補足その六:「無力の力」と多様性
正直に告白すれば、私にはLGBTの世界がよく理解できない。差別ではないと思うが、違和感は残り続ける。マンガの世界ではすでにBLやらLGBTの世界は極めて自然なものとして描かれており、それを原作としたテレビドラマ(最近では「きのう何食べた?」、現在放送中のものでは「カラフラブル:ジェンダーレス男子に愛されています。」)も総じて好評を博している。少なくとも、かつて「ホモ雑誌」と称されたもの(今でもあるのだろか)に見られたような陰湿な変態性はもはやない。つまり、LGBTは今や変態ではなく、あくまでも正常な健康性としての市民権を得ている、ということだ。しかし、本当にそうか。それでいいのか。単にLGBTを差別してはいけないという義務感がそう思わせているだけではないか。確かに時代は変わった。かつての「ホモやレズはヘンタイだ」という自然の情は表向き一掃され、むしろそうした傾向性は社会常識に反する時代遅れの感情と見做される。おそらく、「男らしさ」、「女らしさ」、「人間らしさ」についても同様のことが言えるだろう。しかし、それではSollenはどうなるのか。もはや「男はかくあるべし」、「女はかくあるべし」、「人間はかくあるべし」などと言うことは無意味(ナンセンス)であろうか。私は、人間を含めたあらゆる存在者の多様性を認める。LGBTという存在形態も認める。私には理解できないものとして認める。更に、誤解を恐れずに言えば、多様性を認めるためにLGBTに正常性を見出す必要はないと考える。変態上等。我々は皆、何かしら変態ではないか。全ての存在形態に正常性を見ようとすることは「全ての牛を黒くする暗闇」ではないか。ヘーゲルは「同一性と差異性の同一性」を問題にしたが、真の多様性においては「同一性と差異性の同一性と差異性の同一性と差異性の同一性…」という無限の運動が問題になる。そして、同一性の力と差異性の力(厳密に言えば、同一性に反抗する力)との拮抗が「無力の力」となり、それが多様な存在者の存在を基礎づける。