無力の力
物語の主人公はほぼ例外なく「力ある者」、すなわち何らかの能力に優れている者、場合によっては超能力者と相場が決まっています。ちなみに今や人気女優となった仲間由紀恵の出世作「ごくせん」の主人公ヤンクミもまた、どんな乱暴者も打ち倒せるだけの武術の力があったからこそ、不良生徒からも一目置かれる存在になったのではないか。勿論、ヤンクミには自分の生徒をとことん信じ切るという愛の力があり、それなくして不良生徒からの信頼を得ることはできなかったと思われます。つまり、ただケンカが強いという物理的な力だけでは、不良生徒から恐れられることはあっても、決して愛されることはなかったのです。その意味において、ヤンクミの教育は覇道ではなく、あくまでも王道であったと考えられます。覇道は相手を屈服させ、自分に従わせることはできるが、相互承認の愛の関係を築くことはできない。乱暴な不良生徒を屈服させ、教師に従順な優良生徒にするには覇道が最も有効でしょうが、教育の目的がそこにないことは明らかです。しかし、教育の目的が王道にあったとしても、それは果たして覇道なくして現実に機能するのか。もしヤンクミが武術の達人などではなく、乱暴者の前ではブルブル震えているだけの臆病者だったらどうか。どんなに深く生徒のことを思っていても、そんな臆病者の教師は生徒からバカにされるだけではないのか。おそらく、教育の現場に限らず、人間社会に覇道は不可欠だと思っている人は少なくないでしょう。いや、むしろ今でも「覇道の麒麟」を待望している人の方が多いかもしれない。しかし、本当にそれでいいのか。無力な人間は物語の主人公になることはあり得ないのか。