもなく、その真偽を科学的に確かめる術はなく、その必要もない。「語り得ぬものについては沈黙するしかない」からだ。とは言え、語り得ぬもの、目に見えないものにこそ、人間にとって大切なことがあるのは星の王子様の言う通りであり、その二律背反から人間の理想は生まれる。カントにしても、理論理性では完膚なきまでに否定したものを実践理性において要請せざるを得なかった。勿論、その要請はいかがわしいオカルト的言説まで無条件に鵜吞みにすることではない。スヴェーデンボリからシュタイナー、エドガー・ケーシー、ユリ・ゲラー、シャーリー・マクレーン、冝保愛子に丹波哲郎など、玉石混交の霊能者たちが様々な言説を生み出し、それは社会に少なからぬ影響を及ぼしてきた。その霊能者たちが全てペテン師ではないかもしれないが、重要なことはそうした言説を必要とする民衆がいたという事実の方だ。かく言う私もその民衆の一人に他ならない。尤も、私が母の他界後に真っ先に手にしたのは谷川健一の『魂の還る処 常世考』であった。特異な霊能者たちによるオカルト的言説もさることながら、私は素朴な民衆が自然に育んできた集合的無意識の言説により強く魅かれたからだ。加えて、洋の東西を問わず、古代エジプトやチベットに伝わる「死者の書」などの神話伝説、プラトンの「イデア論」やダンテの「神曲」――人間の構想力によって生み出される言説は全て私の究極的関心を成す。確かに、そうした言説は非科学的な誤謬かもしれない。しかし、ニーチェによれば、その誤謬は人間がそれなくしては有意味に生きられない真理なのだ。私はそれを垂直的真理と理解する。科学的に証明される水平的真実を無視することなどできないし、そのつもりもないが、人間の生を真に輝かせる理想は垂直的真理に他ならない。
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何れにせよ、人間は誰もがいつか死を迎える。不老不死の夢が潰えることはないにしても、それは肉体が水平的に延々と生き続ける夢にすぎない。しかし、そのように水平的に持続する生の充実とは如何なるものであろうか。余談ながら、邦題が「最高の人生の見つけ方」という映画(原題はThe Bucket List)がある。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが演じる余命半年を宣告された老人二人が死ぬ前にやり残したことを成就する旅に出るドラマだ。二人はスカイダイビングにカーレース、ピラミッドやエベレストなど世界中の名所に足を運んで余生を満喫する。しかし、どれもこれもお金がなければ実現しないことばかりだ。尤も、最終的には家族愛とか友情といったお金では買えない価値に「最高の人生」があるということになるが、水平的生の充実は主に趣味や娯楽の快楽であり、その大半はやはりお金で買えるものだろう。お金では買えない精神的価値は、むしろ垂直的次元に関係するものと思われる。では、水平的生の充実と垂直的生の充実に如何なる違いがあるのか。両者が質的に異なることは言うまでもない。水平的生とは言わば「俗なる生」であり、その充実がパラダイスの核になることは繰り返し何度も述べてきた。端的に、世俗的な欲望の充足と言ってもいいだろう。従って、水平的生に対する垂直的生は「聖なる生」ということになるが、私の求めるユートピアの理想は決して「俗なる生に死んで聖なる生に生きよ!」ということではない。重要なことはあくまでも両者の充実の相即、coincidentia oppositorumの充実なのだ。他界した母は「俗なる生」から「聖なる生」に移行したが、未だユートピアへの途上にある。私にはそう思えてならない。
memento mori(9)
もはや誤解はないと思うが、ユートピアは不老不死の理想を求めるものではない。それはむしろパラダイスの専売特許の理想だ。神話に遡れば、エデンが不老不死の楽園だったかもしれないが、我々の始祖が知恵の木の実を食したせいで人間はそれを失ってしまった。パラダイスはその失われた楽園を科学技術の力で回復しようとする。それは言わば、知恵の木の実の力で生命の木の実まで手に入れようとする試みだと解することができる。神に対する悪魔的反逆とさえ見做されかねない試みではあるが、実際に人間の寿命は伸びている。かつての不治の病も治るようになっているし、アンチエイジングの薬も次々と開発されている。加えて整形手術に遺伝子工学、更にはロボットやサイボーグなど、不老不死は単なるSFではなくなりつつある。しかし、不老不死のパラダイスが実現するとして、それが我々にとって究極的な理想足り得るだろうか。
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私は先に「いつまでも生き続けたい」という不死の希望は「幸福な時間」の持続を核とすると述べた。不老によって若い頃のような欲望の充足がずっと続くならば、それは確かに幸福なことだろう。百歳を越えても若い頃と同じように人生を楽しめるパラダイス。しかし、そうした「幸福な時間」の持続は本当に生きるに値するものだろうか。私には何だか延々と続く金太郎飴のようで退屈なものだ。とは言え、私は何も人間の欲望を全て味わい尽くしたわけではない。当然のことだ。未だ知らない美味、見たこともない美しい光景、そして次々と生み出される刺激的な娯楽(ゲーム)の数々…。それらを不死身で永久に味わい続けることのできるパラダイスは多くの人にとってこれ以上ない理想に思えるかもしれない。それが自然や他者を犠牲にする(もしくは一部の特権者のみに許される)理想でない限り、私にパラダイスの否定を他者に強要する権利などはない。しかし、私自身はパラダイスに至上の理想を見ることはない。たとい不老不死の理想であっても、水平的な快楽の限りない持続は畢竟「同一物の永劫回帰」に収斂していく運命にあるからだ。ニーチェはそこに「ニヒリズムの極限形式」を見出すが、私にとってのパラダイスも同じだ。端的に言えば、パラダイスは退屈極まりない。そこで不老不死の身を得ても、生を真に充実させることは望めない。パラダイスには垂直の次元が欠けているからだ。
memento mori(8)
身体的機能には容姿も含まれる。殊に女性においては体力よりも容姿の衰えの方が気になるだろう。もし最も美しい容姿のまま生き続けられるのなら、多くの女性は不死を望むに違いない。では、美しい容姿に恵まれなかった女性はどうするか。私は幼い頃に「オバケ」と徒名されていた同級生の女の子がいたことを思い出す。確か幼稚園の頃から小学六年生までずっと同級生だったが、生まれつきの病気か何かで異形の容貌をしていた。子供は残酷なまでに正直だから、誰もがその子の顔に「オバケ」を見た。しかし、そのことでいじめようとする子はいなかった。子供ながらに気の毒だという気持ちの方が強かったと思われるが、それ以上にその子自身が不思議と明るかったからだ。少し知的障害があったかもしれないが、振り返ってみれば、その子に自分が「オバケ」だという認識は皆無だったように思う。少なくとも幼い私の目には、その子が自分の容貌に苦しんでいるようには見えなかった。恰も賢治のデクノボーのように、いつも静かに笑っているフツーの女の子だった。これは実に驚くべきことだったと今にして思う。「オバケ」のような顔に生まれて、到底フツーには生きられる筈などないからだ。おそらく、あの容貌を持たされた女の子なら、十中八九「今すぐに死にたい」と思うだろう。むしろ、その方がフツーの反応だ。フツーではない境遇にもかかわらずフツーに生きる。これ以上の驚きはない。どうして「オバケ」はフツーに明るく生きられたのだろう。考えられる答えはただ一つ、「オバケ」は今しか生きていなかったからだ。不老も不死も問題ではない。今を生きることしかできなかったからだ。
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さて、少し論点がズレたように思われるかもしれないが、決してそうではない。「いつまでも生き続けたい」という希望は「幸福な時間」の持続を核とするが、それは不老によってのみ可能となる。言い換えれば、体力的にも外見的にも最高の状態を永遠に持続することが「幸福な時間」となるのだ。勿論、それは現実にはあり得ない空想にすぎず、人間の幸福は死に向かって老いていく時間の流れの中で生を充実させていく時熟に見出される他はない。しかし、人は往々にして不老不死の夢が捨てきれず、老いに抗い、若い時に味わった「幸福な瞬間」の反復に生の充実を得ようとする。そして、そうした反復が老いの深まりによってついに不可能になる時、人は「もう生き続けても仕方がない」と思うようになる。これが一般的な人生の流れではないか。かつて陽水は「人生が二度あれば」と歌ったが、人生が何度あったところで、老いを嘆き、若さに憧れる人生のパターンは変わらない。それが厳然たる事実であることは否めないが、ユートピアはその事実を超克する「新しき現実」を求める。果たして、そんなことが可能なのか。それこそ空想ではないか。極めて困難であることは重々承知の上で、私はその一つの可能性を先に述べた「オバケ」の今を生きる姿勢に見出す。ただし、「オバケ」は自然の寵児としてそれをフツーに生きていたが、我々はあくまでも意志の力で実現しなければならない。そこに最大の問題がある。
memento mori(7)
世の中には「いつまでも生き続けたい」と希望する人もいれば、「今すぐに死にたい」と絶望する人もいる。割合としては前者が圧倒的に多いだろうが、ユートピアを求める可能性は後者にこそある。前者はアルカディアやパラダイスを求めることはあっても、ユートピアにまで関心が及ぶことはない。そこに絶対的な違いがある。しかし、前者の希望と後者の絶望は紙一重。もしくは表裏一体と言うべきもので、両者は逆説的に関係している。その点について更に考えてみたいと思う。
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そもそも「いつまでも生き続けたい」という希望にしても、そこでイメージされているのは幸福な時間の反復だろう。シーシュポスの神話にあるような過酷な時間の反復を余儀なくされるのなら、それは直ちに「今すぐに死にたい」という絶望に転化する。では、「幸福な時間」とは何か。それを様々な欲望の充足と理解するならば、人生の希望は絶えることのない快楽の追求に収斂する。例えば、食欲や性欲を繰り返し充足し続けることが「幸福な時間」をもたらす。逆に言えば、老化や病気などによって様々な欲望の充足が困難になれば人は「生きていても仕方がない」と思い始める。それでバイアグラに象徴されるような薬物の力に依存することになるが、それが「幸福な時間」の持続になるだろうか。勿論、問題は身体的機能の持続に限らない。それなりの経済的豊かさがなければ欲望の充足などできないのが現実だ。清貧が「幸福な時間」をもたらす稀有な場合もあるが、一般的に貧困は不幸と見做される。少なくとも欲望の充足とは無縁の貧困状態で「いつまでも生き続けたい」と思う人は皆無だろう。しかしここでは欲望の充足に欠かせない経済的問題に深入りすることは自重し、欲望の充足を可能にする身体的機能の持続としての不老に問題の焦点を合わせたい。ちなみに、「いつまでも子供のままでいたい」という欲望もあるが、そうした成長の拒絶(ピーターパン・シンドローム)は不老と区別される。ここで問題にする不老とは、あくまでも成人した大人の抱く希望に他ならない。ただし、ツァラトゥストラのように、大人が子供に希望を見出すこともあるが、その場合でも子供が不老ではないのは明らかだ。何れにせよ、「いつまでも生き続けたい」という希望において成長の拒絶とは質的に異なる不老が求められることは間違いない。
memento mori(6)
不老と不死はワンセットで理想となる。それが一般的な見解だろう。たとい不死が可能になっても、何もできないヨボヨボ老人になってしまっては生き続ける意味がない。言い換えれば、何でもできる状態があってこそ不死は価値あるものとなる。しかし、「何でもできる状態」とは何か。生まれたばかりの赤ん坊は殆ど何もできない。ヨボヨボ老人の方が未だマシだ。勿論、何もできない赤ん坊はやがて立ち上がり、話すようになり、様々なことができるようになる。それが成長だ。言うまでもなく、心身共に順調に成長しても、人は何でもできるわけではない。また、人それぞれ持って生まれた能力には差があり、自分にできることは自ずと限定され、それに応じて自分の「したいこと」が決まってくる。野球をしたいと思っても、誰もが大谷翔平選手のように投打の二刀流で活躍できるわけではない。尤も、その大谷選手にしても、やがて老いと共に二刀流どころか一刀流さえ覚束なくなるだろう。老いとは成長の停止であると同時に衰退の開始でもある。ただし老いるとは経験を深めることでもあり、その意味では「できること」が増える成長の持続と考えることもできる。若ければ何でもできるわけではない。むしろ若い頃にはできなかったことが老いてできるようになることもある。老いは円熟をもたらす。しかし一般的には、円熟によって得た成果もやがて身体的にできなくなる。体が心についていけなくなるからだ。あるいは、心ではできると思えることに体が反応できなくなる、と言うべきか。従って、老いが円熟という成長の持続だとしても、いつか衰退に転じるのは不可避だと言わざるを得ない。そこに不老を求める人間の魂の必然性がある。しかし、それはあくまでも身体的機能に限られる不老に他ならない。では、そのような不老が可能になれば、不死は我々人間の究極的な理想になるだろうか。私は甚だ疑問に思っている。一般的に望まれている不老不死の理想には決定的な何かが欠けている。