路地裏ユートピア(4)
路地裏の「深夜食堂」には様々な人たちがやって来る。二丁目のママにストリッパー、ヤクザもいれば売れない演歌歌手もいる。勿論、表通りでしっかり労働している人たちも足を運ぶ。別に飛び切り美味い料理があるわけではない。むしろ貧弱だ。表通りのチェーン店の居酒屋の方がメニューは豊富で、しかも安いだろう。店主の大将が気さくで親しみやすいというわけでもない。むしろ不愛想で余り喋らない。チェーン店の店員の方が明るくて元気がよく、しかもタブレットでの注文は気を遣わなくて済む。しかし、それにもかかわらず、或る種の人たちは表通りのチェーン店ではなく路地裏の「深夜食堂」にやって来る。何故か。そこに「魂のふるさと」を感じ取るからだ。それは単なるオアシス(癒しの場)ではない。確かに人生に疲れた少なからぬ人たちは「深夜食堂」で癒されるだろう。それは間違いない。しかし、それだけではない。それだけにしてはならない。サークル村の詩人は「東京へゆくな、ふるさと をつくれ」と歌ったが、失われた楽園である「魂のふるさと」は新しくつくるしかないのだ。その拠点としての路地裏。ユートピアは路地裏から生まれる。
路地裏ユートピア(3)
表通りを溌溂と歩いている人は強い人で、路地裏で蹲っている人は弱い人だと相場が決まっている。極端な場合、後者は人間失格の烙印を押されたりもする。それでも心優しい表通りの人たちはそんな人生の落伍者に温かい声援を送る。「負けちゃダメですよ。一日も早く社会復帰して下さいね。頑張れ!」しかし、何をどう頑張ればいいのか。おそらく、社会復帰とは路地裏から再び表通りに出て来ることを意味するのであり、要するに「もっと強くなれ!」ということだろう。結局は力の問題だ。全て、力がないから駄目だと見做される。しかし、本当にそうか。Arbeit macht frei! 確かに力がつけば強くなり、表通りでバリバリ労働もできるだろう。そして労働すればするほど収入が増えることを楽しみに生きる。やがて日々の暮らしも楽になる。労働が正当に評価される社会、そこに表通りのパラダイスがある。上を見ればキリがないが、少なくとも路地裏よりマシ だと誰もが思う。それが人間の幸福というものか。大半の人はそう思って満足するかもしれない。しかし、どうしてもそう思えず、それとは別の幸福を求める人たちがいる。その人たちは表通りを拒絶して、敢えて路地裏に赴く。弱いからではない。ユートピアは路地裏から生まれる。
路地裏ユートピア(2)
路地裏に何がある。そこに行けば、何かいいことでもあるのか。表通りを歩けなくなった負け犬どもが管を巻いているだけではないか。見苦しい。そんな惨めな連中の仲間になるくらいなら、いっそ電車の線路の方がマシだ。さもなければ都会を離れて田舎に行く。競争に疲れ切っているのなら、競争のない世界に行けばいい。勿論、田舎に行ったところで競争から逃げ切れるわけではない。田舎にだって表通りはあるからだ。実際、表通りのない田舎となると、かなり山奥にまで逃げ込まなければならない。しかし、たとい逃走に成功して競争相手が誰もいない曠野に辿り着けたとしても、今度は大自然の中で一人生きる自分自身との戦いが待っている。他律からの逃走は自律の闘争をもたらすだけだ。そして、自律は他者との関係なくし ては成らない。そもそもヴォワイヤンの詩人の言うように「自己も一個の他者だ」とすれば、他者からの逃走は不可能だ。引きこもりは他者からの不完全な逃走にすぎない。己事究明のための引きこもり(面壁九年!)は必要不可欠だが、最終的には街に下りて来なければならぬ。十牛図の入鄽垂手(にってんすいしゅ)、もしくはツァラトゥストラのように。では、街で何をするのか。新しき関係を築くのだ。それは「未だないもの」であり、当然今の表通りには見当たらない。だから路地裏に行く。そこは迷いの巣窟だが、表通りにはない可能性がある。新しきものを生み出す無力の力がある。ユートピアは路地裏から生まれる。
路地裏ユートピア
路地裏からユートピアは生まれる。表通りを歩いている人たちはパラダイスにしか興味がない。パラダイスとは何か。殆どの人にとって、それは経済的に豊かになって幸福を手に入れることだ。ただし、その幸福にも格差があり、基本となる衣食住の欲望をできる限り高いレヴェルで満たしたいと願うのが一般的だ。かくして少しでも高次のパラダイスを目指す競争が始まる。そのためには力をつけなけれ ばならぬ。元々才能に恵まれている人は、それを活かすことで幸福になれるだろうが、これと言った特性のない凡人は偏差値の高い大学を出て、社会的に一流と言われる会社に就職し、高収入を獲得することがパラダイスへの本道となる。その本道こそ社会の表通りに他ならない。多くの人たちが表通りを歩いている。いや、必死に走っている人の方が多いようだ。中には疲れ果てて途中棄権する人も少なくない。そんなボロボロになった人たちには表通りから離れて路地裏に来て欲しい。電車の線路に向かう前に、一刻も早く路地裏に来て欲しい。ユートピアは路地裏から生まれる。
せんべろユートピア
私の拙い便りなど、殆ど誰にも読まれないので勝手なことばかり書き散らしていますが、それにしてもこの不人気は何故か。勉強不足による未熟な内容とその表現の仕方に難のあることは百も承知です。しかし、どうもそればかりだけではないような気がしてなりません。新しき村についての私の提言も同様ですが、理解されるどころか、情熱を込めて訴えれば訴えるほど反感を買う始末です。これは一体どうしてなのか。私はずっと自問してきましたが、最近その謎を解く一つのヒントに巡り合いました。それは佐高信氏が司馬遼太郎と藤沢周平の違いについて述べている次のような文章です。
「二人の対比を象徴的に言えば、江戸城は誰が造ったのかという問いに、太田道灌と答えて迷いがないのが司馬さんで、大工と左官と答えてそれを笑い話にしないのが藤沢さんだろう」
かつて鳶職だった老人がお孫さんを連れて東京タワーに行き、「これはお爺ちゃんが造ったんだよ」と自慢している実に微笑ましい光景も、一般的には笑い話の一つにすぎません。野暮を承知で言えば、確かに鳶職だった老人は東京タワーの鉄骨の一部を組み立てたことは事実でしょうが、その事実と「東京タワーをつくる」ということとの間には質的な断絶があるからです。その断絶があるからこそ、老人の自慢は笑い話になるのです。しかし、藤沢周平はそれを笑い話にしなかった。本気で「東京タワーを造ったのは名もなき鳶職たちだった」と考えていた。ここに見出されるのは通常の価値観の転換です。つまり、江戸城にせよ東京タワーにせよ、通常はその「かたち」を生み出した者が一次的に重要とされ、それに基づいて作業するだけの職人たちは二次的な存在でしかないのです。それが藤沢周平の世界では見事に逆転している。サグラダファミリアをつくっているのはガウディではなく、あくまでも無数の職人たちだという現実、そこにこそ藤沢周平の原点があると言ってもいい。おそらく、私に反感を抱く人々もこうした藤沢周平的関心、すなわち日々黙々と額に汗して働く名もなき市井の人の生活にこそ人生の価値があると思っているのではないでしょうか。この価値観からすれば、私の主張は「かたち」を重要視する司馬遼太郎的関心ばかりに囚われて、そこで生活している村人の現実を無視していることになるでしょう。
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確かに、太田道灌がどんなに立派な江戸城の「かたち」を構想しても、大工や左官がいなければ江戸城は現実に存在しません。しかし同時に、「かたち」の構想がなければ、大工や左官も現実に働くことができないでしょう。「かたち」(イデア)とその現れ(現象)は元来相即すべきものであり、二元論的に分離すべきではないのです。ただし、佐高氏が司馬と藤沢の作品世界を対比させたように、そこに価値観の対立が生じてくるのは事実です。ここで改めて「新しき村をつくったのは誰か」と問い直せば、私個人としてはあくまでも実篤だと答えたい。新しき村の「かたち」を構想したのは実篤に他ならないからです。勿論、実篤一人だけでは新しき村は成らず、そこで黙々と農作業に励んできた無数の人たちがいなければ村の百年はなかったでしょう。その意味では「新しき村をつくったのは名もなき村人たちだ」と言えるのも事実です。おそらく、誰もその事実を否定できないでしょう。私とて同様です。しかし問題は、今の毛呂山が新しき村の「かたち」を忘却し、そのイデアがあらゆる面で形骸化しているという現実です。これはもはや藤沢が重視した現実でさえありません。
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実際、私も藤沢作品の愛読者ではありますが、私の究極的関心は明らかに司馬的です。つまり、司馬が「この国のかたち」にこだわり続けたように、私は「理想社会のかたち」を問題にし、その「かたち」を実現しようとする運動を自らのライフワークにしたいと思っているのです。ただし、これは決して藤沢的関心を蔑ろにすることではありません。先述したように、二つの関心は本来相即すべきものなのです。余談ながら、司馬作品で描かれる人物はたびたび大河ドラマの主人公に抜擢されるのに対し、藤沢作品の人物がそのような晴れの舞台に登場することはありません。勿論、だから司馬作品の方が優れているということではなく、両者の作品の次元は質的に全く異なるのです。司馬作品が、戦国時代にせよ幕末から明治にかけての時代にせよ、社会の新しき「かたち」をつくろうと奔走した人間たちのドラマであるのに対し、藤沢作品は現にある社会の中で懸命に生活している民衆のドラマであるという次元の違いです。ちなみに、今年の大河ドラマ「青天を衝け」は司馬作品ではありませんが、渋沢栄一を主人公とするドラマは極めて司馬的だと思われます。そのことを象徴する場面が先日ありました。それは幕末の混迷を深める社会を正すために武士になろうとする若き渋沢栄一と「俺は世の中がどうであろうと百姓に徹するだけだ」と言う父との対比です。おそらく藤沢周平であれば、世の中を変革しようと血気盛んな栄一ではなく、静かに百姓に徹する父に注目するでしょう。繰り返しになりますが、こうした関心の違いは断じて優劣の問題ではないものの、そこから価値観の違いが分泌されてくるのは否めません。そして、そこにこそ私のユートピア論に対する反感の根があると私は考えています。
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何れにせよ、司馬的関心と藤沢的関心は本来相即すべきものであるとは言え、次元の異なる関心の相互承認は至難の業です。やはり当分私に対する黙殺は続くでしょうが、私が常に求めているのはあくまでも司馬的関心と藤沢的関心のcoincidentia oppositorumに他なりません。具体的には、せんべろで管を巻いている人たちから生まれてくるユートピアです。尤も、せんべろの連中が当面求めるのはパラダイスでしょうが、それが破綻した後の「理想のかたち」こそが問題なのです。せんべろユートピアは相変わらず前途多難です。
補足その十:「無力の力」と「力の無力」
暴力には暴力で抵抗しない(無抵抗)という抵抗は通常の抵抗以上の力を要する。殴られても殴り返さない。また殴られる。逃げない。また殴られる。そんな具合に逃げないで殴られ続けるのは至難の業だ。殆ど不可能だと言ってもいい。殴られるのならまだしも、レイプだったらどうだろう。当然、レイプされそうになって抵抗しないわけにはいかない。たといその抵抗によってレイプしようとした人間が死に至ったとしても、それは暴力ではない。法的には「正当防衛か過剰防衛か」という問題があるにせよ、基本的に防衛本能による抵抗は暴力ではないと思われる。しかし、防衛本能を更に拡大解釈して「自らの生命を維持するための本能」とすればどうか。我々は生きていくためには食わなければならない。食うとは他のイキモノの命を奪うことだ。これは食われるイキモノたちにとっては明らかに暴力であろう。しかし、どうしようもない。食まで暴力として否定すれば生きていけず、我々はジャイナ教徒になるしかない。それが真理かもしれないが、その真理は我々の生きようとする本能に反する。我々の生は暴力なくして維持できないことを思い知るべきだろう。食うか食われるか。弱肉強食。暴力が渦巻くこの世界で無抵抗とか非暴力などと寝惚けたことを言っていれば、たちまち自分が食われてしまうに違いない。強くならねばならぬ。他に食われないように、他を圧倒する力をつけねばならぬ。勿論、強くなって自分に対する暴力を排することができたとしても、自分も食わずには生きていけない以上、自分の存在自体が暴力であることを自覚せねばならぬ。かくして我々は非暴力など原理的に不可能だという絶望からの再出発を余儀なくされるわけだが、それでも少なくとも人間世界における「力ある者と力なき者との関係」だけは何とかしたいと思う。言わば、「主と奴の弁証法」を核とする「強者と弱者の関係」の一新だ。もはや強者が弱者を支配する時代は幕を閉じなければならぬ。ただし、それは弱者が力を合わせて強者を打倒することによってではない。「強者と弱者の関係」の転倒ではなく、力の支配そのものを超克すべきだ。甘いと言われようが空想だと嗤われようが、単なる「力の無力」だけではない次元は「無力の力」によって一新されると信じたい。
補足その九:「無力の力」と非暴力
「補足その三」で述べたように、無抵抗は自然に反する運動ではあるが、さりとて臆病風に吹かれた抵抗からの逃走ばかりでもなく、その究極の形態においては一つの抵抗でもあり得る。そもそも抵抗は或る力が暴力と化すことから始まる。力そのものは悪くはない。と言うより、生きていくのに力は不可欠だ。しかし過剰な力は禍(わざわい)をもたらす。雨は人間生活に必要なものだが、過剰な大雨は災害をもたらすように。通常は恵みと見做される自然の力が時に暴力と化すことに対して、抵抗の意志はあっても人間は如何ともし難い。自然に起因する暴力に関して抵抗はほぼ不可能であり、速やかに避難するのが得策だ。自然の力は余りにも大きすぎる。それでも結果的に無抵抗に等しき結果になったとしても、人間は決して抵抗の意志を失うことはないだろう。将来、自然の暴力を制御できる力を人間が獲得できるかどうか、できるとしてもそれが正しいことなのかどうか、未だ思耕すべきことは尽きない。しかし、当面の課題は人間に起因する暴力だ。或る特定の人間の力が過剰になり、やがて暴力と化す。更にそれが多くの人に支持されて大きな権力と化す時、我々はどうすべきか。我々もその大きな権力を支持する側にまわるべきか。それは大自然の暴力からの避難と同様に得策なのかもしれない。長い物には巻かれろ!しかし、それで本当にいいのか。平穏無事を願うのはイキモノの自然だが、人間的自然はそれに反するものだと私は信じたい。少なくとも私はその信念に基づいて理想を追求してきた。従って、人間の暴力に対して私は徹底的に抵抗する。そこに疑念の余地はない。しかし問題はその後だ。抵抗は当然、力の行使に他ならない。暴力に抵抗する力もまたやがて暴力に転化していくという運命、それは幾度となく歴史に繰り返されてきた。その運命について深く思耕してきた結果、私は先人たちが辿り着いた一つの理想に注目する。無抵抗。それがその理想だ。言うまでもなく、理想としての無抵抗は抵抗の放棄ではない。あくまでも非暴力を核とする「無力の力」による起死回生の運動なのだ。
補足その八:「無力の力」と筋力
MLBでも投打の二刀流で大活躍の大谷翔平選手だが、投手としては時速百六十キロを超える速球が注目を集めている。勿論、好投手の条件は速球だけではないが、かつて野球少年であった私には速球投手への特別な思いがある。やや大袈裟だが、それは美学だと言ってもいい。しかし、私自身の野球選手としての挫折と同時に、おそらくその正当化によって、速球投手への美学は崩壊した。「ピッチングマシンなら、どんなに凄い速球だって投げられる」という思いが私の挫折の正当化だった。実際、人間は時速何キロまでの速球を投げられるのだろうか。大谷選手は身長二メートル近い大男だが、今後どんなに筋肉を増強してもマシンには勝てないだろう。また、勝つ意味もない。人間にとって真に重要な問題は筋力の次元を超えているからだ。確かに筋力は必要だが、極端な話、それは全てマシンで代行できる。人間が本当に為すべき仕事はマシンにはできない。それは単に物理的な仕事だけではない。AIはすでに人間の知を上回っているかもしれないが、それでも人間にしかできない仕事がある、必ずあると私は 信じている。それが「無力の力」による仕事、筋力を必要としない仕事に他ならない。唐突な例を一つ。五十年前、三島由紀夫は憲法改正を訴えて割腹した。そして五十年後、自民党勢力によって憲法改正が実現しようとしている。この二つの憲法改正は果たして同じ仕事であろうか。私は憂慮を伴った深い疑念に沈み込む。
補足その七:「無力の力」と弱い正義の味方
私は幼い頃から正義の味方に憧れてきた。単に憧れるだけではなく、できれば自分もそうなりたいと密かに願ってきた。しかし、悪人どもがいなければ正義の味方にはなれない。そして、悪人どもをやっつけるためには力が必要になる。だから、正義の味方は誰よりも強くなければならない。弱い正義の味方、颯爽と登場しても悪人どもに簡単に返り討ちにあうような無力な正義の味方では意味がない。力こそ正義の味方の条件だと言ってもいい。しかし、だからと言って、力ある者が全て正義の味方とは限らない。強い鉄人28号も、その操縦機が悪人どもに奪われれば悪の手先と化す。力は必要だが、正義の味方に絶対必要なものではない。むしろ、真の正義は力がなくてもその意味を輝かせる力を有するものではないか。つまり、単なる無力ではなく「無力の力」を有するもの。とは言え、それは詭弁ではないか。実際、プロレスラーのような大男の悪人を弱い正義の味方が成敗できるのか。できる道理がない。逆に酷く殴られるのがオチだろう。場合によっては、殺されるかもしれない。しかし、実篤は「殺されても死なないもの」と言っている。そんな荒唐無稽なものは童話に存在するだけの子供騙しの空想にすぎないのか。弱い正義の味方はきっと強い悪人に殺されるだろう。それにもかかわらず、それでも正義は死なない、と信じることができるのか。できるとすれば、その信じる力が「無力の力」となる。甘い!甘い!甘い!それを百も承知の上で信じなければ、何も本当には始まらない。
補足その六:「無力の力」と多様性
正直に告白すれば、私にはLGBTの世界がよく理解できない。差別ではないと思うが、違和感は残り続ける。マンガの世界ではすでにBLやらLGBTの世界は極めて自然なものとして描かれており、それを原作としたテレビドラマ(最近では「きのう何食べた?」、現在放送中のものでは「カラフラブル:ジェンダーレス男子に愛されています。」)も総じて好評を博している。少なくとも、かつて「ホモ雑誌」と称されたもの(今でもあるのだろか)に見られたような陰湿な変態性はもはやない。つまり、LGBTは今や変態ではなく、あくまでも正常な健康性としての市民権を得ている、ということだ。しかし、本当にそうか。それでいいのか。単にLGBTを差別してはいけないという義務感がそう思わせているだけではないか。確かに時代は変わった。かつての「ホモやレズはヘンタイだ」という自然の情は表向き一掃され、むしろそうした傾向性は社会常識に反する時代遅れの感情と見做される。おそらく、「男らしさ」、「女らしさ」、「人間らしさ」についても同様のことが言えるだろう。しかし、それではSollenはどうなるのか。もはや「男はかくあるべし」、「女はかくあるべし」、「人間はかくあるべし」などと言うことは無意味(ナンセンス)であろうか。私は、人間を含めたあらゆる存在者の多様性を認める。LGBTという存在形態も認める。私には理解できないものとして認める。更に、誤解を恐れずに言えば、多様性を認めるためにLGBTに正常性を見出す必要はないと考える。変態上等。我々は皆、何かしら変態ではないか。全ての存在形態に正常性を見ようとすることは「全ての牛を黒くする暗闇」ではないか。ヘーゲルは「同一性と差異性の同一性」を問題にしたが、真の多様性においては「同一性と差異性の同一性と差異性の同一性と差異性の同一性…」という無限の運動が問題になる。そして、同一性の力と差異性の力(厳密に言えば、同一性に反抗する力)との拮抗が「無力の力」となり、それが多様な存在者の存在を基礎づける。