新・ユートピア数歩手前からの便り -87ページ目

コミュニズムの闘い

オリンピックで中断していたNHKの大河ドラマ「青天を衝け」が再開し、ドラマは明治維新を経て、いよいよ渋沢栄一の活躍する舞台が整いつつある。しかし、渋沢の活躍とは何か。これまでのドラマの展開から大雑把に言えば、横暴な武士が実直な百姓を抑圧する封建主義に対する怒りを根源とする渋沢の社会変革の意志は、攘夷の挫折から一転してパリ万博を機に目の当たりにした西欧近代化の成果に圧倒され、「近代化を推進した資本主義こそが人々を本当に幸福にできる」という信念に辿り着く。勿論、資本主義には明るい面ばかりではなく、経済格差をもたらすなどの暗い面もある。そうした近代化の光と影に翻弄されながら、やがて渋沢が「日本の資本主義の父」と称される人物に成長していくところに今後のドラマの見所があると思われる。しかし、ここで改めて思耕したいのは「資本主義は本当に人間を幸福にするか」という問題だ。確かに、資本主義は人間にパラダイスをもたらした。それは厳然たる事実だ。従って、問題は更に「パラダイスは人間にとって真の理想社会足り得るか」という形へと発展する。言うまでもなく、この問題について根源的な結論を出すためには、当然マルクスを初めとする資本主義の徹底的な分析が必要となるが、それは然るべき専門的な学者先生方にお任せしたい。ただ、もし資本主義に対抗し得るものがあるとすれば、それはコミュニズムしかないが、私としてはその闘いの可能性について少し考えてみたいと思う。

率直に言って、コミュニズムの闘いは芳しくない。実際、これだけ資本主義の弊害が明らかになっていても、資本主義を捨ててコミュニズムに走ろうという人は殆どいない。むしろ、共産化されると社会はかつてのソ連のように不自由な生活を強いられることになると危惧する人が大半であろう。ソ連の崩壊と同時にコミュニズムも死んだ――それが一般的な見解ではないか。しかし、ソ連の一国社会主義(スターリニズム)にコミュニズムの本質を見出すことはできない。鄙見によれば、今の中国は言うに及ばず、共産党にコミュニズムはない。では、こうした現状においてコミュニズムの闘いを如何に理解すべきか。スラヴォイ・ジジェクは次のように述べている。

「今日、アメリカからインド、中国、日本まで、中南米からアフリカまで、中東から東西ヨーロッパまで、世界じゅうで、第二、第三のクラフチェンコが登場してきている。この雑多な人たちは、ばらばらの言葉を話すのだが、思っているほど少なくはない。そして支配者がもっとも恐れるのは、この人たちの声が互いに響きあい、支えあい、連帯していくことだ。破滅へ向かいつつあると認識しながらも、彼らは、いかなる困難にも立ち向かう覚悟を固めている。二十世紀のコミュニズムに幻滅して「そもそもの始まりからはじめ」、新しい土台の上にコミュニズムを再構築しようとしている。敵からは、危険なユートピア主義者とけなされながらも、いまなお世界の大半をおおっているユートピア的な夢から実際に目覚めたのは彼らだけだ。二十世紀の〈現実に存在した社会主義〉へのノスタルジーではなく、彼らこそわれわれの唯一の希望である。(中略)

クラフチェンコのような偉大な反コミュニストでも自分の信ずるところへある意味で戻れるのだから、今日のわれわれのメッセージはこうあらねばならない。恐れるな、さあ、戻っておいで!反コミュニストごっこは、もうおしまいだ。そのことは不問に付そう。もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ!」(「ポストモダンの共産主義:はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」)

クラフチェンコとは、1944年にアメリカに亡命して、スターリニズムの恐怖を報告したソ連の外交官であるヴィクトル・クラフチェンコのことだ。亡命後の彼について、ジジェクは次のように述べている。

「クラフチェンコは搾取の少ない新しい生産社会を求める改革運動を開始した。そうしてボリビアへ赴き、全財産をなげうって、貧農を組織した新たな集産体制を築こうとした。この真摯な試みの失敗に打ちのめされたクラフチェンコは、孤独の殻に閉じこもって、ついにはニューヨークの自宅で拳銃自殺におよぶ。自殺は彼自身の絶望によるものであり、KGBに脅迫されたりした結果ではなかった――クラフチェンコのソ連への非難は、ひたすら不公正に抗議する行為だったことの証左である。」

私はクラフチェンコについては何も知らないが、現代におけるコミュニズムの闘いはクラフチェンコのような人間の挫折を乗り越えていかねばならないと確信している。

新しき村の闘い

私は新しき村を哲学の闘いの場にしたいと思っている。しかし、それは水平の次元における闘いを無視して構わないということではない。貧困や差別など、水平の次元には未だ理不尽なことが溢れている。新しき村が社会の不条理との闘いの場になるべきなのは当然だ。ただし、それは常に垂直の次元と逆対応していなければならない。その意味において、新しき村は水平的闘いと垂直的闘いが螺旋的に統合されていく場だと言えよう。尤も、現実の新しき村は正に瀕死の状態で、私が求めている場とは程遠い。従って、「新しき村の闘い」など机上の空論だと嗤われても仕方がない。とは言え、新しく生まれ変わる可能性が未だ皆無でない以上、私は「新しき村の闘い」をめぐる思耕を続けていく。殆ど誰にも読まれぬ一方的な独白と化しているのが現実だが、私としてはあくまでも「便り」として発信し続ける所存だ。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。願はくは之を語りて表通りの善良なる市民を戦慄せしめよ。

哲学の闘い

「事件は現場で起きている。会議室じゃない!」とは踊る織田裕二の叫びだが、哲学は現場で闘っていると言えるのか。コロナ禍の現在、医療現場に哲学の出る幕はない。医療ドラマと双璧を成す刑事ドラマで描かれる殺人・強盗・詐欺などの犯罪現場でも哲学の出る幕はない。医療現場にせよ犯罪現場にせよ、そこに展開しているドラマは善良なる市民が平穏無事な日常を取り戻すための闘いに他ならない。確かに、社会の急を要する事件は水平の次元で起こっている。貧困や差別といった社会問題の現場は全て水平の次元だ。しかし、その諸問題は水平の次元だけで根源的に解決するのだろうか。病もなく、犯罪もなく、貧困も差別もない社会が水平の次元だけで実現するのだろうか。この問いが哲学にとっての大きな分岐点になる。もし水平の次元だけで事足りると考えるのなら、哲学など不要だろう。しかし、もし水平の次元に生じる諸問題の根源的解決には垂直の次元が不可欠だと考えるのなら、そこから哲学の闘いが始まる。或る意味、哲学は人間の生活に垂直の次元を導入する闘いだと言ってもいい。ティリッヒはそれを「失われた次元の回復」だと称したが、キルケゴールなら「前向きの反復」という逆説的な課題となる。十牛図も然り。見失った牛を再び見出した時、その牛は同じでありながら同じではない。同様に哲学もまた水平の次元における平穏無事な日常を求めるが、前向きに反復された日常は祝祭的に一新される。その一新された日常こそ垂直の次元なのだ。よく宗教は民衆のアヘンだと言われるが、垂直の次元は苦しみに満ちた水平の次元からの逃避の場などではない。それはあくまでも哲学の闘いの現場に他ならない。

不要不急の闘い

一向に終息の兆しが見えぬコロナ禍の下、医療従事者たちの活動には本当に頭が下がる。その弛まぬ奮闘ぶりに敬意を表さない人は皆無だろう。生命より尊いものはなく、殊に人命を救おうとする緊急の闘いには文句なしの意味がある。それ故、昨今のテレビに登場するヒーロー・ヒロインは医療従事者であることが多く、そのドラマは間違いなく視聴者を感動させる。私も例外ではなく、いつも感動している。そして、その感動に偽りはない。しかし、それにもかかわらず、私は思耕者としてやはりどうしても「その先の問題」を考えてしまう。三島の言葉を借りて言えば、それは「生命尊重以上の価値」の問題だ。勿論、私は生命を蔑ろにするつもりなど全くない。生命は尊重されねばならない。しかし、生命尊重の価値が求めるのは平穏無事な日常だろう。現在のコロナ禍においても、多くの人々が待ち望んでいるのは失われた日常生活の回復に違いない。しかし、それはそんなにも素晴らしいものであったのか。少なくとも私はそうは思わない。むしろ、平穏無事な日常生活から人間の「本当の闘い」が始まると考えている。生命に関する医療従事者たちの急を要する闘いに比べれば、それは明らかに不要不急の闘いに他ならない。しかし、人間的には究極的かつ根源的な闘いなのだ。こうした思耕に何か自己欺瞞はあるだろうか。

路地裏ユートピア(10)

ユートピアは路地裏から生まれる。あいみょんの「生きていたんだよな」は中島みゆきの「ファイト!」に接続されねばならない。今の世の中、闘う人の歌は闘わない奴等に嗤われ続けている。それが何とも悔しい。死ぬほど悔しい。しかし、私自身は本当に闘っていると言えるのか。空を飛んだ少女は闘ったと言えるのか。そもそも今のこの世界で、「闘う」とは何を意味するのか。私はそのことを思耕している。ずっと思耕し続けている。

闘わない奴等は何故闘わないのか。闘わなくても幸福だからだ。むしろ、闘うことは不幸への転落を意味する。「もっと肩の力を抜いて気楽に生きようじゃないか。世界は楽しいことで溢れている。コロナ禍が終息すれば、また楽しく生きられるよ…」本当にそうか。ならば何故、少女は空を飛ばねばならなかったのか。どうして電車の駅では毎日のように人身事故のアナウンスが流れるのか。闘う人の歌は相変わらず闘わない奴等に嗤われ続けている。しかし、そこに未だ「本当の闘い」がないのも事実だ。闘わない奴等の幸福も欺瞞だが、「立ち去る者」の闘いも欺瞞に他ならない。では、「本当の闘い」とは何か。

生きること。人間として本当に生きること。「本当の闘い」はそれに尽きる。「自分は自然に生きていると胸を張って言うのは、実に不自然なことだ」とかつて拓郎は歌ったが、自然と反自然に引き裂かれるのが人間の運命だ。その運命において、人間はカントの言う傾向性(Neigung)の奴隷から自由になることを以て「本当に生きること」を求め、他律的生から自律的生への移行に理想を見出した。そして、その理想は近代において或る程度成就したかのように思われる。実際、少なからぬ人たちにとって近代はパラダイスであろう。しかし、近代のパラダイスに深い疑問を抱かざるを得ぬ人たちもまた少なくない。そうした反パラダイスの人たちは近代以前のアルカディアに失われた楽園を再び見ようとする。大雑把に言えば、パラダイスは都市の人工楽園であり、アルカディアは農村の自然楽園だ。鄙見によれば、現代人の殆どは性懲りもなくパラダイスを求め続け、その競争からはじき出された人はアルカディアに活路を見出す――それが現代社会の基本構図ではないか。けれども、極めて少数ながら、アルカディアでもパラダイスでもない全く新しい理想、すなわちユートピアを求める人たちがいる。それが路地裏の人であり、そこにこそ「本当の闘い」があると私は思う。路地裏からユートピアは始まる。

路地裏ユートピア(9)

路地裏の人は空を飛んだ少女に共感する。表通りで生きていた彼女の苦しさに共感する。もし少女が空を飛ばずに路地裏に足を運んでいたら、何かが変わっていたかもしれない。そう思わずにはいられない。そこには「消えてなくなる」こととは全く異なる「新しい何か」が始まる可能性があるからだ。少なくとも、私はそう信じている。しかし、それは如何なる可能性なのか。路地裏が表通りからの単なる逃げ場所でないのなら、我々は生きることに疲れ果てた少女と共に一体何ができるのか。

例えば、Occupy Wall Street運動というものがあった。鄙見によれば、それは表通りに対する路地裏の反抗の一つだ。路地裏の人は自分たちが社会の99%であることを自覚している。そして、表通りの社会は残りの1%の富裕層に牛耳られていることも。しかし、ウォール街を占拠して一体何をしようとしたのか。その反抗の意志には深く共感できるが、それは何を目指す反抗であったのか。1%の金持どもを引きずり下ろして、自分たちがウォール街に新たに君臨するためか。そんなバカなことはないだろう。歴史に幾度となく繰り返されてきた権力闘争の愚は、すでにヘーゲルの「主と奴の弁証法」が明らかにしている通りだ。奴隷が主人を打倒して新たな主人になったところで問題は解決しない。単に目の前の主人を打倒しても、それは主人の根源的否定にはならないからだ。重要なことは主人の打倒ではなく、あくまでも主人と奴隷の関係そのもののディコンストラクションに他ならない。従って、ウォール街の占拠とは畢竟そのディコンストラクションにまで行き着かねばならない。では、ウォール街のディコンストラクションとは何か。当然、それは資本主義のディコンストラクションという課題に極まるが、果たしてそこまで腹を括っている人がどれほどいるのか。残念ながら、未だ少数であろう。むしろ99%の大半は依然として1%の富裕層の恩恵に依存することを望んでいるのではないか。実際、革命が成就して富裕層が一掃されれば、社会は再び大混乱に陥るに違いない。尤も、それは私の求めている真の革命には程遠いものだが、これまでの革命では古き富裕層が打倒されて新しき富裕層が生み出されたにすぎず、そのたびに一般大衆は実に悲惨な地獄に突き落とされてきた。それ故、大衆が究極的な革命を忌避する気持は理解できる。決して共感はできないが、大衆の反革命的心情を無碍に否定することもできない。しかし、路地裏の人は違う。路地裏の人も99%の一部ではあるが、大衆とは異なって既存の表通りには如何なる希望も見出さない。そこにはアルカディアやパラダイスといった中途半端な理想はあっても、ユートピアという究極的な理想はあり得ないからだ。ユートピアは路地裏から生まれる。

路地裏ユートピア(8)

「絶望は死に至る病」とはキルケゴールの言葉だが、空を飛んだ少女にとって「消えてなくなる」ことが最後の希望であったのなら、彼女は未だ絶望していなかったことになる。実際、この世界で生きることの苦しさ故に死を選ぶ人には死が唯一残された希望を意味する。つまり、殆どの「立ち去る者」にとって死は絶望ではなく希望なのだ。しかし、キルケゴールが問題にする絶望はもはや死ぬことさえ希望にならぬ状態に他ならない。従って、カミュも述べているように、重要なことは「病から癒える」ことではなく「病において生きる」こと、すなわち絶望において生きること、更に言えば生きることにおいて絶望を徹底させることなのだ。しかし、そんなことが果たして可能なのか。それは俗なるものの泥沼の中から聖なるものの花を咲かせようとすることに等しい。至難の業であることは百も承知だが、その逆説にしか生きる希望はない。と言うのも、この世界は表通りだけで形成されているわけではないからだ。この世界には路地裏もある。それは民俗学的には「異界」と称される時空だが、世界中至る所に潜在している。絶望の徹底が希望へと反転する逆説の場、それが路地裏だと言ってもいい。ユートピアは路地裏から生まれる。

路地裏ユートピア(7)

空を飛んだ少女と同様、「消えてなくなる」ことに希望を抱いた若者に原口統三がいる。純粋精神を貫こうとした彼の生き方(死に方)は純粋な生を求める若者の象徴的存在だと言えよう。令和の現代では「二十歳のエチュード」などもはや余り読まれないかもしれないが、あいみょんに共感する若者なら無関心ではいられないと思われる。おそらく、汚れた大人(不純な存在)に対する嫌悪が募れば募るほど、純粋存在への憧憬が高まっていくだろう。殊に表通りの醜悪な生活にウンザリしている若者にとって、原口統三や空を飛んだ少女への共感には永遠的なものがある。少なくとも、多くの若者たちがなし崩し的に小利口な大人になっていくのが常識とされる表通りにおいては、そのアンチテーゼとしての純粋存在は永遠に輝き続けるに違いない。しかし、本当にそうか。私は森有正が原口の死について述べた言葉を忘れることができない。原口の一高時代の恩師でもあった森有正は、「二十歳のエチュード」の序文として「立ち去る者」と題する一文を寄せているが、その中に次のような言葉がある。(手元に原文がないので、私の拙い記憶による)

「死によって身の純潔を守った乙女たちは美しい。しかし、身は娼婦に堕ちることを余儀なくされても、その穢れた身において決然と生きることを選んだソオニャの美しさに優るものはない。」

生きていれば汚れは不可避だ。とは言え、汚れるのを忌避して生きることを否定するのは、綺麗な服が汚れるのを恐れてずっと着ないでタンスに仕舞っておくようなもので意味がない。汚れることから逃げてはいけない。さりとて、汚れることに妥協してはならない。そこが難しいところだ。しかし、私には確信がある。俗なるものを峻拒する純粋に聖なるものは真の聖なるものではない。俗なるものに受肉して、俗なるものと共に、俗なるものの中で輝く聖なるものこそ理想ではないか。その意味において、俗なるものが渦巻く路地裏にこそ聖なるものの理想が実現する可能性がある。ユートピアは路地裏から生まれる。

路地裏ユートピア(6)

表通りとは全く異なる発想とは何か。例えば、人気歌手あいみょんに「生きていたんだよな」という曲がある。その歌詞は次のようなものだ。少し長いが、コピーさせて戴く。

 

二日前このへんで
飛び降り自殺した人のニュースが流れてきた

血まみれセーラー 濡れ衣センコー
たちまちここらはネットの餌食

「危ないですから離れてください」
そのセリフが集合の合図なのにな

馬鹿騒ぎした奴らがアホみたいに撮りまくった
冷たいアスファルトに流れるあの血の何とも言えない
赤さが綺麗で綺麗で

泣いてしまったんだ
泣いてしまったんだ
何にも知らないブラウン管の外側で

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう

彼女が最後に流した涙
生きた証の赤い血は
何も知らない大人たちに二秒で拭き取られてしまう
立ち入り禁止の黄色いテープ
「ドラマでしかみたことなーい」
そんな言葉が飛び交う中で
いま彼女はいったい何を思っているんだろう
遠くで 遠くで

泣きたくなったんだ
泣きたくなったんだ
長いはずの一日がもう暮れる

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
新しい何かが始まる時
消えたくなっちゃうのかな

「今ある命を精一杯生きなさい」なんて
綺麗事だな。
精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ
鳥になって 雲をつかんで
風になって 遥遠くへ
希望を抱いて飛んだ

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
新しい何かが始まる時
消えたくなっちゃうのかな

生きて生きて生きて生きて生きて
生きて生きて生きていたんだよな
最後のサヨナラは他の誰でもなく
自分に叫んだんだろう

サヨナラ サヨナラ

多くの若者たちが、あいみょんのこの曲に共感する。しかし、一体何に共感するのか。退屈な日常を飛び降り自殺のニュースが切り裂く。それはたちまちネットの餌食になり、少なからぬ人々の退屈しのぎになる。自分はどうか。スマホで自殺現場の写真を撮りまくって馬鹿騒ぎしている奴らと自分は違う。絶対に違う!そう思いたいが、実際はどうか。結局、自分もブラウン管の外側で悲惨なニュースを楽しんでいる傍観者の一人にすぎないのではないか。そう思うと泣きたくなってくる。しかし、彼女はどうして飛び降りなんかしたんだろう。自分は彼女の飛び降りを退屈しのぎにしている醜悪な連中と同類ではありたくないが、さりとて彼女に共感できるだろうか。「今ある命を精一杯生きなさい」なんて綺麗事では割り切れない。精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだのだから。生きていた彼女は、生きていることから飛ぶことを選んだ。生きていた彼女に何があったのかはわからない。いじめ、失恋、受験の失敗、人間関係のもつれ……何にせよ、彼女は飛んだ。希望を抱いて。希望?一体、如何なる希望なのか。生きている自分にサヨナラする希望か。それが「新しい何か」を始めることなのか。生きていた彼女にとっての「新しい何か」が消えてなくなることだなんて、それは余りにも寂しすぎる。自分はとても空を飛んだ彼女に共感できない……

「新しい何かが始まる時消えたくなっちゃうのかな」というフレーズを普通に解すれば、「新学期とか季節の変わり目には死にたくなるのかな」という程度の意味になるだろう。けれども、空を飛んだ彼女はあくまでも「新しい何か」に希望を抱いたと私は解したい。ただし、それが「消えてなくなる」ことであるのは悲しすぎる。つまり、野暮を承知で言えば、精一杯勇気を振り絞って空を飛んだ彼女には共感できるが、その希望が「消えてなくなる」ことには共感できないのだ。では、「消えてなくなる」こと以外に如何なる希望があるのか。それを問う場所が路地裏に他ならない。あいみょんの曲に共感する若者たちは、生きていた彼女が空を飛ばざるを得なかったことに問題意識を抱くに違いない。少なくとも表通りで馬鹿騒ぎしている連中とは質的に異なっている。しかし、本当の問題はその共感の先にある。ユートピアは路地裏から生まれる。

路地裏ユートピア(5)

「過去と未来を架橋するのは、経済原理の外側に自らの足場を築いているものたちである。現在隆盛の価値観からすれば、敗れ去りしものたちである。しかし、彼らがもし存在しなければ、現在と過去、現在と未来を結びつけ、和解させる靭帯もまた失われてしまうだろう。わたしは、敗れ去りしものたちの唄声を聴きたいと思う。しかし、その声はあまりに小さく、忙しい現代の街角では騒音に紛れてしまうだろう。だから、わたしはせめて負け犬の遠吠えが響く路地裏を、今日も散歩し続けていたい。」(平川克美「路地裏で考える:世界の饒舌さに抵抗する拠点」)

こうした見解に私は基本的に共感する。しかし同時に、何かモヤモヤした違和感が心の奥底に燻っている。もはや表通りの騒音に人間の将来が期待できないことは誰もが感じ取っているだろう。さりとて、路地裏に響く負け犬の遠吠えに将来を切り拓く力があるのか。尤も、「将来を切り拓く力」という発想自体からボタンの掛け違えが始まっているのかもしれない。表通りのエライ人たちの発想は次のようなものだと思われる。「虫ケラ同然のホームレスを支援して何になる。クズどもに貴重な税金を費やすことはドブに金を捨てるようなものだ。支援すべきは有能な金持であって、無能な貧乏人ではない。確かに多くの貧乏人を生み出す経済破綻は金持の失敗によるものかもしれないが、個々の貧乏人を救済しても将来は切り拓けない。有能な金持を公的に支援して、その結果社会が再び経済的に豊かになれば、それは結局貧乏人を救うことにもなるのだ。」実に醜悪だが、こうした発想に我々は如何にして対抗し得るのか。路地裏で負け犬の遠吠えを響かせるしかないのか。私は違うと思う。路地裏には、表通りとは全く異なる発想で「将来を切り拓く力」があると信じる。ユートピアは路地裏から生まれる。