新・ユートピア数歩手前からの便り -89ページ目

補足その六:「無力の力」と多様性

正直に告白すれば、私にはLGBTの世界がよく理解できない。差別ではないと思うが、違和感は残り続ける。マンガの世界ではすでにBLやらLGBTの世界は極めて自然なものとして描かれており、それを原作としたテレビドラマ(最近では「きのう何食べた?」、現在放送中のものでは「カラフラブル:ジェンダーレス男子に愛されています。」)も総じて好評を博している。少なくとも、かつて「ホモ雑誌」と称されたもの(今でもあるのだろか)に見られたような陰湿な変態性はもはやない。つまり、LGBTは今や変態ではなく、あくまでも正常な健康性としての市民権を得ている、ということだ。しかし、本当にそうか。それでいいのか。単にLGBTを差別してはいけないという義務感がそう思わせているだけではないか。確かに時代は変わった。かつての「ホモやレズはヘンタイだ」という自然の情は表向き一掃され、むしろそうした傾向性は社会常識に反する時代遅れの感情と見做される。おそらく、「男らしさ」、「女らしさ」、「人間らしさ」についても同様のことが言えるだろう。しかし、それではSollenはどうなるのか。もはや「男はかくあるべし」、「女はかくあるべし」、「人間はかくあるべし」などと言うことは無意味(ナンセンス)であろうか。私は、人間を含めたあらゆる存在者の多様性を認める。LGBTという存在形態も認める。私には理解できないものとして認める。更に、誤解を恐れずに言えば、多様性を認めるためにLGBTに正常性を見出す必要はないと考える。変態上等。我々は皆、何かしら変態ではないか。全ての存在形態に正常性を見ようとすることは「全ての牛を黒くする暗闇」ではないか。ヘーゲルは「同一性と差異性の同一性」を問題にしたが、真の多様性においては「同一性と差異性の同一性と差異性の同一性と差異性の同一性…」という無限の運動が問題になる。そして、同一性の力と差異性の力(厳密に言えば、同一性に反抗する力)との拮抗が「無力の力」となり、それが多様な存在者の存在を基礎づける。

補足その五:「無力の力」と絶対権力

「先生、世界を変えることはできますか」と女子中学生が問いかける場面が或るドラマにあった。それがいつまで経っても脳裡から消えない。我々は何と応えればいいのか。おそらく、この世界には私などの想像を絶する力が働いているだろう。政治、経済、文化――我々の社会の一切がその力によって動かされている。我々はその力に踊らされている、と言ってもいい。勿論、無意識の裡に。しかし、たとい蟷螂の斧にすぎなくとも、私は一矢報いたいと思う。どうすればいいのか。我々の目に見える部分だけに限定して言えば、先述したように、富裕層と称される既得権者たちの力のディコンストラクションが喫緊の課題になる。革命か。それもいいだろう。確かに、革命には已むに已まれぬ必然性がある。上からの運動に対する下からの運動の必然性。世界の一新!新しき社会の実現!しかし、革命が一度でも成就したことがあるのか。これまで繰り返されてきた革命は、所詮既存の古き富裕層を打倒した奴等が新たな富裕層に成り上がっただけではないか。言わば古き力がそれを上回る新しき力に打倒されたにすぎない。そんな力の循環が革命だと言えるのか。世界を変えたと言えるのか。古き力が新しき力に打倒され、その新しき力もやがて古くなって更に新しき力によって打倒される。そんな循環にはもうウンザリだ。世界を根源的に変えるのは「無力の力」しかない。

補足その四:「無力の力」とdeus ex machina

「無力の力」はあくまでも力なのであって、単なる無力とは違う。非力でもない。ハイデガーに即して存在者(Seiende)と存在(Sein)を区別すれば、通常の力が存在者のものであるのに対し、「無力の力」は存在そのものの力だと言える。更に言えば、ティリッヒの言う存在の根柢(the ground of being)は西田における有と無の関係を成立させる場としての絶対無(メー・オンに対するウーク・オン)と通底すると考えるならば、「無力の力」は絶対無の力でもある。例えば、それはラスコオリニコフを大地に接吻させた力だ。しかし問題は、その力は往々にしてdeus ex machinaと見做される点にある。流石にドストエフスキイにその心配はないが、名作「罪と罰」も一つ間違えば三流ドラマに転落する危険性にさらされている。実際、「罪と罰」を犯罪(推理)小説として読むならば、完全犯罪者ラスコオリニコフがオチたのは彼の自白にすぎない。逆に言えば、ラスコオリニコフが自滅さえしなければ、彼の悪魔的な人神論は神人論に敗れることなどなかったのだ。これは「レ・ミゼラブル」におけるジャン・ヴァルジャンの告白についても同様だが、黙っていれば自分の有利に事が進むのに、それにもかかわらず、誰にも強制されないのに、そうせざるを得ない力が働くことがある。その目に見えない力こそ「無力の力」に他ならない。ただし、そこにリアリティがなければ、それはたちまちdeus ex machinaに堕してしまう。両者は紙一重なのだ。

補足その三:「無力の力」と無抵抗

やられたらやり返す。それが自然だ。「半沢直樹」以降、倍返しが流行しているが、古来より親しまれている「目には目を、歯には歯を」という報復律は同害復讐法(lex talionis)であり、その精神は「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰に止めて報復合戦の拡大を防ぐ」ことを目的としているとのことだ(wikipediaによる)。つまり、「目をやられたら、相手の目ばかりでなく、鼻も耳も口も、最終的にはその命までも奪うことを望む」のが人間の自然であり、そうした際限のない報復(相手の徹底した殲滅)の欲望を抑制するために「目には目だけの報復を、歯には歯だけの報復を」という法が作られた、ということだ。しかし、最近再び激化しているイスラエルとパレスチナの紛争を見ても、古代の知恵とも言うべき同害復讐法など、いとも簡単に踏み躙られてしまうのが現実だ。そもそも同害復讐というような中途半端な法で人間の欲望が抑止できる道理はなく、復讐が力の運動である限り、復讐が復讐を呼ぶ血みどろのスパイラルは永久に続くだろう。そのスパイラルを断ち切ることができるとすれば、その可能性はやはり「無力の力」にしかないと思われる。ただし、それは自然に反する運動を要請し、具体的には無抵抗を意味する。つまり、やられてもやり返さない、ということだ。果たして、そんなことが現実に可能だろうか。新約聖書には「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」という有名なイエスの言葉がある。これなどは「一般的な右利きの場合、右手で相手の右頬を打つのは難しい」ということから単なる無抵抗ではないという解釈を導き出すこともあるようだが、私は何だかしっくりこないものを感じる。自然に反する(非合理な)言葉を何とかして自然に即して(合理的に)理解しようとすることは問題を薄っぺらなものにしてしまうからだ。さりとて、無抵抗にしっくりしたものを感じているわけではない。「無力の力」はその稜線上にある。

補足その二:「無力の力」と恩寵

故意にせよ過失にせよ、崖から足を滑らせれば人は落ちる。善人も悪人も関係がない。人が自然に生きる限り、誰も重力の法則の支配から逃れることなどできないからだ。モノは通常、上から下へと運動する。火山の噴火のように、下に力(エネルギー)が溜まっている場合は上へと運動することもあるが、それはあくまでも一時的な運動であって、噴き上がったマグマもやがて下へと落ちてくる。結局、モノは重力の法則に反抗することができない。むしろ、川の流れのように、上から下への運動に忠実に生きることが人を幸福にすると考える方が賢明なのだ。しかし、重力の法則は往々にして抑圧の原理に転化する。その場合、下で抑圧されて溜まった力はマグマのように上へと噴出する。ここに見出されるのは「上から下への運動の力」と「下から上への運動の力」の相克に他ならない。問題は、噴き上がったマグマもやがて落下してくるように、「下から上への運動」も結局は「上から下への運動」に転化せざるを得ないという現実だ。それが力による運動の運命だと思われる。しかし、シモーヌ・ヴェイユは書き遺している。「魂の自然な動きは全て、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。」恩寵にこそ「無力の力」の可能性がある。

補足その一:「無力の力」と無力感

「言葉と戦車」はかつて加藤周一が用いた対比だが、戦車を力の象徴だとすれば、言葉は無力の象徴だ。しかし言葉には言霊があり、単なる無力ではない。どんなに下劣な一言でも、いや下劣なるが故に、人を傷つける力がある。勿論、これは消極的な意味における力であり、積極的な意味における力も当然ある。例えば、「それでも地球は動く」というガリレオの言葉。たといその発言が歴史的事実ではなかったとしても、異端審問では結果的に無力であったガリレオの言葉には「それでも地球は動く」という言葉として今に伝わる力を胚胎していたと考えることができる。私はそこに言葉の「無力の力」を感じ取る。更に言えば、戦車の力をGewalt、言葉の「無力の力」をMachtと区別することができるかもしれない。ちなみに長く「権力への意志」と訳されてきたニーチェの言葉はWille zur Machtだ。どうもナチスとの関連で、その言葉はWille zur Gewaltと解されてきたような気がしてならない。鄙見によれば、ニーチェが問題にした力も究極的には「無力の力」に他ならない。しかし当面の課題は、言葉のMachtは戦車のGewaltに打ち勝つことができるか、ということだろう。果たして、どうか。

無力の力(10)

「バカとブスは東大に行け!」という決め台詞で人気を博したテレビドラマ「ドラゴン桜」が十数年振りに復活しました。今回も視聴率は概ね好調のようですが、ドラマの根幹となる精神は全く変わっていません。すなわち、不平等で理不尽な世の中で唯一残された正当な競争は受験であり、特に傑出した才能に恵まれない凡人でも、いや凡人だからこそ、一所懸命に勉強して東大に入りさえすれば、人生の勝ち組になれるという精神です。ただし、これは単なる「東大=勝ち組」礼賛を目的とするものではなく、むしろ今の不公平な社会をつくってきたのは東大卒が中心を占める政府・官僚であり、そうしたアタマのいい連中が自分たちの都合のいいようにつくった社会の成り立ちの本質を学ばなければ、勉強しない大衆はいつまで経っても社会の底辺で馬車馬のように働かされることになるというイロニーも含まれています。更に言えば、アタマのいい為政者たちは国民がアタマの悪いままでいることを歓迎し、一部の既得権者のみが優遇される社会の永続を望んでいるのです。従って、実際に東大に行くかどうかは別にして、この国で生活する人間はアタマが悪いままでいるべきではなく、アタマのいい富裕層の勝手にさせないようにしっかり勉強する必要があるのです。つまり、「東大」は「この社会の本質を見抜く力をつける勉強」の象徴であり、そこにこのドラマの逆説的なモチーフがあると拝察します。端的に言えば、「東大」を否定するために東大に行け、ということです。

しかしながら、そのモチーフが視聴者、殊に受験生の若者に正しく理解されるかどうかは別問題です。おそらく、この人気ドラマに影響されて東大を目指す若者が急増したとしても、その大半は依然として「東大」というブランドしか目に入らないでしょう。確かに、そのブランドには力があり、曲がりなりにも東大生になれば世間は勝ち組(アタマのいい人間)と認めてくれます。それが世間の偽らざる価値観であり、例えばテレビのクイズ番組などでは「東大」の商品価値が露骨に誇示され、しかも誰もそれを疑いません。むしろ、殆どの人はその商品価値に憧れています。しかし、先に述べたドラマの逆説的モチーフを正しく理解するならば、その商品価値をこそディコンストラクトすべきでしょう。つまり、凡人が勝ち組になる唯一正当な可能性を「東大」に見出すにせよ、それは勝ち組が支配するこの社会の本質を洞察することと逆対応(逆説的に関係)する、ということです。真の東大生は「東大」の商品価値を超克すべきなのです。真の勉強は「東大」の商品価値を自慢するようなバカを生み出しません。重要なことは「東大」という勝ち組の一員になることではなく、あくまでも人間を勝ち組と負け組に分けるような既存社会の価値観に根源的な問題意識を抱くことにこそあるのです。

そもそも厳密には「受験が唯一残された正当な競争」とさえ言えないのではないか。貧乏人の子は家庭教師や学習塾とは無縁であり、参考書や問題集も金持の子のように買えないのが実情です。結局、貧乏人は貧乏人を生むという負のスパイラルからの脱却は容易ではありませんが、それでも他の分野に比べれば、受験勉強は貧乏人の子にボーッと生きている金持の子に勝つ大きなチャンスを与えてくれるのは確かです。やはり一所懸命に勉強して東大に入ることが貧乏人の子にとっては立身出世の最大の可能性を意味するでしょう。しかし、諄いようですが、受験勉強はあくまでも切掛であって、立身出世に安住しているようでは本当に勉強したことにはなりません。立身出世の典型が東大卒のキャリア官僚だとすれば、その仕事において立身出世の原理そのものを問い直すことが要請されるのです。こうした逆説的要請に見出されるのは「主と奴の弁証法」に他なりません。すなわち、奴が主に「東大受験」を通じて成り上がることができたとしても、主になることが奴の究極的な目的であってはならないのです。究極的な目的はあくまでも「主と奴の関係」そのものの超克でなければならず、それはあらゆる格差や差別について言えることです。例えば、貧乏人が血の滲むような苦労をして金持の支配から脱却し、自ら金持になることに成功したとしても、それは言わば「主と奴の弁証法」の言わば往相にすぎない、ということです。貧乏人が成功するドラマは、金持に成り上がった後の還相なくして真の完結には至りません。では、その場合の還相とは何か。鄙見によれば、成功への往相が力の運動だとすれば、成功からの還相は「無力の力」の運動なのです。

何れにせよ、最高の知を求めたソクラテスがデルフォイの神託に導かれて「無知の知」(ニコラウス・クザーヌスの文脈ではdocta ignorantia=知ある無知)に辿り着いたように、最高の力は「無力の力」に到達します。それは言わば自力と他力のcoincidentia oppositorumであり、自力の徹底は絶対的な他力を要請し、真の他力も自力なくして成らないという逆説です。言うまでもなく、このように抽象的な原理だけでは社会を根源的に変革する現実の力にはならず、原理は常に具体的なドラマを必要とします。それをユートピアのドラマと解するならば、そのクライマックスは「無力(無為自然)のアルカディア」と「力(価値の増殖)のパラダイス」の相剋に他なりません。当面のドラマとしては、やはり斎藤幸平氏の言われる「脱成長」(反成長でも持続可能な成長でもないという意味での)をめぐって展開すると思われます。

無力の力(9)

人は通常、力をつけることで幸福になれると信じている。無力な赤ん坊は親を中心とした周囲の他者の力なくして生きていけませんが、それは言わば自転車の補助輪のようなもので、やがて他力なしに自力で生きることが求められます。尤も昨今はいつまでも親のパラサイトから抜け出せない人も少なくないようですが、たとい親の力(経済力)がそれを可能にしても、そこに幸福はないでしょう。多くの人にとって親の庇護の下で暮らす子供時代は幸福な思い出ではあるものの、ずっと子供のままでいることなどできないからです。子供は成長して「自力で生きる大人」にならなければならない。実際、成長とは力をつけることに他ならず、親や教師に代表される他者の支配から独立して、自力で自由に生きられるようになることが要請されます。それが幸福の条件にもなります。とは言うものの、独立して生きるのは楽ではなく、「自力で生きる大人」になるのは実につらいことです。それ故、親であれ他のパトロンであれ、もし誰かの庇護の下で安楽に生きることが可能であれば、それに優る幸福はないと思うのも人情です。寄らば大樹の陰。共同体にしても、なまじ独立国になるよりも、豊かな大国の植民地でいた方が幸福だと思う人もいます。大企業傘下の子会社でいることを望む心情も同様です。現実には、大国は植民地を、大企業は子会社の中小企業をそれぞれ食い物にして自分たちだけが幸福になるのがオチですが、「大きな力を持つ者の下でのみ小さな力しか持てない者も幸福になれる」というのが「全世界の幸福」の一つのパターンであることは間違いありません。そこには確かに力の格差がある。大きな力をもつ者は大きな幸福を、小さな力しか持てない者は小さな幸福を得ます。こうした力の格差を前提にした「世界全体の幸福」こそパラダイスであり、その推進力は資本主義だと考えることができます。勿論、現代社会のパラダイスには様々な難問が渦巻いており、一部の富裕層のみが贅を尽くすことのできる社会はもはや理想ではあり得ません。しかし、一体如何なるオルタナティヴな理想が可能なのか。パラダイスの限界が今や自明であるならば、選択肢は二つしかありません。アルカディアとユートピアです。

何れにせよ、「力をつければつけるほどより大きな幸福が得られる」という確信がディコンストラクトされない限り、パラダイスの魔力は持続します。例えば、自分は力不足で負け組の悲哀を余儀なくされていても、我が子には力をつけさせて人生の勝利者になって欲しいと望む、という具合にパラダイス願望は遺伝していくのです。自分以上の学歴、自分以上のキャリア、そして自分以上の幸福。ここに見出されるのは一種の成長神話ですが、それを核とするパラダイスの運命については改めて思耕するとして、ここではその対極の理想、すなわちアルカディアについて少し考えてみたいと思います。言うまでもなく、力の成長神話がパラダイスの核だとすれば、アルカディアの核は力の否定です。そもそも始源の楽園として想定されるアルカディアは「無為自然の楽園」であり、人間の自力など完全に無化されています。つまり、自力を発揮する必要などさらさらなく、神の絶対的な庇護の下で自然にあるがままに安楽に暮らしていればいいのです。ただし、そのような言わば絶対他力の楽園は神話の中だけに存在し、しかもそれは必然的に失われる運命にあります。かくして人間の理想は「無為自然の楽園」(アルカディア)から「自力による人工楽園」(パラダイス)へと移行するわけですが、後者の危機的状況は常に前者への回帰を夢見させます。実際、原発問題に象徴されるような人間の自力に絶望した人は、自力が徹底的に否定された絶対他力の世界に憧れます。しかし、果たしてその憧れは未だ自然で満たされるのか。自力の否定ではなく、人間によって破壊された自然を回復する力が求められているとしても、それは自己欺瞞ではないか。今何かと注目されている齋藤幸平氏によればSDGsは現代版「大衆のアヘン」だとのことですが、確かに「持続可能な開発」にはパラダイスに後ろ髪を引かれる中途半端さが感じられます。おそらく、成長神話の克服なくしてパラダイスの超克はあり得ないでしょう。だとすれば、斎藤氏の提言される「脱成長コミュニズム」こそがパラダイスを超克し得るのか。

無力の力(8)

運動には力が必要です。肉体の量的な運動と精神の質的な運動を単純に比較することはできませんが、一般的には大きな運動には大きな力が必要になります。つまり、大きな力を有する人間が大きな仕事を成せるのです。それが自然の道理です。力なき者は力ある者に勝てません。しかし、もしそうだとすれば、この世界は力ある者の天下だということになります。正に弱肉強食の世界です。これは否定しようのない現実であるものの、鄙見によれば、人間の理想はそうした自然法則からの脱出を試みてきました。すなわち、力ある者の暴力を断じて許さない社会の実現です。殊に日本には古来より「柔よく剛を制す」とか「小よく大を制す」という格言があり、力なき小男が力ある大男に勝つという夢が語られてきました。しかし、果たしてこの夢は理想足り得るでしょうか。そもそもこの夢は実現可能なのか。

これは以前にも問題にしましたが、例えば柔道では小男が大男を投げ飛ばすことが理想とされ、そこに柔道の本質があると言えます。しかし小男が大男を投げ飛ばすなどということが可能なのは映画の中だけであり、現実には小男と大男では勝負になりません。だからこそ、スポーツとしての柔道は体重制を導入し、同じ体格の者同士の勝負に限定したのです。これは明らかに柔道の本質が失われたことを意味しますが、柔道をスポーツとして成立させ、更に国際的に普及させるためには仕方のないことでしょう。その点、体重制限のない大相撲は未だその本質を維持していると言えます。勿論、小兵力士が巨漢力士に勝つのは極めて稀であり、それ故にこそ、その奇跡の勝利に観客は酔い痴れるのです。しかし、それは「力なき者が力ある者に勝った」ことを意味するのか。確かに、小男が大男に勝ったということは紛れもない事実です。しかし、厳密に言えば、それは小男の俊敏な力が大男の緩慢な力に優ったということであり、決して「力なき者が力ある者に勝った」ということではありません。「柔よく剛を制す」とか「小よく大を制す」という格言にしても、その真意は「小でも大の力を自らの力とできるほどに力を発揮できれば大を制することができる」ということでしょう。牛若丸と弁慶の勝負も然り。それは知力と体力(腕力)の勝負と理解することもできますが、要するに弁慶の怪力を封じ込めることのできた牛若丸の力の勝利なのです。兎が亀に負けたのも、地道な亀の走力が油断して事実上無化された兎の走力を上回ったからです。最後に勝負を決するのは、やはり力の大きさに他なりません。

何れにせよ、無力が力に勝利することなどあり得ません。それは自然の道理に反します。では、力ある者の悪に対して力なき者はどうすればいいのか。「七人の侍」のような別の力ある者に助けを求めるのか。それとも、力のない者同士が団結して、力ある者以上の力を結集するのか。現実にはそうした可能性しかないのかもしれませんが、私は全く別の可能性を摸索しています。それが無力の力なのです。

無力の力(7)

無為自然の楽園をアルカディアと称するならば、そこに生きる人間は徹底的に無力な存在です。「徹底的に無力」とは主体的に力を発揮する必要が全くないという意味であり、人間は自然に生(な)り、自然に在るものだけを享受して日々を過ごせばいいのです。しかし、そのような楽園は神話の中だけに遠望されるのであり、それも大抵は失われる運命にあります。何故か。人間は幸か不幸か主体的に生きようとするイキモノであり、無為自然が楽園であるのは最初の一定期間に限られ、やがて苦痛になるからです。確かに、自然が生み出してくれるものだけで満足して暮らせるならば、それは平穏無事で幸福な生活だと言えますが、自然はいつもそうした穏やかな面ばかり見せるわけではありません。地震や大雨などの災害をもたらす無慈悲な面も持ち合わせています。従って、たとい自然に楽園を見出すにせよ、人間は自然を常に穏やかであるように改作しなければならないのです。つまり、人間にとって楽園となる自然は、もはや荒々しい野生の自然そのものではなく、あくまでも人間の都合に合わせて改作された整然と制御された自然なのです。卑近な例を挙げれば、ゴキブリやムカデがうじゃうじゃいる手つかずの自然ではなく、そうした害虫が完全に駆除された清潔で快適な自然(水晶宮)のみが人間にとって楽園になるわけです。結局、無為自然の楽園は完全に失われたのであり、人間は自然の中で無為無力ではいられず、たとい微力ではあっても、自らの力で人工楽園を築いていくしかありません。そもそも人間がいれば、そこはもはや原理的に自然そのものではあり得ず、人間が憧れる「自然」もまたすでに人工楽園の一つと考えるべきでしょう。「無為自然の楽園」から追放された人間は人間の力でこの世界を楽園にすることを余儀なくされてきたのです。私はここに、人間の理想のアルカディアからパラダイスへの移行を見出します。

しかし、その結果どうなったか。科学技術に象徴される人間の力がこの世界を或る程度パラダイスにしてきたことは事実ですが、同時に人間を様々な局面で窮地に追い込んでいることもまた厳然たる事実です。人間の力は一体どこに向かっているのか。人間の力を無力化して、再び「無為自然の楽園」への回帰を望むべきか。果たして、それは可能なのか。