新・ユートピア数歩手前からの便り -85ページ目

微温湯の理想は吐き出せ!

我は汝の行為を知る。汝は冷ややかにもあらず熱きにもあらず、

我はむしろ汝が冷ややかならんか、熱からんかを願う。

かく熱きにもあらず、冷ややかにもあらず、

ただ微温(なまぬる)きが故に、我は汝を我が口より吐き出さん。

(ヨハネ黙示録)

 

理不尽な世の中はラディカルに変革しなければならない。真面目に働いている人たちが、働けど働けど猶生活(くらし)が楽にならないのは社会が悪いからだ。ぢっと手を見ている場合ではない。しかし、社会の変革とは何か。金持どもを引きずり下ろすことか。不正に金儲けしている悪人は論外だが、大半はやはり真面目に働いて富を築いた人たちであることを思えば、一概に金持を否定することもできない。それも理不尽なことだからだ。そもそも貧しき人々だって、いつかは金持になりたいと願っているのではないか。そこには明らかに二二が四がある。問題は、貧しき人々を生み出す二二が四と金持を生み出す二二が四が相即している、という現実にある。単純に考えてみよう。競争は理不尽なことではない。足の速い者が勝ち、足の遅い者は負ける。逆に、足の遅い者が勝つのは理不尽だろう。亀の勝利は兎の油断・増上慢がもたらした状況の変化によるものであり、別に足の遅い亀が足の速い兎に勝ったわけではない。つまり、足の速い者が足の遅い者に勝つという二二が四は微動だにしないのだ。勝者がいれば、必ず敗者がいる。そして、勝者が増えれば、その分だけ敗者も増える。それが競争社会の二二が四に他ならない。そこに理不尽なことなど何もない。従って、競争社会の変革を求めるならば、あくまでも競争の二二が四を前提にした上で、敗者もまた人並みに暮らせる道を探ることになる。端的に言えば、貧しき人々の公的な救済だ。今のところ、それが唯一現実的な社会変革なのかもしれない。所得を増やし、労働時間を減らすなど、貧しき人々の生活改善を第一に考えてくれるリーダー(政治家)が待望されている。確かに、それによって多くの人たちが中流の生活を享受できるようになれば、そうした生活もまた一つの理想には違いない。しかし、微温湯の理想だ。それでいいのか。

冷たい理想と熱い理想

二二が四は正しい。世界の基本は二二が四から成っている。しかし、ドストエフスキイの地下生活者は言っている。二二が四は死の始まりだ、と。確かに、あらゆるイキモノは二二が四なしには一瞬たりとも生きられないが、同時に二二が四によって死に導かれる。二二が四は人間の生の前に立ちはだかる冷たい大きな壁だ。それ故、人間はその壁に頭を打ちつけて二二が三や二二が五にもなる世界を求めずにはいられない。明らかに不条理だ。二二が三や二二が五は正しくない。そんなことを学校で口走れば永久に落第だ。とは言え、二二が三や二二が五が徹底的に排除され、世界が二二が四だけに統一されるのはどうか。それは唯一正しい理想かもしれないが、冷たすぎる。人間はもっと熱い理想を求めるのではないか。二二が三や二二が五にもなる制御不能な理想。それは熱いが、同時に極めて危険な理想でもある。ユートピアは熱くて危険な理想に他ならない。

正しくないけど熱い

戦争の不条理を描いたドラマを観ていると、一兵卒が上官から捕虜の処刑を命じられる場面に遭遇することがある。当然、そこには葛藤が生じる。自分がその一兵卒だったら、どうするだろうか。戦場では上官の命令は絶対だ。従わないわけにはいかない。しかし、敵と雖も殺人は嫌だ。良心が許さない。結局、戦争などという理不尽な状況に正しいことなんてあり得ないが、あくまでも戦争の理としては「敵を殺せ!」が唯一正しい選択となる。一兵卒として曲がりなりにも戦争に参加している以上、それ以外の選択などあり得ない。それが嫌なら、最初から戦争への参加を拒否すべきだろう。すなわち、徴兵拒否だ。それが現実に可能かどうかは定かではない。自分一人の問題なら、どんな非難にも耐えられるだろうが、家族をはじめとする周囲の人々にも禍が及ぶとなると二の足を踏まざるを得ない。それでも戦争の理が要請する正しい選択を断固拒否せんとするならば、その決断には想像を絶する情熱が必要になるだろう。非国民!臆病者!裏切者!何と言われようと自分の決断を変えない。たとい愛する人たちから罵倒されるような結果になったとしても、変えない。我、一人立つ。殆どの人が正しいとする流れに逆行するのは至難の業だ。損得・利害から言っても正しくない。しかし、熱い。

正しいけど冷たい

先日の朝ドラに、主人公がその妹から「お姉ちゃんは正しいけど冷たいよ」と言われる場面があった。正しいけど冷たい。これは現実によくあることだ。「父は子のために隠し、子は父のために隠す」とは孔子の言葉だが、肉親の悪事を糾弾することは正しいけど冷たいと思われるだろう。孔子の教えが人情であることは理解できる。しかし人情(肉親の情)を優先させて、父や子の悪事を隠蔽すべきだろうか。大いに悩まずにはいられない。文革の際には造反有理が叫ばれ、子が親の罪を暴くことが奨励された。「正義を貫くためには人情に反してもやむを得ない」ということだろうが、「人情に反することが果たして本当の正義と言えるのか」という疑念もある。そもそも正義とは何か。

さて、どうしてこんなことに拘るのかと言えば、創立百年を機に始まった「新しき村の再生運動」もまた、少なからぬ人々に「正しいけど冷たい」と思われているのではないかという懸念があるからだ。勿論、それは誤解だ。少なくとも私が「新しき村」において実現したいと願っている祝祭共働態という理想が冷たい道理がない。しかし、残念ながら未だ殆ど何も伝わっていない。むしろ、私がその正しさを熱く語れば語るほど、大衆の関心は冷えていく感じがする。大衆は明らかにユートピアを求めていない。大衆にとってユートピアは正しいけど冷たいものでしかないからだ。この致命的な誤解の壁を如何にして粉砕すべきか。

大衆の声なき声

安保闘争の折、「安保反対!」と叫んで国会に押し寄せた群衆を尻目に、時の岸首相は「後楽園球場で巨人戦のナイターを楽しんでいる群衆の声なき声が自分を支持している」と言ったとか言わないとか。その真偽も定かではないが、一般大衆が国会を取り囲む「非日常の祝祭」よりもプロ野球観戦に象徴される娯楽に夢中になる「日常の祝祭」を優先することは十分考えられる。実際、大衆にとって娯楽に夢中になれる日常生活が一番であり、その安定を安保がもたらしてくれるのなら、「安保反対!」などと叫ぶ理由はどこにもないだろう。かくして賢明なる大衆の声なき声に支持されて、日本にはやがて高度経済成長がもたらされ、全ての大衆に「三種の神機」が行き渡る曲がりなりにも豊かな社会が実現した。それは確かにパラダイスを意味する。しかし、我々はこのままパラダイスに安住できるのか。安住すべきなのか。いくら安住したいと望んでも、もはや不可能ではないか。パラダイスは明らかに破綻している。今こそ、パラダイスにしがみつく大衆の声なき声を超えていかねばならぬ。大衆の声なき声を超克する声! それは一体何か。

「別にお金儲けのためにやっているわけではない」

被災地でペットボトルの水を一万円で売った商人がいたとかいないとか、その真偽は定かではないが、もし本当にいたとすれば人間の所業とは思えない。いや、性悪説からすれば、この悪徳商人こそが本当の人間だということになる。これに対して、飲料水に限らず、在庫の商品を全て無料で被災者に配布した商人がいたとする。言うまでもなく、この商人は善人だ。善人だけど、商人としてはどうか。そもそも無料で配布した時点で、その品物はもはや商品ではない。言い換えれば、無料で品物を配布することは商行為ではない。彼は単に善き行いをしただけのことだ。それ以上でも以下でもない。

勿論、水を一万円で売りつけた悪徳商人にせよ、無料で配布した善人にせよ、どちらも被災地という限界状況においてのみ出現可能な人間だ。そして通常、前者は厳しく糾弾され、後者は熱く称賛される。しかし、どうだろうか。前者は確かに悪人だが、もしかしたら商人としては立派だという意見があるかもしれない。一方後者は確かに善人だが、商人としては明らかに商いの放棄に他ならない。結局、被災地でも商いを放棄しなかった悪人と、迷うことなく商いを放棄した善人の違いということか。あるいは、商いそれ自体が悪なのか。

祝祭共働の日常化

女優・柴咲コウにとって、女優業そのものが祝祭共働を意味する。監督を中心とするスタッフ一同が良い作品を創ることに専念する――そこに祝祭共働が生まれる。言うまでもなく、他の分野においても、才能に恵まれた人たちはそれぞれの「自己を活かす仕事」に従事することで祝祭共働を楽しんでいる。とは言え、楽なことばかりではない。むしろ、より高次の仕事を楽しむための才能はより苦しい生を余儀なくされるだろう。しかし、そこには楽なことに甘んじている凡人には味わうことのできぬ生の充実がある。娯楽の快楽(かいらく)を超える快楽(けらく)がある。

さて、このように考えてくると、祝祭共働は才能に恵まれた特別な人間にしか許されぬ何かだと思われるかもしれない。しかし、それは大きな誤解だ。先に述べたように、柴咲さんは女優業の他に自分の会社を立ち上げている。その詳細については何も知らないが、斎藤幸平氏との対談から得られる情報の限りでは、自然環境に関心の深い柴咲さんが自分のやりたいこと、やるべきことを起業という形で自由に表現している印象を受けた。つまり、柴咲さんにとって、自分の会社もまた祝祭共働の場なのだ。これは女優業とは違って何ら特別な才能を要しない。誰もが自分のやりたいこと、やるべきこと、すなわち「自己を活かす仕事」を表現することができる。そして、その表現は当然公的領域と関係せざるを得ないので、「自己を活かす仕事」は必然的に祝祭共働になる。むしろ、そうした全ての人に開かれた表現の場にこそ、本来の祝祭共働があると私は思っている。祝祭共働は何ら特権的なものではない。

しかしながら、これも先に述べたことだが、柴咲さんの会社が女優業という大看板なしには成立しないことも厳然たる事実だ。これは柴咲さんには失礼な言い方かもしれないが、「自己を活かす仕事」を表現する機会は誰にでも開かれているが、「別にお金儲けのためにやっているわけではない」などという台詞を誰もが口にできるわけではない。また、自然環境に配慮した商品が割高になるのは当然であり、そうした高額商品を買うことのできる金持がいなければ商売は成り立たないという問題もある。この点については改めて深く思耕するつもりだが、結局、祝祭共働の日常化には全く新しい経済が要請されることは間違いない。それは全世界の人間を「食うための労働」から解放すると同時に、「自己を活かす仕事」が単なるエゴイズムに堕することを批判する。

祝祭共働は持続する

娯楽は人間生活に必要不可欠だ。「今日の仕事はつらかった、あとは焼酎をあおるだけ」という山谷ブルースには一般大衆の本音がある。つらい労働の後の一杯の焼酎、それに象徴される娯楽は多くの人にとって生きる糧にさえなる。しかし、娯楽は長続きしない。焼酎ばかりあおっていると、やがてアル中になってしまうし、たとい酒を断って他の娯楽に移ったところで人は必ず飽きる。娯楽に見出される祝祭は決して持続しないからだ。そんな状況において、例えばディズニーランドがかくも長きに亘って夢の国であり続けることは並大抵の努力ではない。おそらく、その努力は祝祭共働だと言えるだろう。すなわち、娯楽としての祝祭は持続しないが、古くなった娯楽を新しき祝祭として前向きに反復していく努力、ディズニーランドの場合で言えば、新しいアトラクションやイベントを不断に企画・実現していく努力は祝祭共働となる。非日常の祝祭はいつか閉幕せざるを得ないが、それとは区別された日常の祝祭共働は決して終わることがない。そして、持続する祝祭共働は労働と娯楽の循環から成るパラダイスを超えていく。それはきっと娯楽以上の生の充実をもたらすに違いない。

娯楽としての祝祭は持続しない

私はかつて「ディズニーランドより楽しい新しき村」を問題にしたが、別にディズニーランドを目の敵にしているわけではなく、ましてやそれを否定するつもりなど全くない。幸か不幸か、私は未だそこに足を運んだことはないが、夢の国と称される場所が祝祭空間であることは間違いない。しかし、そこは時間的には非日常の祝祭空間だ。決して毎日訪れるような場所ではない。勿論、経済的に余裕があれば毎日訪れても構わないが、そんなことをして楽しいだろうか。ディズニーランドのような遊園地に限らず、飲食店でも劇場でも、非日常の祝祭空間は娯楽の場であり、日常の生活空間がその対極を成している。端的に言えば、灰色の労働を余儀なくされる日常生活があるからこそ、非日常の娯楽が祝祭になるのだ。従って、日常と非日常の緊張関係(二項対立)が消滅し、娯楽が日常化すれば、それはもはや娯楽としての機能を失う。平日あっての日曜日であり、毎日が日曜日なら、それはもはや日曜日ではないのと同様に。

視点を転ずれば、非日常の娯楽があるからこそ、日常の灰色の労働に耐えることができる。労働と娯楽は一対であり、一般大衆の願いは「労働日の短縮」に他ならない。実際、働き方改革が真の意味で行われ、様々な娯楽を享受できる余暇が十分に与えられるなら、それは確かにパラダイスだ。そこには娯楽という祝祭がある。ただし、それは結局長続きしない。いくら不断に娯楽を輪作しても退屈は避けられないからだ。そこに祝祭共働との根源的な違いがある。

祝祭共働態としての垂直の次元

祝祭共働態などと気取っているが、特別なことは何もない。学校なら文化祭や体育祭、会社でも「プロジェクトX」で描かれるような新商品の開発チームなど、祝祭共働の場は至る所に見出される。他にも村おこしや町おこし、また被災地のような悲惨な現場でも祝祭共働態が現れることがある。尤も、被災地に祝祭を見出すのは不謹慎だと非難されるかもしれないが、そういう過酷な限界状況においても人々が助け合って生きる連帯に垂直の次元は機能する。所謂「災害ユートピア」というものだが、極端な話、戦争だって一つの祝祭共働態だと考えることもできる。ファシズムも祝祭共働態の極めて危険な一面なのだ。勿論、我々が求めている祝祭共働態はそういうものではない。常にその危険性に留意しなければならないが、災害ユートピアにせよ、戦争にせよ、その祝祭共働は決して長続きするものではないからだ。また、長続きするようでは困るだろう。そもそも祭というものは非日常的なものだ。非日常だから祭になるとも言える。しかし、私は敢えて祝祭共働の日常化をこそ求めたい。非日常の祝祭の果てに戦争があるとすれば、もう一方の極にそれとは質的に全く異なる祝祭がある筈だ。それは持続可能な祝祭共働態を求めることに他ならない。