新・ユートピア数歩手前からの便り -90ページ目

無力の力(6)

現実派にとって、共同幻想は個人幻想を抑圧するものでしかないでしょう。殊に、因循姑息な古き村から解放された近代社会においては、個人の自由が至上とされ、個人の幸福追求こそが人生の目的になりました。しかし、エゴイズム渦巻く世界で、個人は本当に幸福に生きられるのでしょうか。何度も言及しているように、宮澤賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と述べています。賢治は更に「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する/この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか/新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある」と続けていますが、問題は「この新たな時代の集団社会宇宙が古き時代の個を抑圧する全体社会宇宙と具体的にどう違うのか」ということです。実際、個々バラバラの無縁社会に苦しむ現代人は良かれ悪しかれ全体との新たな結びつきを渇望し始めています。今年は3.11から早や十年とのことですが、あの時、個としての人間の無力さを徹底的に思い知らされた我々は「人間の絆」にこそ本当の幸福があると気づかされたとも言えます。しかし、絆は容易に束縛に転化します。と言うより、絆と束縛は表裏一体と考えるべきでしょう。少なくとも、現代人が求める全体との新たな結びつきが古き全体への回帰とはならぬ保証はありません。では、そのような醜悪な結果を繰り返さないためには、一体どうすればいいのか。正にそこで要請されるものこそ、無力の力なのです。

端的に言えば、古き全体では個としての人間の無力さだけが要請されます。それは滅私奉公の世界であり、個として無力化された人間は全体に尽くすことでしか生の充実を得ることができません。確かに、それも人間の一つの生き方であり、全体が本当に尽くすに値するものならば、特に問題はないでしょう。母校のため、会社のため、国のために生きることがそれなりの幸福をもたらすことは事実です。しかし、どんなに幸福な全体も決して長続きせず、やがて個を抑圧する不幸な全体へと堕していく運命にあります。だからこそ、全体に反抗し続ける近代的自我が生まれてくるのですが、それもやがて不幸なエゴイズムに堕していくのは先述した通りです。鄙見によれば、そこで求められるのは「個即全・全即個」の理想ですが、それは具体的に如何なるものか。

唐木順三は田辺哲学の種の論理に即して、次のように述べています。「種的社会は個の自由を拘束する基体でありながら同時に常に個の自由によって媒介され、拘束と媒介、基体にして主体的、静と動、保守と革新との交互関係の上に均衡を保つ。」私はここに賢治の言う「世界が一の意識になり生物となる方向」を重ね合わせたいと思います。ただし、この「一の意識」は厳密には「一即多・多即一の意識」と言うべきでしょう。例えば、絶対排他性を本質とする諸宗教が更に高い次元で一つになる可能性があるとすれば、それは無の宗教においてしかあり得ないと言われます。勿論、無の宗教は徹底的に無力であり、現実世界(水平の次元)で如何なる勢力を持つことなどありません。逆に言えば、何らかの勢力を有するならば、それは無の宗教ではないのです。しかし、そこには無力の力がある。これは宗教に限らず、政治についても同様で、唐木は「国際連合が根本において成立し得る基礎は、国家間の自主性を無の立場において否定することによって肯定するより外にない」と述べています。つまり、個々それぞれの力を「無の立場において否定することによって肯定する」ことが無力の力なのですが、これでは何のことかさっぱり理解できないでしょう。一度、出直します。

無力の力(5)

もし大日本帝国にもっと力があれば、大東亜共栄圏という共同幻想は実現していたでしょうか。同様に、もしナチスの勢力がもっと強大であれば、その第三帝国という共同幻想は実現していたでしょうか。甘い楽観主義との非難を承知の上で、私は敢えて「力の問題」ではないと言いたい。ナチスの第三帝国はさておき、歴史的にも地理的にもより身近な大東亜共栄圏に問題の焦点を合わせれば、その実現の成否は大東亜共栄圏という共同幻想の正当性(真の理想足り得るか否か)によると思われます。すなわち、もしそれが真の理想であるならば、日本の国力がどうであれ、と言うよりも如何なる国をも超越して、理想は自ずと実現します。この点、現実派と理想派では現状認識が決定的に対立するでしょう。前者は「理想など実現しないのが現実だ」と考え、後者は「現実に理想が実現しないのは、偏にそれが未だ真の理想に達していないからにすぎない」と反論するのです。結果、現実派は理想と絶縁して、問題を全て「力の問題」(バランス・オブ・パワー)として理解します。従って、現実派にとって、大東亜共栄圏の挫折は大日本帝国の崩壊(力不足)に起因するものでしかないことになります。これに対する理想派は、あくまでも問題を「大東亜共栄圏という共同幻想は真の理想に値するか」という問いとして理解します。言うまでもなく、先の大戦を欧米列強の帝国主義からアジアを解放する聖戦として戦った人も少なくなかったでしょうが、残念ながら日本もまた帝国主義の走狗と化してアジアを侵略したのは厳然たる事実です。しかし、私は断じて日本の侵略戦争を正当化するつもりなどないものの、大東亜共栄圏という共同幻想を「我々の理想」として改めて問い直すことは別問題だと考えています。実際、今でも東アジア共同体の可能性は様々な文脈で追求されており、それを大東亜共栄圏の亡霊だとする懸念はもはや時代錯誤でしかありません。問われるべきはそうした懸念よりも、東アジア共同体という共同幻想の理想としての質です。鄙見によれば、それが単なるブロック経済、すなわち東アジアのそれぞれの国益を核とする水平的理念にすぎないなら、決して「我々の理想」にはなり得ません。そもそも大東亜共栄圏というかつての共同幻想も、結局は帝国主義に基づく日本の国益を核とする夢想(野望)にすぎませんでした。夢は決して理想にはなりません。夢と理想の間には質的断絶があり、そこには水平的なものから垂直的なものへの実存的飛躍が要請されるからです。つまり、大東亜共栄圏という共同幻想が理想になるためには、東アジア諸国の国益という水平の次元を突き抜けて、東アジア全体の共栄、更には世界全体の共栄という垂直の次元へと飛躍していかねばならないのです。もはや誤解はないと思いますが、これは「それぞれの国益を犠牲にして世界全体に尽くせ」ということではありません。垂直の次元はそのような無粋な全体主義とは無縁です。と同時に、醜悪な個人主義とも無縁なのです。正に、そこに「個即全・全即個」の理想が求められる所以です。おそらく、現実派にとっては依然として、そうした理想は救いようのない妄想でしかないでしょうが、私はここで少なくとも「理想に個の抵抗はあり得ない」ということだけは明言しておきたいと思います。言い換えれば、個の抵抗がある限り、それは真の理想ではないのです。大東亜共栄圏然り。また、中国の一帯一路や他の広域経済圏構想にしても、そのブロックだけの共栄を目指すものであるならば、それは夢ではあり得ても決して理想にはならないでしょう。そこには必ず個の抵抗が生じてくるからです。では、個の抵抗を包摂する共同幻想とは何か。それは果たして真の理想になり得るのか。

無力の力(4)

思いつくまま問題を耕しているので、どうも論旨が錯綜してしまいます。それでなくても「無力の力」という理念は論理に反しており、その真意を表現することは至難の業です。しかし、今更焦ってみても仕方がないので、一つ一つ気になることから述べていくことにします。おそらく、「無力の力」という言葉で多くの人が連想するのは「無抵抗の力」でしょう。何かを実現しようとすれば必ず力が必要になります。それは当然のことであり、その実現に要する力を蓄えることが求められます。個人的な実現(個人幻想)でも社会的な実現(共同幻想)でも基本的には同様です。例えば、「プロ野球選手になる」という個人的な夢の場合、それを実現するだけの力が自分にあるかどうかが問題になります。生来の才能も力ですが、練習によってそれを実力へと磨き上げなければ単なる画餅にすぎません。逆に言えば、才能に恵まれなくても、努力してそれを補って余りある実力が得られれば、夢は実現するでしょう。才能以外にも、親の反対や貧困など、社会的・経済的な壁に直面することもあるでしょうが、個人幻想では偏に「様々な障壁を乗り越えられるだけの力が自分にあるかどうか」だけが問題になるのです。あれば夢は実現し、なければ断念するだけの単純な問題です。先述したように、共同幻想でも基本的には同様ですが、個人幻想における力不足は比較的容易に自覚できるものの、共同幻想における個人の力不足はそれを断念する決定的要因にはならないという違いがあります。共同幻想には個人の力を超える「我々の力」が求められ、それはほぼ無尽蔵だからです。従って、我々の共同幻想は実質的に見果てぬ夢と化し、それ自体の理由で断念されることなどあり得ません。もし断念を余儀なくされるとすれば、我々の夢の実現に反対する勢力が台頭し、その抵抗勢力が「我々の力」を上回る場合だけでしょう。つまり、自分たちの共同幻想における「我々の力」と他の共同幻想における「我々の力」との相剋です。しかし、ここで私が深く思い悩むのは、共同幻想の実現も個人幻想と同様に「力の問題」として理解すべきかどうか、という判断です。単なる「力の問題」であれば、我々は抵抗勢力を凌駕する力を得ることだけに集中すればいいでしょう。個人幻想の場合と同様、我々の力が優れば夢は実現し、抵抗勢力の方が優れば断念するしかない、という単純な問題です。しかし、私はどうも問題はそんなに単純ではないという気がしてなりません。つまり、共同幻想(我々の理想)の実現は単なる「力の問題」を超え、むしろ究極的には「無力の力」が問題になる、ということです。では、この実に理解しがたい問題を「無抵抗の力」との関連で思耕してみます。予め結論めいたことだけを言っておけば、「無力の力」と「無抵抗の力」は質的に異なります。

無力の力(3)

森羅万象、力の差というものがある。人間も例外ではなく、生まれつき力の強い者もいれば弱い者もいる。しかし、弱肉強食というのが自然の理ですが、人間は相互扶助による共生の理想を抱くことができます。強い者が弱い者を扶け、弱い者はそれを感謝して生きる。御恩と奉公。能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。そこに共生の一つのかたちがあることは間違いありません。しかし、それが真の共生なのか。我々が求めるべき真の理想なのか。

世界は強者と弱者で構成されています。そして、強者は弱者を食い物にして生きていきます。イキモノのレヴェルで言えば、人間はありとあらゆるものを食い物にして生きています。牛、豚、鶏、穀物、野菜――全ては人間に食われるために存在しているかのようです。実際に食われるかどうかは別にして、この世界が強者の利益のためにあることは否めません。食物連鎖のピラミッドは不動です。しかし、それにもかかわらず、人間は少しでも強くなりたいと思う。食われる存在ではなく、食う存在になりたいと望む。人間以外のイキモノには強者からは「逃げる」という選択しかなく、例えばシマウマはライオンから逃げ、ライオンのいない場所で平穏に暮らそうとします。多くの人間もまた同様の選択をするでしょうが、中には強者に反抗しようとする人間も出てきます。私はそこに人間の希望を見出しますが、同時に絶えることのない悲惨な戦闘の連鎖にも直面します。強者に反抗さえしなければ、弱者にも曲がりなりにも平穏な生活が可能であったのに、反抗はその生活を一変させます。群雄割拠の戦乱の世の始まりです。退屈な平和よりも活気のある戦争を望むかどうかは人それぞれ(その人の持つ力による)でしょうが、これまでの人間の歴史が「戦争と平和」の繰り返しであったことは厳然たる事実です。今は総じて平和だと言えますが、実際には戦間期、更に言えばもはや戦後ではなく、新たな戦争の戦前だと考えるべきでしょう。だからこそ、「麒麟の到来」が待ち望まれるわけですが、それは誰も手出しのできない最強の麒麟、すなわち「覇道の麒麟」なのか、それとも正義を思慮する哲学王としての「王道の麒麟」なのか。私はその何れでもない道を摸索して苦慮しているのです。

無力の力(2)

トラシュマコスによれば「正義とは強者の利益だ」とのことですが、彼の真意がどうであれ、その命題に一理あることは確かです。実際、プロレスラーのような大男に傍若無人に振舞われたら、弱者は手出しができません。強者が白を黒だと言えば、弱者はそれを受け容れるしかないのです。しかし、たといそれが現実だとしても、どうして強者の利益を正義だと言う必要があるのか。別に不正でも構わないのではないか。強者の利益が悪だとしても、弱者にそれを糾弾するだけの力はないからです。強者は堂々と悪を為せばいいのであって、それを正義だと正当化する必要などない筈です。そもそも一体誰に対して正当化する必要があるのか。唯一考えられるのは神という超越者ですが、その場合には神が強者以上の強者ということになります。これは明らかに論理的破綻です。トラシュマコスの命題は論理的に無神論を要請するのに、正義は強者の利益の正当性を問い質す神的存在を要請するからです。従って、ソクラテスが指摘するように、強者が自らの利益だけを主張するのは不正なのです。そして、強者は自分以上の強者が現れない限り、その不正を遠慮なく行うことができるでしょう。「神が存在しなければ、全てが許される」とはドストエフスキイの言葉ですが、それが人間の現実に他なりません。

さて、強者から弱者へと視点を移せば、無力な弱者は不正を極める強者にいつか神の鉄槌が下されることを願うでしょう。「驕れる強者は久しからず」とばかりに盛者必衰の理が徹底されるのを望むのです。しかし、これは弱者の利益を主張することであり、言わば弱者のルサンチマンにすぎないのではないか。もしそうなら、弱者が望む盛者必衰の理とはその実「今の強者を蹴落として、いつか自分が新たな強者に成り上りたい」という下剋上の欲望によるものだと言えます。もっと露骨に言えば、弱者の本音は「できれば自分も強者のように好き勝手に生きたい」というものなのに、自らの弱さゆえにそれが実現できないというルサンチマンから神に強者の断罪を願うだけなのです。尤も、神による断罪を期待するまでもなく、どんな強者も永久に好き勝手ができる独裁者であり続けることなど不可能であり、常に新たな強者によって引きずり降ろされる運命にあります。それを神の断罪と理解しても構いませんが、盛者必衰の理は「力への意志」の運命だと私は考えています。

何れにせよ、この世界が強者の利益のためにあるのが現実だとしても、それは正義ではない。そして、正義の世界を求め得るのは弱者だけです。勿論、強者であっても弱者の利益を思慮(フロネーシス)することはできます。それが哲人王なのかもしれませんが、鄙見によれば、そこに正義があるのなら、強者は自ら強者であることを否定しなければなりません。神学的にはケノーシスの運動ですが、最大の問題は「強者は強者のまま弱者を救うことはできず、さりとて弱者になれば強者に太刀打ちできなくなる」というディレンマです。ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」同様、力の概念の次元を根源的に問い直す必要がありそうです。

無力の力

物語の主人公はほぼ例外なく「力ある者」、すなわち何らかの能力に優れている者、場合によっては超能力者と相場が決まっています。ちなみに今や人気女優となった仲間由紀恵の出世作「ごくせん」の主人公ヤンクミもまた、どんな乱暴者も打ち倒せるだけの武術の力があったからこそ、不良生徒からも一目置かれる存在になったのではないか。勿論、ヤンクミには自分の生徒をとことん信じ切るという愛の力があり、それなくして不良生徒からの信頼を得ることはできなかったと思われます。つまり、ただケンカが強いという物理的な力だけでは、不良生徒から恐れられることはあっても、決して愛されることはなかったのです。その意味において、ヤンクミの教育は覇道ではなく、あくまでも王道であったと考えられます。覇道は相手を屈服させ、自分に従わせることはできるが、相互承認の愛の関係を築くことはできない。乱暴な不良生徒を屈服させ、教師に従順な優良生徒にするには覇道が最も有効でしょうが、教育の目的がそこにないことは明らかです。しかし、教育の目的が王道にあったとしても、それは果たして覇道なくして現実に機能するのか。もしヤンクミが武術の達人などではなく、乱暴者の前ではブルブル震えているだけの臆病者だったらどうか。どんなに深く生徒のことを思っていても、そんな臆病者の教師は生徒からバカにされるだけではないのか。おそらく、教育の現場に限らず、人間社会に覇道は不可欠だと思っている人は少なくないでしょう。いや、むしろ今でも「覇道の麒麟」を待望している人の方が多いかもしれない。しかし、本当にそれでいいのか。無力な人間は物語の主人公になることはあり得ないのか。

補足:王道の麒麟

すでに新しい大河ドラマ「青天を衝け」が始まっているのに、未だに「麒麟」に拘るのは何だか気が引けますが、一点だけ補足しておきます。真の麒麟、光秀が待ち続けた麒麟は本来「王道の麒麟」だった筈です。しかし、その理想は「誰も手出しのできぬ大きな国をつくる」という道三の帝国主義的野望と不幸な出会いをすることによって歪み、信長に体現されるような「覇道の麒麟」へと変質しました。それ故、光秀は本能寺の変を決断したのです。しかし、信長亡き後に天下をとった秀吉は明らかに「覇道の麒麟」だったし、ホトトギスが鳴くまで待った家康にしても、やはり「覇道の麒麟」だったのではないか。だとすれば、「王道の麒麟」はいつくるのか。渋沢栄一なのか。そもそも「王道の麒麟」とは何か。それは現実に有効に機能するのか。

余談ながら、帝国主義を克服した筈のロシア革命が生み出したソビエト連邦も結局は「覇道の麒麟」にすぎず、その崩壊後はその下でかろうじて平和を維持していた各民族の間で血で血を洗う紛争が噴出しました。ユーゴスラヴィア然り。こうした「ナショナリズムこそが人間の自然だ」という厳然たる事実からすれば、「覇道の麒麟」のみが平和を実現できるのであり、「王道の麒麟」などというものは単なる画餅の理想にすぎなのでしょうか。あるいは、「覇道でも王道でもない麒麟」という理想があり得るのか。正にその点に、ユートピアをめぐる問題の核心があるように思われます。

麒麟はくるのか

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が終わりました。私は当初、謀反人として影の存在という印象が一般的な光秀を主人公にして、果たしてドラマが成立するのかと訝っていました。しかし、どうやらその印象は覆され、新しい光秀像が生まれたように思います。その新しい光秀は終始一貫して平和主義者で、足利義輝から教えられた「戦乱の世を平らかにしてくれる麒麟の到来」を信じ、それを「誰も手出しのできぬ大きな国をつくる」という道三の夢に重ね合わせ、道三亡き後はトリックスターとしての信長に麒麟の可能性を見出すに至ります。やがて、その可能性は現実性へと移行するかに思われましたが、周知のように神をも恐れぬ魔物と化した信長に危機感を募らせた光秀は「本能寺の変」を決行します。問題は、「その後」です。信長が麒麟でなければ、麒麟はいつ来るのか。光秀は自分が麒麟になろうとして秀吉に敗れたのか。その点は明確に描かれず、むしろ意図的に含みを持たせた感じですが、「光秀生存説」という今回のドラマの結末は意外なものでした。すなわち、秀吉に敗れた後も光秀は生き延び、その後の家康による天下統一のために暗躍したことが仄めかされたのです。とすれば、結局、麒麟は家康だったということになりますが、果たしてそれでいいのでしょうか。

もとより史実などドラマにとっては二次的な問題で、架空の人物も少なからず登場します。「光秀生存説」も結構ですし、場合によっては「信長は本能寺の変以後も生きていた!」というドラマだってあり得ます。ただ、どんな展開も可能だとは思いますが、重要なことはそのドラマの核となる理想です。今回の「麒麟がくる」に限らず、戦国時代を描く大河ドラマには必ず固定観念とも言うべき一つの理想があります。古くは「徳川家康」に顕著でしたが、戦乱の世を終焉させるスーパーヒーローの登場という理想です。言うまでもなく、今回の大河では麒麟がそのようなスーパーヒーローだと目されるわけですが、従来の大河との違いはそれが架空の存在であったということです。光秀は架空の存在である麒麟という理想を何としてでも現実に見出そうとしました。信長に見出そうとしたが、信長ではなかった。では、誰が麒麟なのか。先述したように、ドラマの結末は三百年に及ぶ天下泰平の基礎を築いた家康に麒麟を仄めかすものでしたが、私はこうした戦国大河の常道に疑問を禁じ得ません。麒麟は「誰も手出しのできぬ大きな国をつくる」という道三流では決して来ないと思うからです。麒麟はリヴァイアサンではありません。確かにスーパーパワーを有するスーパーヒーローは平和をもたらし、大衆はそれを待望しているかもしれません。いや、現実にはそうした大衆の待望は益々熱を帯びてきている今日この頃です。しかし、それは大審問官の論理に屈服することでしかありません。それが真の平和だと言えるでしょうか。いや、「平和に真も偽りもない。真を求めて戦争が続くくらいなら、偽りの平和の方がいい」と思う人も少なくないでしょう。私とて理想を追求することの危険性は痛感しているつもりです。しかし、それにもかかわらず、私は理想を求めたい。真の理想社会を実現したい。そして、それはスーパーヒーローとしての最強の麒麟の到来を待望することではありません。むしろ、真の麒麟というものがくるとすれば、それは最強とは裏腹の無力な存在でしょう。饒舌な大審問官の前で沈黙し続けるイエスのような。

子供の精神(10)

私は明確な意志を以て子供を嫌う。大嫌いだ。電車の中で傍若無人に走り回ったり、泣き叫んでいる子供を目にすると、本当にウンザリします。しかしその反面、人の目を気にしてお行儀よくしている子供を見ると、感心するよりも何だか悲しい気分になります。全く矛盾しています。私は子供を憎んでいるのか愛しているのか。

中島みゆきの名曲「ファイト!」に「ガキのくせにと頬を打たれた少年の目が年を取る」という一節がありますが、大人になるとは基本的に「闘わない奴等」になっていくことでしょう。赤ン坊がその典型ですが、子供は気に入らないことがあるとすぐに泣き叫びます。そして自分の欲望が満たされるまで泣き叫び続けます。ミルクをよこせ。おしめを替えろ。赤ン坊なら、その欲求はほぼ無条件に満たされますが、やがて成長するにつれて「ガキのくせにと頬を打たれる」瞬間が訪れます。尤も、過保護な子供なら、そのような瞬間に永久に遭遇しないで済むかもしれません。しかし、一見幸福そうに見えても、それはむしろ極めて不幸なことだと私は思います。キルケゴールの言うように、瞬間は永遠のアトムであり、瞬間を回避することは永遠に生きる機会(チャンス)を逸することに等しいからです。とは言え、誰もがその機会を活かせるとは限りません。

それにしても、ガキのくせにと頬を打たれた少年の目はどうして年を取るのか。「ガキのくせに」と言うのは明らかに大人です。その要求はおそらく理不尽なものなのでしょう。当然、少年の態度は反抗的になる。結果、少年は大人に「ガキのくせに」と言われて、その頬を打たれるのです。そもそも「ガキのくせに」とは如何なる意味なのか。「ガキならガキらしく、大人の言うことには素直に従え!」ということでしょう。ただし、この段階では未だ少年の目は年を取っていません。「子供は大人に従うべし!」という大人の論理に対して「否!」と思って咄嗟に反抗的態度に出るも、結局その反抗を貫けずに沈黙してしまう。つまり、容易には反抗できないほど強大な大人の権力を前にして「闘わない」決断を余儀なくされた瞬間、少年の目は年を取るのです。以後、少年は「闘わない奴等」の一員として目出度く大人の仲間入りを果たし、やがて自分も「ガキのくせに」と口走るような人間になっていくのです。しかし、それで本当にいいのか。一つだけ別の可能性があります。それは「(大人の論理に屈した)悔しさを握りしめた拳の中、爪が突き刺さった」瞬間を少年が決して忘れないことです。その瞬間の痛みさえ忘れなければ、少年は大人になっても「子供の精神」まで失うことはないでしょう。

何れにせよ、私の子供に対する思いは極めてアンビヴァレントなものであり、私は子供を愛してると同時に憎んでもいるのです。と言うのも、「闘わない奴等」と化した大人に対抗し得るのは子供しかいないと思いながら、それは未だ精神以前の無垢の中で夢見ているような子供ではないからです。改めて、ツァラトゥストラが語る「駱駝-獅子-子供」という精神の三態に即して言えば、「闘わない奴等」と化した駱駝の大人が闘う獅子の大人になることは重要ですが、その闘いによって結実する理想には「子供の精神」が不可欠なのです。さもなければ、獅子の闘いは新たな駱駝を生むだけでしょう。南方仁も言うように、「憎しみからは憎しみしか生まれない」からです。我々の闘いが「闘わない奴等」に嗤われることなど別に大した問題ではありません。問題は決して憎悪の連鎖を生み出さないこと、これに尽きます。

子供の精神(9)

現在、テレビの深夜枠に「直ちゃんは小学三年生」というドラマがあります。今売り出し中の若手(とは言え、すでに三十台か)のイケメン俳優(とは言えぬ人たちも少なくない)が、大人の姿のまま半ズボンにランドセルという小学三年生の出で立ちで登場する奇妙なドラマです。こんな馬鹿げたドラマをつくるのはテレビ東京しかありませんが、その意図は何か。大人の人気俳優たちがそのままの姿で子供の世界を演じるギャップが面白いのか。だとしても、そのギャップを本当に楽しんでいる人がどれだけいるのか。世の中には「赤ちゃんプレイ」なるものがあると仄聞しますが、退行を楽しむ性癖があることは事実でしょう。しかし、単にそれだけなのか。大人が子供を演じ、それを見て楽しむ。踊る阿呆に、見る阿呆。これは世界の、そして人間の白痴化の兆候ではないのか。

さて、私が子供であった頃にも、「チャコちゃん」や「ケーキ屋ケンちゃん」など、子供の世界を描いたドラマはありました。しかし、それはあくまでも「子供が演じる子供の世界を子供が観て楽しむドラマ」でした。つまり、それは子供番組だったのです。それに対して、「直ちゃんは小学三年生」は深夜に放送されることからしても、明らかに大人番組です。つまり、「大人が演じる子供の世界を大人が観て楽しむドラマ」なのです。この差異は何を意味するのか。例えば「チャコちゃん」の場合、私の薄っすらとした記憶によれば、毎週繰り広げられるチャコちゃんの活躍に一喜一憂していたような気がします。つまり、ブラウン管の中で無茶なことばかりするお転婆なチャコちゃんに、子供の私はブラウン管の外からハラハラドキドキしながら共感していたのであり、そこにはブラウン管を挟んだ子供同士のシンクロがありました。しかし「直ちゃんは小学三年生」にそのようなシンクロなどあり得ません。結局、これは失われた子供の世界を大人が懐かしむドラマなのです。ただし、注目すべきは、そうしたノスタルジアも今や大人が子供を演じるという不条理によってしか得られない、ということです。実際、子供が演じる子供の世界は余りにも眩しすぎて大人はもはや見るに堪えないでしょう。しかし、それにもかかわらず、多くの大人たちは子供の世界に対してノスタルジアを禁じ得ない。現代社会(の大人たちの精神)は事程左様に荒廃しているということでしょうか。かかる白痴化から抜け出すためには、もう一度、子供の精神を凝視する必要があるように思われてなりません。