新・ユートピア数歩手前からの便り -92ページ目

ラディカルな愚者(9)

私がここで問題にしている愚者の可能性は、映画「レインマン」で描かれているようなサヴァン症候群ではありません。ちなみに、かなり以前のことですが、私が名古屋で不登校生を対象にした高校で教師をしていた時、サヴァン症候群に似た生徒に出会ったことがあります。一口に不登校生と言っても、その理由は様々で複雑な要因が絡まっていると思われますが、その生徒は一応LDLearning Disability:学習障害)と見做されていました。彼に限らず、不登校生は総じて学習内容を殆ど理解しないまま中学から押し出されてきただけなので、高校レヴェルの授業など成り立つ道理がありません。従って、生徒の大半は授業中マンガなどを読んでいるか居眠しているかのどちらかで、およそ学習意欲というものがないのです。そんな雰囲気の中で途方に暮れた怠け者の私は、窮余の一策として当時人気の出始めたパズル雑誌に救いを求め、そこからコピーした問題をいくつか生徒たちに配りました。すると多くの生徒が興味を示し、熱心に取り組んでくれたのです。ただし、幅広い知識が要求されるクロスワードパズルは敬遠され、単に文字を埋めていくだけのスケルトンが一番人気でした。それは「単に文字を埋めていくだけ」とは言え、決して簡単ではありません。数独ほどではないものの、縦と横のマス目の数を考慮してそれなりの試行錯誤が必要になります。しかし、或る生徒はまるで試行錯誤など無用であるかのように次から次へと文字を埋めていくのです。「そんな考えもなしにポンポン入れたら絶対に行き詰るに決まっている」と半ばバカにしながら傍らで眺めていると、驚いたことにそれが見事にクリアしてしまうのです。マグレだと思って別の問題を渡しても、やはり同じようにクリアします。どうしてそんなことができるのか、未だにわかりません。将棋や囲碁の名人には凡人には想像できない盤上の光景が見えているように、その生徒にもスケルトンの完成図が直感的に見えるのかもしれません。つまり、考えてやれば或る程度の時間を要する作業を、彼は直感的に瞬時にできてしまうのです。これをサヴァン症候群と言えるのかどうか定かではありませんが、考えて正解を出す普通の教科はまるでできない劣等生のスペックには本当に驚かされました。

しかし、先述したように、私が問題にしたい愚者の可能性はそうしたスペックではないのです。確かに、それは理性では割り切れない驚くべき能力であり、「愚者」と一般的に称されている人々の中に隠れた才能の持ち主がいることは間違いありません。しかし、その才能は所謂「学校の勉強(実質的には受験勉強)はできないがスポーツもしくは芸術・芸能の才能はスゴイ!」ということであり、基本的に既存社会の枠内のドラマにすぎません。SFには、非凡なスペックを有する超人たちが凡庸な人間を支配して新しい社会をつくるというようなドラマがありますが、これも基本的には強者(金持)が弱者(貧乏人)を支配する構図から一歩も出ておらず何ら新しさが感じられません。余談ながら、日本では東大生が優等生の象徴ですが、これといったスペックのない凡庸な人間が社会的成功(立身出世)を収めるためには地道に受験勉強をして東大生になるしかないとも考えられます。クイズ番組が正解者を裏切らないように、受験勉強も学生を裏切りません。しっかり勉強すれば、それなりの結果は出るのです。勉強を着実に持続できるということも一つの才能であり、それは野球や音楽の才能と変わりません。結局、人間の能力は様々で、受験勉強の尺度では「愚者」でしかない人間にも隠れた才能があるということですが、その才能が東大生の顔色なからしめるものであったとしても別に問題ではありません。ただ、東大生より優秀な「愚者」がいるというだけのことです。問題は、優劣の尺度の相対化もさることながら、優劣の次元そのものの超克に他なりません。「アルジャーノン」も「レナードの朝」も言わば「愚者が薬物によって優秀になるドラマ」にすぎず、そこには愚者の本当の可能性はないと私は考えています。強いて言えば、それは「フォレスト・ガンプ」に見出されるでしょう。

ラディカルな愚者(8)

愚者は躓く。何度も躓いて、やがて身動きが取れなくなる。学生なら不登校になり、やがて自分の部屋に引きこもることになります。何とか頑張って学校を卒業しても、会社などの職場で再び躓いて、結果的に引きこもりになる人も少なくないでしょう。「少なくない」どころか、今や中高年の引きこもりは六十万人を超え、今後益々増える傾向にあると言われています。この悲惨な現実において、愚者は如何に生きるべきか。難しい問題ですが、一つだけ明白なことがあります。若者にせよ中高年にせよ、その引きこもりを持続可能にしている親の経済力は無限ではないということ、すなわち引きこもりたちの言わば「生命維持装置」である親もいつかはいなくなる運命にある、ということです。その時、どうするか。「生命維持装置」の停止とともに自分たちの生命も停止させるのか。すでにそうした結果は現実に報道されていますが、それは正に「愚の骨頂」に至る道からの逃走です。どんなイキモノでも、自分の生命が危機に瀕すれば何とか生きようとして、もがいて、もがいて、最後までもがき続けるでしょう。それなのに人間の引きこもりは往生際が良すぎます。その点、トランプの往生際の悪さは見事であり、躓きを決して認めない厚顔無恥は愚者も少しは見習うべきかもしれません。しかし、愚者にとって、見習うべきはあくまでも生への飽くなき執著であって、躓くことの否定ではない。むしろ、躓くことの徹底、すなわち「愚の骨頂」を極めることこそ愚者の為すべきことなのです。この世界に躓くことは正しい。ただし、その正しさは「正解」ではない。「正解」はやはり、頑張って既存社会の価値観にしがみついて、トランプのように成功することでしょう。それにもかかわらず、愚者は「正解」に躓く。躓き続けねばならない。これは過酷な道であり、私自身、愚者であり続けることに自信がありません。どうしても「正解」を求めてしまう。できれば、先述したような確固たる「正解」のあるクイズ番組のような世界で頑張りたいと思う。事実、クイズ番組は正解者を決して裏切りません。最終問題まで正解した者は万人に優勝者として認められ祝福されるのです。そこに生の充実があることは確かです。しかし、人生はクイズ番組ではない。少なくともクイズ番組の「正解」に躓かざるを得ない愚者は単なる不正解者ではない。愚者はいつも遥か遠くを見ている。未だない景色を見ようとしている。それは早々と「正解」に辿り着いた人たちにとっては「愚の骨頂」でしょう。然り! 愚者は「愚の骨頂」での景色を見ようとしているのです。

ラディカルな愚者(7)

相変わらずのドラマ中毒で、ドラマ以外のテレビ番組は殆ど観ませんが、時々ドラマの前に放送しているクイズ番組を垣間見ることがあります。最近の解答者は東大生やら有名大学出身の芸能人やらが主流で、「東大生はやっぱりすごいなぁ」とか「いつもはアホなことばかりしているお笑い芸人も案外頭がいいんだ」などと視聴者を楽しませて結構人気があるようです。私自身も、今は全くと言っていいほど興味がなくなりましたが、幼い頃は家族と一緒に観るクイズ番組は楽しかったという思い出があります。何故、楽しかったのか。皆で同じ問題を考える家族団欒もさることながら、やはり自分の答えが正解だった時の充実感でしょう。しかし、その充実感も傍らで「よくわかったね!」とか「天才!」と言ってくれる誰かがいて初めて本当の充実感になるのではないか。少なくとも私は一人きりでクイズ番組を観る気にはなれません。せっかく自力で難問に正解しても、それに驚いてくれる他人がいなければ中途半端な自己満足で終わってしまうからです。勿論、自己満足とは無縁に、純粋にクイズ番組を楽しんでいる人だっているでしょう。それは野球やサッカーなどのスポーツ中継と同様に、そこで頑張っている人に感情移入して楽しんでいるのです。とすれば、ドラマもスポーツ中継もクイズ番組も基本的には同じだということになります。言い換えれば、スポーツ中継やクイズ番組が面白いとすれば、それはそこにドラマがあるからです。スポーツについてはさておき、ここではドラマとして観た場合のクイズ番組について少し考えてみます。

当然のことながら、トロッコ問題などとは違って、クイズ番組の大前提は確固たる正解があることです。どんな難問にも必ず万人が納得する正解があり、解答者は制限時間内に何とかして正解に辿り着こうとします。そこにドラマが生まれる。それは基本的に競争のドラマであり、個人戦にせよ団体戦にせよ、一般常識の単純問題からやや専門的な複雑問題に至るまで、できるだけ多くの正解を積み重ねて得点を競うのです。そして、高得点者は「秀才」として尊敬され、逆に簡単な問題さえ間違えてしまう愚か者(大抵はアホ芸人かアイドル、多分にヤラセの可能性あり)は「バカ」だと嗤われます。この格差が大きければ大きいほど、お茶の間の笑いを誘うわけですが、これは現実社会の戯画化に他なりません。すなわち、学校では様々な試験問題で得点を競うことを余儀なくされ、その結果は精確に数値化されて成績の格差(偏差値)に反映します。そして、クイズ番組と同様に、優等生は「秀才」として尊敬され、劣等生は「バカ」だと嗤われるのです。会社でも基本的に同様で、所謂「勝ち組」と「負け組」の格差のドラマは今や定番化しています。ただし、学校カーストにせよ会社カーストにせよ、現実には存在していても建前としては否定されます。殊に学校という教育の現場では、「人間は平等」という原理原則をあからさまに否定することはできず、従って見て見ぬふりをして受験の競争をもたらす不平等な現実を容認するのです。この現実が問題なのは、親や教師のみならず、生徒自身もそれを容認していることです。実際、これだけ競争社会の弊害が明白になっているのに、本気でその超克を求めている人は極めて稀です。その一因は競争の対極を成す共生という理想のヴィジョンが未だ具体的に表現されていないことにありますが、端的に言えば、人々は競争原理を捨てることが怖いのです。例えば、競争原理を捨てて「ゆとり教育」を導入してどうなったか。結果的に日本の教育水準は低下し、様々な分野で競争力を失っただけではないか――そう考える人が一般的ではないでしょうか。誰もが競争原理の限界には気づいている。このまま格差が広がる一方では駄目だと思っている。だけど自分が現実に競争原理を否定することなどできない。それは競争社会からの単なるドロップアウトにすぎず、競争に遅れた自分は惨めになるだけだからです。それがクイズ番組では、何の躊躇も負い目もなく全面的に競争が肯定されるのです。それは恰も現実社会では抑圧されていた競争原理が一気に解放された感じです。そこではバカもリコウも共に陽気に競争を楽しむことができ、その格差さえ笑いの種になります。しかし、これはあくまでも現実社会の戯画化だから可能なのであって、現実社会そのものが格差を笑って許し始めたら人間の理想はそこで潰えます。だからこそ、私は野暮を承知でクイズ番組を俎上にのせているのですが、戯画化とは言え、クイズ番組の世界観には確固たる価値観があります。言うまでもなく、それは競争原理に基づく価値観であり、「正解さえ着実に積み重ねていけば、人は必ず幸福になれる」という誰の目にも見える理想を生み出します。しかし、「本当に大切なものは目に見えない」と星の王子様は言っています。そんなわけのわからないものを大切にする者は競争に遅れ、結果的に愚者の烙印を押されることになるでしょう。確かに、愚者はクイズ番組のような確固たる正解に基づく価値観に支配された世界ではバカにされ、競争から落ちこぼれ、幸福になれないのかもしれません。しかし、どうして愚者がテキパキと正解を出せないかと言えば、それは「本当の正解」を求め続けているからです。結果、愚者は正解のない世界に迷い込み、人間の「本当の幸福」を求め始める。それは正解のある世界の目に見える理想からすれば、全くの時間の無駄なのかもしれない。しかし、もしこの目に見える既存の世界を変革できるとすれば、その可能性は目に見えない何かを大切にする愚者にしかないでしょう。今のところ、愚者は少数派にすぎない。圧倒的多数は依然として競争のドラマにしがみつき、正解を積み重ねて目に見える幸福を手に入れたいと願っています。色々と問題はあるが、取り敢えず世界はこのままでいいと思うなら、それでもいいでしょう。しかし、少なくとも私は愚者の可能性に賭けたい。愚者が自らの「この道」をラディカルに踏破し、今目に見えている世界とは全く別の世界、真に新しき世界を実現するのを望みたい。それ自体、一つの逆説を孕む愚かな望みではありますが。

ラディカルな愚者(6)

倫理学にトロッコ問題というものがあります。トロッコが暴走して、このままでは線路で作業中の五人に衝突してしまうという状況で、自分は線路を分岐させる機器の前にいます。咄嗟に線路を分岐させようとするが、その先には一人が作業している。そこで五人を救うために一人を犠牲にすることができるか、という問題です。これもまた、いくら考えても正解の出ない問題です。しかし、考えなければならない。いや、この場合は考えている余裕などありません。愚図愚図していれば、五人を死に至らしめる結果になってしまうからです。とすれば、「一人より五人」という量的問題だけで決断すべきでしょうか。でも、そこに質的問題が介入してきたらどうか。例えば、一方の線路に五人の日雇い労働者、もう一方に視察中の天皇陛下がいらっしゃる(突拍子もない対比ですが)としたらどうか。貧しき五人を犠牲にしてでも貴い御一人を救うべきか。それとも「人間の生命に質的差異などはない」という原則を貫いて、あくまでも量的差異だけを問題にすべきか。しかし、身分の違いに関しては今や時代錯誤だと一笑に付すとしても、五人が大人(もしくは老人)で一人が子供とか、五人が見知らぬ人で一人が知人とか、五人が男性で一人が女性とか、質的差異は現実的な問題になり得るでしょう。その時、量的問題は質的問題に優先するという原則を貫けるのかどうか。あるいは、質的問題を優先させて、五人を犠牲にしてでも一人を救うべきだという決断があり得るのか。考えている余裕などない状況で、しかも正解などあり得ない不条理において、それにもかかわらず決断できるようになるためには、キルケゴールの言う「倫理的なものの目的論的停止」が要請されると私は考えています。勿論、トロッコ問題とアブラハムによるイサク燔祭とは質的に異なります。前者が倫理的試練だとすれば、後者は宗教的試練です。しかし、質的に異なる両者を敢えて関係させることで何かが見えてくるような気がするのです。つまり、アブラハムのしようとしたことは倫理的には子殺しという愚行に他なりませんが、宗教的には信仰の徹底という英雄的行為だと言われます。この逆説こそがトロッコ問題に要請される、ということです。そこには宗教的段階へと飛躍する可能性が胚胎しています。

ラディカルな愚者(5)

旅客船が難破して、救助ボートが投げ込まれる。当然、大人たちは子供たちを優先的にボートに乗せようとする。自分は助からなくてもいい。せめて一人でも多くの子供たちを助けたい。そこに迷いはない。しかし、気がつくと、未だ二人の子供が海に漂っている。一人は自分の子供で、もう一人は見知らぬ子供だ。救助ボートはもうギリギリの状態で、到底二人分の余裕などはない。かろうじて一人を乗せられるだけだ。その時、どうすべきか――これは私が勝手に妄想した限界状況ですが、仏教説話にも同じような状況があるようです。では、問われたお釈迦様は何と答えたか。「近くにいる方を助けなさい」――それがお釈迦様の答えだそうです。

世の中には、いくら考えても答えの出ない問題があります。「我が子を救うか、他人の子を救うか」という問題もそうです。情としては我が子を救いたいが、他人の子だからといって見殺しにはできない。さりとて我が子を犠牲にしてまで他人の子を救う意味があるのか。考え出せばキリがなくなり、迷いは尽きません。そうこうしているうちに二人とも溺れてしまうでしょう。だったら、せめて自分の近くにいる子供だけでも救えばいい。その子供が我が子かどうかなんてことは考えなくてもいい。近くにいるから救う。ただそれだけでいい。勿論、これは正解ではない。どちらを選んでも死ぬほどの後悔は必至だからです。しかし、選ばなければならない。選ぶことの苦しさから逃げてはならない。正解ではない選択をする人間は愚者ですが、ここでは不正解を敢えて選択する愚かさが要請されるのです。それは「何も考えない」という愚かさです。おそらく、善きサマリア人も何も考えてはいなかったでしょう。目の前に苦しんでいる人がいる。だから助ける。ただそれだけです。ただ、この「何も考えない」愚かさは、美的愚者のそれとは質的に全く異なります。では、一体何が異なるのか。

ラディカルな愚者(4)

私は正しいことしか述べていないと自負している。しかし、その正しいことが間違っていることも自覚している。全く矛盾しています。当面の論点は「愚者」ですが、目的意識を持たぬ愚者を批判しながら、私は常に目的意識に束縛された愚者を悲しく思っています。「実存は本質に先立つ」とサルトルは言いましたが、人間にはペーパーナイフのような「使用目的」などありません。尤も、ペーパーナイフは時にその本来の「使用目的」から逸脱して、例えば殺人の道具として誤用されることもあり得ます。しかし、それはペーパーナイフの責任ではないでしょう。ペーパーナイフは人間の「使用目的」に基づいてこの世に生まれてきたモノですが、ペーパーナイフ自体にその「目的意識」はないからです。ペーパーナイフ誤用の責任は、あくまでも誤用する人間にあるのは明らかです。このようなペーパーナイフと同様に、人間にも創造者である神によって予め書かれた「存在目的」があるならば、それに忠実であること以外の生き方などあり得ないでしょう。しかし、神が本当に存在するかどうかは別にして、人間の「存在目的」はペーパーナイフの「使用目的」のように明確ではありません。確かに、古来より神の言として記された人間の「存在目的」は様々な神話や宗教などを通じて伝えられています。けれども、ペーパーナイフと違って人間はそれを意識し、疑い、場合によっては反逆することさえできます。つまり、人間は自らの「存在目的」を不断に問い直し、真の「存在目的」(この道!)を求めることができるのです。端的に「人間はペーパーナイフと違って自由だ!」と言えますが、この自由は人間を本当に幸福にしてきたでしょうか。極端な話、「人デナシ!」と罵倒される鬼畜の行為があっても、それが人間の「存在目的」ではないと反証できるだけの確固たる根拠はなく、むしろそれこそが人間の真の姿だという可能性は決して否定できません。それに、どんなに出来損ないの人間がいても、その責任は創造者である神が負うべきでしょう。尤も、人間の悲惨な現実に対して責任を取れるだけの神は存在せず(存在するかもしれないが、沈黙する神は存在しないも同然)、イヴァン・カラマーゾフの言うように「神が存在しなければ、人間には全てが許されている」のです。つまり、「人間ならこう在るべきだ」とか「人間はこう生きるべきだ」というSollenはなく、人間は何をしてもいいし、何もしなくてもいい、自然に流されて勝手気儘に生きればいいのです。果たしてこれは人間の理想と言えるでしょうか。いや、この問い自体、目的意識の真空状態に生きる美的愚者には意味を成しません。理想など、人生に百害あって一利なし。むしろ、理想なき人生こそ理想なのです。

言うまでもなく、美的愚者の理想社会は原理的に不可能です。犯罪を含む「全てが許されている」状態は社会になり得ないからです。そこには確かに絶対的自由がありますが、それは人間には重すぎて担いきれないでしょう。サルトルは「人間は自由に呪われている」と述べましたが、人間は通常そのような自由から逃走して、何らかのSollen、延いては絶対的な権威に依りかかろうとします。私はそこに自らの意志で大審問官の奴隷となる大衆の姿を重ね合わせますが、それは美的愚者の対極に位置する倫理的愚者に他なりません。あらゆる「存在目的」から解放される絶対的自由という夢を見続ける美的愚者と他律的に「存在目的」を与えてくれる絶対的権威の下での幸福を望む倫理的愚者の狭間で、私の行き場(生き場)にない苛立ちはますます募るばかりです。

ラディカルな愚者(3)

自分自身のことは棚に上げて言えば、今の大人たちの殆どは未だ真に「成人」しておらず、できることなら美的段階に止まりたいと願っています。勿論、そのような願いが叶う筈もなく、全ての人間は否応なく子供から大人へ、美的段階から倫理的段階へと押し出されていきます。しかし、それはやはり「成人」ではなく、倫理的段階のとば口で逡巡する未熟な大人と言うべきでしょう。もはや気楽な子供時代は終わりを告げ、Sollenに追いまくられる過酷な大人時代の幕が開くのです。尤も、厳密に言えば、「気楽な子供時代」などというものはすでに消滅したのかもしれない。私は先に「自分の好きなことだけに没頭できる子供状態」と言いましたが、実際にそんな状態があるでしょうか。甚だ疑問です。「束縛されて手も足も出ない虚ろな青春。細かい気づかいゆえに僕は自分の生涯を台無しにした」とランボーは歌いましたが、今や無邪気に本能の赴くままに野山を駆け回る子供など絶滅危惧種であり、幼い頃からお受験だのお稽古事だのに追いまくられています。本来であれば、気儘に生きる美的段階に倦怠して、「人間として本当に生きるべきだ」という根源的Sollenに直面することで倫理的段階に目覚めるのが本道なのに、今の子供たちは十分に美的段階を味わい尽くす前に親や教師から無理矢理Sollenを押し付けられるのです。言うまでもなく、それはあくまでも子供たちのために良かれと思ってのSollenですが、その内実は偏差値のように数値化された世間の価値観にすぎず、結果的に子供たちから真のSollenに出会う契機(それは取りも直さず成人への契機ですが)を失わせているように思われてなりません。更に悲劇的なのは、子供たち自身が親や教師の与えるSollenに総じて従順だという現実です。必死に既存のSollenにしがみつこうとする。首尾よくしがみつけた者は勝ち組として幸福になり、しがみつけなかった者は負け組として不幸になるというのが一般的な人生の構図です。しかし、そのような幸福も不幸も、どちらも真のSollenを回避していることにおいて虚妄ではないか。その意味において、既存のSollenにしがみついて一喜一憂してい者も愚者と言うべきでしょう。ただし、それはあらゆるSollenから逃走して、ある筈のない「失われた無垢の楽園」へと回帰することを望む美的愚者とは質的に異なります。問題の核となるのは、やはり目的意識に他なりません。

ラディカルな愚者(2)

繰り返しになりますが、人間は本能のままに生きる美的段階から常にSollen(当為)を意識して生きる倫理的段階へと移行します。言わば快を求めて刹那的に生きることから卒業して、「如何に生きるべきか」と反省的に生きるようになることですが、端的に子供から大人への成長だと言ってもいいでしょう。カントの図式で言えば、傾向性(Neigung)の奴隷から自律する主体への啓蒙であり、そうした未成年状態からの脱皮を果たさない者は愚者と見做されます。それはいつまでも美的段階に止まっているという意味で美的愚者に他なりません。子供は確かに自由で愛らしい存在ですが、ずっと子供のままでいることなどできないのです。しかし、それにもかかわらず、我々には「大人になんかなりたくない!ずっと子供のままでいられたらなぁ」という思いがあるのも事実です。それは単なる自己欺瞞なのでしょうか。

富裕層の家に生まれ、別に嫌な労働に従事しなくても自分の好きなことだけに没頭できるパラサイト状態が可能なら、それは一つの理想になります。美的愚者の理想です。また富裕層の家のパラサイトでなくても、宝くじに当選するとか、ギャンブルで大儲けするとか、あるいは何らかの犯罪的行為によって一生遊んで暮らせるだけの大金をつかんで「自分の好きなことだけに没頭できる状態」が実現するなら、それもまた美的愚者の理想だと言えるでしょう。こう考えてくると、今の世の中を支配しているのは美的愚者の理想ではないかと思われてきます。勿論、犯罪は許されませんし、宝くじやギャンブルの幸運も一般的ではなく、殆どの人は善良なる市民として嫌な労働にも耐えてコツコツ生活していくことを余儀なくされています。おそらく、そこには「それが大人になることだ」という諦念があるように思われますが、果たしてそうでしょうか。「大人になる」とは「自分の好きなことだけに没頭できる子供状態」から追放されて、生活のための労働に耐えていくことでしょうか。現在、街で合コンだの何だのとチャラチャラ遊んでいる学生たちも、その大半はやがて就職してピリピリと労働するサラリーマンになっていくでしょう。その時、チャラチャラ遊ぶ学生たちに昔日の自分の姿を重ね合わせて「大人の諦念」を噛み締めるのでしょうか。それは余りにも悲しい光景ですが、裏を返せば「子供(未成年状態)への憧憬」に他なりません。つまり、今の大人たちを支配しているのも美的愚者の理想、すなわち「自分の好きなことだけに没頭できる状態」にすぎないのです。多くの場合、その理想は定年後の年金生活において実現することになる筈ですが、それでいいのでしょうか。人間の「大人」とは、そんなにも悲しい存在なのでしょうか。

 

ラディカルな愚者

ラディカルな愚者とは倫理的段階から宗教的段階へと飛躍して、美的段階を受け取り直す(前向きに反復する)愚者です。私はそれを端的に宗教的愚者と称したい。宗教的愚者などと言うと、オウム信者のような狂信者を連想されるかもしれませんが、質的に全く異なります。ただし、その危険性は常に胚胎しています。と言うのも、オウム信者もまた、現実社会に対する強烈なアンチテーゼとしての理想を求めている点において共通しているからです。だからこそ、かくも多くのインテリたちを熱狂させ得たのでしょう。しかし、その熱狂は道を誤った。と言うより、そもそもオウム信者は未だ真に宗教的段階に達していないのです。それはオウムのような新宗教に限ったことではなく、既成宗教においても外見は宗教教団の様相を呈していても、その本質が宗教以前を彷徨っている例は少なくありません。ちなみに晩年のキルケゴールは「キリスト教界に再びキリスト教を導入する」教会闘争に没頭しましたが、それは彼にとって当時のデンマーク国教会がキリスト教としての宗教性を失っていたからです。およそ宗教改革というものは、洋の東西を問わず、失われた宗教性の回復を目指すものだと言えるでしょう。では、宗教性もしくは宗教的段階とは何か。

Celkonscioもしくは不幸な意識(10)

野暮を承知で身も蓋もないことを言えば、二種類の「愚者」が要請されます。美的、倫理的、宗教的という人生行路の三段階から成るキルケゴールの実存弁証法に即して言えば、美的愚者と宗教的愚者です。前者の典型は、所かまわずクソションベンを垂れ流す赤ん坊です。勿論、赤ん坊とはそういうものであり、自然のまま、本能のままに生きる赤ん坊を誰も愚者とは思わないでしょう。しかし、赤ん坊は成長します。成長して、物心がつく頃になっても相変わらず赤ん坊のように振る舞っていたら、それは愚者です。つまり、赤ん坊はやがて所かまわずクソションベンをしないように躾られるのであり、その躾がなされない人間は愚者と見做されるのです。それは基本的に犬猫の場合も同様でしょう。しっかりと調教された犬猫が「賢い動物」として愛され、野良犬・野良猫の類は「危険な動物」として敬遠、場合によっては殺処分されます。ただし、これは全て人間の都合によるものであり、犬猫本来の在り方が野生にあることは言うまでもありません。いや、犬猫は人間との長い付き合いを通じて作られてきた(家畜化)動物なので、もしかしたら野生よりも人間の目的に適った在り方(猟犬やペット)の方が本来的なのかもしれません。野生と調教、どちらが本来の姿なのかは犬猫自身に訊いてみなければ分かりませんが、人間の場合は明白です。調教、否、躾や教育なき野生児は実質的には人間と見做されないでしょう。本能のままに生きる美的段階から規律を重んじる倫理的段階へと移行して、ヒト(野生児)は初めて人間になるのです。

しかしながら、倫理的段階が人間本来の在り方かと言えば、やはり疑問が残ります。倫理的人間は不自由だからです。「人間は自由なものとして生まれたが、至る所で鎖に繋がれている」とはルソーの言葉ですが、ならば鎖を断ち切って再び生来の自由(自然状態)を取り戻せばいいかと言えば、事はそう単純ではありません。幼児退行(赤ちゃん返り)が問題外なのは言うに及ばず、自由な自然状態とは弱肉強食の過酷な環境(無法地帯)に他ならず、鎖の御蔭で人間はそうした過酷な環境から安全に守られているという一面もあるからです。確かに鎖はヒトを縛るものですが、少なくとも善良なる市民は法律(及びそれに基づく権力)という鎖に繋がれた(守られた)倫理的人間の生活に幸福を見出すでしょう。それはパラダイスの理想です。しかし、このパラダイスが人間の究極的な理想なのでしょうか。殆どの人はそこに至上の幸福を見出すかもしれませんが、私はパラダイスという理想に大きな疑問を抱いています。それは人間の倫理的段階に対する疑問でもありますが、美的段階と倫理的段階の相剋、それを超克する宗教的段階については別の機会にじっくり思耕するとして、当面の問題は法律です。先述したように、法律に守られて平穏無事な市民生活が可能になっているとは言え、その法律が権力者(富裕層)の都合のいいように作られていることもまた事実です。それでも自分たちの平穏無事な生活が曲がりなりにも維持できてさえいれば、或る程度の格差は容認すべきなのでしょうか。貧しき人々、虐げられた人々、引きこもり、自殺者――そんな人間がどんなにいても、それはパラダイスのプログラム全体からすれば些細なバグのようなもので、通常は無視しても支障のないものでしょうか。現実の社会は常にすでにそのように進行しており、これからもパラダイスの支配は当分続きそうです。しかし、それにもかかわらず、もしパラダイスを超える理想を求める契機があるとすれば、それはやはりパラダイスのプログラムに巣食うバグたち、すなわち出来損ないの愚者たちに他なりません。とは言うものの、愚者に一体何ができるのか。

ここで改めて留意しておくべきことは、全ての愚者がパラダイスの超克を求めるわけではないという現実です。むしろ、愚者の大半はできれば何とかしてパラダイスを享受したいと思っています。引きこもる人たちにしても、その多くは閉じられた自分の部屋をパラダイスにしているにすぎません。言うまでもなく、私が問題にする「ラディカルな愚者」はそうした中途半端な輩ではなく、あくまでもパラダイスに対する絶望を徹底させた人たちです。それは倫理的段階への絶望でもありますが、もはや美的段階への退行に希望がないのは明らかです。では、どうするか。鄙見によれば、「ラディカルな愚者」は目的意識を持つという逆説を生きることを余儀なくされるでしょう。それは宗教的愚者への道を切り拓く逆説に他なりません。