新・ユートピア数歩手前からの便り -86ページ目

二十一世紀の「新しき村の精神」

およそ百年前に実篤によって書かれた「新しき村の精神」は今でも基本的に古びていない。殊にその第一に記されている一文「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする」は永遠の真理だと思われる。以前にも述べたように、私はこの一文を二つの部分、すなわち「天命の全う」と「自我の生長」に分け、それぞれ「肉体の糧」と「魂の糧」を満たそうとする理想として理解している。ただ、百年前と今では、その理想を求める闘いの時代状況が変化するのは当然だ。そこで私は現代に相応しい「新しき村の精神」の表現を摸索していたが、柄谷行人氏の言われる「NAM原理」の第一にそのヒントになるものを見出した。それは次のように記されている。「NAMは、倫理的-経済的な運動である。カントの言葉をもじっていえば、倫理なき経済はブラインドであり、経済なき倫理は空虚であるがゆえに。」

今年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一には「論語と算盤」という著作があるが、倫理と経済の両立は正に喫緊の課題であろう。すなわち、もはや単なる金儲け主義(我利我利亡者)では世の中が回らなくなるのは明白であり、誰もがそこに倫理的な何かを求めている。ただし、問題は「そうした経済と倫理の両立が果たして資本主義の内部で実現できるかどうか」ということだ。それにもう一つ。その両立は水平の次元だけで実現できるのかどうか。鄙見によれば、新しき村はあくまでも垂直の次元の運動であるべきだ。そこに二十一世紀の「新しき村の精神」の核心がある。

「ユートピアの闘い」における垂直の次元

垂直の次元はキルケゴールの実存弁証法に即して言えば宗教的段階に相当する。ただし、それは実体としては存在しない。言い換えれば、実体として存在するのは美的段階と倫理的段階だけであり、現実の人生行路における問題は美的に生きるか倫理的に生きるか、すなわちその時の気分で勝手気儘に生きるか、それとも常に自己を律して何が正しいのかを意識して生きるかという「あれか、これか」に収斂する。しかし、どちらを選んでも人間は自由に生きられない。美的段階は傾向性の他律的奴隷にすぎず、倫理的段階の自律もまた自己を雁字搦めに束縛するものでしかないからだ。ヘーゲルはこうした状況をいみじくも「他律と自律の違いは、主人が自己の外にいるか内にいるかの違いにすぎない」と喝破しているが、正にその通りだろう。そこで他律と自律の対立を超克するものとして要請されるのが神律であり、それが宗教的段階に他ならない。しかし、神律とは何か。もしそれが神を主人とすることであるなら、新たな他律と見做されても仕方がない。実際、宗教的段階を実体として、神を絶対他者とするならば、神律が新たな他律へと堕していく危険性は常に潜在する。しかし鄙見によれば、宗教的段階は断じて実体ではなく、あくまでも美的段階と倫理的段階をそれぞれ前向きに反復する(wiederholen = 受け取り直す)関係態なのだ。端的に、「宗教的段階は存在せず、美的段階と倫理的段階に微行(incognito)する存在の力だ」と言ってもいい。キルケゴールは絶望が全く根こそぎにされた場合の自己の状況を表す定式として「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は、自己を措定した力のうちに透明に根拠をおいてる」と述べているが、その透明な根拠こそ宗教的段階であり、「ユートピアの闘い」においては垂直の次元として機能する。では、それは具体的に如何に機能するのか。

「ユートピアの闘い」における新しき村の課題

前回の引用に基づいて言えば、課題は内在的対抗運動と超出的対抗運動の関係に見出される。すなわち、資本主義経済の中での闘いと非資本主義経済を新たに生み出そうとする闘いの関係だ。我々の文脈では、パラダイスとユートピアの相剋ということになるだろう。ただし、先の引用にもあるように、我々としても内在的対抗運動を軽視するつもりはなく、資本主義経済を否定すれば直ちに非資本主義経済へと超出できるなどとは考えていない。パラダイスの否定がそのままユートピアをもたらすというのは明らかに空想だ。そもそも人間の裕福な生活への憧れは極めて根強い自然の情であり、いくら「贅沢は敵だ!」と戒めてみても、パラダイスを求める思いを抑制することはできないだろう。さりとて、このまま資本主義経済を野放しにして、人々が限りなく物質的に豊かになろうとすれば、社会の経済格差は益々拡がり地球環境の荒廃も取り返しのつかないものになるのは厳然たる事実だ。では、どうするか。やはり「贅沢は敵だ!」と思い直し、「もったいない精神」で清貧の生活を心がけるべきか。それも可能性の一つだが、言わば自然に即したアルカディア(自然楽園)へと後向きに戻ろうとするのは現実的ではない。せいぜい資本主義経済から逃避して、山奥か離島で自給自足の生活を個々に細々と試みる程度であり、社会全体の運動に発展することなど望めないと思われる。それ故、新しき村はアルカディアへの回帰を目指さない。勿論、ごく一部の金持だけが享受できるようなパラダイスを容認するつもりもない。毎度お馴染みのクリシェながら、新しき村はあくまでもアルカディアとパラダイスのcoincidentia oppositorumを目指す。それは言わば両者を前向きに反復することであり、そこで重要な意味を担うのが垂直の次元に他ならない。

間奏曲:「ユートピアの闘い」のための引用

「内在的対抗運動とは、資本主義経済の中で闘うことです。それは労働運動、消費者運動、あるいは、選挙その他の政治活動を含みます。次に、超出的対抗運動というのは、資本主義的でない経済を自分たちで作り出すということです。たとえば、消費-生産協同組合、地域通貨など。」

「歴史的に言えば、超出的な対抗運動は、十九世紀半ばまでの社会主義者によって行われてきたものです。それはある時期からユートピアン社会主義と呼ばれるようになった。」

「ともあれ、十九世紀の社会主義運動では、初期の社会主義運動に固有のものと、新たに労働運動から出てきたものとが共存していました。初期社会主義運動の特徴は、生産過程ではなく流通過程における改革が主であるといえます。たとえば、地域通貨、消費-生産協同組合など。他方で、労働組合を中心とする闘争が盛んになってきたわけです。しかし、それによって旧来の運動が貶められることはなかった。たとえば、マルクスも『資本論』で協同組合運動を高く評価しています。

これが変わってきたのはロシア革命(一九一七年)以後です。以来、エンゲルスの言う「科学的社会主義」は国家統制による計画経済を意味するようになってしまった。一方、非資本主義的な経済を自ら作り出そうとするような運動は「ユートピアン社会主義」として軽蔑されるようになった。そういう風潮がずっとありました。私が『NAM原理』で強調したのは、そのような見方への批判です。

私が「超出的対抗運動」と呼んだものの実質は、いうなれば、旧来、ユートピアン社会主義と呼ばれてきたものです。」

「このように「超出的対抗運動」を重視するからと言って、私は別に、資本主義経済の中での対抗運動を否定したり軽視するわけではありません。また、非資本主義的な空間を創り拡大することで、資本主義経済を追い詰めることが可能であると考えているわけでもない。そうするためには、内在的対抗運動が不可欠なのです。ただ、非資本主義的な経済空間を作り出すことには、別の大きな意味があります。

先ずそれは、人びとに非資本主義的な空間を、ある程度感受できるようにさせます。それは、かつての農業共同体や下町が壊れて、今や圧倒的な資本主義的競争の下で生きている人たちが忘れてしまったコミュニティの感覚を取り戻させる。また、それは今後、資本主義経済が突然破綻するときにも役立つでしょう。」

(柄谷行人「ニュー・アソシエーショニスト宣言」)

恋愛の闘い

恋愛について語る資格など私にはないが、様々な恋愛ドラマを頻繁に観続けていると自ずと恋愛哲学らしきものが身についてくる。その哲学に即して言えば、最近のドラマは全く面白くない。と言うか、その結末に納得できない。勿論、私の納得など論外で、単に時代遅れのオッサンに今の若者たちの恋愛が理解できないだけなのかもしれない。しかし、私は何も美男と美女が結ばれるハッピーエンドに難癖をつけようというのではない。ハッピーエンド結構。美男と美女が様々な試練を乗り越えて、互いへの一途の愛を貫くのは素晴らしい。ただ、その試練が私には試練に思えないだけのことだ。そこにはドラマが感じられない。これは以前にも述べたことだが、男性から言えば、恋愛ドラマの本質は「マリアかマルタか」という問題に収斂する。つまり、無粋に表現すれば、「美的にはマリアだが、倫理的にはマルタを選ぶべきだ」という状況においての「あれか、これか」だ。どちらを選ぶかは自由だが、そこにリアリティがなければドラマは生まれない。残念ながら、昨今の映画やテレビで描かれる恋愛に私はドラマを見出せない。そこに恋愛の闘いがないからだ。

Fahrenheit451の闘い

レイ・ブラッドベリは読書が禁じられたディストピアを描いた。しかし、その世界は本当にディストピアか。書物のない世界がパラダイスであることは間違いない。書物があるから人は不幸になる。実際、幸福を求める人たちは書物を読まなくなる。必要がないからだ。気分がウキウキしてくるドラマ。ハラハラドキドキさせられても、最後には気分をスカッとさせてくれるドラマ。そんなドラマを頭のいい人たちが作ってくれればそれでいい。一般大衆はそれを観てストレス発散。翌日からはまた幸福な毎日が金太郎飴のように続いていく。それでいいではないか。何の不満がある。必要な情報はネットで簡単に得ることができる。不必要な情報、それを知ると不幸になるような危険な情報はそこにはない。頭のいい人たちが一般大衆の幸福な毎日のために親切にも削除してくれているからだ。人々は安心して日々幸福な生活を送ればいい。ところが、世の中には馬鹿な連中がいて、必死に書物を求めている。不幸になることを百も承知で、先人たちが格闘してきた問題の思耕の跡を追おうとする。そんな面倒なことは一部の頭のいい人たちに任せておけばいいのに、全くご苦労なことだ。書物を読めば、人は思耕する。思耕は新たな書物を生み出す核となる。負の連鎖だ。書を捨てよ。街へ出よう。街は楽しいことで満ちている。劇場にレストラン、様々なショッピング。街の秩序を乱す危険な異分子は警察の皆さんが排除してくれるので安心安全だ。これ以上のパラダイスがあろうか。家に引きこもって書物を読んでばかりいる奴等は馬鹿だ。馬鹿の末路は危険分子になるしかない。全く迷惑な話だ。

さて、こうしたパラダイスは何も頭のいい権力者によって強制されるものではない。あくまでも書物を放棄した大衆が自主的に求めるものだ。パラダイスには印刷物はあっても書物はない。大衆のストレス発散となる印刷物はあっても、人間の理想を共に思耕する書物は生まれない。それでいいのか。本当にいいのか。その是非の問題意識すら失われたパラダイスに対する違和感からFahrenheit451の闘いは始まる。

神学の闘い

哲学とは無縁の無学文盲でも宗教を信じている人がいる。恰も宗教が哲学の代用をしているかのように。人生、如何に生きるべきか。人間として本当に生きるとは何か。そうした問いを哲学的に深める必要もなく、すでに宗教がその答えを与えてくれている。人生の意味は宗教の中にある。もしそうなら、美的段階の人は倫理的段階を経験することなく自然に宗教的段階に生きていることになる。極端な話、誤解を恐れずに言えば、所謂未開人にとって倫理も宗教も区別なく、一切は自然の習慣だと言える。非倫理的なカニバリズムだって一つの自然に他ならない。このように美的段階が宗教的段階に直結するのは厳然たる事実だ。その事実を否定するつもりはない。哲学、もしくは倫理的段階の欠如はファシズムなどでもよく見られる光景だ。しかし、美的段階から倫理的段階を経ずに移行した宗教的段階は真の宗教的段階ではない。少なくともキルケゴールがその実存弁証法で問題にした宗教的段階ではない。その区別を明確にするために、倫理的段階での葛藤を不可欠とする宗教的段階を神学と称したい。神学と宗教は違う。とは言え、神学が高尚で宗教は低俗だということではない。ハイデガーなども哲学の神と宗教の神を区別しているが、民衆が心からその前で祈ったり踊ったりすることのできるのは宗教の神であろう。民衆の生きる意味、苦しい日常を耐える力となる「魂の糧」は宗教の神が与えてくれる。それは間違いない。しかし同時に、哲学の神も「魂の糧」となる。宗教の神とは質的に異なる意味で「魂の糧」となる。そこに神学の闘いがある。ただし、その神学は「神の死」の神学でなければならない。ボンヘッファーと共に私は言いたい。神の前で、神と共に、神なしで生きる。

美的段階の闘い

一口に哲学と言っても、様々な分野に及ぶ。そもそも哲学は物事の本質を問うものだから、あらゆるものと結合する。思いつくまま例を挙げれば、科学哲学、経営哲学、教育哲学、建築哲学、医療哲学、芸術哲学…と限りがない。肯定的なものばかりではなく、犯罪哲学とか殺人哲学といった否定的なものと結合する場合もある。しかし、そうした雑多な哲学の中で最も哲学らしい哲学と言えば、やはり人生哲学であろう。すなわち、人間として生きることの本質(意味)を問うことだ。とは言え、キルケゴールに即して人生行路を美的、倫理的、宗教的の三段階に分けて考えれば、美的段階では哲学など見向きもされないので、哲学は美的段階の黄昏から飛び立つことになる。実際、哲学とは無縁の一生を送る人は少なくない。いや、むしろそうした人たちの方が大半なのかもしれない。しかし、どうだろうか。私には美的段階だけで人生を終える人がいるなどとは到底考えられない。それは子供のままで一生を終えることに等しい。それはそれで一つの幸福な人生なのかもしれないが、大人にならずに死んでしまうのは実に勿体ないではないか。確かに美的段階は一種の楽園だが、ヘーゲルに言わせれば、そこはケモノのみが満足して暮らせる楽園にすぎない。「夢見る無垢」とはティリッヒの言葉だが、夢の中で無垢のまま生きることは果たして素晴らしいことだろうか。現実は汚い。夢から覚めて現実に生き始めれば、どうしたって傷つき苦しむことになる。しかし、それが人生ではないか。どんなに美しい夢でもいつかは覚める。いや、覚めなければならない。このSollenから、すでに倫理的段階へと向かう美的段階の闘いが始まっている。

大衆の闘い

幸か不幸か、この便りは殆ど誰にも読まれていないので、何を書いても全く反応はないが、もし多くの人の目に触れる機会があれば大炎上は必至だろう。「何を偉そうに気取って書いているのか。一体、何様のつもりだ。人生に理想なんか必要ない。そもそも生きていることに意味なんてないのだ。お前は繰り返し人間として本当に生きることを問題にするが、何が本当なのか。そんなこと、誰にもわかりゃしない。目が見えなければ本当じゃないのか。難しい本を読まなければ本当に生きられないのか。足を怪我して歩けなくなったら、その人にとっては車椅子の生活が本当なのだ。本当の生は人それぞれ違う。皆、日々を懸命に生きている。平穏無事な日常で上等じゃないか。その日常の中で、少しでも楽しいことを見つけていく。それでいいじゃないか」それでいい、と私も思う。破天荒に生きた塙竜五郎も伊吹信介にしみじみと語っている。「落ち着いた、平和な心で、自分のまわりを見つめる。毎日、朝起きたら、今日ももう一日生きることができるんじゃなあ、と感謝の気持でおてんとう様をおがむ。そして三度三度の飯を噛みしめて食い、人を恨んだり、金を欲しがったりせんで、夜になったら昔のことや、子供のころのことをおもいだしながらぐっすりやすむ。いいか、信介。人間の幸福はそれだけばい。そのほかに何がある。うん、もうひとつあったな。それはお互いに優しか気持でいっしょに暮らせるつれあいじゃ。人間はひとりよりも二人のほうがいい。お互いに身を寄せ合って、ぽつんぽつんとしゃべったりしながら、ひっそりと生きていく。まあ、そのために人間はあくせく働くとじゃなかろうかとわしはいま、えらく幸せな感じがするんだよ」私は深く首を垂れざるを得ない。そして、そこに言わば魂の原風景を見る。私はそれをアルカディアと称しているが、その魅力は依然として根強いものだ。しかし、それにもかかわらず、私はアルカディアを批判し続ける。塙竜五郎の「えらく幸せな感じ」を否定するつもりはないが、人間はそこに留まり得ないと思うからだ。そこに人間の運命がある。あるいは、アルカディアは失われる運命にある、と言うべきか。何れにせよ、私はアルカディアを求める大衆の闘いを批判する。根源的に批判し続ける。炎上覚悟で。

日常の闘い

資本主義であれ、共産主義であれ、日々平穏無事に生活できればそれでいい――それが一般大衆の本音かもしれない。加えて、食うための労働が過酷ではなく、障害のある人はその程度に応じて働けばよく、また働きたくない人でも最低限の生活保障(ベイシックインカム)が確約される社会。それが大衆のパラダイスではないか。要するに、日々遊んで暮らせる社会だ。早晩「働かざる者食うべからず」という勤労の美徳など過去のものとなるだろう。専ら食うために生きているイキモノの次元を超えた人間の生は、その本質を遊戯(ゆげ)に見出す。しかし、遊戯とは何か。一日中、ゲームやパチンコをしていることが遊戯なのか。遊戯という同じ漢字表記でも、「ゆげ」と「ゆうぎ」は質的に異なる。紛らわしいので、後者の意味の遊戯を娯楽と表記して区別したい。つまり、大衆が求めるパラダイスの本質は娯楽であって遊戯ではない、ということだ。

遊びをせんとや生まれけん

戯(たはぶれ)せんとや生まれけん

遊ぶ子供の声聞けば

我が身さえこそゆるがるれ

「梁塵秘抄」のこの有名な部分の解釈は人それぞれだが、これが遊女(白拍子)の歌であることを考慮すれば、そこには遊戯と娯楽の微妙な差異があるように思われる。少なくとも私には、大人になって失われた子供の遊戯(美的生)に対する汚れっちまった悲しみが感じられる。さりとて私は美的生に対する倫理的生を盾にして娯楽を糾弾するつもりはない。娯楽は人間生活に必要不可欠だ。先にゲームやパチンコを馬鹿にするようなことを述べたが、娯楽を生き甲斐にしている人がいてもおかしくない。と言うより、日々の苦しい労働(食うための労働)が娯楽を必要とするのは極めて自然なことだ。殊にコロナ禍で娯楽が制限されている毎日が不自然であることは間違いない。しかし、人々の日々の闘いが食うための労働からの解放を目指すものであったとしても、その果てにあるのは娯楽でしかないのだろうか。働き方改革で労働マシンからの脱皮が求められているが、その目的は余暇の娯楽なのか。私には何か根源的な違和感がある。